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里婆日記

古希にもめげず、里山の暮らしを綴るブログです。

DIY・畑・造園・ますます爺化する婆~の暮らし

足跡録NO2(亡父親の記憶を改めて置くかな~)

2015年06月28日 | 足跡録

     半世紀以上前の記憶をたどり、足跡録NO2を書き始め

  自分の事ながら… 気付かされた思いに立ち止まる”

  足跡録NO1では40歳からの田舎暮らしを書き始めた中に

  私の16歳頃に”家庭を捨てた父親、愚痴と苦労の母親” の

  呪縛から逃れても、離れても、

  心底安らいだ事は無いと思っていた…

 

  子供時代を思い出し、書いているうちに、

  父親の姿が見えてきた

  事業を始め、子供に構う事は無かったが、

  一家の大黒柱としての事はしていたのかも知れない

  昭和35年頃の時代に奈良から東京に飼い犬を連れて来る事も

  子供の為だったのだろう…

 

  中学生の頃か、”私の名の漢字が漢和辞書に無い”(現在は記載されている)

  ”こんな漢字を付けるなんて、嫌” になる” と 担任の先生に 言った事があった

  (お父さんが、それだけ、一所懸命考えて付けてくれたのよ)と 言ってくれた事が

  妙に、思い出す(中国のパンダにも使われている…???)

 

  半世紀も前の事など封じれば良いかと思っていた時も有ったが、足跡録NO2を書き始めて

  終盤の生き様に、通じる一本の線が見えてくるかも知れない…

 

  

  

  

  

  

  


足跡録NO2(奈良から愛犬ポチが貨物列車に乗ってやって来た)

2015年06月27日 | 足跡録

  1960年頃姉が中学生、私は小学5年生、

  奈良県から東京に移住して2年が過ぎた頃

  ”東京にも慣れた頃” と 父の考えで学校から離れた家に移り、

  4年位住むことになったが半世紀が過ぎて今は東京の名所に成っている

  ”スカイツリー”が在る辺りだろうか?、(まだ行っていない…)

  当時は昭和初期の名残が在り、忘れられない記憶が写真のように残る

  一番嬉しかった事は奈良に預けていた愛犬”ポチ”がやって来た”

  隙間のある木箱に入れられて、貨物列車で送られてきた…

  二日程、飲まず、食わずだったか? 長い、ふさふさの毛並みの姿がボロボロ”

  

  嬉しくて、嬉しくて! ポチと転げ回った!

  私の自転車に前足をハンドルに捕まって、後ろ足を縦にそろえて、

  あっちこっち” サイクリング! (鍵っ子の私には、楽しい日々…)

 

  幼稚園児から18歳までの私と共に過ごした、”ポチ”は 忘れられない”相棒”


足跡録NO2(昭和35年、私は”鍵子”で得た物)

2015年06月21日 | 足跡録

     1960年” 誰もが記憶にある年号かな…

  高度成長期” と 暮らしが一挙に変わって行った時代

  私は、小学校裏門から1分の家からバス通学の家に引っ越していた

  二つ年上の姉が中学生になり、稼業は忙しそうな…

  時代の先端? 私は ”鍵子” になっていた

  この時、夢中になっていた事が後々私の生き方につながる事になる

  

  何と言う物か? 線描きされたイラスト?、色を塗って遊んでいた

  ”お絵かき帖” と言っていたが、違うかな…

  クラスで持っていない子にあげる為にわら半紙に何枚も写していた

  日のあたるガラス窓に押し付けて、”一生懸命”

 

  6年生の時、桜並木の墨田公園で絵を描く、図画の授業、

  多分、A3の画用紙でサクラ絵具だったか?クレパスだったか?

  私は画用紙イッパイ”に一本の桜の木を描いた、

  桜の木の下の土を描く時に”茶色の色が無くなった” 

  隣の子に ”茶色、つかわして~”

       ”使うからダメー”

  私、土の所は土を使えば”良しヤー”

  他の色と水と砂なんか付けといたと記憶する

 

  東京都の小学生の展覧会に出品された

  勉強?よく判らない、 運動?身体が弱い、が 初めて、

  何か、クラスで認められたのかも知れない


足跡録NO2(立たされていた、小学校の記憶)

2015年06月19日 | 足跡録

     半世紀も前の教育状況等々、現在とは随分と違うのだろうか?

  私は子供を持つことが無かったので、比べ様が無い…

  ”ソロバン”(今では死後?)等 忘れ物をしては、立たされた”記憶!

  或時、廊下に一人立たされていた時、姉の担任の先生が通りかかり、

  ”どうしたの?” と 聞かれ  たぶん私は…

  ”…忘れて、廊下に立っていなさい” と 言われたの…

  姉の担任の先生は、教室に連れて行き、姉の横にちょこんと座って1時間を過ごした

  忘れられ無い記憶だが、この後からは何度か教室の後ろに立たされても、

  廊下で立たされる事は無かった(後からこの時の状況等は想像がつく大人に成ったが…)

 

  不思議な事に、叱られ、怒られて、辛い、感情の記憶は思い出さ無い” 

  関西弁なまりをチャカされても、立たされても、”疎外感”を持つ事は無かった様に記憶している

  

  現在は ”引きこもりや不登校” と 自他の理由が有るのか… 

      情報過多=感情過多? ”子供も忙しぃー”

     

  


足跡録NO2(小学校には○○🏬とおなじライオン像がお出迎え)

2015年06月15日 | 足跡録

  1923年の関東大震災では”火災被害”の教訓からか

  小学校は、道路からすぐ入口(校門が無い)鉄筋コンクリートの四角いグレー色

  印象的な記憶は、校舎入口に大きなライオンの像が有った

  (何故、ライオン像があるのか不思議でならなかった)

  今井町(橿原市)の小学校の校門入口には”二ノ宮金次郎”の像が有ったが

  今の子供は”二ノ宮金次郎”の話を知っているだろうか?(文字も合っているか?)

  (薪を背中に背負って、本を読んでいる若者の像)

  校庭には”プール”も有り、給食も、初めての事だらけで…

  ”黄色いカレーライス”  ”クリームシチュウ” ”カレーパン”

  偏食”の私には給食は良く食べた”記憶が有るが、思い出すのは

  準備された給食の教室に入る時、入口で手の検査がある

  或時、”爪が伸びている” と 先生から指摘” 傍で立たされ指示が無い!

  私は(今日は食べられ無い?家に帰ろー)

  その後先生が訪ねて来たのか?親が呼ばれたのか?…

  ランドセルは姉が持って帰ってきたが、 叱られた記憶は無い!

 

   20歳になる頃浅草橋の家に住むように成り

  少し頑張って歩くと、日本橋の○○🏬が在り、

  この入口に小学校と同じ”ライオン像”が有った

  (作者、縁の 小学校だったのかしら~)