「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

伯耆国久米郡大神郷

2018-06-20 05:04:20 | 大国主と出雲族
伯耆国久米郡大神郷

1 大神(みわ)山とは鳥取県北栄町の茶臼山であり、神(みわ)山とは同じく鳥取県北栄町の三輪山であった。
 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。
 和名類聚抄(938年)に記される伯耆国久米郡内の郷に大神(みわ)郷はない。しかし神(みわ)の付く郷は10郷中3郷ある。その3郷とも大神郷の名残と思われる。
 「高城史」より。立縫(たてぬい)郷は楯縫郷であり、八橋郡は笠縫郡であった。上神(かみつみわ)郷・下神(しもつみわ)郷・神代(みわしろ)郷は大神郷であった。
 出雲風土記にある「伯耆国の大神岳」とは百済読みであり、奈良時代以前は新羅読みの「伯耆国の大神根」と表記して尾根を示していた。大神郷の中で尾根の形状をしている山は標高93mの茶臼山である。新羅読みの「大神根」(大神郷にある尾根)は茶臼山と思われる。
 出雲風土記にある「伯耆国の大神岳」とは、鳥取県北栄町の茶臼山のことであった。大国主と少彦名と須勢理姫は茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。松樹庵の案内板には「この庵の由来は明らかではないが境内には天明2年(1782年)に光明寺六世寂眼和尚が立てた石碑がある。また、石段上の地蔵は、寛政元年(1789年)『世出開了行者◯◯信女』の墓である」とある。

2 北栄町三輪山について
 奈良県桜井市三輪にある大神神社(大和国一宮)は旧来「大神大物主神社」と呼ばれていた。大神郷の大物主のいた神社であったから「大神大物主神社」と呼んでいた。大神郷は鳥取県北栄町にあった。大物主は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社にいた。奈良県桜井市三輪にある大神大物主神社名は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社から移されたものである。
 三輪山(神山)の近くの中浜遺跡からは古墳時代前期後半(4世紀前半)の山陰型甑形土器が出土している。また、三輪山のある下神集落からは弥生時代の土器(天忍穂耳の時代は弥生時代)が発掘されている。奈良の三輪山の遺跡は一番古いもので4世紀後半である。このことからも北栄町の三輪山のほうが古いことが分かる。
 北条町誌によると「三輪山は2万年前の火山灰が降り積もった地層で、標高は34mであった。土地の起伏は甚だしく険しい急な坂道のため人々が往来するのに大変な場所だった。昭和3年から開墾が始まり今はなだらかになっている。昭和45年頃から砂とりが始まった。三輪神社は宝暦3年(1753年)火災により焼失した」とある。
 大物主は天忍穂耳であり鳥取県北栄町の三輪(神)山にいた。大物主(天忍穂耳)は日向御子(瓊々杵命)や大国主の子が成長して瓊々杵命が葦原中津国を統治するようになるまで、北栄町の三輪山(神山)にいて、隣の茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて水田稲作を全国に広めるという、大事業に携わっていた。

3 私見
 北条郷(上北条、中北条、下北条)は大神郷の中にあった。上北条(下古川、小田、古川沢、中江、大塚、新田、井手畑、穴窪)を神代(みわしろ)郷といい、下北条(松神、下神、曲、北尾、北条島、米里、弓原、田井、土下)と中北条(国坂、江北)は下神(しもつみわ)郷に属しており、大神(みわ)郷に含まれていた。
 北栄町国坂の茶臼山は大神郷(下神郷)にある山だから大神(みわ)山と言っていた。北栄町下神の三輪山は神(みわ)山と言っていた。大神山は大山ではない。波波伎神社名が移されたように大神山神社名も北栄町の国坂神社から移されたものと思われる。大山(蓬莱山)は徐福(天照大神)一行が 大山の秀麗な山容を目標に辰韓から次々に東海を渡ってきたのであるから大山(蓬莱山)で国見をするのは徐福(天照大神)が一番ふさわしい。神社名は変えられているが、今の大神山神社には徐福(天照大神)が祀られていたはずである。
 南部町の赤猪岩神社の祭神は大国主と素戔嗚と刺国若比売とするが、大国主は素戔嗚と稲田姫の子として鳥取県八頭町大江郷で誕生しており、刺国若比売は実の母ではない。大国主に対するいじめは鳥取県東部で完結しており赤猪岩の話は藤原氏によって創られたものと思われる。赤猪岩神社には赤猪岩の話より大事なものがあり、それを隠すためと思われる。それは倭国大乱における激戦地の伝承であったと思われる。どちらの伝承も手間山にいたのは出雲神族であった。


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