「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった

2018-05-31 05:29:23 | 天照大神(徐福)

 出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった。


 理由
1  殷の末裔の箕子朝鮮も出雲国も青銅器文化であること。


2  倭国で発掘された銅鐸の一番古いものは紀元前190年頃であり、それまで馬韓で踊りの拍子とりに使われていたという記述があること。


3  天穂日は天照大御神(徐福)の子であり紀元前210年には日本にわたってきているので、紀元前194年にわたってきた準王が天穂日の子供とされても、おかしくないこと。


4  箕子朝鮮の準王は漢人であるが、古事記は「建比良鳥は漢人であるから注意せよ」と書いていた節がある。


5  紀元前194年以降、箕子朝鮮は中国・朝鮮の歴史書では消息が分からないからあくまでも伝説上の国であり存在したかどうかは疑わしい、と通説はいう。しかし、日本に来ていたのだから、中国・朝鮮の歴史書からは消えている。藤原氏は同じ馬韓の地にいたということを知っていて、出雲国を厚遇したと思われる。


6  紀元260年頃に作成された「三国志魏略」に「準王海中、不興朝鮮相往来。準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とある。「海中にある」とは「対岸にいる」ということである。(事代主が海中の青柴垣に入ったというのも美保関の対岸の福庭の青柴垣に入ったということである)。行ったり来たりしたが箕子朝鮮を再興することができなかった。対岸とは出雲国のことである。


7  紀元前230年から紀元前195年まで平壌を中心に国を造っていたのだから、徐福一行三千人が通るのも知っていたはずである。徐福一行が蓬莱国(伯耆国)に行くことも聞いていたのかもしれない。


8  「史記」「漢書」では、箕子朝鮮の終幕は不確かなものとなっている。箕子朝鮮滅亡が同時代の史料には見えない。


 私見
 辰(秦)韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人が集まった。馬韓はその東の地を割いて与え住まわせ辰(秦)韓人と名づけた。これは秦が敗れる前の徐福たちのことである。
 徐福一行(二次)は紀元前210年伯耆国に到着した。それより16年遅れて準王一行は出雲国に到着した(紀元前194年)。出雲国は殷王朝の末裔が建てた国である。準王一族は松江南部におり、天穂日は能義平野(安来市)にいた。
 箕子朝鮮は、紀元前195年に中国からの亡命者、衛満に簒奪される。「魏略」(260年頃成立)は箕準一族のその後を語っている。「衛満に破れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中(対岸)にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とする。
 「魏略」の書かれた紀元260年頃は、卑弥呼と崇神天皇が亡くなった直後であり、倭国大乱の後である。倭国大乱は天孫族と準王一族との争いであった。「魏略」は、準王一族は倭国で(箕子)朝鮮の再興を卑弥呼や崇神天皇に阻まれたことを記している、と解する。
 


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