坂井市 前田よしひこ

訪問ありがとうございます♪
皆様に多くの幸せをお祈り致します。
日々の出来事や思い出を記録中です。

称念寺にある「新田義貞公御墓所」

2020-05-31 22:38:28 | 寺社仏閣

福井県の史跡(昭和34年9月1日指定)「新田義貞公御墓所」が称念寺にあり、

2020年5月27日(水)午後5時30分頃、お参りいたしました。

新田義貞は鎌倉時代後期(1301年)に現在の群馬県太田市で誕生してから、

南北朝時代にかけて生き抜いた(1338年:没)御家人・武将です。

鎌倉時代は2度の元寇(げんこう)襲来により、辛うじて勝利するも、

多大な戦費を費やしたため、鎌倉幕府の財政は悪化。

また、多くの御家人は軍功を上げて恩賞を得ることに戦ったが、

大きな犠牲を出しただけで、海外の敵相手では戦に勝っても得られるものが無かった為、

鎌倉時代末期には窮乏する御家人が多く、治安も悪化。

1333年、隠岐を脱出した後醍醐天皇は倒幕の綸旨(命令文章)をだし諸国に挙兵を呼びかけ、

これに足利尊氏と新田義貞が応じ、足利尊氏は京都六波羅探題を、

新田義貞は鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡。

義貞は建武の新政で重用されるも、足利尊氏がのちに天皇に反旗をひるがえしたために、

対立することになり、楠木正成と共に尊氏を迎え撃ったが湊川の戦いで敗れ、

最終的には越前に敗走、1338年に現在の福井市灯明寺辺りで討ち死にする。

遺骸は時宗の僧により長崎の道場(現在の称念寺)に運ばれ葬られたとの事である。

1333年5月に新田荘で挙兵し、一度も故郷に帰ることも無く、1338年に戦死。

南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。

「日本一の至誠の武将」と言われた悲劇のヒーロー「新田義貞公」は、

「ぶれることなく南朝に尽くした正義の人」と見なされ、

1882年(明治15年)に明治天皇より「正一位」の官位が与えられています。

江戸幕府を開いた徳川家康公は新田義貞公をご先祖としており、

徳川幕府は50年毎に称念寺で新田公の大法要を執行していたそうである。

http://shonenji.net/nitta/


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大河ドラマ「麒麟がくる」の... | トップ | 大河ドラマ「麒麟がくる」越... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

寺社仏閣」カテゴリの最新記事