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History, Strategy, Ideology, and Nations

「誠心」は届いたのか?

2010年04月10日 | MILITARY
 情報提供者や工作員の徴用において、
 何が最も大きな誘因となるかは、人によって様々である。
 ある人にとっては金銭かもしれないし、別のある人にとっては社会的不満かもしれない。
 したがって、実際にターゲットと接触を図りながら、
 その性向を見極めていくことが必要となってくるのだが、
 欧米では、そうした誘因を大きく「MICE」の頭文字によって表現することが多い。
 すなわち、Mは金銭、Iはイデオロギー、Cは名誉欲、Eはエゴである。
 ターゲットを獲得するためには、相手の性向に応じて、この4つの誘因をうまく組み合わせ、
 次第に情報協力が得られるように仕向けていくことになる。
 
 しかし、「MICE」に根差したターゲットの徴用が万国共通というわけでは決してない。
 たとえば、第二次大戦時、日本では、心理的駆け引きを想定した徴用工作ではなく、
 むしろ、人間同士の感情的結びつきを重視した工作活動が行なわれていた。
 このことは、中国戦線で「東洋のローレンス」と呼ばれ、
 戦後、A級戦犯として刑死した土肥原賢二陸軍中将の伝記において紹介されている。
 
 土肥原賢二刊行会編
 『秘録 土肥原賢二 日中友好の捨石』
 芙蓉書房、1972年

 土肥原は、奉天特務機関長の頃、中国大陸で汪兆銘政権を樹立させる工作活動に従事するなど、
 共産軍の情報収集だけでなく、親日政権の確立を目指して秘かに協力を行なっていた。
 土肥原によると、情報活動は謀略のイメージによって語られる傾向にあるが、
 心理的駆け引きによって情報活動を進めていくのではなく、
 「誠心をもって中国民衆に臨め」という大方針により、
 公明正大な措置を通じて、民衆からの信頼を獲得することが最重要と定められたのである。
 実際、土肥原兵団は、中国各地を転々としたが、
 中国民衆は、その後を追いかけるように付いていったと言われている。
 それだけ土肥原への信頼は篤かったということであり、
 そうした信頼関係が構築されているからこそ、民衆一人一人が自発的な協力者となって、
 幅広い情報収集を可能とすることが見込まれるのである。

 欧米の視点から見れば、まるでドン・キホーテのような方法論だが、
 土肥原自身が中国語に堪能であり、
 中国人とのコミュニケーションにおいて、文化的障壁が低かったことは大きなメリットであった。
 また、土肥原が温厚で寛容な性格であったことも、プラスに作用したはずである。
 その結果、「東洋のローレンス」という風評とは裏腹に、
 中国民衆から大いに好かれ、土肥原もまたそのことを喜んでいた。

 だが、「誠心」による情報活動は、ターゲットが機微を理解できる人物であることが要求される。
 もし狡猾で姑息な性格を持ったターゲットであった場合、
 その「誠心」をうまく利用して、逆に損害を与えることもあり得るからである。
 清帝国最後の皇帝・溥儀は、身の安全を日本に頼り、
 特務機関の保護を受け続けたにもかかわらず、
 東京裁判の証言台に立って、日本軍の戦争犯罪を好き放題に言い散らかした。
 すべては自己保身のためにでっち上げた虚言にすぎなかったが、
 果たして「誠心」が彼に通じたと言えるのかは疑問であろう。
 
 その一方で、今でこそあまり想像できないことかもしれないが、
 終戦直後、多くの中国人はソ連の侵攻に強く反発し、
 関東軍の撤退を惜しむ声が出ていたという記録が残っている。
 満州からの引揚げに際しても、中国人が日本人を匿い、
 ソ連軍の略奪や強姦から守ったという美談が、多くの引揚げ回想録に記されている。
 それはおそらく、土肥原が目指した「誠心」の成果だったに違いない。
 謀略に従事した特務機関のトップという立場であったとはいえ、
 その方針は、少なくとも当時の中国人には伝わっていたのである。