藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について、奈良時代までは以下のとおりである。
中大兄王子と中臣鎌足は蘇我入鹿天皇(蘇我善徳=聖徳太子)と蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺した。
中臣鎌足の子の不比等は天武天皇と天武天皇の側近20人ほどを毒殺した。天武天皇の毒殺の後にも、大津皇子、草壁皇子、高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺している。
長屋王の変で、藤原氏に濡れ衣を着せられて長屋親王一家は殺された。長屋親王、正室・吉備内親王、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など。
伯耆国に住んでいた天皇家の生き証人も200年かけて殺していった。神武天皇の道案内をして名前を頂いた私の一族などもリストに載っていたはずである。どうして生き延びているのか解からないが、私が中学(蘇我入鹿天皇がいたと思われる丘陵地にある)の時に見た夢が半世紀近くたった今でも鮮明に覚えている。それは、私の父が斬首される夢であった。しかもそれで終わらず次は私の番であった。あまりの恐怖で目が覚めたが、大学の卒論で死刑制度の廃止について書いたのも、この夢が原因であったと思う。殺される理由も判らなかったし、殺す側が誰なのかも判らなかった。神武天皇が伯耆国にいたことを証明する私の一族を藤原氏は首を切って殺したかったのだろう。その思いが私の夢になって現われたのかもしれない。
伯耆国の大神山神社の宮司の相見氏は阿遅鋤高日子根の子孫であり、長年家系抹消を恐れてきた。家系抹消とは、嫡男家だけではなく血筋の全てを消し去るということであり、全ての男は殺される。戦後、天皇は人間宣言をし、「神」ではなくなり、もはや血脈狩りなど考えられなくなった。それでもなお、相見家は警戒を解かず、現宮司まで一子相伝の秘密を維持していた。
現在から見れば「何でそんなに警戒するの?」といった類のことですが、当事者にとっては生死を賭けた一大事だった。恐らく、祖に近い子孫は、「全ての男子が見付け出されては殺される現場」を見ているのだと思う。処刑が行われたのは、阿遅鋤高日子根のいた葦原中津国の近くの法華寺畑遺跡である。
八世紀から倭国(鳥取県中部)のあちこちで血脈狩りが行われてきた。いわゆる恐怖政治である。倭国(鳥取県中部)の人間は、ここが都であったこと、天照大御神・素戔嗚・大国主や神武天皇以降の天皇がいたことは話さないようになる。
11系統あった大国主命の子孫のうち阿遅鋤高日子根の系統以外の多くの系統は血脈狩りにあっている。