1957年頃、小学3年生か4年生からか(記憶”不明)
東京の下町、隅田川の言問橋と桜橋の間、(アサヒビールのビル左方向辺り)
桜橋、首都高速道路など何も無い当時は桜並木の公園になっていた
公園内に隣接して在る小学校の転校生に成ったのだが、
今で言われる、”いじめ” なのか?楽しい思い出は無い”に等しい…
NO1は関西なまりを”茶化され(お笑い、関西弁の昨今、想像もつかない時代)
NO2は教師の”ひいき”(当時は珍しい事では無かったよう…)
(両親は事業所(浅草橋)に行って、呼ばれない限り小学校に来る事は無かった)
父親は母や姉と私より早くから東京に来ていて、三ケ所の家を用意していた
(戦後と関東大震災の復興に乗じて、事業を安易に初められたのか?)
墨田公園の小学校の裏門前に小さな家だったが、私と2つ上の姉の為と言っていた
桜並木の公園が庭の様なものだったが、毛虫だらけだった記憶だけ…
そして忘れられないのは、震災の碑の様な物があり、夕方、お婆さんがやって来る
”この川で数多の人が死んだの” と 手を合わせていた
この頃の私には”関東大震災”も戦後の状況も知る事はなかった