「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった

2020-02-09 05:26:42 | 欠史八代

 倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった。

1 東郷池にはコブ白鳥(朝鮮半島からの渡り)がいた。

 エサをくれると思ったのか、寄ってきた。向うは望湖楼と千年亭。 

 子育て中の東郷池のコブ白鳥(養生館の横で)。

2 鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(前方部が池側を向いている)

 この前方後円墳は「前期古墳時代の特徴的な外形を示している」ので古墳時代前期と思われる。古墳時代前期がいつから始まるかはまだ流動的であるが考古学では3世紀中頃という説に落ち着いてきている。4世紀とするのは一昔前の考古学である。倭建命は188年頃に亡くなっているから遅くとも3世紀初頭には築造されている。しかし前方後円墳だから古墳時代前期ということになる。

 倭建命(若日子建吉備津日子命=稚武彦命)は前方部の池の畔で白鳥にエサをやったのではないか。それを、卑弥呼(夜麻登登母母曾毘売命=倭迹迹日百襲姫命)はじめ周りの者が見ていた。

3 「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」とある。

 卑弥呼が亡くなったのは248年である。倭建命は188年頃亡くなっている。安楽島町の松の鼻古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳を意識して造られている。どちらも前方部が水際にある。この二つの古墳の被葬者は姉弟であった。
「塚の径百余歩」は張政等の誰かが実際に歩いて測っている。

 

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