冬桃ブログ

横浜大空襲と昭和の歌姫

 1937年5月29日、横浜の磯子区滝頭で
加藤和枝という女の子が生まれた。
 魚屋の長女だった。
 日中戦争が始まった年である。
 戦火は太平洋戦争へと拡大した。
 和枝の父親も出征することになり、
壮行会が開かれた。
 幼い和枝は、その席で、当時流行っていた
軍国歌謡「九段の母」を唄い、父を送り出した。
 その歌声が評判を呼び、近所で壮行会があるたびに
「和枝ちゃん、唄って!」と頼まれるようになった。
 
 1945年5月29日、和枝は八歳の誕生日を迎えた。
 その当日、横浜は米軍の大空襲を受け、焦土と化した。
 この日、和枝がどこにいたのかはわからない。
 が、彼女の生まれ育ったあたりは幸いにも空襲から逸れた。
 だからいまでも昭和の雰囲気が色濃く残っている。




 和枝の通った滝頭小学校。


 東京、横浜の大空襲に次ぐ広島、長崎への原爆投下で
日本の敗戦は避けられないものとなり、戦争は終わった。
 横浜は全国一の米軍接収地になった。
 関内・関外といった中心地には占領軍兵士達が闊歩し、
家も親もなくした浮浪児が溢れた。

 それでも人間は、少しの希望を手掛かりに生きていく。
 和枝の母、喜美枝は、我が娘の非凡な才能に気づき
それを世にしらしめるべく、戦後すぐから動き始めた。
 磯子の商店街、建ったばかりの劇場などへ出向き
「娘を唄わせてください!」と売りこんでいったのだ。

 リンゴ箱の上に乗って唄ったこともあったようだが、
和枝はついに、終戦の翌年である昭和21年に建ったばかりの
杉田劇場(磯子)で舞台デビューを果たした。
 
 旧杉田劇場があった場所。






 子供なのに大人の声を持ち、大人顔負けの
歌唱力で歌う「豆歌手」は、たちまち評判になり、
二年もたつうちにはプロ歌手となっていた。
 美空ひばりの誕生である。

 いまの時代は子供から老人まで、
誰でも歌える流行歌がない。
 でも昭和という時代にはそれがあった。
 ひばりちゃんの歌はその代表だった。
 昭和22年生まれの私にとっても
歌手であり映画女優であった美空ひばりこそ
まごうかたなきトップスターである。
 
 大スターにふさわしく、彼女の生涯は
波乱万丈だった。
 結婚、離婚、身内の不祥事、紅白歌合戦からの締め出し、
自身の病気……光と裏腹の闇に、いつも付きまとわれていた。

 スターになってから磯子の丘に建てた「ひばり御殿」も
とっくに取り壊され、いまは跡地にマンションが建っている。



 磯子にある丸山日用品市場。


 ほとんどシャッター商店街だが、親族の店も。


 

 平成元年、彼女は52歳で生涯を終えた。
 まさに昭和と共に生きた歌姫だった。
 
 いまでも、自分の人生を振り返ると、
そこここに「ひばりちゃん」の歌声がかぶさってくる。
 今日は彼女の誕生日であり、横浜大空襲の日。
 コロナ禍がまだ収まらないとはいえ、こうして
生きて青空を見上げていられることに感謝して
そっと手を合わせよう。


 
 

 
 




 

 
 

 

 
 

 
 

コメント一覧

yokohamaneko
酔華さん
 オークションでは高値がついているのでしょうか?
 もはや、美空ひばりを知らない世代も多くなって
きましたが、いろんな意味で忘れてはならない人だと
思います。
 彼女の歌も、生涯も、まさに時代を色濃くまとっていました。
 横浜には記念館もありませんが、地元の杉田劇場には
ぜひとも頑張っていただきたいです。
 その時はボランティアでお手伝いさせていただきたいです。
酔華
美空ひばりのラベルが貼られたビールやワイン。
空瓶でもネットオークションに出ているんですね。
うちの職場で1本貰って保存していたのに、
中身が無くなったとたん、誰かに捨てられてしまいました(涙)
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