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いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

結合律。

2005-01-13 02:19:00 |  Study...
「結合律」について。

前回ので、結合律が成り立っているのかどうかをどう調べたらいいのか?、という疑問がある、と書いたけれど、それに伴って出てきた疑問が、自然数の和の結合律は、どう証明されるのかということ。

結合律が成り立っていることを調べる方法は置いておいて、(というか、現在考え中)自然数の和の結合律については、どうやら自然数の公理系から導き出されるらしいとのこと。
自然数の積の結合律についても然り。
参考ページ
上のページの記述(記述法)はよく分からないけれど、最初から読んでいけば分かるのかな?まぁ、興味深そうな内容なので、時間があれば読んでみたいです。

ちなみに、いろいろと検索していると哲学関係の面白そうなページも見つかるわけで。
ここなんかは、まだちゃんと読んでいないけれどいろいろと興味深いことが書かれていていいです。

んで、結合律に関しては、
1、演算表を満たすような公理を考え、その公理から結合律を導く
2、演算表で、結合律を満たすための必要十分となるような特徴を見つけ出す
3、演算表で、結合律が成り立つかどうかを調べるための、簡単な方法を見つけ出す
らへんのうちで、有効なものを探していきたいと思います。

追加。
a,b,c∈G (Gは集合)とし、ab=acかつb≠cのとき、Gは群になりうるのか?それとも、絶対にならないのか?
おそらく、絶対にならないのだろうけれど、実際のところどうなのか、それとその証明はどうなのか、が分からない・・・


代数学。

2005-01-06 20:07:00 |  Study...
代数学がちんぷんかんぷん。。。

というか、どうにも厳密性がないと思うんですよね。推論に。
いや、本が悪いだけなのかもしれないですけど。

それと、理論として抽象的なのはいいんだけれど、それにしては「痒いところに手が届かない」というか。
「これはどうなの?」という疑問が次から次へと浮いてくる割に、それに応えるすべを持ち合わせていない気がしてならないし。

たとえば。
一番初等的なところからもいって、群の公理に結合律があるのはまぁいいとしよう。公理だし、文句のつけようもない。
さらに、その公理を元に論理を展開しているのももちろん納得がいく。(というか、じゃないと困る)
けど、これが群なのかどうかも分からないような集合と演算が与えられたとき、結合律が成り立つかどうかを調べるとしたら、どうするのさ?単純に調べていくしかないの?だとしたら、位数が少ないのならまだしも、すごく位数が大きい有限集合とかはどうするのさ?
群についての理論をいくら発展させても、そもそもその理論が使える条件が満たされているのかを調べる、という理論が構築されていないとしたら、道具とするにはあまりに使い勝手が悪過ぎないか?

他にも。
群Gの部分集合Sによって生成される部分群<S>が、
 <S>={a^n・b^m… | a,b,…∈S n,m,…∈Z}
となる、としているけれど、有無を言わさず可換である巡回群ならいざしらず、本当に正しいのかよ、と。

剰余類にかかわるところで、何の説明もなしに
G:群 H:部分群 a,b∈Gであり、
aH=bH
⇔b^(-1)aH=b^(-1)bH
⇔b^(-1)aH=H
⇔b^(-1)a∈H
とかやっているけれど、この変形は(確かに同値だけれど)明らかではないだろ。
直感的にはそうだけれど、証明しようとすれば、かなりの説明を要するだろ、これは。厳密性、無視しすぎ。

他。
部分群であるかどうかを確かめる方法。
これも効率が悪すぎやしない?
HがGの部分群である⇔∀a,b∈H a・b^(-1)∈H
もちろん、左から右は理論構築の上で有用だろうけれど、実際の理論運営の場で、右から左のは明らかに使いにくいでしょ。
だって、たとえば位数12の群だって、たとえラグランジュの定理を使ったとしても位数2,3,4,6の部分群が考えられて、それぞれ11,55(=11×10÷2),165(=11×10×9÷(3×2)),…の部分集合が部分群の候補として考えられるわけで、しかもその全部の演算を確かめてた日にゃ・・・
他に方法があるのだったら、誰か教えて。
まぁもちろん、そこで「Sが生成する部分群」というのが重要になるんだろうけれど、上で書いたとおり可換群じゃなくてもいいのかの言及が「?」だし、それで全部の部分群を覆えているのか、という問題があるわけで。
ちなみに教科書には上の部分についての言及はなし。
でも、それが正しいと仮定して問題を解いているようなところもあり、かなり胡散臭い。。。

そうそう、「有限群には群の位数乗が単位元になる元が必ず存在する」とかいったら、これは本当?それともうそ?
巡回群の議論をするときや、あるいは位数nの部分群候補を考えたりするときとかに、上のが正しいのかどうかというのがすごく影響を与えそうなのに、どこにも言及なしで不明。

あと、ある部分群が与えられたときに、仮にSによって生成される群が部分群全体を覆うとして、そのSを得る方法は?
そして、そのSはただ一通りなのか、それとも多数存在するのか、多数存在するのならば、その与え方に規則性などはあるのか、なども、上のに関連してきそうな疑問の一つ。
けど、やはり言及なし。

ホント、意味不明。


キリスト教。

2004-12-06 00:42:00 |  Study...
教会主催(と思われる)クリスマスコンサートに行ってきた。

塾の他の先生に誘われていったんだけれど、結構面白かった。
いや、いろんな意味で(^^;
つか、かばんの中に入っていた本は『ツァラトゥストラはこう言った』の下巻だったし(^^;;;

さてさて、まぁ教会みたいなところでゴスペルのコンサートだったんだけれど、このゴスペルがなかなか。
歌詞はアレだったけれど、いい音楽でしたね。
どんな音楽であれ、やっぱり生で演奏しているのを聴くのが一番いい。
特に、キム・シンソク(ネットで検索しても出てこない・・・)さんの歌は力強くて個人的にはすごく好きですね。

んで、牧師さん(なのかな?)による説教(といっても怒られるわけではないけど)があったんですけど、これがなるほど、というもの。
といっても、キリスト教の教えに対して「なるほど」と思ったのではなく、教会がどうやって信者を教会に引き付けておくのか、という手法に対して「なるほど」だったわけですけれど。

その説教の内容は「ときはキリストが十字架にかけられてからしばらくたってのこと。キリストのかつての1番弟子、ペトロが他の弟子たちと夜に魚を取ろうとした。けれど、1匹も取れなかった。残念に思って岸近くに行くと、誰かは分からないけれど人が立っていた。で、その人が「右のほうに網を下ろしなさい」と言う。言われたとおりにしてみるとたくさん魚が取れ、しかもその量のわりに網は破れず、船も転覆しなかった。で、弟子の一人(ヨハネだったかな?)が「あれはキリストだ」みたいなせりふを言って、岸に行ってみれば確かに、そこにいたのは死んだはずのキリストで、弟子たち(この弟子たちはペトロも含めて一時信仰を捨てていた)をしかったあと、パンと魚を与えた」
というもの。
そして牧師さんは言う。
「キリストが死んだとき、彼の1番弟子で、キリストが捕らえられそうになったときも勇敢に戦った、そんなペテロでさえも、あまりの拷問に「私はキリストを知らない」と三度言い、さらには信仰を捨ててしまった。キリストを裏切ったわけです。しかも、さらにはただ一人去るのではなく、多くの弟子を伴だって去っていった。多くの弟子をそそのかしたわけです。そんな彼に対してでさえも、復活されたキリストは大いなる愛を与えた。ひとたびキリストを信じれば、たとえあなたが彼の元を去ることがあったとしても、キリストはあなたに大いなる愛を与え、そしてあなたを救おうとしてくれるのです。」
と。

確かに、「おぉ、キリストって偉大だなぁ」という話でもあるけれど、実はそこに罠(ひどい言い様だ(^^;)が仕掛けれあるんじゃあない。
もしキリスト教をやめたい、と思ったとき、次のようにされたらどうだろう?

Aさん「あの・・・信者を辞めたいのですが」
牧師さん「なんだと!貴様、今までのキリストの愛に報いる気は無いのか!」
Aさん「む(怒)、そんな愛なんか知ったこっか!こっちはとにかく辞めたいんだ!」
牧師さん「このぉ・・・こいつめ!こいつめ!(百叩き)」
Aさん「(くそっ・・・絶対こんなとこ戻ってくるもんか!)」

なんというか、や○ざとか革○ル派みたいだ・・・
痛めつけられたら、辞めるのを止めさせないどころか後々まで続く恨みをもたれますよね。
他の信者に対する見せしめになるかもしれませんが、信者を止めておくものが恐怖のみになり、信仰そのものが廃れてしまいそうです。

対して。
Aさん「あの・・・信者を辞めたいのですが」
牧師さん「あなたはこういった話を知っていますか?(さっきのお話)あなたはきっとここを去っていくでしょう。しかし、覚えていてください。あなたがキリストを裏切ろうとも、キリストはその大いなる愛をもって常にあなたを見守っていてくださいます。」
Aさん「(うぅ・・・なんか良心が・・・)」
牧師さん「あなたは大いなる愛を与えてくれたキリストを裏切る。それは大きな罪です。しかし、あなたにもそうしなければならない理由というものがあるのでしょう。キリストを裏切ってまで去らなければならないほどの理由が。しかし、キリストはあなたのそんな罪をも許そうとしてくださる。それどころか、さらに愛を与えてくれようとする。何か困難なことがあったときには、キリストがあなたを愛してくれていることを思い出しなさい。」
Aさん「うぅぅ・・・私が悪かったです。」

もう、こんな感じでw
「あなたは「裏切る」けれど、キリストはそんなあなたも愛してくれる」と、良心に訴えまくるわけです。
これは、たとえその場から去ったとしても、のちに波が岸に寄せるように何度も何度も良心に訴えかけてくるものがある。
「罪悪感」にそもそも弱いキリスト教徒が、どうしてこれに耐えられるかと。

ツァラトゥストラなら、
「よし!そんな「弱い」人間たちよ!お前たちに言ってやろう!そもそも、お前たちは裏切ってなどいない!教会は恐れているのだ。何をか?それは、お前たちが本当に神の元へと行ってしまうことをだ!
教会という漁師のこしらえた、「神」という名のえさ!彼らはこのえさの中心に「罪」という針を潜ませた。あなた方が「えさ」のみを持っていこうとすればするほどあなた方自身を苦しませる、「罪」という名の針を!
とか言いそうですよねw
(※実際の作品中にこんなのはないです)

実際問題、入るのが自由なら、辞めるのだって自由。辞めるのはぜんぜん裏切りなんかじゃない。辞めるのをどうして制止することが出来ようか?

そもそも、キリストにすがるという姿は、キリスト教の自らが開拓していくという姿に反する姿。キリスト教を「超える」事こそ、より(キリスト教的に)神に近づく一歩となるはずです。
でも、教会はそれを許さない。
権力を、人を、金を、自分の元から逃したくない。だからこそ上のような説教が出てくるわけです。
まさに、「神は信じるもの達によって殺された」と言えるでしょう。

さらには、ペトロの姿などを見ていると、やはりキリストを「便利な道具」としてでしか見ていないんではないかな、と思う。
こういった弟子達によってキリストは「殺された」としか思えない。
自分達でキリストを殺しておいて、「主は私達の罪をあがなう為に死んでくださった」と言っている様にしか聞こえない。

ネットのとあるジョークサイトで、

あるところに、信心深いおじいさんが住んでいた。
ある日、大きな地震が起こり、沢山の建物が倒壊した。
おじいさんは、「神の怒りだ」と言って、30分ほど祈っていた。
また別の日、大雨で洪水が起きたときも、おじいさんは祈っていた。
また別の日に、渇水のせいで大規模な山火事が起きたときも、
「神に許しを請わねば」と言って、おじいさんは祈っていた。
そして、また別の日に、おじいさんは落雷に当たって死んでしまった。
天国にて、おじいさんは神様の前に連れてこられた。
「ああ、神様、こうしてお会いできるとは何とも光栄です。」
嘆息して、神様が言った。
「あのですね、普通の自然現象なんかを、全部私のせいにしないで下さい。」



まさにこれ。自分達の「苦悩」を神の与えた「罪」として、それをあがなわせる為にキリストを殺した。
キリストもたまったもんじゃないっての。


メモ。

2004-12-05 02:16:00 |  Study...
最近考えたことのメモ。
後で補強・分割する予定。

無駄に忙しい。
んで、Blogに書こうと思っていたのに書けていないことのメモを。

まず、認識に関わることで。
言語認識論の授業で、言語の「意味」を取り扱ったんだけど、(そもそも意味がなんなのかの定義があいまいなまま議論が進められていったんだけど)、やはりカテゴリ論的なのがいちばん現実の状況を説明するのにぴったりなんじゃないかな、と。(って、この考え方自体が構造主義的だけど)
で、言語に「意味」を持たせるとはすなわちカテゴリに「分類する」という行為に他ならなく、そういった意味で、じゃあ「正しい」「正しくない」の判断も、やはり「分類する」ということによって行われているんじゃないかな、と。
そこで、真に正しいもの、というのが存在するのか、ということに対して、そのカテゴリ分類というのが「経験則」によって、しかも判断する場面が生じたときにその場に応じて行われる(つまり、状況・時・判断する時間の前後などに影響を受ける)ものであるとすれば、そういったものは存在しない、と演繹する(これも結局、経験則による)人が多い=客観的に正しいと判断される(これは、「真に正しい」とは違う)のではないかと。
すなわち(と言っていいのかどうかは別として)
真に正しい、というものがあるのではなく、多くの人が正しいと判断するに十分なこと、というもののみが存在する
というのが、多くの人によって正しいと判断されうるんじゃないかと。(論理的に見てこれはトートロジーになってる…?)

次。同一性に関わることで。
よく、
A=B B=C
ならば、論理的に
A=C
とはよく言われること。
けれど、あるものはあるもの自身である(A=A)、と言うのは、あたりまえ。言う意味がない(と思われやすい。トートロジーもそうだけど)。
問題にされるのはA=B。「AとBは等しい。」
あまりに見慣れすぎてしまいその問題性に気がつきにくいけれど、もしAとBが「同じである」ならば、BをBと書く必要はない。Aと書けばいい。けれどBは、あくまでAではなく、BであるからこそBと書かれる。すなわち、=という記号が「同じである」ことを意味をするけれど、実はAとBが「異なっている」からこそで意味をもつ。
奇妙な気がするだろうけれど、これは事実。
で、そのへんてこな議論は言葉の上だけで行うから変なことになり、数学的観点で=(同値関係)の公理

 1) A=A
2) A=B ⇒ B=A
3) A=B,B=C ⇒ A=C


からすれば当然であり、というのも、=というのは「等しい」などという意味はなく、集合の2つの要素に関して上の3つが成り立つ「関係」にすぎなく、その比較される2つの要素が「同じ要素である」必要性はまったくない。
ちなみに言語における「カテゴリ」というのも、同じ単語で表される、という「同値関係」であり、すなわち「カテゴリ」とは「同値類」(同値な関係のものを集めた(部分)集合)ではないかな、と思う。
ただ、ここでより問題にしたいことはむしろ、上で行われたへんてこな議論の方で、実はこれは重要な示唆を含んでいる。
それは、「時間を挟んでの=(等しい)、≠(等しくない)のこと」。すなわち、「変化」というもの。
さて、数学的に上の議論を分析すれば、A=Bであるとはすなわち、Aの同値類をC(A)とし、その同値関係を~とすれば、
A≠B(これは集合の要素として) かつ A∈C(A) かつ B∈C(A)
これを還元して読めば、
ある2つの異なるものAとBは、同じ性質を持っている。
と言っていることにある。
そしてそれは、性質、つまり同値関係の与え方によってA=BなのかA≠Bなのかは変わってきてしまう、ということも意味する。
つまり、2つの異なったものを比べるとき、=である性質と、≠である性質が同時にいくつも存在することになる。
で、「変化」について話を戻せば、よく「あの人は変わってしまった」とか言うわけだけれど、これはあくまで一性質について変わってしまった、ということに過ぎない。というのも、もし全てのものが変わってしまったんであれば、どうしてその2つのものを比べることが出来るだろうか?
すなわち、何かが変わる、というのは、何か変わらないものがあってこそ分かるわけだ。
「万物は流転する」というけれど、そしてそれは正しいと思う(あくまで、「思う」)けれど、それの働きを見ることが出来るのは変わらないものがあってこそであり、じゃあ、その変わらないものは「万物」ではないのかというと、これもやはり「万物」であり、変わるものである。
矛盾しているようだけれど、次のような例をあげればこれが正しいと判断するに十分なことが分かる。
fが物体の性質を示す写像だとすれば、変わってしまうというのはすなわち、a(t)=a(t')であるものに対して、f(a(t))≠f(a(t'))であることである。
しかし、aで示された物体も時間tの関数であり、
∃t,∃t',t≠t'⇒a(t)≠a(t')
と考えられる。
もしそのようなt,t'が存在しないとしても、今度は
a(t)=a(t')=a
で、g(:=a^-1)という写像を考えれば、その写像はaの性質であり、
¬(∀a,g(a)=g(a)) (すなわち、存在する時間が変わってしまう)
となる。
ようは、何かが変化しているかどうかを調べるには、なんらかの性質を固定して、その上で変化があるかどうかを調べなければならない。

次。『ツァラトゥストラはこう言った』(以下、『ツァラ...』)を読んでいて。
むずい。というか、よく分からない。
分かるところは分かるんだけれどなぁ…
(とかいうと、もちろん、じゃあ「分かる」とはどういうことなのか、ということも出てくるけれど、とりあえずそれは置いといて。)
ん~、なんとも、やはり自分の言説が自分自身に返ってきて自分の言説自身を否定するという「矛盾」をはらんでいるように見えるわけだけれども、難しいところ。というか、わざと矛盾を見せている気がする。というのも、ニーチェ自身あきらかにそのことに気づいていて(たとえば、「おぉ、ツァラトゥストラよ、あなたはほんとに遠くまで石を投げた、――だが、あなたの頭上に、それはふたたび落ちてくるだろう!」とか)、それこそが「獅子の姿」なんだと思う。つまり、既存の価値観に対して闘うものの姿。
けれど、その闘う獅子は獅子の牙自身によって、あるいは新たな獅子の牙によって、自身を傷つけられながら闘うことになる。
そして、たとえそこに横たわる龍(既存の価値観)に勝ったとしても、今度は獅子自身が新たな龍となって横たわるだけなのじゃないか?
――そもそも、龍に闘いを挑むというのも、龍にただ盲目的に隷従するというのも、結局は龍に振り回されている、龍によって行動が支配されているという点で同じではないだろうか?
そこで、既存の――外の世界の価値に従う/争うのではない姿、すなわち幼な子の姿、聖なる肯定というものが必要になってくるのではないかなぁ、と。
つまり、わたしの善はわたしによって定まり、わたしの悪もわたしによって定まる、そして世界はわたしによって認識され、わたしはその世界を肯定する、というような感じ、なのかな?
んー、他人とのバトルが必至な世界な気も…(^^;
ついでにいうと、かなり独我論入ってる気も…
でも、CLAMPも結構近い気が。(自己責任による完全な個人主義、とも言えるし、CLAMPは。自分のために他人を愛し、そしてその責任をとるだけの覚悟を持ってしてなら殺人も悪いことではない、それを決めるのは他人ではない、という論調だしね。)
ただ、上のような聖なる肯定が「必要である」という考えは、やはりそれは「隷従する」「支配される」ことを悪しとする「外の世界の価値観」によってはじめて生まれるものではないかな、というのが一点。
そして、もし自らの内側から「隷従することを悪しとする」という法を課すことになったとしても、それならばどうして他人が内側から「隷従することを善しとする」ことを批判することが出来ようか、というのがもう一点。
まぁ、とりあえず全部読んで、他の作品も読んでみないことにはなんとも言えないけれど。

次。『老子』を読んでいて。
というか、『ツァラ...』と並行して読むものでもない気がするけど(^^;
ちなみに、個人的にはやはりこっちの方が好き。
で、『ツァラ...』を読んでいるからなのか、そっちとの関係から今までとは違った読み方が出来るから不思議。(まぁ、認識のカテゴライズが経験則に依るのであれば、時間が変わってから読まれたものが新しい意味を持ったりするのは当然なんだけれど)
「「為さない」ということを為す」という姿は、やはり自らの肯定であり、あえて隷従する、という姿にもなるんじゃないのかなぁ、と。
結局、読む人の「読み方」というのが読む人によって定まってしまい、敏感な部分、敏感になれない部分の差がはっきり出てきてしまうのではないかな、と思う。(『塩の街』『空の中』のいろんな人のレビューを見ると、ほんとそう思う。見るところがほんと人それぞれ)
どうしても自分が構造主義なもんだから、その理論が使えるのかどうか(社会をよりいい姿に出来るかどうか)という点で多くを判断しようとするものだから、そのラディカルな思考は好きだけれど、世を悪くしそうなニーチェよりは、平穏たれ、という老子のほうが身にあうのかもしれない。

次。「分かる」ということについて。
上で置いといたことを堀返す(^^;
分かる、というのはそもそもなんなのか。
腑に落ちるということ、いや、それはただの言いかえ。
けれどその考えは結構重要。
結局、「納得できるかどうか」という点が問題にされるわけ。
やはりそれは「判断」であり、なんらかの「基準」に基づいて分かる/分からないという判断が行われていると考えられる。
で、たとえば、「りんごは木から落ちる、なんで?」と聞かれて、(そもそもなぜそれを疑問に思うのか、というもの重要な気がするけれど、)「りんごに重力が働いているから」と言えば、大体の人は納得がいく。
けれど、じゃあ「なんで重力が働くの?」と言われると、閉口する。(もちろん、万有引力のせいだけれど、じゃあ、なぜ万有引力なんて(略)となる。)
つまるところ、「なぜ」の質問に答えはなく、(というのも、さらに「なぜ」と聞けるから)しかし人は多くの「なぜ」の質問に対して大抵は納得しうるだけの「理由」を知っている。
じゃあ、そこにある「基準」はなんなのか、というところで、ひとつに考えられることは「予測が可能になること」「コントロールが可能になること」あるいは「実際に自分がその考えを道具として使えるようになること」ではないかな、と。
かなり構造主義的だけれど、上のように考えると十分に納得がいくと思う。
実際、「分かる」ということは、上のようなことが可能になるところまで「分かればいい」んだ、というふうに、「何かを分かろうとしているとき」にこの考えは使える。
(って、これもトートロジーっぽい(^^;)

最後。開集合であり、閉集合である集合、について。
位相数学で、「連結」の定義についてやったときに、「集合Xに、開集合であり、かつ閉集合であるような、φ、X以外の部分集合が存在しない」というのが「連結」の定義であり、一瞬「は?」となった。
というのも、(開集合系の場合)閉集合の定義は{C⊂X|Cの補集合が開集合}であり、これを普通の開集合・閉集合から考えて、開集合でも閉集合でもない集合こそ存在すれ、開集合でも、「開集合でも閉集合でもない集合」でもないならば、それは閉集合となる、と考えていたからだ。
しかし、よく定義を読めば、指定しているのは「Cの補集合は開集合」というのだけであり、「かつ、Cは開集合ではない」というしばりはない! だから、開集合でかつ閉集合という集合が存在することになる。
実際、{1,2}という集合で位相(開集合)を
{φ,{1},[2},{1,2}}
と定めれば、これは開集合の公理を満たしていて、このとき閉集合は
{φ,{1},{2},{1,2}}
となり、(で、これは閉集合の性質を満たしている){1},{2}は開集合であり、かつ閉集合にもなっている。
ここで思い付いたのが、論理の構造。
「正しい」「正しくない」の判断もそれが「カテゴリ」(=同値類)に分類される、というものなのであれば、そこに命題の集合と構造を持つ。で、この集合(と与えられた位相)が連結でないのならば、「正しくて、かつ正しくない」命題(の集合)というものがあることになる。
実際にこれを満たすような集合の構造をちゃんと記述できるかというと難しいだろうけれど、この考えは使えるんじゃないかなぁ、と。


時計回り。

2004-11-18 02:15:00 |  Study...
「時計回り」について、少考。

最近忙しすぎ。
なんか、学校→バイト→寝る→(以下繰り返し)な気が。。。

まぁそれはおいといて、バイトで教えることの予習(板書案の作成とか)をやっていたんですよ。
で、北の空の星の動き方を教えるのに、まず思いついたのが「左回り」という言葉。けど、確かに円の上の方では右から左へ行くから言葉どおり「左」回りだけど、下の方を見ると左から右へ行ってる…(まぁ、なんでこれを「左回り」というのか、というのも考察対象としては面白そうだけれど。下よりも上の動きの方が目につく、という考えも出来るけれど、ちょっと違うような。例えばフォークダンスとかで、マイムマイムもオクラホマミキサも「左回り」だけど、回転の向きは逆!)

閑話休題。
で、次に浮かんだのが「反時計回り」。これなら上のようなことを考えなくてもいい。(って、そんなこと考える小学生はいないだろうけれど)まぁ、誤解を受けることはありえないので、反時計回り、というのが適当だろう。

んで、ふと思ったこと。
「なんで「時計回り」は「時計回り」なんだろう?」
んー、この質問の意味が通じないかもしれないけれど、ようは、どうして「反時計回り」の方向の回り方を「時計回り」と言わないんだろう?ということ。
まだ通じない気がする。「時計がそっちに回るから、そっちの回り方を時計回りと言うようになったんでしょ。意味不明。」とか言われそう。
いや、そうじゃなくて、何で時計の針が、今で言う「時計回り」の方向に回るように決めらているんだろう?ということ。別に時計の針が反時計回りに回るように設計したってかまわないはずなのに、「時計回り」と言えばみんなが同じ回り方を想像するほどに、時計の針の回り方は時計回りだ。

にしても、よくよく考えると、世の中のものでは反時計回りな物がけっこう多い。
陸上のトラック然り(これは右利きの人が多いせい)、(北半球の)台風然り、北から見た地球の自転然り、同じく北から見た地球の公転然り、座標のarg(z)(zは複素数)然り。

逆に、時計回りのものと言うと、人間の右腕の動きは反時計回りよりも時計回りの方が得意な気がする。
例えば、ドアノブの回す方向、ネジを締める方向(あくまで右ネジの場合)、回すわけではないが腕を開いていく動作として、横書きの文字の方向、カレンダーの切り取り方など。

で、なぜ時計は時計回りなのか。
やはり、最初の頃に作られた時計が関係してくるのだろう。
最初の頃に作られた時計といえば、日時計、水時計、砂時計など。
水時計、砂時計は明らかに回るものではない。
で、日時計に注目してみると、どうだろう、棒の「影」は確かに左から右へと「時計回り」をしている!(ただし、北回帰線より北である必要あり)
もし機械時計を作った人が日時計をもとに時計を作ったのであれば、(すなわち、針=影と見立てて時計を作ったのであれば、)時計回りが時計回りになった理由はこれだという可能性が高いと思われる。
(もし南半球で時計が作られていたら、反時計回りが時計回りになっていたのだろうか?)

もう一つ考えたもの。
機械時計を作るに、最初はネジをいちいち巻かなければならなかった。そのときに、右にネジを巻く方が巻きやすいから、そしてネジが正面で動いているのもなんだから、時計の裏側につけていたとしたら、ネジは反時計回りに戻っていき、結果時計の表側からは時計回りの動力が得られる。
それゆえ、時計回りは時計回りになったとも考えられる。

はたして、本当の理由やいかに…?
(実は時計屋の気まぐれとか(^^;