「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

湯梨浜町舎人地区の五集落

2018-07-30 02:22:37 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1 湯梨浜町舎人地区の5集落

 以前は、孝霊天皇一族のいた宮内を含めて舎人村であったが、今は湯梨浜町の舎人地区と言っている。


 橋を渡って右側に野方集落、白石集落、方地集落、漆原集落、北福集落がある。

 右が野方集落、中央奥が白石集落、左が方地集落。

 右が漆原集落、左奥が北福集落である。
 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「・・・。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った」とある。

2 日本書紀に「五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた」とある。
※ 私見

 「青谷上寺地遺跡発掘調査報告書」の中で高尾浩司は「弥生時代後期後半になると、再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取できる」とするが、垂仁天皇の在位は私見では220年~250年頃だから時代的にも一致する。五十瓊敷皇子は県道51号線を通って青谷から川上(河上)という鍛冶師を呼んだ。(別稿:「倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を平定するまで小国であり、鳥取県中部であった」を参照されたし)
 したがって、鳥取県湯梨浜町川上集落鍛冶屋谷で五十瓊敷が太刀一千口を造らせたのは間違いない。この時に十種の品部とものみやつこらを五十瓊敷皇子に賜った。「十種の品部とものみやつこら」の集落が舎人地区の5集落であった。


 川上集落の鍛冶屋谷で太刀一千口を作り、忍坂邑(三朝町片柴)に預け、のちに石上神宮(倉吉市大原)に保管した。

 三朝町片柴(忍坂邑)の北野神社
 太刀1千口はここに預けて、船で石上神宮(倉吉市大原神社)まで運んだ。忍坂邑は三朝町片柴であった。神武天皇は三朝町山田(ヤマタ)であった素戔嗚が酒を飲ませて敵を殺す方法にヒントを得て、忍坂邑(三朝町片柴)に土蜘蛛を集めて酒を飲ませて殺した。

3 湯梨浜町川上集落や舎人邑は伯耆国河村郡であり、三朝町も河村郡であった。三朝町ではたたら跡が204か所見つかっており(「三朝のたたら」より)、河村郡内で多くの刀を作ることができた。
 茅渟の菟砥の河上とは鳥取県湯梨浜町川上集落と思われる。川上集落には鍛冶屋谷という地名もある。川上集落の北側にあるのが舎人地区の五集落である。十種の品部とものみやつこらが居たのは湯梨浜町舎人地区の五集落であった。川上集落の鍛冶屋谷で太刀一千口を作り、忍坂邑(三朝町片柴)に預け、のちに石上神宮(倉吉市大原)に保管した。すべて、伯耆国河村郡の集落である。
 舎人地区の五集落は、垂仁天皇の皇居の川上宮(川上集落)から頼まれての作刀、東郷池周辺の古墳造り、長瀬高浜での玉作り、長瀬高浜での埴輪作り、漆器の製作、楯作り、弓矢作り、和紙作り、測量などの役割を集落が分担してやっていたと思われる。
 藤原氏の支配が残っている県職員の返答「この地域から過去に舎人が一人出たから、舎人というのでしょう」という返事は信用できない。
 神武天皇の即位から第34代天皇(奈良時代)まで歴代天皇は鳥取県中部にいたのであるから、天皇に仕えた職人たち(舎人)も鳥取県中部にいたとしてもおかしくない。

※参考

 青谷上寺地遺跡発掘調査報告書4(2002年)青谷上寺地遺跡出土鉄器の総合的評価(高尾浩司)において「中期後葉段階には鍛造工具が一定量存在し、同段階の鉄片、棒状鉄器には加工痕が認められることから、集落内での鉄器生産が開始されたと想定する。稚拙なつくりの袋状鉄斧、板状鉄斧や裏すきをもたない鉇などは本集落の所産である可能性が高い。それらに、相対的に良質な鉄斧や舶載品が加わる組成となる。簡易なつくりの鉄斧と複雑かつ立体的なつくりの鉄斧二者は後期初頭から古墳前期初頭まで九州系の製品が見られることもあり同期まで共存する。また、製品から別の製品を得ようと試みた未製品と見られるものは中期後葉段階から見られるが、初期のものは再加工の技術も稚拙である。後期でも概ね後半段階になると数量的にも一気に増加し、製品の形態や大きさに目的に沿ったバリエーションが出てくる。再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取でき、鋳造鉄器破片の再利用の仕方も中期段階に比して変化が認められる」とある。


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