私には忘れられない看板がある。
もう遠い昔の話。地方出身の短大生だった私は、当時、夢中になっていたジャズ喫茶への帰り道、
京都東山の小さな文房具屋の軒先に、「洋裁おしえます」と素っ気なく書かれた看板というべき小さな紙きれが風に揺れているのを見つけた。
これが縁というものなのだろう。
それまで洋裁のことなど頭の片隅にもなかったのに、なぜか急に興味がわいて、ためらうことなく店の戸を開けた。
そして、中から出てきた大柄の中年女性に洋裁を習いたいと伝えたのだ。
その女性は笑顔をつくることもなく、「来週の月曜日からどうぞ」と素っ気ない言葉を返してきた。
その淡々としたやりとりが「先生」と私の出会いだった。
それから短大を卒業し、コピーライターになりたいと小さなデザイン事務所を転々とした3年ほどの間、
私は母の懐に帰るように先生のもとに通いつめたのである。
先生は東京生まれの東京育ちで、長い京都生活にもかかわらず、言葉も気性も江戸っ子のまま。
母と同年代にしては長身で、背筋をシャンと伸ばして、辛口にピシッピシッとものを言う人だった。
「ねえ、ねぇ、ちょっと面白いと思わない?」が口癖で、ほんの少し興味があるものを見つけると、
じっとしてはいられない性分。文房具屋の奥さんも洋裁の先生という肩書も、あまり似合わない人だった。
そのうえ褒め上手で、才能などあるやらないやら分かりもしない私ををつかまえて、
「あなたは将来、きっと売れっ子のコピーライターになれるわよ」だの、
「口の中でソッと甘さの広がる砂糖菓子みたいな子だね」と、暗示にかけるように繰り返すものだから、
私も居心地の良さに自然と足が向いたのである。
エスニック風ブラウス、、ボタンを30個もつけた赤いワンピース、大きなポケット付きの茶色のワンピース、
Aラインのジャンパースカート、友人の披露宴用のお嬢さま風ワンピース、母のボウブラウス、
そして、最後には自分のためのウエディングドレスまで、今では想像もできないほどの洋服を精力的に縫いあげた。
しかも、洋裁以外でも、絵の好きな先生に連れられて、岡崎近辺の風景を写生して歩いたり、
本物のヌードモデル(オバサン)をスケッチする夜間の絵画教室に通ったりと京都・岡崎周辺を歩き回った。
また汗をかくと、古い銭湯を探索しようと、日の高いうちから洗面器片手に繰り出し、泊めてもらって夜中まで話し込んだこともあった。
母とも違う、同世代の友人やボーイフレンドとも異なった面白さや楽しさがあって、私にとっては特別の時間だった。
私はこの出会いで、ささやかな日常の何でもを楽しみながら、前向きに明るく生きるためのエッセンスを学んだのである。
それまでの私の周り女性といえば、女としての役割に縛られ、その拘束にも気づかず、周りの目や世間体を気にする人ばかりだった。
グチらず、こぼさず、良き母であろう、良き妻であろうと、しんどさを顔に出さない人ばかりだったのである。
先生はそれを否定することもなく、自然に、私の目の前から取っぱらってくれた。
「やりたいことはどんどんやらなきゃ、美しいものをたくさん観て、おいしいものはどんなことがあっても食べてみなくっちゃあ」と。
それから私が結婚し、仕事や出産で足が遠のき、2人の娘を連れて再訪したのが10数年後。
親子の対面のように涙を流す私を笑顔で迎えながら、「こんないい子たちによく育てたじゃないの」 とまた褒めてくれた。
そして、私の小さな仕事一つひとつを手に取り、「こんな仕事ができるようになってよかったね」と喜んでくれた。
旦那さんを先に看取り、高齢になっての不自由なひとり暮らしでも、
取材のたびにひょっこり立ち寄る私を「よく来たじゃないの」と、気丈な母のように迎えてくれた。
それが、「私ね、もうそろそろダメなような気がするの」と気弱な言葉が出るようになって間もなくだった。
何度電話をしても通じず、案じていた矢先、脳硬塞で倒れたという知らせを東京住まいの息子さんからいただいた。
意識は回復しても言葉が出ず、体が不自由なってしまったままの先生は、
見舞う私に喜びながらも、手真似で「忙しいのだから早く帰れ」といってきかなかった。
きっと「ねえねえ、楽しいと思わない?」
と言えなくなった自分をあまり見せたくないのだろう察した私は、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
私にとって、それが先生との最後の出会い。
訃報が届いたのは、実の母を亡くす3か月前のことだった。
先生の遺作となった句集に残されていた短歌2首。
「エッセイに先生の事書きました コピーライターの彼女の年賀」
「若きらに洋裁教える刻過ごす その日日のさま書きてありたり」
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