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History, Strategy, Ideology, and Nations

新訳版『一九八四年』

2010年09月07日 | COLD WAR HISTORY
 「冷戦」という言葉を最初に広めた人物として、
 米国では、ジャーナリストのウォルター・リップマンが挙げられることが多いけれども、
 英国では、作家のジョージ・オーウェルを挙げる人が多い。
 その根拠として、1945年10月、オーウェルが『Tribune』紙に寄稿した記事の中で、
 「冷戦」という言葉を用いていたことが指摘されるが、
 国際政治学者の永井陽之助氏によると、
 もともとは、1920年代にフランス語から生まれたものであり、
 謀略や破壊工作、心理戦といった手段を通じて争われる闘争を一般にそう呼んでいたとされている。
 したがって、今でこそ「冷戦」と言えば、第二次大戦後における米ソ間の対立を指すが、
 当時の感覚としては、戦争には至っていないけれども平和ではない状況について、
 「冷戦」と表現することは、それほど奇抜なものではなかったのであろう。
 
 ただ、米ソ冷戦に関しては、1920年代の「冷戦」と大きく異なる点として、
 核兵器の登場とイデオロギー対立の側面があった。
 特に後者は、政治体制の正統性をめぐり、大衆的支持を獲得することが不可欠であったことから、
 様々な宣伝工作やプロパガンダが行なわれた。
 その中で、オーウェルが1949年に発表した『一九八四年』という小説は、
 共産主義体制の実態を比喩的に表現したものとして、反共パンフレットに広く利用されたのである。
 
 ところが、そうした事情を反映して、
 『一九八四年』は、数多くの文献で引用や言及がなされているにもかかわらず、
 実際にそれを読んだ人というのは案外、少ないようで、
 英国で行なわれたアンケート調査によると、
 本当は読んでいないのに読んだふりをしている本、
 第一位となったのが『一九八四年』であったと言われている。
 おそらく日本でも、書名は知っているが、手にとって読んだことはないという人は多いであろう。

 早川書房と言えば、世間的にはスパイ小説で有名な出版社だが、
 優れた洋書を翻訳出版することにも非常に力を入れている。
 『一九八四年』に関しても、昨年、新訳版として文庫化されており、
 以前に比べて随分、手に入れやすくなった。
 
 ジョージ・オーウェル/高橋和久訳
 『一九八四年[新訳版]』
 早川epi文庫、2009年

 改めて読み返してみると、人間性の尊厳こそ文明の活力と信じていたにもかかわらず、
 繰り返される拷問によって、次第に「正気」へと戻されていき、
 最後には「ビッグ・ブラザー」が率いる党への愛情を覚えるようになるプロセスは、
 全体主義体制の恐ろしさを垣間見るようである。
 また、それは現実に、程度の差こそあれ、共産体制下では平然と行なわれてきたし、
 仮に人間性との矛盾を感じたとしても、平然と行なわなければならなかった。
 つまり、そうした矛盾への麻痺こそ、本書で定義される「二重思考」の恐怖にほかならないのである。

 「われわれが人生をすべてのレベルでコントロールしているのだ」という党員に対して、
 「遅かれ早かれ、かれらはあなた方の真の姿を知って、ずたずたに引き裂いてしまうでしょう」
 といった主人公の言葉は、ソ連の歴史を顧みれば、正しかったということになるだろう。
 だが、それには半世紀以上の時間が必要であった。
 その間、多くの人は、主人公が受けたような経験を受忍しなければならなかった。
 本書はあくまでもフィクションにすぎないが、
 全体主義体制下での生活がどういった性質のものかをよく表している。
 作家・村上春樹氏の『1Q84』がベストセラーとなっている昨今、
 そのアイディアの原点となった作品に触れてみるのも悪くはないだろう。