冬桃ブログ

柚餅子(ゆべし)の里 天龍村・左閑辺(坂部)へ

 翌日も朝から雨。
 山の奥深いあたりへ行くらしいので
「今日は中止かな」という声も出ていたのだが
本日、お目に掛かる予定の関京子さんという方が
すでにこちらへ出てきてくださっているという。
 
 関京子さんは、長野に昔から伝わる「柚餅子」で
村おこしをした方だ。
 まずは関さんのご実家がある阿南町新野へ。
 
 ここには「大公孫樹」と名付けられた大銀杏がある。
 推定では樹齢600年。町の天然記念物に指定されている。



 関京子さんと一緒に。
 さすが歴史ある大銀杏。写真には白いオーブが
……と言いたいところだが、ただの水滴でしょう。





 関さんからいただいた手作りの布袋と
昔ながらのやりかたでこしらえた柚餅子。



 同じ名前のお菓子があるが、長野の柚餅子は
お菓子ではなく保存食。昔は武士の携帯食だった。
 柚の果肉をくり抜き、味噌、砂糖、くるみ、胡麻
などを練り込んだ餡を詰める。蒸して数ヶ月間干す。
 そうすると何年でももつ保存食になるそうだ。
 事情があって、いまはもう作られていないという
貴重な柚餅子を切ってくださった。
 ほんのりと甘み。ご飯のおかずにも酒の肴にもなる。



 関さんのご親戚が案内してくださった蕎麦屋でお昼。
 同行者たちが「こんな美味い蕎麦は初めて!」
と口を揃えて言うのを羨ましく見ながら、
私だけ、特別にあつらえてくださったうどんをいただく。
 美味しい! おそらく蕎麦に負けてなかった!



 またもや怖いような山道をくねくねと進んで、
柚餅子の工房がある天龍村坂部へ。
 関さんは昭和10年生まれ。
 その昔、花嫁衣装を着て天竜川を舟で渡り、
陸に上がればまた険しい山道を歩き、阿南の旧家から
坂部の旧家である関家へと、彼女は嫁いだ。

 山間の村、坂部(左閑辺)。これは昔の写真。
(撮影者 坂上英雄氏)



 医者へ行くにも、この長い吊り橋を渡らなければならなかったとか。



 坂部は、元の名前を左閑辺といった。
 南北朝の乱を逃れた熊谷貞直が開郷の祖だと言われる。
 今は亡き関さんの夫はその18代目。
 誇り高い関家で、京子さんは嫁としてひたすら仕えた。
 40代になり、子どもも手が離れた頃、ここにはかつて
柚餅子という素晴らしい保存食があったことを知った。

 そこで同じ村の女性達を誘い、古老に作り方を習い、
柚餅子で村おこしをしようと動き出した。
 昭和50年、彼女が中心になって柚餅子の生産組合結成。

 山深い村から始まったこの活動は、たくさんのマスコミに
取り上げられた。たくさんの賞も受賞した。

 柚餅子の工場だった建物。



 賞状の数々。



 当時はこんなきれいな箱に入れて売られていた。



 残念ながらその後、村は人が減る一方。
 関さんの子ども達も他所へ出て行った。
 後継者がいない。
 柚餅子生産は止まり、いま、ここは稼働していない。

 





 分校だった建物。いまは「夢工房 左閑辺」



 大森山諏訪社へ。



 ここで年に一回、冬祭りが開催される。
 その時は他所へ行った人達が戻ってきて、
幻想的な奉納の湯立て神楽などが舞われる。





 限界集落となったこの村で、関さんは独り暮らしをしている。
 家の中には本や資料がいっぱい。
 「柚餅子のこと、この村の歴史……どうしても書き残したいのです」
 一日中、私たちに付き合い、少し疲れた様子ながらも、
関さんはきっぱりとおっしゃった。
 魅力的な女性達に会わせていただいた旅であったが
83才の関京子さんはやはり、その白眉。
 必ず、またお目に掛からせていただけることを信じている。

 
 
 





 
 

 

 
 

 

 
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