やたろうの屈折劇場

やたろうはねこです。まったりゆっくりがモットーです。

・・・欠如症候群(中編)

2007年04月11日 01時48分03秒 | やたろうの精神分析
(前回に続く)

いわゆる「普通」の人間の思考パターンであれば

子供を育てるのが煩わしい < 男(女)といたい

までは同様に考えることもあるだろう。しかし、次の点で
決定的に違う
                         
子供を育てるのが煩わしい < 男(女)といたい (心理的な壁) ⇒ 放置して男(あるいは女)                     

と矢印の前に行動を制約する作用が働くのである。
これはいろんな要素があって、例を挙げると

・道徳、一般常識
・規範意識
・社会からの外的プレッシャー(世間の目・評判・仕事・義務感)
・内的要因(不快さを上回る快[愛情・可愛さ」)
・その行動や態度によって後々発生するであろう問題

基本概念は人によって切り口が違ったりするのでこれが
正しいというわけではないが、おおむね人は
「それをしてはいけないだろうかどうか」「それをしてもいいだろうか」
という判断を行う際に、快・不快という動物的本能で行動する前に
そういった価値判断基準を検討して、その上で行動や態度に出る。

最近感じているのは、日本人の中にこのハードルが極めて低いか
全くない人がものすごく増えているのではないか?という疑問なのである。

つまり、

「物事の判断基準が、自分の快・不快のみでそれを妨げる心理的障壁を持っていない」

という種類の人間が増加しているのではないか?ということなのである。

この仮説を元に考えると、大分見えてくるものがある。

例えば、こんな事例を検討しみる。

「ブランド品で着飾った母親が集金袋にお金を入れない。子供が教室で泣いている」
「高級外車を乗り回したり、携帯電話代を何万円も払っているのに、給食費は払わない親がいる」

いわゆる給食費未払い問題。

これを単に「モラルの崩壊」ととらえると、ああなるほど、となったりするの
ですがやたろうは、おそらくモラルとかそんな段階まで行っていないと考えている。

給食費を払うという行為 < 払うのが面倒くさい ⇒ 払わない

モラルの崩壊ということは、少なくともモラル、という認識がなければらない。

この例でいうと、
・子供が食べたからには、代金債務として給食費を支払う必要がある
・給食費を払わないなんて、世間一般の目からみて恥ずかしい
(自分も恥ずかしいし、子供も恥ずかしい)

他にもあるかもしれないが、とりあえず、「給食費は払わないといけないもの」
という心理的障壁が払わない という行為に進むのを止めるはずである。

給食費は払わないといけないものという認識が低いか、ない。

ここらへんは微妙だが、給食費を払わないことは悪い事であると
「知っている」のと「そう思っている」のとではだいぶん差がある。悪いことだと
知っていても、悪いことだと自分が思わなければ心理的障壁
にはなりえない。従って、価値判断が自分の快・不快に直結してしまう。
給食費を払うことが面倒だという不快が、払うものであるという概念をはるか手前で
上回ってしまい、めんどくさいから払わない。


だから、例えばこの親は給食費が未払いで子供が給食を食べさせられなかった
とすれば、

子供が給食を食べられない(不快) < 食べられるようにする(快) ⇒ 学校に抗議

という一見不自然な行動に出る可能性が高い。

給食費を自分が未払いなのを棚に上げているのではないのだ。
それを現在自分が感じている「不快感」がとりあえず現時点で上回って
いるのだ。そこには「未払いなのに抗議するのはおかしい」という
事を知っていても、「認識」はしていない。

パチンコにしても

子供の面倒を見る(不快) < パチンコをしたい(快) ⇒ 車内に放置して、パチンコ(快)

という行動原則に従っているだけのことなのである。

後々考えれば、真理的障壁に気付くかもしれない。
でも行動を起こす段には、検討されてもいない。

となると、前編で採り上げた事件の動機はこのように推測される

子供を育てるのが煩わしい(不快) < 男(女)といたい(快) ⇒ 放置して男(あるいは女)(快)

語弊を恐れずにいうと動機は「めんどくさかったから」

反省しても後の祭りである。(後編に続く)

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