焦土と化しました。終戦直後からは広範囲に渡って米軍の
接収地となり、戦災復興がままならない状況が長く続きました。
本格的な復興と活性化のために、横浜の六大事業が
発表されたのは1965年(昭和40)。
みなとみらい地区の開発
金沢地先埋立
港北ニュータウン・ベッドタウン化
横浜市営地下鉄の建設
高速道路網建設
横浜港ベイブリッジ建設
いまではすっかりお馴染みになった「横浜」の各所。
終戦からこの六大事業完成までに、どれだけの人々が
こうした復興現場で汗を流してきたことでしょう。
私たちはそれを忘れてはならないと思います。
こうした現場で、もっとも危険を伴う労働を担ったのが
全国から集まった日雇い労働者たち。
その人たちが寝泊まりしていた場所が「ドヤ街」と
呼ばれるようになりました。「ドヤ」は「やど(宿)」をひっくり返した呼称。
東京の山谷、大阪の西成、横浜の寿町は日本三大ドヤ街と称されています。
ここでは私の住む街、横浜の寿町を紹介させていただきます。
戦前、寿町は材木や生糸の問屋が並ぶ商業地区でした。
元町、中華街といった横浜の名所はすぐそば。
しかし戦争で空襲を受け、戦後は米軍に接収されました。
接収は1950年代半ばに解除されたのですが、以前の面影はなく、
無人の荒野となりはてていました。そこに需要があったのが、
土木、港湾関係で働く日雇い労働者のための簡易宿泊所です。
家族連れも少なくなかったのですが、多くは働き盛りの男たち。
厳しい肉体労働の果てに、酒や博打、クスリに走る者も多く、
一時は「西部の町」と呼ばれたこともありました。
その過程で家族や帰る故郷をなくした人もいたでしょう。
危険な労働の中で命を落としたり、心身に障害を残した
人も少なくありません。
でも戦後復興の功労者として、彼らが称えられたことなど
一度もありません。それどころか「ドヤ街」の住人として目を
背けられることの方が多かったのです。
日本が高度経済成長したいま、ここは福祉の町となりました。
生活保護を受けている高齢者、身障者が多く暮らしています。
ここに至るまで、ドヤ街&横浜が背負ってきた知られざるドラマの数々、
それがついに一冊の本としてまとまり、出版されます。
執筆者はなんらかのかたちでこの町に深く関わった人たち。
私もその一人としていくつかの項を書かせていただきました。
全員ノーギャラ、取材も手弁当です。
しかし戦後を見渡すことのできる詳しい年表をはじめとして
内容はまさに「保存版」と言えるものだと、一同自負しております。
発売は12月20日ですが、予約を受け付けております。
お申し込みは電話、ファックス、メール、予約票などで
寿歴史研究会事務局(横浜市ことぶき協働スペース 担当 徳永)へ。
どうかよろしくお願いいたします。
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