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History, Strategy, Ideology, and Nations

ハンガリー動乱と反共宣伝

2010年08月10日 | COLD WAR HISTORY
 1956年に起きたハンガリー動乱の原因については、
 米国の民間ラジオ放送「自由欧州放送(Radio Free Europe)」による反共宣伝の影響を指摘する声が多い。
 1950年、ドイツ・ミュンヘンに開局された後、
 RFEは、CIAの支援を秘かに受けつつ、共産圏向けのラジオ放送を発信し続けていたが、
 その事実は、1971年に米上院議会で暴露され、1973年、CIAの支援を打ち切る決定が下された。
 これを受けて、文化論的アプローチを好む研究者は、RFEへのCIAの関与を必要以上に強調し、
 RFEがあたかも過激な反共宣伝を繰り返してきたかのように決めつけるとともに、
 ハンガリー動乱の際も、ハンガリー市民の蜂起を焚き付けていたと主張する傾向が強い。
 しかし、こうした論者の多くは、実際に流されていたラジオ放送の内容をほとんど吟味しておらず、
 その結果、印象論的な議論に終始することが多かったのである。

 もちろん、改めて指摘するまでもなく、米ソ冷戦時代、米国は反共主義の立場を採っていた。
 政府のみならず、マッカーシズムの影響が色濃く残った1950年代において、
 国民世論もまた反共主義のムードを強く引きずっていたのである。
 それゆえに、米国の宣伝内容が、程度の差こそあれ、反共主義的なニュアンスを帯びるのは当然であろう。
 当時、国務省が作成した宣伝方針の文書を見てみると、
 確かに共産主義の矛盾や失敗を強調し、
 共産圏に住む市民の間に共産主義への失望を高めるように仕向けるプログラムが組まれていたし、
 その中で、ラジオ放送は有力な手段として位置づけられていた。
 
 RFEがハンガリーに向けて放送を開始したのは、1951年10月のことである。
 ハンガリー向けのラジオ放送を担当していた部局は、
 のちに「自由ハンガリーの声(Voice of Free Hungary)」と呼ばれるようになり、
 共産圏市民の間に体制不信を植え付ける目的から、共産体制の真実を伝える放送が行なわれた。
 だが、その内容は、瑣末な事実を誇大に宣伝して、反体制運動を推進させるといったものではなく、
 現実に起きた出来事をニュースとして紹介し、
 ハンガリー市民の間に政治問題が話題に上ることを意図したものであった。

 この点に関しては、実際にRFEのハンガリー語放送を確認した論文が発表されており、
 これまであまり言及されることが少なかったRFEとハンガリー市民の反応について検討されている。

 Mark Pittaway
 "The Education of Dissent: The Reception of the Voice of Free Hungary, 1951-1956"
 Cold War History, Vol. 4, No. 1 (2003), pp. 97-116.

 それによると、ハンガリー世論おける大きなターニングポイントになった出来事として、
 他の共産圏メディアに先んじて、RFEがスターリン死去を伝えたことが挙げられている。
 また、その直後、東ドイツで民衆蜂起が起きたことも伝えており、
 RFEのスタンスは、あくまでもニュース中心の放送形式から外れるものではなかった。
 その一方で、賃金格差や労働条件の悪化など、労働者向けの宣伝放送も随時、発信されていたが、
 これもまた、特段、反体制運動を促すといったものではなく、
 客観的な事実を伝えることに終始するものであった。
 つまり、少なくとも確認できる範囲において、
 米国の反共宣伝は、大衆を革命に向かわせるようなアジテーションとは違っていたのであり、
 その点で、RFEの放送内容は、比較的冷静なトーンで行なわれていたことが分かるのである。

 それでは一体、何がハンガリー市民を蜂起に向かわせたのであろうか。
 その要因については、様々である。
 だが、紛れもなく言えることは、戦後からハンガリー動乱に至る過程において、
 確かに一般市民は生活環境の改善が進まないことに不満を覚えていたし、
 その状況を放置したままでいる共産体制にも不信感を強めていた。
 スターリンの死去は、国内統制の緩みを生むことになったが、
 1956年のフルシチョフ演説は、さらに国内の政治的分裂と統制の緩みを拡大させることになり、
 大衆蜂起へとつながっていったのである。
 その中で、RFEは、ハンガリー市民の不満や不信を「発見」させる役割を担っていたというべきであろう。
 したがって、従来、指摘されていたように、
 RFEが「焚き付けていた」という表現は、やや大袈裟なものであって、
 もう少し控え目なニュアンスを用いるのが歴史的評価としては正しいように感じられるのである。