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History, Strategy, Ideology, and Nations

闇に包まれた辻政信

2010年11月03日 | MILITARY

 1950年、毎日新聞社から出版されてベストセラーになったのは、
 関東軍作戦参謀を務め、終戦後、僧侶に扮しながら、
 ビルマからタイ、中国へと抜けて帰国を果たした辻政信の『潜行三千里』であった。
 その後も、辻は立て続けに著作を発表したことで、広く世間一般にも名前が知られるようになり、
 1952年には、衆議院選挙で当選も果たした。
 最近、当時、発表された一連の著作が、毎日ワンズという出版社から再刊されており、
 『潜行三千里』も同じく今年初めに増補版として復刻されたのだが、
 なぜ今、辻政信を取り上げるのか、出版社の思惑がいまいちよく分からないのである。

 元来、辻政信の人物評については、賛否両論があまりにも著しい。
 陸大をトップクラスの成績で卒業し、
 恩賜の軍刀拝受というエリート軍人として「作戦の神様」と崇められたり、
 清廉潔白で高潔な人格が称賛されたりする一方、
 ノモンハン事件の失敗や華僑虐殺事件などを引き起こしていたり、
 著作や発言の中で、多くの事実誤認や都合の良い解釈ばかりを披歴していることから、
 愚劣、ホラ吹き、ペテン師と非難され、さらには傲慢で自尊心の強い性格から、
 独断専行型のマキャヴェリストというレッテルが貼られたりしている。
 率直に言って、作戦参謀として、それほど有能だったとは思えないのだが、
 晩年はインドシナ半島情勢を探るためにラオスへと赴き、
 その訪問先で消息を絶つという奇妙な人生は、
 確かに一つのドラマをはらんでいるとは言えるだろう。

 辻政信が消息を絶った理由は、今もまだ謎に包まれている。
 そもそもラオスへ向かった理由に関しても、どうもはっきりしていない。
 一説には、ケネディ大統領との会談を控えていた池田勇人首相が、
 情勢を把握するために、土地勘の強い辻政信に直接、調査業務を依頼したと言われているが、
 当時、首相秘書官を務めていた伊藤昌哉氏によると、
 「世間では池田の重大使命を帯びて出かけたように伝わっているようだが、
  むしろ辻さん自身の計画にウェイトがあったのではないだろうか」と話しており、
 どちらかといえば、辻からの働きかけがあったことを示唆している。
 
 辻政信は、戦後、反米反ソの立場を採り、第三勢力の結集を通じて、
 米ソへ対抗することに希望を見出していたようである。
 1955年5月、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催されたことは、
 辻にとって大いなる光明であり、同年8月には、訪中団の一員として周恩来とも面会している。
 以後、中国への期待感は大きくなっていく一方、
 反米の立場を一層、強め、日米安保条約改定に動く岸政権を徹底的に批判したため、
 自民党除名という憂き目を見ることになった。
 辻のラオス訪問は、この2年後に実行されたものである。
 
 この段階で、辻がどのような計画を秘めていたのかはまったく分かっていない。
 もしかしたら自民党への復党を願って、何か恩を売ろうとしていたのかもしれないし、
 ベトナム・ハノイで陸軍が隠した大量の金塊を手に入れようとしていたのかもしれない。
 あるいは、本気でインドシナ半島で情報収集活動を展開して、
 日本外交に役立ててほしいと願っていたのかもしれない。
 ただ一部では、「辻政信、五重スパイ説」というのも流れていて、
 英米ソ中台のエージェントとして危ない橋を渡りすぎた結果、
 北ベトナム支援に動いていた中共の怒りに触れて暗殺されたとも言われている。

 この事実を裏付ける証拠は一切出ていないが、
 辻がCIAと関係を持っていたことは確かであるし、
 終戦後、戦犯指名を逃れて中国大陸で潜行生活を送ることができたのも、
 中共の支援を受けていたからだという見方もできる。
 いずれにしても、この妖怪を知るには、まだまだ真実が乏し過ぎると言わざるを得ない。