「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

2019-09-17 05:52:01 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国主は天孫族の4伴緒と一緒に湯梨浜町長瀬高浜・久留にいた。そこに高い建物を建ててもらった。
 事代主と百八十神(出雲族)は国譲り後、倉吉市福庭に到着し大平山に上がった。事代主と百八十神(準王一族=出雲神族)はいつまでも大平山におらず、生活の拠点を東郷池の水辺に移した。そこは湯梨浜町長和田であった。長和田が師木邑であった。

2 倉吉市福庭の波波岐神社の伝承に「事代主は近くの泉の畔で余生をおくられた」とある。
畔に使う用例として泉(いずみ)はおかしい。畔は普通、湖(みずうみ)に使う。これは長年の間に読みが替わったと解するべきである。当初は「湖の畔」であった。湖とは東郷湖とも言われる東郷池であった。

 事代主と百八十神(出雲族)は長和田集落に移った。当時、長和田は海からの波が真直ぐに届いていた波延(はえ)の地であった。

 長和田集落はほぼ海抜3mに海面があった時代(崇神天皇の時代)に今の集落の形が出来上がった。ほぼ水辺の内側に出来上がっている。周囲が水垣の集落であった。

3 北から見た湯梨浜町長和田集落(左は鳥取県、島根県で一番大きい前方後円墳)

 国譲りの時代(紀元前160年頃)は長和田を囲むように水辺であったから、羽衣石川沿いに上がっていくしかなかった。
 先代旧事本紀・皇孫本紀に「椎根津彦が謀りごとを立てて申しあげた。『今はまず、女軍を遣わして、忍坂の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂を目指し、菟田川の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう』天孫(神武天皇)はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。・・・はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った」とある。
※ 私見
 神武天皇は忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛を討ってから兄磯城らを斬った。
 兄磯城はこの奥で炭焼きをしていた。この奥の荒神社は荒ぶる神であった兄磯城の神社である。墨坂とは羽衣石川(菟田川)沿いの坂であった。
 女軍は写真左奥の忍坂の道より出た。それを見た兄磯城の精兵は出ていった。そのすきをついて椎根津彦は強兵を走らせて師木邑(長和田)から上がり炭火に水をかけた。男軍は三朝町山田から墨坂に上がり兄磯城を挟み撃ちにした。女軍・男軍は神武と旧知であったので寝返るのも早かった。
 弟磯城は神武天皇に従い磯城の県主になった。雄略天皇の時代、磯城の大県主は鰹木を上げた家を建てていた。湯梨浜町長瀬高浜遺跡から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。古代人のジョークが垣間見える。

 長和田から御冠山が見える。孝霊天皇は御冠山のふもとの湯梨浜町宮内(倭文神社)にいた。孝霊天皇は長和田から蠅(波延)伊呂泥と蠅(波延)伊呂杼を娶った。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫の母である蠅(波延)伊呂泥は出雲族であった。
 倭国大乱の相手は出雲族であったが、卑弥呼の母親は出雲族であったので女王として共立した。孝霊天皇の皇子の大吉備津日子は崇神天皇であり、崇神天皇の母も蠅(波延)伊呂泥であった。崇神天皇は母の出身地(波延=水垣=長和田)に皇居(師木邑の水垣宮)を置いた。


神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

2019-09-15 05:22:12 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

1  日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
 伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
 「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
 この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。

2 神武天皇たちがこもって戦った伊那佐山と神武天皇たちが使っていた楯。
 現在、伊那佐山(奈良)と稲佐の浜(出雲)は離れたところに造ってあるが、もともと「いなさ山」と「いなさの浜」は同じところにあった。それは周囲は砂だが山は隣の三輪(神)山のような砂の山でない(否砂)鳥取県北栄町の茶臼山であった。

 島集落から見た伊那佐山(茶臼山)

 伊那佐山(茶臼山)から天香久山(土下山)と島集落(縄文人の猿田彦一族がいた)を望む。
 神武天皇は天照大神のいた琴浦町の伊勢を取り返すために伊勢でも出雲族と戦った。伊勢から船で茶臼山(伊那佐山)にきて、敵情を偵察した。天香久山(土下山)までは中洲があり、中洲の豪雄と呼ばれていた長髄彦がいた。
 神武天皇は戦いに勝てるかどうか占うために、二人に天香久山(土下山)の赤土を下させた。二人が土を下したところが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。
 手前の伊那佐山の木の間に楯を立てて戦った。中洲の右側は汽水池になっていた。向こうの島集落から来た猿田彦一族は汽水池で鵜飼いをしていた。

 鳥取県の青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代中期後葉(紀元前50年頃)の楯
 神武天皇たちは伊那佐山(茶臼山)でこの楯を立てて戦った。

3 私見
 奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。

 紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。天神川の度重なる洪水により日下邑の楯津は埋まり、中洲は流され(弓原集落まで三角形の土砂の堆積が見られる)、長瀬高浜の弥生土器も流された。

 島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。猿田彦一族は島から船を出し伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていた。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
 「島つ鳥、鵜飼いがとも」とあるが、奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。
 この島はのちの磐余邑の中にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子大王は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子大王は島大臣(王)と呼ばれていた。金繰溜池の池上で同棺複数埋葬の島古墳群が発掘された。池上の陵である。

 道路右側の家の敷地から縄文前期~縄文晩期の連続遺物が発掘された。島集落に縄文前期から縄文晩期までの縄文人が住んでいた。それが徐福一行(天孫族)に協力していた猿田彦一族であった。「島つ鳥、鵜飼いがとも」とは猿田彦一族のことであった。

 「魚を食いすぎるので鵜の駆除をします。〇時から〇時までこの土手は通行止めにします」倉吉市職員。それ以来、天神川の鵜が少なくなった。
 写真は、島の近くの天神川河口で2016年4月25日に写した鵜。茶臼山(伊那佐山)の横の北条川でも鵜を見た。汽水池はなくなっているが猿田彦一族(縄文人)が鵜飼いをしていた辺りである。
 島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?


野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である

2019-08-16 06:21:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

1 野口王墓古墳は天武天皇の陵墓ではない。天武天皇は倭国王であり、倭国王の陵墓は円墳か前方後円墳である。

 

 御廟野古墳は八角墳であり、百済王の古墳である。天智は百済王であり、御廟野古墳は天智(豊璋)の古墳である。

 天武天皇の父は蘇我善徳大王であり、その陵墓は藤ノ木古墳であり、円墳である。天武天皇の子の高市大王のキトラ古墳も円墳である。また、天武天皇の子の忍壁大王の高松塚古墳も円墳である。天武天皇は倭国大王であり、その陵墓は円墳である。野口王墓古墳は八角墳であり、倭国王の天武天皇の陵墓ではない。


2  キトラ古墳の被葬者は高市大王である。
 現在は工事中である。
 キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。

3  高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

 高市大王の次は忍壁大王であった。
 
4  私見
(1) 忍壁大王の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。

 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはない。
(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。
 その解説として「平城京の朱雀大路(?)には柳の並木が植えられていた。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。


 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていた(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはない。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市大王であり、次は忍壁大王であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が大王にふさわしいすばらしいものである。高市王子も忍壁王子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の大王を下僕として描くための改ざんであり、高市王子も忍壁王子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市大王(696年没)や忍壁大王(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)(663年~)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)の職人によって描かれた。


 
 

倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった

2019-07-25 10:05:19 | 邪馬台国・卑弥呼
1  讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発
 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。
 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。
 当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したものと思われる。

2  志摩国における倭姫命の農業開発(倭姫命世紀より)
 「倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、『此、あやし』と宣して、大幡主命と舎人の紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴がくわへて廻り、つついては鳴き、これを見あらわすと、その鳥の鳴声は止んだ。
 倭姫命がのたもふに、『恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照皇太神に奉れる物を』と詔して、物忌(ものいみ)を始められ、かの稲を伊佐波登美神(伊射波神社の祭神)をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂で大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。かの稲のおひし地は、千田となづけ、志摩国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美(伊射波神社の祭神)の神宮を造り奉り、天照皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。かの白真名鶴を名づけて大歳神といふ」とある。

3 磯部町千田御池跡の説明板
 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)もこの地に遊覧し感嘆され、多くの殿堂を建てられた。

4 磯部の伊雜宮
  磯部の伊雜宮本殿
  磯部の伊雜宮本殿 
 シンプルで敷地も広くないので、藤原氏の手はそれほど加わっていないものと思われる。
 ここにも心の御柱がある。「中央の祠は遷宮のときに心の御柱を立てる目印である」と伊雜宮の宮司は言った。こちらが本家である。
 伊雜宮より280m離れたところにある千田の御池跡 溜池か苗代であったと思われる。
 この後ろに持統が造らせた勅賜門(正月7日間だけ開く不開門)があったらしいが崇りを封ずるための藤原氏によるものである。
 伊雜宮の南に隣接する御料田で6月に行われる伊雜宮の御田植祭は日本三大御田植祭に数えられている。(伊雜宮前の説明板より) 
 鳥取県琴浦町方見神社の由緒には「当社は明治維新まで天照皇大神宮と称せし。当社には往古より大田小田と称する神田あり。大田は朔日田と唱え9月1日この田の稲を神供に炊ぐ。小田は毎日田と唱え、この田の稲をもって部内諸神に供す。氏子の内より13歳未満の女子12人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植える時は御田植祭を行い官丁を課当せられしこと当社の伝記および古文書に明らかなり」とある。
 本当の天照皇大神宮ならば御田植祭があるはずである。伊雑宮にはあるが伊勢神宮にはない。
 大正末期、この石の下から鏡や勾玉が出てきたが官憲に持ち去られこの地の鑑定は封じられてしまった。里人は倭姫さんの遺跡であろうという。(説明板より)

5  倭迹々日百襲姫命も倭姫命も水田稲作を普及させていた。
倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であり、同一人物と思われる。

6 鳥取県日光村の山田神社にいた孝霊天皇に「笹の葉を積み上げて南風が吹くのを待て」と告げた天津神は隣りの吉原神社にいた稚日女命であり、稚日女命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた」孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家とした。伊射波神社では海女がアワビを朝廷にもっていく前に倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)に献上していた。その朝廷とは纒向にあった朝廷であった。

 倭姫命は巡行の最後に志摩市磯部町の伊雑神社に至り伊射波登美に天照大御神を祀らせた。倭姫命は海女の祖のお弁にアワビを献上された(海士潜女神社由緒より)。
 同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
 倭建命は12代景行天皇の曽祖父くらいの先祖であり(藤原氏の転写ミスより)、後に天皇となっていた(倭武天皇)。倭建命は11代垂仁天皇や10代崇神天皇ではない、赤子の時に海流に乗って但馬(竹野川流域)に疎開し11年ほど但馬(竹野川流域)に住んだ9代の開化天皇であった。倭建命は吉備国を平定している(鳥取県関金町の伝承より)。若日子建吉備津日子も吉備国を平定している。倭建命は孝霊天皇の皇子の若日子建吉備津日子であった。倭建命と倭姫命は一緒に全国を巡行している。倭姫命は倭建命の姉の倭迹迹日百襲姫命であった。倭姫命は巡行しながら、自ら神社を創建しているので(倭姫命世紀より)神道を創始した崇神天皇(大吉備津日子)とも同時代の姫であった。
 藤原氏は魏志倭人伝と同じでは都合が悪いので7代孝霊天皇皇女の倭姫命(卑弥呼)と11代垂仁天皇皇女の豊鋤入姫命(台与)との順序を変えた。そのための整合性を謀らなければならなかったが欠史8代の旧辞に触れることは禁止されていたので、豊鋤入姫命を10代崇神天皇の皇女とし、倭姫命を11代垂仁天皇の皇女とした。

 


「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋明神の地であった

2019-07-21 06:08:44 | 天孫降臨

「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋明神の地であった

 

宮崎県高千穂町の「天の安河の河原」は行かれた方も多いと思う。

 

しかし、本当の「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋(さがりかや)明神の地であった。

1 以前は鳥取県の大山西麓に思金神を祀る神社が多く、高天原は蒜山である、としながら「天の安河の河原」はどこか知らないと答えていた。しかし、高天原と思金神を祀る神社が多い大山西麓との間にあるはずであると思い調べてみた。

 

 

2 思金神が一番東(蒜山高原に一番近い)に祀られている神社は江府町の貝田神社である。

貝田集落の山側に大河原という地名がある。ここだろうか。いや、地名に惑わされてはならない。

それでは、思金神がいた貝田集落だろうか。貝田神社は河原とするには河から離れている。

貝田神社の案内板に「貝田集落は天保時代以前からサワラの木を使い杓子・柄杓・メンコ等を製作してきた。今でもその歴史をとどめるべく作品が保有されており、地域周辺集落(下蚊屋、俣野)との連携による当時の産業として成立していた」とある。

蒜山の徳山神社と下蚊屋集落の距離より貝田集落と下蚊屋集落の距離のほうが遠いのに両集落は古くから連携していた。下蚊屋集落には山口神社と下蚊屋明神がある。行って調べてみる価値はありそうだ。


3 下蚊屋明神

 

下蚊屋明神は少し高いところにあるが、すぐ下は本谷川である。河原と呼べる場所にある。この本谷川をさかのぼって行けば猿田彦が待っていた鏡ヶ成に至る。

 

左上の鳥居が下蚊屋明神

左から滝が流れている情景は宮崎県高千穂の天真名井の滝に似ている。

 

左は下蚊屋明神。橋の下は本谷川。

 

左下の道は下蚊屋明神に至る。左上の道は鏡ヶ成に至る。右上の道は蒜山に至る。手前に行けば江尾神社(祭神 饒速日命)、貝田神社に至る。

 

下蚊屋集落。右下に先ほどの橋が見える。

 

 

 

 


 徐福と天照大御神の来倭コースは重なる

2019-07-19 06:22:25 | 天照大神(徐福)

 徐福と天照大御神の来倭コースは重なる

 

1 宮下文書(徐福文書)より抜粋

 東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは木日国(紀伊国)木立野の大山であった。

 徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。

 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した。 

(※ 太字は改ざん挿入された部分)

2 福付き苗字と福付き地名

 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや徐姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう徐姓は名乗ってはならない』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」以降、徐福の仲間だということを知らせるために福のつく苗字と福のつく地名を付けた。

 日本海側の福付き地名(ヤフー地図より)

(1)鳥取県 

※ 伯耆国には福つき地名が41か所ある。

米子市 1福万 2福市 3福原 4上福原 5福井 6福岡 7福頼

南部町 8福里 9福成 10福頼

日南町 11神福 12福寿実 13福塚 14福万来

日野町 15福長

伯耆町 16福永 17福居 18福岡 19福岡原 20福兼 21福島 22福吉

大山町 23福尾

境港市 24福定町

倉吉市 1上福田 2下福田 3福原 4福守 5福積 6福富 7福庭 8福光 9福本 10福山 11福吉

琴浦町 12福永

三朝町 13福田 14福本 15福山 16福吉

湯梨浜町 17北福

※ 因幡国には福つき地名が7か所ある。

智頭町 1福原

佐治町 2福園

鳥取市 3福井

八頭町 4隼福 5福井 6福地 7福本

(2)兵庫県 

 日本海側に福の字の付く地名はない。

(3)京都府 

 福知山の福を除いて、日本海側に福の字の付く地名はない。

3 徐福と天照大御神の来倭コースは重なる
(1)徐福のコース
 徐福の渡来地は全国に30数カ所も伝えられている。これは第1次(紀元前219年)の徐福一行である。
 第1次は対馬海流の存在を知らず、済州島から一斉に海に出航したため列島の各地に漂着した。日本各地に徐福伝承が伝わっているのは、第1次の徐福一行である。第1次でも徐福自身は大山(蓬莱山)の北西の米子市陰田町に到着し、大神(真人)には会っている。その時に、「光が天を照らす」のを見た。大神(真人)に会って、「多くの少年少女を連れて来れば不老長寿の仙薬をやってもよい」と言われた。
 第2次(紀元前210年)の徐福一行は確実に伯耆国に渡るため、秦韓(辰韓)にしばらく留まり、リマン海流と対馬海流を利用して東海(日本海)を渡り、伯耆国に到着した。
 福付き地名の土地は徐福一行が到着して住んだ集落である。鳥取県中西部に福付き地名が多いということは、「秦韓(辰韓)から次々に伯州(伯耆国)に結集した」とする中国の王輯五の説にも符合する。
徐福本隊は大山を見ながら海を東に進み大山の裾野の小さな湾(鳥取県北栄町)に到着した。徐福たちは徐福文書にある「宇記島・原」(北栄町大島と原)に上陸した。
 「東海の三神山」の「東海」とは日本海のことであり、「三神山」とは大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)のことである。瀛州山とは蒜山であり徐福は仙薬を探すために三神山を目指して来たのであり、出雲に留まったのではない。北栄町の大島・原から瀛州(蒜山高原)に上がった。蒜山周辺の山々に登り、登った山に名をつけていった。山を〇〇セン(仙)と名付けていった。
 徐福文書(宮下文書)にある「大山」とは木日国(紀伊国)木立野の大山ではなく、伯耆国の大山(ダイセン)であった。伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様である(伯耆富士)が、東に進むにつれてその姿がなくなる(大山北壁)。

 「その裾野の小さな湾」のあったところから見た大山。秀麗な山容は失われている。
 「その裾野の小さな湾」とは大山の裾野にあった北栄町の葦原中津国である。

 北栄町大島の宮崎神社の由緒には倭建命が「こは浮洲か」といわれたとあり、原集落もある。徐福は「宇記島・原」に上陸した。

 徐福はこの小さな湾(葦原中津国)の宇記島・原に到着した。
(2)天照大御神のコース
 日御碕神社(出雲、米子市陰田町、境港市渡町、境港市小篠津、大山町御崎)は天照大御神の寄港地である。一番東の大山町御崎の日御碕神社に寄港した天照大御神はどこに上陸したのであろうか。

 天照大神や素戔嗚は伊邪那岐にあっている。天照大神や素戔嗚が上陸したところは伊邪那岐の伝承なり神社の由緒がなければならないが、青谷以東の海岸線にある天照大神を祀る神社の近くに伊邪那岐の伝承なり由緒は見当たらない。伊邪那岐は北栄町原集落で禊をし、北栄町大島集落では、孝元天皇と開化天皇が伊邪那岐を奉斎している。

 伊邪那岐は原集落と大島集落にいた。天照大神や素戔嗚は伊邪那岐の待っていた北栄町の大島と原に上陸した。神社としては、天照大神が倉吉市の灘手神社、素戔嗚は倉吉市の朝日神社に祀られている。

 伊邪那岐に会った天照大御神は集団を葦原中津国で育てるよう伊邪那岐に指示された。また、高天原を治めるように指示された。
 鳥取県の霊石山や氷ノ山も天照大御神の伝承のあることから高天原の候補地になっているが、高天原にしては狭すぎる。天照大御神は天照大御神の痕跡の多く残る蒜山(蒜山高原の5神社すべての祭神になっている)に上がった。
 徐福も天照大神も鳥取県北栄町大島と原に上陸し岡山県真庭市の蒜山高原に上がった。このことからも、徐福と天照大神は同一人物であることがわかる。
(3)天照大神のその後
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷・北栄町の葦原中津国にも住んだ。葦原中津国が騒がしくなった。
 「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思金神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原の徳山神社から来た。大国主を生まれた時から守っていた鳥取県八頭郡にいた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。
 天穂日は伯耆町の神社、思金神は大山の西麓の神社に多く祀られている。思金神も天穂日も辰韓から船で東海(日本海)を渡り、上陸したのは米子市陰田町であった。

 


神武天皇が即位した橿原宮は鳥取県倉吉市大宮にあった

2019-06-13 11:09:11 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1  岡山県久米郡美咲町百々大宮は第十一代垂仁天皇の本拠地と比定したのであるが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名である。久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、倉吉の大宮は弓削なり久米の地名は近くにある。ということは、ここにいた王は第十一代よりも初期であったという推測が成り立つ。
 鵜草葺不合は火火出見のあだ名であったから火火出見(鵜草葺不合)は倉吉市の四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は磯城(東郷池周辺)である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。

2  地図より
 県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。
 大宮集落の東北に隣接する弓削集落です。
 左上は小鴨川。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は橋一本で孤立している集落である。隣の集落は弓削集落である。小鴨川周辺は旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。岡山の方はスケールが大きいが、こちらはスケールが小さい。ヤマト王朝でも初期のものと思われる。
 倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。日本書紀の「来目」は造語であった。

 大御堂廃寺から出土した「久米寺」と墨書された土器

 大御堂廃寺から出土した正倉院と同じ銅製匙(一つだけ残っていた)

3  神武天皇の兄・五瀬命は長髄彦(青銅器文化の一族)の矢にあたって亡くなった。「神武天皇は昔兄を殺した長髄彦を討とうと思われ」とあるので兄の五瀬命を殺害した長髄彦は鳥取県中部にいた。先代旧事本記には、長髄彦は「中洲」の豪雄と呼ばれていた、とあるが、「中洲」とは笠沙之御前の柄の部分(伊那佐山から天香久山までの間の砂地)と思われる。長髄彦は茶臼山と土下山の間の「中洲」(土下集落あたりか)にいた。
 神武天皇が兄磯城と戦ったのは磐余邑(北栄町土下山の西側)である。神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。倉吉市大宮で初代天皇として即位した。橿原神宮が創建されたのは明治23年であり国威発揚のためであるから史実に忠実ではない。
 二男の稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。神武天皇の即位には辰韓から帰っていた稲飯命も同席していたはずである。このことは上里神社の由緒より推測できる。辰韓から帰る途中の隠岐島から倭国までの海が荒れないように上里神社を建立した。稲飯命はまた辰韓に行き、神武天皇即位(紀元前60年)の3年後(紀元前57年)に新羅を建国した。

4  大宮の前にある小鴨神社
 播州完粟郡柏野庄(現在の兵庫県宍粟市)と関係があったようである。山崎八幡宮より寄進されたものだろう。藤原氏は知っていた。ということは、古事記の原本にこのことも書いてあったということである。
 予測していた通り、この神社から、父の火火出見が宮を定め、兄たちと育った日向の四王寺山が見える。

5  大宮橋を渡らないと大宮集落へは行けない。この橋が唯一の出入口である。
 県道38号線より。大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない。
 大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
 広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。

6  弓削集落です。
 左が弓削集落。右の先に小鴨神社の社叢が見える。
 弓削集落から大宮集落が見える。

7  私見
 広瀬川は小鴨川と合流するが、小鴨川の上流に行けば神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志と言われていた長瀬高浜に到る。多芸志耳命は長瀬高浜で大陸からの船を誘導していた。多芸志耳命は神武天皇が東征に出発する前に生まれている。母親の阿比良比売は神武天皇が日向(倉吉市の四王寺山)在住時に娶った。
 神沼川耳(第2代綏靖天皇)は神武天皇が高齢のときに生まれた世継天皇(52歳で即位後、娶った妻の第3子)である。神沼川耳(第2代綏靖天皇)は、神武天皇が初代天皇として即位した(紀元前60年)のち、鳥取県伯耆町久古から娶った姫蹈鞴五十鈴姫の第3子として生まれているから綏靖天皇の生年は紀元前50年頃と思われる。多芸志耳命とは20歳以上の年齢差があるものと思われる。神沼川耳(第2代綏靖天皇)は四王寺山の隣の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社に皇居を建てた。
 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。橿原の地とあるが、これは奈良ではなく倉吉市大宮であった。倉吉市大宮は鳥取県中部では奥深く安住に適した地である。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。倉吉市大宮に宮殿を造営し、倉吉市大宮で初代天皇として即位した。紀元前60年のことである。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。この倉吉市大宮は四王寺山(畝傍山)から見れば、東南になる。
 倭大乱が150年頃から始まっているが、卑弥呼の生年は151年頃である。卑弥呼は96歳で亡くなった。卑弥呼の兄が第8代孝元天皇になっているから、孝霊天皇の生年は120年頃とし、孝元天皇の生年を149年頃とすれば、孝霊天皇が29歳頃に生まれた世継ぎ天皇となる。第2代綏靖天皇の生年は神武天皇が60歳位の時に生まれたから紀元前50年頃となる。孝霊天皇とは170年の開きがある。これを5代で割れば世継天皇の生まれた年齢が平均34歳となり、おかしくはない。神武天皇までの平均が34歳(ニニギ命は紀元前180年頃、孫の神武天皇は紀元前112年頃の生まれ)だから神武天皇以降もほぼ同じくらいの年齢で世継ぎ天皇が生まれたことになる。但し、神武天皇は特別で60歳くらいで世継ぎ天皇が生まれた。
 したがって、神武天皇の即位年は紀元前60年としておかしくない。その3年後の紀元前57年に次男の稲飯命が新羅を建国した。
 紀元前70年に辰韓に現れた壮年の稲飯命を卵生神話に作り替えた。卵生神話への作り替えは他にもある。赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。

倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

2019-04-03 06:12:31 | 火々出見と神武天皇4兄弟

倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

1  日本書紀も、1540年までに書き換え、挿入をしている。
 日本書紀は720年以降も藤原一族の何人もの手で何度も書写されている。書写するときに示し合せて新たに文を挿入したとしてもおかしくない。人代巻28巻がそろったのは1540年であった。それまで、改ざん挿入がなかったと考えるほうが無理である。

2  日本書紀・神武・橿原即位
 「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて『空見つ日本の国』という。」とある。面白いけれども、空想科学小説であり、のちに挿入されたものである。原古事記においては、饒速日命は、船で小鴨川を下って大倭国(鳥取県中部)に至った、と記されていた。奈良時代には「虚空(ソラ)」と書かなかった。
 「ソラミツヤマトの国」と言ったのは饒速日命ではなく神武天皇である。稲飯命が建国した新羅の国号は「徐那伐」とした。ソナバルの「ソ」は「徐」である。ソラミツの「ソ」を漢字で書くと「徐」であろう。徐等満(ソラミツ)かもしれない。
 日本(ヤマト)とは倭(ヤマト)のことであり鳥取県中部であった。倭を日本に書き直している。

3 山陽でのコース

(1)難波
 湯梨浜町東郷池 「今難波というのはなまったものである」とある。今とあるのは、京都にいた藤原氏が加筆したものである。京都人は「今」という言葉を口癖のように使う特徴がある。湯梨浜町の北山古墳より東側は複雑な波(難波)が来ていた。日本書紀の難波とは、東郷池のことであった。
(2)草香村(日下村)
 倉吉市清谷から西郷地区まで 「河をさかのぼって、河内国草香村(日下村)青雲の白肩津に着いた」とある。1944年まで倉吉市清谷は日下村であった。清谷の上里神社の由緒に稲飯命と神倭天皇が出てくる。天神川の度重なる洪水による土砂のたい積により現在倉吉市清谷(日下村)は海抜4mより高くなっているが2~3mの地点も残っている。紀元前1世紀頃、津(青雲の白肩津)があった。倉吉市清谷から西郷地区までを河内国と言っていた。
(3)血沼(茅渟)の海 
 鳥取県湯梨浜町の東郷池 日本書紀にある茅渟(チヌ)とは黒鯛のことか。原本にあった文字は血沼であった。また海水で傷を洗うような者はいない。ここは汽水湖の東郷池である。
(4)木国 
 鳥取県智頭町 イツセが亡くなった木国とは和歌山県ではなく、鳥取県の智頭町であった。準王一族の多くいた和歌山県を聖地にしようという藤原氏の改ざんである。
(5)名草邑 
 津山市二宮 名草戸畔は頭・胴・足に切られた蛇とされた女族であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
(6)佐野 
 総社市 総社市に佐野山の地名が残っている。
(7)神邑 
 福山市神村町 隣接する福山市柳津周辺にはイワレヒコの伝承地が多くある。通説は新宮市辺りとする。
(8)天磐盾 
 福山市柳津町の天津磐境 福山市柳津周辺にはイワレヒコの伝承地が多くある。新宮市の神倉神社ではなく2字が同じ天津磐境である。
(9)荒坂の津 
 岡山市の龍ノ口山の麓 丹敷戸畔は出雲族の姻戚の女族であり、荒神であり、龍蛇神を祀っていた。
(10)高倉下が剣を天皇に献上した地
 岡山県赤磐市の石上布都魂神社 イワレヒコは岡山県の旭川を北上していった。石上布都魂神社で高倉下は剣をイワレヒコに献上した。

4 内津国(鳥取県中部)でのコース

(1)高天原(古事記のみ)
 岡山県蒜山高原(鏡ヶ成) イワレヒコは旭川を北上した。旭川の水源地は蒜山高原である。蒜山の5神社の中で神武天皇は2神社に祀られている。福田神社まで行っているので、犬挟峠ではなく鏡ヶ成から降った。出雲族に気付かれないようにするためであった。
(2)宇陀
 鳥取県倉吉市高城地区 イワレヒコは高天原(鏡ヶ成)から穿邑(上大立)に降臨した(古事記)。楯縫神社の由緒よると、立縫郷の旧郷名は楯縫郷であった。楯はイワレヒコの軍の大事な武具であった。イワレヒコは「宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・」の歌を詠んだ。弟ウカシ(出雲族)の子孫は宇陀の主水部であった(日本書紀)。国府川の川辺で四隅突出型墳丘墓(出雲族)が発掘されている。
(3)穿邑
 倉吉市上大立 宇陀は倉吉市高城地区であったから高城地区の上の集落の上大立である。上大立から延びる県道313号線(下見大鳥居線)はイワレヒコが山を穿って道を造った。
(4)国見が丘
 鳥取県北栄町の蜘ヶ家山 蜘ヶ家山に上がれば古代の国見がどんなものだったかがわかる。これほど周囲が見渡せる山はほかにない。国見が丘は蜘ヶ家山であった。
(5)高倉山
 倉吉市大谷の四王寺山 国見が丘は蜘ヶ家山だから、蜘ヶ家山と同じくらいの高さで近くにある山は高見神社のある四王寺山である。四王寺山は兄たちと育った山であり、勝手知りたる山であった。
(6)男坂・女坂
 鳥取県道23号線 四王寺山から見えて、目立つ坂と言えば黄泉平坂である。上神まではなだらかな坂(女坂)であるが、上神から蜘ヶ家山に上がる坂は急な坂(男坂)になる。男坂・女坂は黄泉平坂(県道23号線)であった。四王寺山の近くにいた男軍・女軍とイワレヒコは旧知であり、男軍・女軍はすぐにイワレヒコの軍に降った。
(7)石上(いそかみ)
 倉吉市大原 天神川の下流には石山(いそやま)があった。高倉下の倉はここにあった。大原には倉〇氏や倉□氏が多い。素戔嗚は晩年倉吉市の東山神社に住み、八岐大蛇を切った十握剣を対岸の大原神社(石上神宮)に奉納した。以前大原神社は伯耆国二宮の母木神社と言っていた。大原の安綱は倉吉市大原の出身である。大原神社(倉)に多くの良(吉)い刀があった。
(8)忍坂邑
 三朝町片柴集落 当時海水面が高かったので、湯梨浜町川上集落から石上神宮(倉吉市大原)に行くには湯梨浜町波関峠を通るのがメインであった。三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。三朝町片柴周辺では土蜘蛛(出雲神族)たちが採掘作業をしていた。素戔嗚も下流の三朝町山田集落で八岐大蛇(始皇帝の部下たち)に酒を飲ませている。神武天皇は素戔嗚にヒントを得て忍坂邑(片柴集落)に土蜘蛛(出雲神族)たちを集め、酒を飲ませて殺害した。
(9)墨坂
 湯梨浜町羽衣石集落 墨坂の横には川が流れていることが条件である。墨坂は羽衣石集落の坂であった。坂に沿って羽衣石川が流れている。長和田集落に国譲りで退いた出雲族(事代主と百八十神)がいたのであり、兄磯城・弟磯城は事代主と百八十神の子孫であった。
(10)吉野
 倉吉市北谷地区 倉吉市北谷地区の杉野・中野・森を吉野と言っていた。
(11)城田
 琴浦町別宮 313号線が琴浦町下見まで通じているので鳥取県琴浦町別宮に城を築いた。しかし、加勢蛇川の東岸(宮場)のほうが気付かれない。加勢蛇川の東岸を伊勢まで下り船で北条砂丘に至った。最初の拠点は宮場であった。
(12)伊勢
 琴浦町伊勢野から海岸まで 旧伊勢崎小学校の西の中尾遺跡で弥生時代前期と縄文時代晩期の遺跡・遺構が発掘された。伊勢野から海に至るまで伊勢であった。イワレヒコは宮場から伊勢に至り、伊勢から船で北条砂丘に至り、伊那佐山(茶臼山)で敵情を視察し、土下山から赤土をもって下ろさせた。
(13)いなさ(否砂)山
 北栄町の茶臼山 周辺が北条砂丘の茶臼山である。イワレヒコは伊勢から船で北条砂丘に至り茶臼山に来た。茶臼山(伊那佐山)で敵情を偵察し二人に土下山(天香久山)の赤土を取ってこさせて勝敗を占った。
(14)天香具山
 北栄町の土下山 土下山は国譲りの「いなさの小浜」のあった北栄町の茶臼山に面しており、砂浜(中洲)でつながっていた。饒速日が降臨したのも土下山である。天孫族は国譲りの交渉で何度もこの山を通っている。饒速日と結婚した長髄彦の妹の登美夜須毘売も土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)にいた。土下山と茶臼山との間には今は度重なる洪水で埋まっているが当時は天橋立のような中洲(笠沙之御前の柄)があった。長髄彦は中洲の豪雄と呼ばれていた。兄磯城軍(青銅器文化の一族)が陣取っていたのも土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)である。麓から銅鐸が見つかっているし、中心部は赤土である。
(15)埴安(はにやす)
 鳥取県北栄町土下(はした)集落 赤土を取ったので名づけたところ。
(16)丹生の川上・宇陀川の朝原
 「にぶ」の地名は鳥取県東部(丹生)と西部(二部)にあるので中部の山側(高城)にも東部と西部につながる辰砂の地層があった。
 「水飴が採れる」と「魚が死ぬ」現象はどちらも水銀(仙薬)の有無を確認する行為である。赤土には辰砂(水銀朱)の混ざるものと酸化第二鉄(ベンガラ)が混ざるものとある。飴とは水飴(水銀朱)を意味し、イワレヒコは赤土に水銀朱(仙薬)を含んでいることを確認した。北栄町土下山には赤土が分布する。
(17)母木邑
 倉吉市大原集落 「その木を指して『恩は母のようだ』といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきむら)といった」とある。倉吉市大原の大原神社を古代は母木(ははき)神社と言っていたので大原集落を神武の時代には母木(ははき)邑と言っていた。伯耆国はもと母木国と書いていた。母木邑は母木国の元になった邑である。母を「おも」と読むのは韓人である。日本書紀は韓人(百済人)が作成した。
(18)磐余邑
 北栄町米里と北条島集落 磐余邑は片立あるいは片居と言っていた。中が汽水池になっていたので片方に居るしかなかった。神武天皇の時代北栄町米里と島はそういう地形であった。
 磐余彦の兵が天香具山(土下山)にあふれていたので磐余邑という。米里・北条島集落に接する土下山が天香具山である。この土下山(天香具山)の赤土を神武天皇の家臣二人が北栄町土下集落に下した。
(19)橿原宮
 倉吉市大宮集落 大宮集落の近くにある久米や弓削の地名はヤマト王権に属する部族がいた集落である。岡山県の久米郡にも大宮と弓削があるが、倉吉の弓削は大宮のすぐそばにあり、大宮には垂仁天皇より初期の天皇が居た。この橿原の地は国の奥深くにある。私見では30人の天皇の皇居のなかで一番山側(奥)にある。日本書紀の記述と一致する。

5 日本書記では神武天皇は論功行賞を行った。原古事記には書いてあったのだろうが、今の古事記からは削除している。
 論功行賞などの部分は改ざんしていないと思われる。このような部分を改ざんしても意味がないからである。
 弟猾に猛田邑を与えた。それで猛田の県主という。弟磯城を磯城の県主した。また剣根というものを葛城国造とした。
(1)猛田
 伯耆国河村郡竹田郷(三朝町竹田地区)のことである。国道179号線を人形峠を降りて三朝町本泉まで、国道482号線を三朝町福山から降りてきて三朝町本泉までの竹田川の流れる竹田の谷一帯である。
(2)磯城邑
 鳥取県湯梨浜町長和田集落 磯城の八十建がいた。
(3)磯城(師木)
 湯梨浜町東郷池の周辺である。
(4)葛城邑
 鳥取県北栄町曲集落 赤銅の八十建がいた。
(5)葛城
 蜘ヶ家山と日向を合わせた地域である。
(6)日向
 葦原中津国と四王寺山(畝傍山)を合わせた地域である。
(7)来目邑
 倉吉市上米積の後中尾遺跡 四王寺山(畝傍山)の南西を久米ヶ原という。その南の川(国府川)を久米川と言っていた。久米中学校やJA久米支店などの地名が残る。後中尾遺跡は紀元前100年頃から500年続いた住居跡である。
(8)そほ(ベンガラ)県の波哆の丘岬(新城戸畔)
 赤土(ベンガラ)は旧東郷町に多く分布する。
(9)和珥の坂下(居勢祝)
 新羅から来た和邇の船着場(東郷池周辺)の下(北側)である。
(10)臍見(ほそみ)の長柄の丘岬(猪祝)
 長柄の元は「長江」だから、これも東郷池周辺(鳥取県中部)にあった。

6 高佐士(こさし)野の丘の上
 鳥取県伯耆町大殿の越敷(こしき)山である。
 久古神社(祭神は伊須気余理比売)の対岸(越敷山の麓)の三嶋神社(伯耆町大殿)には伊須気余理比売の母の勢夜陀多良比売が祀られている。乙女の伊須気余理比売は母と一緒に暮らしていた。七人の乙女たちは越敷(こしき)山の麓の野で遊んでいた。伊須気余理比売の父は大物主(天忍穂耳命)ではなく、事代主(出雲族)の子孫の磯城県主(初代は弟磯城)と思われる。初代から数代の天皇は出雲族の娘を娶った(謎の出雲帝国より)。弟磯城は出雲族(準王一族)である。美保関や熊野大社に行くのに、伯耆町大殿の勢夜陀多良比売の家に宿泊していた。神武天皇に磯城県主を命ぜられた弟磯城の娘なら年代も付合する。
 大久米命は高佐士野の丘の上を、七人の乙女たちが野遊びをしているところに天皇を誘った。そして、「七人のうちだれがよろしいですか」と聞いた。天皇は「先頭に立っている乙女を妻にしたい」と言われた。それが伊須気余理比売である。


鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた

2019-03-17 08:09:11 | 閑話休題

鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた。

1 瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書
 鳥取県大栄町(北栄町)瀬戸
 1998年 大栄町(北栄町)教育委員会
(1)まとめ
 瀬戸35号境は円墳で、主体部の箱式石棺と墳裾部から子供用の箱式石棺の2基を検出した。主体部からはⅤ字状の石枕をした男性人骨と女性人骨の2体を検出し、副葬品に布痕のある鉄刀と刀子を検出した。頭蓋骨には赤色顔料が付着していた。子供用の箱式石棺からもⅤ字状の石枕が検出された。
 本古墳で検出された箱式石棺はこの地域の特徴であるⅤ字状の枕石を配しているが、町内では、妻波古墳群で同じ埋葬形態の箱式石棺が確認されており、中でも妻波1号墳(向畑古墳・5世紀中期)では、瀬戸35号墳の1号埋葬施設と同じ形態の箱式石棺及び、Ⅴ字状の石枕が検出されている。その埋葬形態は男性1体と反対側から上に重なった女性1体が埋葬され、副葬品として布痕のある直刀と刀子が検出されており、 瀬戸35号墳と大きく類似する。埋葬形態等から推測すると、35号墳は妻波古墳群と同時期(古墳時代中期)のものと考えられる。
(2) 付章 瀬戸35号墳出土人骨
 鳥取大学医学部法医学教室 井 上 晃 孝
 ま と め
 鳥取県大栄町瀬戸の瀬戸岩子山遺跡の瀬戸35号円墳の主体部の箱式石棺には、その両端 にⅤ字状の石枕があった。被葬者2体は仰臥伸展位で、その石枕を頭位にして、反対方向から下肢骨を交差する形状で埋葬されていた。
 1号人骨は男性、年令は30代前半(壮年中期)位、身長は157cm。頭部(前頭部と顔面部)に鮮紅色の朱(水銀朱)が認められた。
 2号人骨は女性、年令は20代後半(壮年中期)位、身長は143cm。頭部(歯牙遺残部位)にわずかの朱を認めた。後日、急速に退色したことから、この朱はベンガラと推定された。
 被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された。

2 長瀬高浜遺跡(人骨は36体出土)
 鳥取県湯梨浜町長瀬
 1号墳の遺体は熟年女性でほぼ完全に人骨が残っていた。頭蓋骨は3個の高塀を組み合わせた土器枕にのせてあり、全体に赤色顔料が塗られ、額部に竪櫛がおかれていた。遺体の右手横には組紐を入念に巻いた鉄刀が副葬されていた。5世紀後半の須恵器を伴う。1号墳の東南東周溝肩部で小土壙内に大量のベンガラが入った甕を検出した。この甕は1号墳築造時の可能性もある。
 75号墳第1埋葬施設 性別不明 頭骨に赤色顔料の付着。
 86号第2埋葬施設 頭蓋骨の一部に付着した赤色顔料(水銀朱)が認められた。
 SX46 人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。
 SX52 東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。
 SX79 血液型はB型で5 ~ 6才位の女性。石棺内に用いられてい赤色顔料はベンガラであった。

3 夏谷遺跡(人骨は11体出土)
 倉吉市和田字夏谷
 弥生時代後期~古墳時代(前期~後期)
鑑定 鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝
3号墳1号人骨(10代後半の男性)。頭骨の前頭部~顔面部にかけて、鮮紅色の朱(水銀朱)の付着を認めた。
3号墳3号人骨(30代女性)。頭骨の顔面にわずかに朱の付着を認めた。
4号墳1号人骨(40前後の男性)。頭骨の前頭部にわずかに朱の付着を認めた。
6号墳1号人骨(30代後半女性)。頭骨の前頭部と顔面部に朱の付着を認めた。
7号墳1号人骨(10代女性)。前頭部と顔面部に朱の付着を認めた。
出土人骨11体中5体から朱の付着が認められた。

4 馬ノ山古墳 鳥取県湯梨浜町橋津
4号墳1号主体(成人女性)。発掘時には小臼歯のみが一個残り胸から頭の部分には相当量の朱がたまっていた。

5 妻波古墳群22号墳 5世紀後半
30代女性A型 頭蓋骨表面には明らかに朱色に着色した跡が部分的に識別される。眼窩の周囲には、はっきり朱色の着色を認める。左前頭骨と側頭骨にわずかに朱色の着色のあとがうかがえる。水銀が認められた。

6 島古墳群7号墳第二埋葬施設 4世紀後半~5世紀前半
考察・井上貴央
人骨の遺存状況は良好で、二体が確認された。東頭位の一体は、壮年の女性である。頭部付近に赤色顔料が付着する。

7 鳥取県中部の古墳は2395基あるが、人骨が出土した古墳は75 基114体にすぎない。そのうち、調査のできた42体(歯だけや大腿骨だけは省略しています)のうち11体に朱丹を塗っていたことが判明した。死後の頭胸部への散布なら、床面にも朱が付着するはずである。床面への朱の付着がないことをもって、改葬されたとする説があるが、骨の不自然な配置などが認められないため改葬ではない。また、馬ノ山古墳と長瀬高浜1号墳は死後に塗った(施朱)ことが明らかである。他は、生前好きな部分に朱を塗った残存と思われる。出土人骨うち26%は朱丹を塗った状態で亡くなっている。

 京丹後市大宮町の佐坂古墳群から出土した42件の朱の付着した木棺はすべて人骨がなく、朱を散布(施朱)した床面の痕跡であった。生前朱丹を塗っていたかどうかは判らない。

 妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。しかし、人骨に限っては、井上教授は「朱が認められるのは頭骨の前頭部と顔面なので、洗骨してから着色したのではない」とする。
 鳥取県中部の古墳は97%が円墳である。それは石棺の上に土をかぶせて円型の塚としている。副葬品には鉄製品(鉄鏃10本なども含む)が出土する。6世紀中頃になると横穴式石室の円墳(北栄町の上種西15号墳・上種東3号墳など)が築造され始める。
 奈良の藤ノ木古墳も6世紀後半築造の横穴式石室の円墳で石棺は朱塗りであり、同棺二人埋葬であった。

 

8 私見

(1) 魏志倭人伝
 「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食」
 倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体に塗るが、それは中国で白粉を用いて化粧をするようなものである。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。
 「其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐」
 人が死ぬと、棺に収めるが、槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは中国の練沐のようなものである。
(2) 魏志倭人伝に「倭人は、朱丹をもってその身体に塗る」とある。
 死んでからどうしたかは「手掴みで食べる」の次に書いているから、これは生前の記述であり、朱丹を化粧品としていたと解釈すべきである。今日のおしろいと同じように朱丹を日常的に塗っていた。
 北九州でも朱の付着した人骨が発掘されているが、倭国の王族が北九州にも住んでいたからである。新羅から人力船を出せば鳥取県中部に到着する。鳥取県中部(倭国)の一族が新羅に行こうと思えば、対馬海流があるので、北九州に行き出航に適した日まで待たなければならなかった。倭奴国は倭国から新羅(大陸)に渡航するために大事な国であった。海流に流されるので壱岐→対馬→新羅のコースを採らなければならなかった。新羅(大陸)に渡らず、そのまま北九州に住んだ者もいた。その中には王族もいた。
 倭国王第4代懿徳天皇(在位40年~75年)は奈良を平定し、始めての中国への朝貢を倭奴国にさせた。後漢書倭伝に「建武中元二年(57年)、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり」とあり、倭国と倭奴国は違うと書いている。史実は方角を90度回転して「倭国の極西界なり」と書くべきであった。
 旧唐書倭国日本伝に「倭国は、いにしえの倭奴国である」と書いているが、倭奴国とは倭国に仕えていた国であり、倭国とは別の国であった。「新唐書日本伝」「宋史日本国伝」「元史日本伝」「明史日本伝」も右にならえで旧唐書と同じ書き方をする。
 藤原氏は唐が勘違いしていることを知りながら、倭奴国が日本だと書かせた。そうすれば、本物の倭国(鳥取県中部)が消えるからである。日本(亡命百済王朝)は669年に天智(百済人の豊璋)が発案した国号だから、57年に中国に朝貢した倭奴国が日本であるわけがない。唐も隋を乗っ取った政権だから、過去の歴史書に関心はなかったのだろう。後漢書倭伝を参考にして、倭国の意味で倭奴国と記述している。史実は、倭国と倭奴国は別の国であった。
 鳥取県中部が倭国であり、北九州が倭奴国であった。倭国は日本海沿岸(東海中)の鳥取県中部であった。卑弥呼(孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫)の選んだ邪馬台国は志摩国であり、卑弥呼が亡くなってからの景行天皇や豊鋤入姫(台与)の本拠地は鳥取県中部(倭国)に戻った。

9 参考

 青谷上寺地遺跡出土の楯(紀元前50年~紀元50年)。赤く塗った顔と二つの渦が目のように見える。


青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった

2019-03-05 07:14:53 | 倭国大乱の原因

 青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった。

1.2019年3月2日に鳥取市で「倭人の真実」というシンポジウムが開かれた。

 青谷上寺地遺跡で見つかった数十体の殺傷痕のある人骨が亡くなったのは2世紀後半であり、倭国大乱(147年~188年)の時期と一致する、とパネリスト3人の内2人(藤尾慎一郎氏と篠田謙一氏)が認めた。篠田氏は「土器編年より2世紀後半」とし、藤尾氏は「炭素年代測定により今まで数十年早く出る年代を修正すると2世紀後半になる」とした。

2 謎の出雲帝国・出雲神族の伝承より

 「ヒボコ族は天孫族と手を結び物部を将として吉備(?)から攻めてきた。彼らは逃げまどう女や子供までも殺した。出雲人が絶滅するのではないか、と思われるほどであった」とある。

3 私見
 出雲族の子孫の富氏の口伝によると「彼らは逃げまどう女や子供までも殺した」とする。この本が出版されたとき(1980年)には、まだ、青谷上寺地遺跡(2000年)は発掘されていない。なぜわかったのだろう。これはこの口伝が全くの出鱈目ではないからである。
 但し、自分たち(出雲族)の行った虐殺を相手(天孫族とヒボコ族)方に転嫁したのかもしれない。そうでなければ、青谷で行った虐殺を自分たち(出雲族)もやり返されたということである。
 まだ出雲族の虐殺された遺跡は発掘されていないので「逃げまどう女や子供までも殺した」のは出雲族(青銅器文化の一族)であり、青谷で行った虐殺を相手(天孫族とヒボコ族)方に転嫁したと思われる。
 倭国は雄略天皇の時代121国に分かれていた小国の一つであり、隋書には「つくしより以東はすべて倭に従う」とある。小国の倭国が全国を統一していた。
 出雲族の子孫(富氏)が「倭国大乱の相手は自分たち(出雲神族)だ」と認めているのである。倭国大乱の遺跡が青谷上寺地遺跡であり、青谷は骨鏃の一族であり、鳥取県中部は鉄鏃を副葬品とする一族であった。青谷も含めて鳥取県中部が倭国であり、倭国大乱は神武天皇の時から天孫族に従っていた出雲族の鳥取県を中心にした反乱であった。倭国が鳥取県中部にあったことを認めようとしない歴史学者(倭国は九州にあり鳥取県は何もない田舎だとする)が多い我が国においては、「倭国大乱の真実」はいつまでも解明されないであろう。倭国在東海中(倭国は日本海沿岸にある)を思い出してもらいたい。倭国は玄界灘ではなく日本海沿岸にあったのである。青谷上寺地遺跡が倭国大乱の痕跡である。
 国立歴史民族博物館の藤尾教授がまことしやかに「弥生時代は紀元前10世紀にはじまる」というくらいだから、いつの間に土器編年を捨てたのか。土器の時代の相互の照合ができないではないか。「ううん。そんなものはどうでもいいんだ。藤原不比等が神武東征を創作し神武の即位を紀元前660年としたのだから我々藤原氏はそれを守り通さなければならない。そのためには、何でもする。そのために歴史学会も牛耳っている。我々藤原氏に逆らうものは一生日の目を見ないと心得よ。」
 ははあ~、わかりました。藤尾慎一郎さま。


因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた

2019-03-02 07:11:54 | 欠史八代

 因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた。

1 孝霊天皇が土蜘蛛を襲ったのは大分県(碩田国)ではなく鳥取県(因幡国)であった。
 日本書紀・景行天皇十二年・「天皇は碩田国(大分県)に着かれた。・・・天皇は好ましくないと思われ、進んで行かれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮をたててお住みになった。群臣と謀って、「いま多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もしわが兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっとわざわいをなすだろう」といわれた。椿の木を取って椎に造り、これを武器とされた。強い兵をえらんで椎を授け、山をうがち草をはらって、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉川の上に破りことごとくその仲間を殺した。血は流れて踝までつかった。時の人は、つばきの椎を作ったところをつばき市といい、また血のながれたところを血田といった。また打猿を討とうとして、禰疑山を越えた。そのとき、敵の射る矢が、横の山から飛んでき、降る雨のようであった。天皇は城原に帰り、占いをして川のほとりに陣をおかれた」とある。
※ 私見
 倭建命は若日子建吉備津日子であり開化天皇であった。倭建命は景行天皇の皇子ではなく孝霊天皇の皇子であり倭国大乱を孝霊天皇とともに戦っていた。藤原氏は主人公も舞台も変えて日本書紀を創っている。以下の神社の由緒と付合するので孝霊天皇は因幡(鳥取県東部)で土蜘蛛(出雲族)と戦っていた。
(1)稲葉神社  現住所   鳥取市立川町5-115
 由緒「これ武内大臣当国下向の時三韓退治の御幡をこの地に収め祭らる。これによって、国名稲葉の字を因幡と改むという」
※ 私見
 因幡は古代、稲葉であった。「稲葉川」とは因幡川であった。三韓退治(任那を始めて創った)をしたのは倭建命と卑弥呼であり、武内大臣ではない。この由緒は八幡など幡の好きな神社庁が創った。
(2)久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
 由緒 因幡誌に「岩田庄谷一木村にあり。古跡紛乱なし。日本紀・景行天皇・12年の条下に、来田見の邑に留めて宮室を権興しこれに居る、と見えたれば、これ来田見の古地なる疑いなし。景行天皇を祀れるか、いま九田伊大明神と称するは里村の訛りなり」とある。
※ 私見
 来田見邑は因幡国にあった。久多美神社は出雲と大阪に創ってあるが来田見邑は現在のところ出雲と大阪に創ってない。指摘したから創るかもしれないが。来田見邑に宮室を権興したのは景行天皇ではなく孝霊天皇である。
(3)都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511  
 由緒 世俗呼んで市大明神(また大智大明神)と称す。因幡誌に曰く「都波只知上神社は八日市の西8町獨活谷の口にあり、この地は城原と称し、また海柘榴市という。景行天皇紀に「・・・」(上記)とある。即ち、この地は海石榴市の神の鎮座地にして、その祀るところ景行天皇・日本武尊なり。都波只知(つばいち)は海石榴市(つばいち)のかな書きにして、土人今市大明神というは故実の存するところにして殊勝というべし」と記せり。
※ 私見 
 日本書紀・景行天皇十二年の土蜘蛛との闘いの舞台は大分県(碩田国)ではなく鳥取県東部(因幡国)であった。天皇は景行天皇ではなく孝霊天皇であった。孝霊天皇は10年疎開していた但馬から因幡国にきて出雲族(土蜘蛛)と戦い、鳥取県中部(倭国)を取り戻してから、鳥取県西部(西伯郡・日野郡)に行って出雲族(鬼)と戦った。鳥取県西部では高杉神社を本拠地として出雲族の本拠地の妻木晩田を攻め、手間山に逃げ込んだ出雲族を待伏せし、降ってきたところを捕らえた。その後、溝口町・日南町・出雲を平定し倭国大乱は終結した。倭国大乱は鳥取県を中心にした乱であった。
 藤原氏(神社庁)は倭国が鳥取県中部であることを隠し、都は大和(奈良)にあったと思わせるために舞台を大分県などに移した。

2 武王大明神の「武王」とは建御雷神のことか。
 鳥取県神社誌の因幡国には明治維新まで武王大明神と称していた神社が9神社あり、祭神は建御雷神となっている。建御雷神は葦原中津国にまっすぐ行けばよいので、9か所を転々とはしない。9か所を転々とする必要があったのは、倭国大乱を戦っていた倭建命である。
 また、武王の「王」とは天皇のことであり、建御雷神は天皇ではない。倭建命はのちに天皇になっているし、建の字は武とも書く。武王とは倭武天皇のことであった。

(1)意非神社  現住所  八頭郡若桜町屋堂羅1
 意非の読みは近辺に大炊村があるので大炊だろう。社伝に曰く「形代白羽矢なり、里諺に当社始め隣村長砂一宮谷にあり。武内宿禰(倭建命)来征の時、その地より矢を放って曰く「この矢の落ちるところに神殿を遷すべしと。因って今いう矢落谷に遷す。この説によって考えるに矢堂羅は即ち矢通りのかな書きなるべし」と見え。
※ 私見
 これは倭国大乱の時であり、矢を放ったのは倭建命である。藤原氏は神社庁と組んで卑弥呼と倭建命の巡行を神功皇后と武内宿禰の巡行に替えている。
(2)武王大明神と称していた神社
古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657
 祭神  建御雷神
安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町
 祭神  建御雷神
神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675
 祭神  建御雷神
面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192
 祭神  建御雷神
禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227
 祭神  素戔嗚
細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350
 祭神  建御雷神
恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95
 祭神  武王大明神
杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番
 祭神  建御雷神
宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441
 祭神  建御雷神
※ 私見
 武王とは建御雷神ではなく倭武天皇(王)といわれた倭建命であった。孝霊天皇とともに因幡国(鳥取県東部)を平定した。

 洗足山には鬼(出雲族)がいたので鳥取市用瀬町赤波の宮小谷神社のあたりは激しい攻防があったことは容易に察しが付く。

3 倭建命(若建日子吉備津日子)は吉備津彦(大吉備津日子)・武牟口命・橘入来宿祢らとともに因幡国・伯耆国を平定した。
(1)虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967
 虫井神社由緒書には「当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...」と記してあります。
(2)多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387
 特選神名牒には「今按ずるに社伝祭神大穴牟遅神事代主尊とあれど伊福部系図に大己貴命十四世孫武牟口命という人日本武尊に従って本国の賊荒海を平定したることみえたり。これによるに疑うらくは、この武牟口命を祀れるにあらざるか。この武牟口命を大己貴命の後と伝えたるをもって大穴牟遅神事代主尊と伝えるならん。姑附て考に備なう」とある。
(3)因幡国伊福部氏の系図の第十四 武牟口命(たけむくちのみこと)について
 伊香色雄命の子。母は布斗姫(ふとひめ)と曰ふ。
 此れ武牟口命は、「纏向日代宮に御宇大足彦忍代別天皇」(史実は孝霊天皇)の皇子日本武尊(倭建命)に陪り従ひて、吉備彦命(大吉備津日子)・橘入来宿祢等と与(とも)に、相ひ共に征西の勅を奉りて、去り行きぬ。時に或る人、針磨国(?)より言して曰はく。「稲葉の夷住山に住める荒海、朝命に乖き違いて、当に征討すべし」と。時に日本武尊(倭建命)、詔して曰はく、「汝、武牟口宿祢は、退き行きて伏せ平ぐのみ。吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」。時に詔を奉りて行くに、荒海・里人・都都良麻の三兄弟、参り迎へて槻弓八つ枝を献る。
※ 私見 
 大国主は素戔嗚の子であり倭建命の始祖は天照大御神だから同族であり、出雲族ではない。大国主の子孫(武牟口命)と倭建命が協力して出雲族を平定していたとしてもおかしくない。
 「吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」とある。伊邪那岐は「筑紫の日向の橘の小門の淡き原(北栄町原集落)」で禊をしたのだから、「筑紫」はかなり広範囲の地域であり、黄泉平坂のある鳥取県中部にあった。

 橘入来宿祢の「橘」とは「橘」の花の形をしていた葦原中津(北栄町)である。葦原中津(小さな湾)に船で入って来るのは韓国(朝鮮半島)からである。橘入来宿祢は韓国(新羅)から援軍としてやってきた。

 倭建命は鳥取県中部(倭国)を平定して、(〇〇川の)背(瀬)の方より廻って武牟口命と会った。藤原氏は稗田阿礼とは逆で特定される地名は消している。倭建命も神武天皇の子孫であり戦い方を踏襲しているから、南の津山に出て蒜山から筑紫(鳥取県中部)を平定するために降りてきた。関金の矢筈ヶ山と矢止荒神に残る伝承はその時の伝承と思われる。

 


倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった

2019-02-24 04:49:56 | 天孫降臨

倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった 。

1 国土交通省のホームページ「暴れ川とのたたかい」より
天文13年(1544)に起こった「天文の水」と呼ばれる洪水では、小鴨川が天神川に合流するあたりで栄えていた見日千軒を押し流し、下流の北条平野を泥沼に変えてしまいました。


2  天神川の造成の跡

 「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、「天神川変遷略図」によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称「石山さん」と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。
※ 私見
 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。
 河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。

 北栄町下神の本物の三輪神社は1753年、藤原氏の放火により焼失した。奈良の藤ノ木古墳と同じように、北栄町国坂の大国主のいた松樹庵を守っていた「世出開了行者〇〇信女」は1789年に殺された。

 元文年間(1736-40)まで天神川の下流に「石山(いそのやま)」は存在した。「タギシ」とは「古代の船の舵」のことであり、石山は舵の柄にあたる。舵の本体は長瀬高浜であった。天神川の上流の倉吉市大原を「石上(いそのかみ)」と言っていた。

 倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった 。

3 天孫(饒速日とニニギ)降臨


 石凝姥以外の5伴緒と思金神は饒速日とともに北栄町の土下山(鳥見の白庭山のちに天香久山)に降臨したが、中洲を通って大国主の本拠地の松樹庵に至り、大国主と一緒に高い建物を建てる打ち合わせをするため笠沙之御前を東に湯梨浜町の長瀬高浜(タギシ)に行った(長瀬神社の祭神と長瀬高浜遺跡より)。
 石凝姥(琴浦町倉坂神社の祭神)は天照大御神や月読命・手力男や天石門別とともに西の方見郷(琴浦町)に降臨した。饒速日が亡くなってニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は矢送神社に戻った。その後、楯縫神社に移り、出雲族の事代主や百八十神の子が成長するのを待っていた。ニニギも成長して葦原中津国(上種の大宮神社)に天児屋根(穂波集落)とともに降臨し、天太玉は伊勢の中尾集落に降臨した。
 饒速日とニニギの降臨の道案内はどちらも猿田彦が行った。

 

4 参考

 石 山

 旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。
※ 私見
 今から十数万年前(洪積世)とあるが、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。けっして十数万年前(洪積世)ではない。
 そのほかは正しい。

 

 長瀬神社

 1736-1740まで天神川はなかったのだから、由緒は元文年間(1736-1740)から明治維新(1868年)までの間に作られている。「・・・勧請して、」までは維新の際、神社庁が付け加えたと思われる。

 すぐそばの長瀬高浜遺跡から弥生前期の住居跡も発掘されているのだから、長瀬郷は1499年よりずっと以前から開郷していた。郷土史家によると、素戔嗚も江戸時代から祭神であった、とする。

 由良郷の高江神社でさえ周囲に弥生時代後期の住居跡が多く見つかっていて、崇神天皇(在位188年~220年)の創建が想定されるのに、長瀬郷が由良郷より古くないわけがない。維新で神社庁による改ざんが見て取れる。祭神(天太玉・天鈿女)は、崇神天皇の創建から引き継いでいる。


 出雲大社

 長瀬高浜遺跡 径2.5mの巨大4本柱(出雲大社のモデル)。通説が出雲大社のモデルとする稲吉角田遺跡の土器絵画の4本柱建物はこの建物を描いたものである。

 大宮神社

 北栄町上種の大宮神社の周辺から弥生時代後期の住居跡60棟分が発掘された。大宮神社はニニギが降臨した地として崇神天皇(在位188年~220年)が建立した。


第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった

2019-02-19 04:46:12 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 13代武内宿禰大臣(大王)の皇居は鳥取県北栄町原の元野神社である。
 日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、「冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、『葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます』といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった」とある。
 蘇我馬子大王が「葛城県は『元』、私の本貫」と言ったのは武内宿禰大王の皇居が葛城県にあったからである。武内宿禰大王は波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古など有力豪族の祖を生んだ。蘇我馬子大王の始祖は三男王子の蘇賀石河宿禰であった。
 比定地としては他に海竜王神社(周辺から弥生後期、古墳前期、古墳中期の遺跡が見つかっている)があるが、「元」の神社が一番崇められているので「元」の神社に武内宿禰大王の皇居があったと思われる。祭神は今までの例により、変更されている。
  元野神社
 波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古はここで育った。
 すぐ下には原集落がある。
 元野神社(昭和9年鳥取県神社誌より )
 鎮座地 東伯郡大誠村大字原字東屋敷
 祭神 素戔嗚尊
 由緒 創立年代不詳。往古より荒神社と称す。当地中世以降当大字の中央なる平野山がその頂上平坦にして且つ高燥なるにより別にこの地に素神を祭りしが地の利を得たるにより、終に平野社を部落の氏神として崇敬するに至りたるも、この地は元より由緒ある旧蹟なるを以て、里人は元宮荒神と称し今に尊崇絶ゆることなし。然るに明治12年神社明細帳提出の際、神社登録出願脱漏せるを遺憾とし、大正11年6月20日附けを以て神社明細帳に編入方出願し大正11年11月許可せらる。

2 私見
(1) 最初の神社明細帳は明治政府に認められなかった、ということである。祭神も由緒も変えて再提出したものと思われる。
 原集落も葦原中津国を構成する集落の一つであり、素戔嗚は伊邪那岐命に根国を治めよといわれて葦原中津国で泣いたが、それだけで「尊崇絶ゆることのない地」とはならない。伊邪那岐命が禊をした原はこの原集落と思われる。
 葦原中津国を構成する集落である灘手村谷の朝日神社(祭神 素戔嗚尊 由緒 古来牛頭天王と称して・・・。)を素戔嗚が泣いた地であると比定する。伊邪那岐は素戔嗚にこの国に住んではならない、といった。素戔嗚は朝日神社で泣いて、その後伊邪那岐の言葉を守り葦原中津国に入ることはなかった(根国での冒険参照)。元野神社の祭神は書き換えられている。曲の岡神社の祭神も綏靖天皇であったのを素戔嗚に書き換えている。元野神社の地は元宮(元皇居があった)といわれ由緒ある旧蹟であった。
(2) 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、仁徳天皇は平群木菟宿禰であった。
 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(王)であった(生年月日が同じであるとするため)。
 14代仁徳天皇は武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。
 4男を16代にもってくるから、13代が300年も生きたという矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は14代であった。
 応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡って美女二人を献上されている(382年)。高句麗・百済は六韜に基づいて権力者に美女を献上していた。葛城長江襲津彦は権力者であり、天皇であった。葛城長江襲津彦は応神天皇であった。
(3) 蘇我一族の祖である蘇賀石河宿禰は武内宿禰大王の3男王子として生まれた。

 葛城県は「元」蘇我馬子大王の本貫であった。北栄町原集落も葛城県(葛城山のある県)であった。葛城山(蜘ヶ家山)の麓の原集落の「元」の神社は13代武内宿禰大王の皇居があった。平群都久宿禰(14代仁徳天皇)や葛城長江曾都毘古(15代応神天皇)は武内宿禰大王の王子として原集落で育った。原集落から船で対岸の由良にも行っていた。由良の門の歌がでてくるのは仁徳天皇(古事記伝)と応神天皇(日本書紀)だけであり、二天皇だけが由良によく行っていた。それは船で行ける由良の対岸にある北栄町原集落で育ったからである。これほど一致する比定地はほかにない。

 このころ葦原中津の水深が浅くなったので、二天皇とも難波津(東郷池)に皇居を置いた。


 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた

2019-02-18 08:16:23 | 大国主と出雲族

 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた。

1 灘手神社由緒には「大正5年11月灘手村大字寺谷字西前村社矢野宮神社祭神天稚比古を合併し灘手神社と改称す」とある。鳥取県神社誌のなかで天稚比古を祀る神社は湯梨浜町宮内の倭文神社と倉吉市福庭の波波岐神社と倉吉市寺谷の矢野宮神社である。
 倉吉市福庭の波波岐神社の祭神は国を譲った神を羅列して祀っているだけでそこに住んでいたわけではない。湯梨浜町宮内の倭文神社の祭神は孝霊天皇の皇居を隠すために波波岐神社の祭神を複写しただけである。天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいたと思われる。

 倉吉市寺谷の矢野宮神社。
 
2 大国主と阿遅鋤高日子根
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」としていた。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説であった。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味していた。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山である。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 最近では大神岳は誤写であり、大山は火神岳であったとする。「岳」は奈良時代まで「根」であり尾根を意味する。火神岳は大山ではなく尾根状の低い山を意味することになりますます出鱈目になった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
 また、日本地理志料は「茶臼山の北にある国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。
 天稚比古は倉吉市の寺谷にいたので倉吉市「鋤」で生まれた高姫の兄の阿遅鋤高日子根とは懇意にしていた。
 阿遅鋤高日子根の書き方は色々あるが、神名の「スキ」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神であり、「阿遅鋤高日子根」が本当と思われる。阿遅鋤高日子根は大国主命と宗像三女神の多紀理姫との間の子であり、妹に高姫(下照姫)がいる。阿遅鋤高日子根神は倉吉市「鋤」集落で生まれた。のちに別雷神となる。
 

 倉吉市灘手地区「鋤」に行ってきました。ここは、葦原中津国を形成する集落の一つです。

3 饒速日の降臨 

 

 天稚比古は饒速日の降臨コース上にいた。天稚比古が死んだのは、ニニギの降臨ではなく饒速日の降臨のときであった。
 天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社の地に高姫(下照姫)と一緒に住んでいた。天稚比古が返り矢で亡くなったのは矢野宮神社と思われる。国譲り後、高姫(下照姫)は湯梨浜町宮内ではなく、倉吉市志津の倭文神社に移った。
 天穂日の3年と天稚比古の8年で11年の間二人とも帰ってこなかった。天穂日が遣わされてから11年後、天照大御神一行(建御雷命・天照大御神・月読命・伊斯許理度売命・天手力男神・天石門別神)は神田神社の地から西の方見郷一帯に降臨した。饒速日一行(饒速日・天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金神)は神田神社から倉吉市清熊稲荷神社の峰に降り、倉吉市寺谷の矢野宮神社に寝所のあった天稚比古に雉の鳴女を遣した。
 天稚比古が死んでから饒速日は土下山に住んだが、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命は茶臼山の松樹庵を通り北条砂丘を東に行き長瀬高浜(タギシ)に至った。天児屋根・天太玉・天鈿女は長瀬神社の祭神になっている。玉祖命は長瀬高浜を終の棲家とし死ぬまでここで玉を作っていた(長瀬高浜遺跡より)。大国主も出雲大社のモデルの高い建物を建てる打ち合わせをするため松樹庵から長瀬高浜(タギシ)に行った。
 饒速日が亡くなりニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は関金町の矢送神社に戻った。
 思金神は清熊稲荷神社の峰から長和田に、天鈿女は長瀬神社から泊村石脇字堀の石脇神社に移った。13代武内宿禰天皇の時代(在位280年~320年頃)、天孫降臨から約500年後、天鈿女の子孫は鳥取市の宮長にいた(宮長神社由緒より)。

4 参考
 阿遅鋤高日子根について
 古事記・天稚比古の段に「葦原中津国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命が戻って来ないので、次に天稚比古が遣わされた。しかし、天稚比古は大国主の娘下照姫と結婚し、葦原中国を得ようと企んで八年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女が、不吉な鳥だから射殺すようにと天稚比古に進め、彼は高御産巣日から与えられた弓矢で雉を射抜いた。その矢は高天原まで飛んで行った。その為、高御産巣日は『天稚比古に邪心があるならばこの矢に当たるように』と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていた天稚比古の胸に刺さり、彼は死んでしまった。天稚比古の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天稚比古の父の天津国玉は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て葬儀をした。下照姫の兄の阿遅鋤高日子根も弔いに訪れたが、彼が天稚比古に大変よく似ていたため、天稚比古の父と妻が『天稚比古は生きていた』と言って抱きついた。すると阿遅鋤高日子根は『穢らわしい死人と見間違えるな』と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった」とある。

長瀬高浜遺跡に近い神社である。

長瀬高浜遺跡の出雲大社のモデル。稲吉角田遺跡の土器絵画はこの建物。

裔胤とは子孫のことである。全国の神社の建立は10代の崇神天皇(在位188年~220年頃)が始めた。


神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた

2018-10-03 09:34:44 | 火々出見と神武天皇4兄弟
 神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた。
1 私見
(1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思われる。倉吉市の大平山(日下村)でナガスネヒコと戦いイツセは傷つき、木国(鳥取県智頭町)で亡くなった。イワレヒコは木国(鳥取県智頭町)から山陽側(岡山県・広島県)に出た。
(2)岡山県・広島県に神武天皇の伝承が多い。大阪府茨木市(摂津国)の東奈良遺跡における銅鐸製作を紀元前1世紀に線刻土器に変えさせているので摂津国(大阪府茨木市の東奈良遺跡)までは行ったはずである。しかし、1世紀に銅鐸製作を線刻土器に変えた奈良の唐古・鍵遺跡を平定したのは2代天皇以降ではないかと思われる。イワレヒコは奈良や和歌山県の熊野までは行っていない。宮崎県民・奈良県民・和歌山県民は古事記・日本書紀で創られた「神武天皇」という幻想を見ていた。
 記紀にある神武東征で宮崎県の日向から和歌山県の熊野まで行くルートに矛盾が3つある。その1は、都であったとする宮崎県の日向からスタートするのはおかしいこと。2は、もし紀伊山地を縦断できたとしても疲労困ぱいで八十猛の軍に勝てるわけがないこと。3は、古来この地域に「熊野」と名のつく郡町村字が存在したことがないこと。以上のことから、神社・石碑・地名・伝承はそろっているが、これは不比等の時代から京都に遷都してからも藤原氏によってどこも疑われないように潤色したものであり、そろいすぎていてかえって不自然なのである。広島県・岡山県には神武天皇の自然な民間伝承が多いが、宮崎県・奈良県・和歌山県の民間伝承はわざとらしく思われる。
 イワレヒコは退却した後、しばらく山陽で過ごした。倉吉市の上里神社の由緒では「神倭天皇(鳥取県中部の)日向より東夷平定に(九州に発たれ平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進めたもう。・・・」とあり奈良・熊野は出てこない(カッコは藤原氏の神社庁によって削除された)。
 国史にある宮崎県から奈良県に神武天皇が都を遷したとする神武東征はすべて藤原氏による改ざん・創作である。学者はみな改ざん・創作された国史に基づいて東征ルートなどを机上で考えていた。神武天皇が実在しなかった場所(宮崎県・奈良県・和歌山県)に幻の神武天皇を創り上げていたので、神武天皇はいなかったという説(日本史の教科書)が出てくるのである。神武天皇は宮崎県・奈良県・和歌山県にはいなかったが、鳥取県・広島県・岡山県には実在していた。
(3)日本書紀には「名草邑の女賊を誅し、佐野を越えて、熊野の神邑に至り天磐盾に登った」とある。
 名草戸畔は津山市二宮の宇那提森で誅された蛇と思われる。津山には娘が蛇になり宇那提森に住んだという説話がある。蛇は生贄を要求した。津山市の名草戸畔を蛇に変えたのは藤原氏と思われる。
 津山市二宮の美和山古墳群・胴塚(一号墳)。ほかに、蛇塚(二号墳)、耳塚(三号墳)がある。
 イワレヒコは名草戸畔を胴、頭、足に切断して埋めたが、猿を退治して中山神社にいた崇神天皇(在位188年~220年)は古墳時代前期に美和山古墳群に手厚く埋葬しなおしたと思われる。
 藤原氏は津山の名草戸畔の伝承を和歌山にもっていって、3神社に祀り、名草姓の子孫まで創ったので、津山の本物は蛇にして隠さなければならなかった。名草戸畔は出雲の諸神の姻戚であり、龍蛇神を祀っていたので蛇とした。蛇は足がないから、耳塚とした。
 高野神社の主祭神は父のあだ名であり、創建時は神倭磐余彦であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
 佐野は総社市中心市街地と思われる。佐野山の地名が残っている。
 古事記にある神武天皇が着いた「熊野の村」とは広島県福山市であった。
日本書紀の「熊野の」は藤原氏の加筆である。本当の「神邑」は福山市神村町であった。「天磐盾」は福山市の天津磐境であった。
 福山市の天津磐境。通説は「天磐盾」を新宮市の神倉神社とする。原古事記に書いてあった「天磐盾」は「天」と「磐」が同じ天津磐境と思われる。神武天皇は福山市の天津磐境に登った。
 イワレヒコは倭国(鳥取県中部)からいったん撤退して広島県福山市を本拠地にしていた。
(4)神武天皇の伝承は以下の地域に残る。
 1.福山市柳津周辺 
  潮崎神社:御蔭山:磐田山:貴船神社:口の巖:神王屋敷:王人の巖:物見御座所:辺防地:城の坊:天津磐境:祭壇巖:鏡山:勝負岩:勝負原:王太子社:森御前:鎮神社
 径3kmの範囲内にこれだけの伝承地が残っている。神倭磐余彦は倭国から撤退後、ここを本拠地にして各地にいた略奪集団(出雲神族=ナガスネヒコ一族、鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定し、倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
 2.福山市浦崎
  高島:王太子神社:嶽神社
 3.福山市内浦町田島 
  皇森神社:内浦:磯間浦・口無泊:幸崎:俎の瀬:六合:箱崎:小用地:大越:大浦(王浦)・天迫:天皇神社・天皇の浜・天皇畑・天皇の洲:御手洗川:矢の島
 ※ 私見 田島の伝承は柳津周辺の伝承とは質が違う。田島の伝承は笠岡市高島の伝承と同じく神武東征神話の一環として藤原氏が創作したと思われる。島々を船で中継していったと思わせるためのテーマパークと思われる。
 4.福山市田尻町
  高嶋:竹ヶ端:高濱:王ヶ峰:宮原:蓑島大明
 5.尾道市高須
  高須:大元山:大元神社:木之本神社:加茂神社:神原:千畳屋敷・風呂井戸:穴倉屋敷・大将軍屋敷:弓細工
 6.三次市畠敷町 熊野神社  
 7.庄原市西条町高
  今宮神社伝承:神武天皇広島に御滞在中、物資を出雲(伯耆国淀江)方面より御取り寄せ遊ばさる。
 ※ 私見 出雲とあるが敵対していた出雲であるはずはなく(神武天皇の子孫の倭建命は出雲建を殺している)これも出雲を聖地にしようとする藤原氏による改ざんである。
 8.庄原市高野町南
  八幡神社:鬼城山
 9.   庄原市本村の葦嶽山
※ 私見
 イワレヒコは尾道も含めて福山市を軍事拠点にしていた。この時、西は宮島、東は摂津国、南はしまなみ海道を通って伊予国を平定している。北は庄原市高野町や西条町高に伝承地があり、庄原市本村の葦嶽山でも祭祀をしている。

 古代史の復元では「使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く」とする。「古代史の復元」の筆者は出雲国という先入観があるようである。イワレヒコの使者は戸宇から八幡越えで日南町に入り日野川を下って淀江の津に至った。
 イワレヒコは福山市に滞在中、庄原市を越えて新羅から鉄製の武器の到着した米子市淀江の津との往復をしていたと思われる。
 一般には「武器調達と大和の様子見のために長期滞在をした」と言われている。倭を大和と書かせているが、大和は奈良だから、奈良の様子見のために出雲や鳥取県に行くはずはない。伝承でいう「大和」とは「倭」のことであり鳥取県中部であった。
 備後国北部から安芸国にかけても伝承が多いが、四兄弟が九州に行くときと、イツセとイワレヒコが九州から倭国に帰るときの2回通っているから伝承が多いのだと思われる。
 イワレヒコは倭国からいったん退却して福山市を本拠地として現地の人々の心をつかみ、軍備も蓄えていった。賊(略奪集団)の退治もしていたので土地の人々の心をつかみ、実戦経験も積んでいた。
※ 略奪集団(出雲神族=準王一族)の退治は以下のようである。
  庄原市高野町南の八幡神社 埴土丸といふ鬼神と数多の賊
  広島市安芸区瀬野の生石子神社 瀬野川の川上の賊
  呉市の八咫神社 いとも怪しき夷等
  岡山市児島宮浦の懸幡神社 奥津に荒ぶる神
(5)イワレヒコはしばらく福山市を本拠地として賊(ナガスネヒコの一族)を退治し周辺の人々の心をつかんだが、その後内つ国(鳥取県中部)に行くため、海を渡って着いた「荒坂の津」は、当時近くまで海であった岡山市の龍ノ口山の麓と思われる。

 手前は蒜山高原に水元を発する旭川。その向こうは龍之口山。
 中ほどのグリーンシャワーの森から左上の龍之口八幡宮までの坂を荒坂と言ったはずである。出雲神族は荒神であり、龍蛇神を祀っていた。龍之口八幡宮にいたのは出雲神族と思われる。「戸畔」というのは女酋で出雲の諸神の姻威だといわれている。龍之口八幡宮にいたのは丹敷戸畔と思われる。神武天皇は高島にいたと思われる。
 高倉下が剣を天皇に献上したのは岡山県赤磐市の石上布都魂神社の地と思われる。イワレヒコは岡山県の旭川を北上して蒜山高原(高天原)にたどり着いた。イワレヒコは蒜山高原(高天原)の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原(高天原)を宿営地にしていたと思われる。祖父のニニギは蒜山高原(高天原)の加茂神社と長田神社に祀られている。
(6)イワレヒコは内つ国(鳥取県中部)に赴くため、饒速日と同じ蒜山高原(高天原)の鏡ヶ成に立った。

 ウマシマジのいた江尾とイワレヒコが立った鏡ヶ成はどちらも鳥取県江府町に属する。江尾と鏡ヶ成は昔から関係のあった土地と思われる。蒜山(高天原)から大立(王楯)に下りるには鏡ヶ成からスタートするしかない。
 饒速日には猿田彦がついて案内したが、イワレヒコにはヤタガラス(鴨建津之身)がついて案内した。鴨建津之身は小鴨川と県道45号線に近い関金の鴨ヶ丘に住んでいたと思われる。


 道臣は、別ルートから鴨ヶ丘にいた鴨建津之身を連れてきて案内させたと思われる。
 山守鴨ヶ丘地蔵堂。この奥に丘陵地があり、鏡ヶ成も見える。
 イワレヒコは祖父ニニギ(楯縫神社の祭神)のいた宇陀(倉吉市高城)に下りて行った。「道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に到着した」(古事記)。穿邑は倉吉市上大立集落と思われる。
 「大立」は「王楯」と思われるのでしばらくイワレヒコがいたと思われる。イワレヒコは祖父ニニギと猿田彦がしばらくいた宇陀(倉吉市高城)に下りた。
 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。山を穿って道を造ったから穿邑という。琴浦町三本杉から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線は神武天皇が造った。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが農道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線を造った。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。

 終点である琴浦町三本杉の隣の別宮も神武天皇が開いた。別宮から下って伊勢(すでに天照大御神が降臨していた)に至り、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。
 倉吉市高城(楯縫邑)も琴浦町八橋(笠縫邑)も即位後、神武天皇が開いた。
 その後、北谷地区(吉野)→三朝の片柴(忍坂邑)を平定して兄磯城を挟み撃ちにした。太陽を背にして南から平定していった。
 忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、素戔嗚の剣を持っていたイワレヒコが三朝町山田で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからと思われる。倉吉市高城(宇陀)から三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と三朝町山田(八岐大蛇伝説の舞台)を通らなければならない。

(7)「宇陀(倉吉市高城)で兄ウカシと弟ウカシが頑張っていた。兄ウカシは檄を飛ばして軍隊を集めたが、いっこうに味方につく者がなかった。」(古事記)。宇陀(倉吉市高城)の住民はニニギの人柄を知っているからその孫イワレヒコを殺そうとするものは誰もいなかった。兄ウカシは殺されたが弟ウカシはイワレヒコに従った。
 「天皇は宇陀の穿邑から巡行された。天皇は宇陀の高倉山(兄たちと住んでいた高見神社のある四王寺山)で国見をした。国見ヶ丘(蜘ヶ家山)には八十猛がいた。」
 「男坂女坂(黄泉平坂の蜘ヶ家山にさしかかる急な坂と蜘ヶ家山までのなだらかな坂)には男軍と女軍がいた」(日本書紀)
 「この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。」(古事記)。忍坂邑(三朝町片柴)では土蜘蛛に酒を飲ませて殺害した。
 イワレヒコは石上布都魂神社の地で高倉下に献上された素戔嗚の剣を持っており、また三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と八岐大蛇伝説のあった三朝町山田を通るので、素戔嗚の八岐大蛇伝説をヒントにして、忍坂邑で、はたから見れば卑怯な殺害をしたと思われる。

(8)宇田川は湯梨浜町の羽衣石川と思われ、羽衣石川に沿って下る坂が墨坂と思われる。
 イワレヒコは忍坂(湯梨浜町の波関峠の坂)から下りて長和田集落からさかのぼり、男軍は三朝町山田から墨坂(湯梨浜町羽衣石集落の坂)に入り、下りて湯梨浜町羽衣石集落にいた兄磯城を挟み撃ちにした。この時、男軍も女軍もイワレヒコの皇軍についていた。
 羽衣石川。右上は荒神社社叢。ここが宇田川と墨坂と思われる。
 炭焼きをしてもおかしくない土地柄。
(9)八十タケルがいた国見丘は北栄町の蜘ヶ家山と思われる。蜘ヶ家山の頂上に上がれば見晴らしが良く、古代の国見がどういうものだったかが分かる。
 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」(日本書紀)のだから葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。
(10)イワレヒコの使者は米子市淀江町の津で新羅からの鉄製の武器を受け取っていた。鳥取県江府町江尾にいたウマシマジはイワレヒコの山陽(吉備国と安芸国)での活躍を福山市と米子市淀江町との間を何度も往復する父方のイワレヒコの使者から聞いていたはずである。
 
江尾神社より街並みを望む
 ウマシマジは母方のナガスネヒコ一族が掠奪集団であり、人々はイワレヒコに味方をしていることを家の前を通る使者から聞き、ナガスネヒコを殺害し、宇陀(倉吉市高城地区)にいたイワレヒコを追って帰順したと思われる。
(11)弟ウカシは猛田(三朝町竹田)の県主を命ぜられたが、その子孫は出来が悪くてもと居た宇陀(倉吉市高城)に帰らされ、水汲みをさせられていたと思われる。反面、弟磯城は磯城の県主として出来が良く、雄略天皇の時代には鰹木を高く掲げた家を建てるまでになっていた。

2 (参考) 古事記・日本書紀におけるイツセの死からイワレヒコの勝利まで
(1) 古事記
兄を失ったイワレヒコ命は悲しむひまもなく、その土地から迂回をつづけ、やがて熊野(福山市)の村へと着いた。
イワレヒコは寝込んでしまった。・・・(ここが長い)・・・。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を献上した。
たかぎの大神が言った。「この土地から深入りしてはならない。この奥には荒々しくすさまじい神々が大勢いる。天からヤタガラスを降ろしてやろうヤタガラスが道案内をするので従っていくがよい。」
やがて吉野川(岡山県の旭川)の河上に達した。
この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に達した。
宇陀での話。
この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。
その後ナガスネヒコに対して復讐の一戦を望むことになった。トミビコ(ナガスネヒコ)を討ち果たした。
兄磯城・弟磯城を攻めた。
伊那佐山の歌。
饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上。
(2) 日本書紀
イツセの死。
名草邑→神邑→天磐盾→海を渡る→荒坂の津。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を天皇に献上した。
皇軍は内つ国(鳥取県中部)に赴こうとした。
山の中で道に迷っていた。
天照大御神が「ヤタガラスを遣わすから、これを案内にせよ。」と言った。
日臣は大久米を率いて鳥の導きのまま追いかけた。日臣は道臣となる。
宇陀の穿邑についた。
宇陀での話。
天皇は宇陀の穿邑から巡行し、吉野(倉吉市北谷地域)についた。
天皇は宇陀の高倉山(倉吉市高城山)で国見をした。
国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)には八十タケルがいた。
兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。
香久山の土を下して占った。
八十タケルを国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)に撃った。
忍坂の室(三朝町片柴)での話
兄磯城・弟磯城の話
忍坂の道から行く。直ちに墨坂を目指し、宇田川の水をとって敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間に不意をつけば、きっと敗れるでしょう。
鵜飼いの歌。
男軍が墨坂を越え挟み撃ちにして兄磯城を破った。
ナガスネヒコと金鵄
饒速日(ウマシマジ)はナガスネヒコを殺害した。饒速日(ウマシマジ)は部下達を率いて帰順した。
饒速日(ウマシマジ)は物部氏の先祖である。
高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城とした。