義本王とは沖縄最初の実在王統舜天の孫に当たる人物で、1249~1259年に在位した王です。義本は「ぎほん」と読みます。
この王は在位11年54歳のときに退位して英祖に王統を譲っていますが、伝承では即位の翌年から飢饉や疫病が起き、それは自分の不徳から来るものだと恥たからだと言われています。実際は英祖が義本王を追放したという話もあるようですが、、、その後、「中山世譜」などによると、退位後の行方は不明とあるそうです。
現在はこの辺戸にあるのが義本王の墓だとして伝わっており、「国頭村史」によると、義本王の墓と伝わるのはこの辺戸以外にも伊地・佐手・中城村仲順と4つあり、また喜界島へ隠れたという伝説もあるといいます。
「国頭村史」によると、佐手はテイチバーと呼ばれ、近年調査がされたが、名だたる者の墓と推測される物は発見されなかったという話です。中城村仲順の墓とされる場所も、伝承として伝わるのみで墓自体は近年に作られたものだということです。
そしてこの辺戸の墓も明治初年に尚家が作らせたもので、現在ここを管理するのは義本王と縁があると言われる佐久真家だといいます。
その辺戸の墓から人骨が見つかったという記事を見つけました。
その辺戸の墓から人骨が見つかったという記事を見つけました。


2013年の2月21日の琉球新報の記事です。今後人骨の調査が進めば、義本王の墓が実際にどこなのかが分かってくるという話でしたが、それからもう8年ほど過ぎていますが、いったいどうなったんだろう。新しい発表は無さそうなので、まだ分かってないのかな?
ならば、私が新情報を発表します!
なんと、沖永良部にも義本王の墓伝説があったのですよ。
もちろん一般的にシェアされている情報ではないようで、人知れずひっそりと墓があるようなんです。
その場所はこちらです。


この畔布の琉球史地図は昭和10年に作成されたものです。そして昭和38年1月の旬刊誌「奄美」に掲載されたものが、先田先生の世之主伝説の著書の中に掲載されていました。
この畔布の湾門山(わんじょやま)には、大和城があった伝説があるようです。今は城郭に礎石と石垣の一部が残っているそうですが、明治期の道路工事で崩されたようです。そしてこの城が義本按司の居住の跡で、今の名「畔布」は当時の「按司府」から起こったと伝えられているそうです。
現在のところ、義本王は当家のご先祖様に直結する方であるというわけではありませんが、琉球や永良部の歴史を紐解く上では、非常に興味深い情報です。
もし本当に義本王のお墓であれば、それはそれで伝承の歴史がひっくり返りますね。
実際のお墓の紹介がないので、どんなお墓なのか気になるところです。
もしかしたら、もう島の方々も忘れ去った義本王のお墓なのかもしれませんね。知る人ぞ知る、そんな隠れ墓の存在。
島に行ったらぜひ確認したい場所の1つです。