冬桃ブログ

「この顔に会える吉田新田」350周年記念写真展!

 吉田新田を知ってますか?
 JR関内駅を底辺として、そこから縦長の三角形に伸び、
日枝神社に至る一帯です。

 ここは昔、ほぼ、この形をした入海でした。
 江戸時代初期、江戸の石材・材木商の吉田勘兵衛が
この場所の埋立許可を幕府に願い出、受理されました。
 そして干拓・埋立が完成したのが1667年。
 入海は広大な田畑に生まれ変わりました。

 今年はその年から数えて350年。
 長い年月の間には、いろいろありました。
 もっとも大きな事件は横浜開港です。
 現在の関内は、横に長い砂嘴で、その上に
横浜村という漁村がありました。
 その沖にペリー艦隊の黒船が停泊したのが1854年、
砂嘴の上に応接所が造られ、日本とアメリカの間で
日米和親条約が結ばれました。
 これによって、日本は長い鎖国を解き、
さまざまな国と交流するようになったのです。

 それから5年後の1859年。
 横浜に港、外国人居留地、日本人町、遊郭が築かれ、
江戸に一番近い国際都市へと「関内」はスタートを切りました。

 けれどもこの場所は狭すぎます。
 横浜がその後も発展の一途を遂げたのは
吉田新田という広い後背地があったからこそ。
(「関内」に対して「関外」と呼びます)

 田畑はたちまち、幾つもの町に生まれ変わりました。
 川が縱橫に走り、水上交通を担い、「日本のベネツィア」
さながらだった頃もあります。
 「ハマの日本橋」と呼ばれた花柳界もありました。
 真金町・永楽町には昭和33年まで大きな遊郭がありました。
 両側を流れるのは大岡川と中村川です。

 吉田新田は現在、中区と南区の一部を擁しています。
 真ん中を貫くのは大通り公園。
 その下を地下鉄ブルーラインが走っています。
 伊勢佐木町、横浜橋商店街、南吉田小学校、日枝小学校などもあり、
外国籍の人が多いインターナショナルなエリアでもあります。

 わたしたち(横浜まちかど遺産探検隊)は、今回、
吉田新田のいまを生きる「人」をテーマに写真を撮り、
その方達の「物語」を伺ってきました。
 9月19日から29日まで、南区総合庁舎一階ギャラリーにて
展示を行います。
 きっと、あなたの知っている顔に出会えます。
 ぜひいらしてください。
(あ、桂歌丸さんの顔もありますよ!)


 


 
 
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「おしらせ」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事