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里婆日記

古希にもめげず、里山の暮らしを綴るブログです。

DIY・畑・造園・ますます爺化する婆~の暮らし

足跡録NO2(墨田公園の小学校に転校)

2015年06月14日 | 足跡録

  1957年頃、小学3年生か4年生からか(記憶”不明)

  東京の下町、隅田川の言問橋と桜橋の間、(アサヒビールのビル左方向辺り)

  桜橋、首都高速道路など何も無い当時は桜並木の公園になっていた

  公園内に隣接して在る小学校の転校生に成ったのだが、

  今で言われる、”いじめ” なのか?楽しい思い出は無い”に等しい…

  NO1は関西なまりを”茶化され(お笑い、関西弁の昨今、想像もつかない時代)

  NO2は教師の”ひいき”(当時は珍しい事では無かったよう…)

 (両親は事業所(浅草橋)に行って、呼ばれない限り小学校に来る事は無かった)

  

  父親は母や姉と私より早くから東京に来ていて、三ケ所の家を用意していた

  (戦後と関東大震災の復興に乗じて、事業を安易に初められたのか?)

  墨田公園の小学校の裏門前に小さな家だったが、私と2つ上の姉の為と言っていた

  桜並木の公園が庭の様なものだったが、毛虫だらけだった記憶だけ…

  そして忘れられないのは、震災の碑の様な物があり、夕方、お婆さんがやって来る

  ”この川で数多の人が死んだの” と 手を合わせていた

 

  この頃の私には”関東大震災”も戦後の状況も知る事はなかった


足跡録NO2(夜行列車の思い出は九チャンの歌)

2015年05月23日 | 足跡録

   1957年、10歳?東京に移住

 小学3年まで住んだ、橿原から引っ越し

 お別れが悲しいも、嬉しいも分からない

 覚えている事は、京都の旅館で親戚の人たちと

 食事をして、京都駅から、夕方汽車に乗った”

 生まれて初めて汽車に乗ったのだろうか、

 走り出した汽車の窓の外は夕日が残っていた

 ”電信柱が走ってる” 

 ”どんどん後ろの方に行ってしまう”

 窓のガラスに鼻をつけ” レンガ色の様な空を見ていた

 乗っている汽車が動いていると気付く頃には暗闇になり

 チョット、寂しい気分になったのだろうか?

 

 当時は東京に行くには夜行列車しか無かった時代、

 覚えているのは”夕日に走る電信柱だけだが…

 今も時々野辺山から”清里新大橋”から見る

 南アルプス連邦に沈むの夕陽を見に行く、雲海に出会う事もある

 赤く染まり,ゆっくりの様で、あっという間に暗くなる”

 ぼけていく景色、心の惑い、体の疲れ が 闇の中に消える”

 明日を感じる、どんな時でも、次の日がある” と 帰路に…

 

 ”九チャン”の(明日があるさ)は名曲なのネ! と…

 

 

 


足跡録NO2(今井町の幼児期に婆の性格は出来ていた)

2015年05月10日 | 足跡録

  10歳まで生まれ、暮らしていた橿原市今井町

 現在は”重要伝統的建物群保存地区”に成っている

 幼い頃の記憶はたくさん無いが、今思うと

 戦後十数年の生活とは思えない事が多々…

 20歳頃、高山に旅したとき、今井町に似ている”と思った!

 建物の表は5間ぐらいか? 奥はずーと長い、中庭を過ぎて

 左には工場にしていた建物、右には小さな二階建ての家が在り

 住み込みの人が使っていたかな?

 その先には木戸があり、隣家の敷地につながる

 中庭でかくれんぼしたり、井戸の西瓜と黄色い瓜が目に残る

 次兄と姉は八木駅近くの絵画教室(民家)に通っていた、

 幼稚園児の私は玄関(靴置場)の傍で待っていた記憶がある

 戦後のこの時代に子供に絵を習うなど、今思うと不思議だ…

 登校も6年生が先頭、幼稚園児の私はすぐ後ろ、並んで登校していた

 揃いの園児服も着ていて、私はポケットにミルクボールの菓子を入れて

 紙芝居の時間、背の高い私は一番後ろなので、こっそり食べていた

 (一人の世界、空間をつくる、婆の性格がすでにあったか!)

 

 江戸時代の建物、碁盤目のような500軒の町並みが残っている

 江戸時代から自治が行われていたと見聞する、

 今井町の暮らしの記憶を大切にして擱かなければならないかも…

 

 40年以上訪れていないが、

 生きているうちに行ってみたいと思う…

 

 


足跡録NO2(昭和35年のカローラの記憶)

2015年05月08日 | 足跡録

   "自民大移動”のゴールデンウイークも過ぎ去り、

 移住組の挨拶は”お疲れ様”にはじまり~終わる…

 やって来た義兄の”ハイブリットカローラーを運転させて貰った

 杖突き峠~高遠~光善寺、往復200キロ、

 54歳で免許取得して、PTクルーザーとジムニー・軽トラしか

 運転していない私には 何と ”疲れない車” かしら~ネ、

 若い時から運転を知っていれば、日本中、行けたかもね~

 

 昭和35年頃、父親が購入した”カローラ”を思い出した

 母・姉・私を乗せて伊豆の下田へのドライブに出た

 熱海の海が見えた頃 姉と私 ”海だー きれいー” の 歓喜の声に

 ”観るなー” の 父親の叫び声が、忘れられない…

 

 自分が運転をするまで車が好きで無かったのは

 幼い、頃の記憶が有ったの や も…

 

 

 


足跡録2(昭和の日は橿原の里の思い出)

2015年04月29日 | 足跡録

  4月29日は(昭和の日)昭和天皇の誕生日

  私は橿原市今井町で生まれ、10歳まで過ごした

  棚田の畦道を抜けて、高台になった桜並木が、

  現代では当たり前の、舗装道路に成っていた

  毎年、橿原神宮に参られる天皇様一行の車を

  小さな日の丸の旗を持ってお迎えに並ぶ、

  子供のお目当てはサクランボ? 拾い!

  今の様な”さと錦”は無い時代だろうか?

  甘すっぱく、種を飛ばしっこ”して遊んだ

 

  空爆から”計画的”に外された奈良・京都

 

  悲惨な戦後の光景など、脳裏のどこにも無く

  林や小川で、遊ぶ 子犬と子供の小さな群れ

 

  兄・姉は芦屋で生まれ、空爆後 奈良に疎開した

  父親の故郷である今井町の幼児期を過ごした記憶が

  山梨の里山を”私の終の棲家”に選んだのだろうか?

 

  橿原の里山、今も”鮮明な記憶は

  私の ”幸せ一号編” だった・・・・