「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

列島への渡来人

2018-04-18 19:32:29 | 序章

 日本列島への渡来人

1  縄文人
 縄文中期(紀元前3500年頃~)頃は西日本は少なくて、主に東日本に多く分布していた。喜界カルデラの噴火が関係していると思われる。縄文海進のピーク時(紀元前3500年頃)に倉吉の住吉神社にいた住吉神は大陸と交流していた。

2  楚・呉・越の水田稲作渡来民(紀元前900年頃~)
 稲作渡来民たちは、もともと中国の春秋から戦国時代に楚とか呉とか越と呼ばれていた地域の住民。始め九州に漂着した。板付遺跡(福岡県博多区)、福岡平野の菜畑遺跡、野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等。その後、中西遺跡・秋津遺跡(奈良県御所市)、服部遺跡(滋賀県守山市)、池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)に住み着いた。水田址は彼らがこの地に来ていたという証である。しかしこれらは初期ヤマト朝廷の遺跡ではない。

3  第1次徐福一行(紀元前219年)
 どこに到着せよという指示がなかったため、日本全国各地に漂着する。徐福と素戔嗚は、伯州(伯耆国)に到着し大神(伊邪那岐)と会っている。「育ちの良い少年少女を多く渡来させれば、不老長寿の仙薬の在りかを教えてやる」と言われた。大神(伊邪那岐)は人口を増やしたかった。青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNA解析により、弥生時代、青谷は国際都市であり、彼らの出身地は東アジアの北から南までの広範囲であった。この移民政策は奈良時代まで800年の間続いた。鳥取県が移民を受け入れる玄関口であった。移民だけでなく珍しい文物も。シルクロードの終点は鳥取県であった。
 始皇帝は家来に徐福一行のあとを追わせた。始皇帝の家来は湯梨浜町の東郷池に到着し、忍坂を上り、三朝町山田に住んだ。山田(ヤマタ)のオロチのモデルは始皇帝の家来たちであった。

4  第2次徐福一行(紀元前210年)
 百工や育ちの良い少年少女三千人を伴って辰韓から対馬海流に乗って伯州に次々と到着した。辰韓(秦韓)に残った者もいた。山幸彦(火火出見)が辰韓に行ったとき。海神族の長は山幸彦(火火出見)が誰かをわかっていた。山幸彦(火火出見)を虚空津日高(徐ラツヒコ)の君だといった。
 三貴神(天照大神・月読命・素戔嗚命)は徐福一行のリーダーであった。不老長生の仙薬を求めていたので、当時多くが海であった出雲や松江ではなく、伊邪那岐の待っている伯耆国の葦原中つ国(橘・鳥取県北栄町)に到着した。素戔嗚は三朝町山田(ヤマタ)で八岐大蛇(始皇帝の家来)と出会い、退治した。八岐大蛇は徐福を追ってきた始皇帝の家来であった。八岐大蛇伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。
 少女たちの多くは米子周辺に留まらせた。米子周辺の神社にはその頃誕生したと思われる女神が多い。その後の天孫降臨は蒜山から鳥取県中部において行われた。初期ヤマト朝廷は鉄剣・鉄鏃・鉄矛・銅鏡を造った。

5  殷の末裔準王(紀元前194年)
 馬韓の地から準王の一族数千人が出雲・九州に渡ってきた。
 松江南部・吉野ケ里を本拠地として銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅鏃などを作り、殷王朝再興のためいち早く全国に展開した。奈良県・和歌山県・大阪府南部・大阪の南茨木や淡路島も拠点にしていた。
 周辺住民は鬼・土蜘蛛・猿・河童などと言って彼らを恐れ、神武天皇の時代(弥生時代中期)高地性集落を造って彼らから身を守った。
 初代神武天皇のときから天皇家とも戦っている。第7代孝霊天皇のときが最大の戦い(倭国大乱)で皇子(開化天皇・崇神天皇)や皇女(卑弥呼)の頑張りでヤマト朝廷は全国を平定していった。天皇家は従わせることを主として、殺すことは最小限に止めたようである。しかし祭祀の方法は変えさせた。神社を始めたのは崇神天皇と姉の倭姫命(卑弥呼)である。

6  百済からの亡命者
 642年の高名な40人余りを乗せた百済からの船には翹岐や皇極天皇(天智の母親)も乗っていた。白村江の戦いによる亡命百済人(660年頃)にも王族は含まれていた。白村江の戦い以前の高句麗による亡命百済人は亡命一世より数世代になっているので、紀元前194年に馬韓から渡ってきた殷王朝末裔の準王一族も含めると、奈良時代には30万人くらいになっていたと思われる。全人口の6%を占める。不比等は百済(ホゼ)出身の一族に藤(フジ)の字をつけている。たとえば、不比等の時代より古い時代であっても、百済(馬韓)から日本に渡来してきたことが分かれば、その一族に藤を含む二字姓を授けた。
 藤原氏は心情的に、同じ馬韓の出身でヤマト朝廷を苦しめた準王の青銅器文化の一族(出雲神族)に味方をしていたので 、出雲や淡路島を聖域にしている。
 百済は馬韓に残っていた準王一族と思われる。日羅は百済人が船にのって大量に渡ってきたら、殺してしまえ、と言った。日羅は百済(日本)の危険性がわかっていた。


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