屋号:上花城の2代目であった池悦は、大変に優秀な島役人であったようです。
この方は記録上の始祖になる中城の曾孫にあたります。父親の佐久田は長男でありましたが、兄弟が多く分家して本家の屋敷の前に居を構えたようです。その時の屋号は宗家の前に住んだので前宗。その後、息子の池悦の代になり屋敷をすぐ近所の別の場所に新しく移しました。金城家の上に住んだので、始めの屋号は上金城。金城は島ではカナスクと読むようで、カナスクの音が転化してハナスク=花城となり、その花城家の上に住んでいるので、上花城=ウヒハナスク・ワーナスクなどと呼ばれていたようです。いまでも古くから住まわれている方々には、上花城の屋号で話が通じます。
この移転した屋敷には、庭に築山があり兜の形をした岩を置き龍神様を祀っていたといいます。この石は現在もその場所に存在し、神高い石だと言われています。(別記事で書いています。)
家は二重石垣で囲った屋敷だったそうです。
石垣で囲った家などそう珍しくもないと思われるかもしれませんが、当家のご先祖様が居住していた内城は山間部であり、近くに石垣にできるような石は存在していないため、別の場所から運んでこなくてはなりません。石はとてもとても貴重で高価な物だったそうです。
そんな石をふんだんに使って2重石垣を作ったわけですから、当時は相当な財力があったようです。
もちろんこの当時は薩摩の支配下にありましたので、最高の島役人である与人職であったとしても、二重石垣の屋敷などは簡単に作れるわけではありません。それを薩摩が認めたということですから、役人としてしっかり仕事をこなしていたのでしょう。
この屋敷が出来た時期は明確ではありませんが、この池悦が島役人である与人になったのが1744年の46歳の時です。恐らく家を移転したのはその頃だと思われます。
それから1898(明治31)年までの154年間ほどは、子孫が代々その屋敷に住んでおりました。しかし以前の記事でも書きましたが、1898年に島を襲った大型台風で家屋は倒壊し、付近の住民の殆どは他の場所へと居を移しました。
当時の上花城の当主は佐久平です。この佐久平の時代に、M家の当主と石垣の石を米俵40俵と交換したのです。このM家はどこのお宅になるのかと探していたところ偶然の出会いがありまして、石垣の石についてお話をさせて頂くことができました。
その石は、何と現在もM家の本家の屋敷に存在するというのです。
米俵40俵と交換したことまではご存知ではありませんでしたが、昔のそのような話が聞けて嬉しいと、大変に感激されておられました。
その石はこちらです。今でもしっかり屋敷の庭に存在していました。
家の敷地内のあちこちに石が使われています。
こちらのお宅は、もうすぐ100年になろうとしている家屋だそうですが、とても質の高い材料を使われ、手の込んだ建築をされているりっぱなお屋敷のようです。このようなお屋敷に当家にあった石たちが一緒に存在していることは嬉しく感じます。
当家の伝承の石垣の石が今でも存在し、この話が本当であったことが確認できました。そして何だかご先祖様に会えた気分になりました。歴史ある石たちですので、これからもずっとずっと両家で語り継いで、石を残していってほしいですね。