最近考えたことのメモ。
後で補強・分割する予定。
無駄に忙しい。
んで、Blogに書こうと思っていたのに書けていないことのメモを。
まず、認識に関わることで。
言語認識論の授業で、言語の「意味」を取り扱ったんだけど、(そもそも意味がなんなのかの定義があいまいなまま議論が進められていったんだけど)、やはりカテゴリ論的なのがいちばん現実の状況を説明するのにぴったりなんじゃないかな、と。(って、この考え方自体が構造主義的だけど)
で、言語に「意味」を持たせるとはすなわちカテゴリに「分類する」という行為に他ならなく、そういった意味で、じゃあ「正しい」「正しくない」の判断も、やはり「分類する」ということによって行われているんじゃないかな、と。
そこで、真に正しいもの、というのが存在するのか、ということに対して、そのカテゴリ分類というのが「経験則」によって、しかも判断する場面が生じたときにその場に応じて行われる(つまり、状況・時・判断する時間の前後などに影響を受ける)ものであるとすれば、そういったものは存在しない、と演繹する(これも結局、経験則による)人が多い=客観的に正しいと判断される(これは、「真に正しい」とは違う)のではないかと。
すなわち(と言っていいのかどうかは別として)
真に正しい、というものがあるのではなく、多くの人が正しいと判断するに十分なこと、というもののみが存在する
というのが、多くの人によって正しいと判断されうるんじゃないかと。(論理的に見てこれはトートロジーになってる…?)
次。同一性に関わることで。
よく、
A=B B=C
ならば、論理的に
A=C
とはよく言われること。
けれど、あるものはあるもの自身である(A=A)、と言うのは、あたりまえ。言う意味がない(と思われやすい。トートロジーもそうだけど)。
問題にされるのはA=B。「AとBは等しい。」
あまりに見慣れすぎてしまいその問題性に気がつきにくいけれど、もしAとBが「同じである」ならば、BをBと書く必要はない。Aと書けばいい。けれどBは、あくまでAではなく、BであるからこそBと書かれる。すなわち、=という記号が「同じである」ことを意味をするけれど、実はAとBが「異なっている」からこそで意味をもつ。
奇妙な気がするだろうけれど、これは事実。
で、そのへんてこな議論は言葉の上だけで行うから変なことになり、数学的観点で=(同値関係)の公理
1) A=A
2) A=B ⇒ B=A
3) A=B,B=C ⇒ A=C
からすれば当然であり、というのも、=というのは「等しい」などという意味はなく、集合の2つの要素に関して上の3つが成り立つ「関係」にすぎなく、その比較される2つの要素が「同じ要素である」必要性はまったくない。
ちなみに言語における「カテゴリ」というのも、同じ単語で表される、という「同値関係」であり、すなわち「カテゴリ」とは「同値類」(同値な関係のものを集めた(部分)集合)ではないかな、と思う。
ただ、ここでより問題にしたいことはむしろ、上で行われたへんてこな議論の方で、実はこれは重要な示唆を含んでいる。
それは、「時間を挟んでの=(等しい)、≠(等しくない)のこと」。すなわち、「変化」というもの。
さて、数学的に上の議論を分析すれば、A=Bであるとはすなわち、Aの同値類をC(A)とし、その同値関係を~とすれば、
A≠B(これは集合の要素として) かつ A∈C(A) かつ B∈C(A)
これを還元して読めば、
ある2つの異なるものAとBは、同じ性質を持っている。
と言っていることにある。
そしてそれは、性質、つまり同値関係の与え方によってA=BなのかA≠Bなのかは変わってきてしまう、ということも意味する。
つまり、2つの異なったものを比べるとき、=である性質と、≠である性質が同時にいくつも存在することになる。
で、「変化」について話を戻せば、よく「あの人は変わってしまった」とか言うわけだけれど、これはあくまで一性質について変わってしまった、ということに過ぎない。というのも、もし全てのものが変わってしまったんであれば、どうしてその2つのものを比べることが出来るだろうか?
すなわち、
何かが変わる、というのは、何か変わらないものがあってこそ分かるわけだ。
「万物は流転する」というけれど、そしてそれは正しいと思う(あくまで、「思う」)けれど、それの働きを見ることが出来るのは変わらないものがあってこそであり、じゃあ、その変わらないものは「万物」ではないのかというと、これもやはり「万物」であり、変わるものである。
矛盾しているようだけれど、次のような例をあげればこれが正しいと判断するに十分なことが分かる。
fが物体の性質を示す写像だとすれば、変わってしまうというのはすなわち、a(t)=a(t')であるものに対して、f(a(t))≠f(a(t'))であることである。
しかし、aで示された物体も時間tの関数であり、
∃t,∃t',t≠t'⇒a(t)≠a(t')
と考えられる。
もしそのようなt,t'が存在しないとしても、今度は
a(t)=a(t')=a
で、g(:=a^-1)という写像を考えれば、その写像はaの性質であり、
¬(∀a,g(a)=g(a)) (すなわち、存在する時間が変わってしまう)
となる。
ようは、何かが変化しているかどうかを調べるには、なんらかの性質を固定して、その上で変化があるかどうかを調べなければならない。
次。『ツァラトゥストラはこう言った』(以下、『ツァラ...』)を読んでいて。
むずい。というか、よく分からない。
分かるところは分かるんだけれどなぁ…
(とかいうと、もちろん、じゃあ「分かる」とはどういうことなのか、ということも出てくるけれど、とりあえずそれは置いといて。)
ん~、なんとも、やはり自分の言説が自分自身に返ってきて自分の言説自身を否定するという「矛盾」をはらんでいるように見えるわけだけれども、難しいところ。というか、わざと矛盾を見せている気がする。というのも、ニーチェ自身あきらかにそのことに気づいていて(たとえば、
「おぉ、ツァラトゥストラよ、あなたはほんとに遠くまで石を投げた、――だが、あなたの頭上に、それはふたたび落ちてくるだろう!」とか)、それこそが「獅子の姿」なんだと思う。つまり、既存の価値観に対して闘うものの姿。
けれど、その闘う獅子は獅子の牙自身によって、あるいは新たな獅子の牙によって、自身を傷つけられながら闘うことになる。
そして、たとえそこに横たわる龍(既存の価値観)に勝ったとしても、今度は獅子自身が新たな龍となって横たわるだけなのじゃないか?
――そもそも、龍に闘いを挑むというのも、龍にただ盲目的に隷従するというのも、結局は龍に振り回されている、龍によって行動が支配されているという点で同じではないだろうか?
そこで、既存の――外の世界の価値に従う/争うのではない姿、すなわち幼な子の姿、聖なる肯定というものが必要になってくるのではないかなぁ、と。
つまり、
わたしの善はわたしによって定まり、わたしの悪もわたしによって定まる、そして世界はわたしによって認識され、わたしはその世界を肯定する、というような感じ、なのかな?
んー、他人とのバトルが必至な世界な気も…(^^;
ついでにいうと、かなり独我論入ってる気も…
でも、CLAMPも結構近い気が。(自己責任による完全な個人主義、とも言えるし、CLAMPは。自分のために他人を愛し、そしてその責任をとるだけの覚悟を持ってしてなら殺人も悪いことではない、それを決めるのは他人ではない、という論調だしね。)
ただ、上のような聖なる肯定が「必要である」という考えは、やはりそれは「隷従する」「支配される」ことを悪しとする「外の世界の価値観」によってはじめて生まれるものではないかな、というのが一点。
そして、もし自らの内側から「隷従することを悪しとする」という法を課すことになったとしても、それならばどうして他人が内側から「隷従することを善しとする」ことを批判することが出来ようか、というのがもう一点。
まぁ、とりあえず全部読んで、他の作品も読んでみないことにはなんとも言えないけれど。
次。『老子』を読んでいて。
というか、『ツァラ...』と並行して読むものでもない気がするけど(^^;
ちなみに、個人的にはやはりこっちの方が好き。
で、『ツァラ...』を読んでいるからなのか、そっちとの関係から今までとは違った読み方が出来るから不思議。(まぁ、認識のカテゴライズが経験則に依るのであれば、時間が変わってから読まれたものが新しい意味を持ったりするのは当然なんだけれど)
「「為さない」ということを為す」という姿は、やはり自らの肯定であり、あえて隷従する、という姿にもなるんじゃないのかなぁ、と。
結局、読む人の「読み方」というのが読む人によって定まってしまい、敏感な部分、敏感になれない部分の差がはっきり出てきてしまうのではないかな、と思う。(『塩の街』『空の中』のいろんな人のレビューを見ると、ほんとそう思う。見るところがほんと人それぞれ)
どうしても自分が構造主義なもんだから、その理論が使えるのかどうか(社会をよりいい姿に出来るかどうか)という点で多くを判断しようとするものだから、そのラディカルな思考は好きだけれど、世を悪くしそうなニーチェよりは、平穏たれ、という老子のほうが身にあうのかもしれない。
次。「分かる」ということについて。
上で置いといたことを堀返す(^^;
分かる、というのはそもそもなんなのか。
腑に落ちるということ、いや、それはただの言いかえ。
けれどその考えは結構重要。
結局、「納得できるかどうか」という点が問題にされるわけ。
やはりそれは「判断」であり、なんらかの「基準」に基づいて分かる/分からないという判断が行われていると考えられる。
で、たとえば、「りんごは木から落ちる、なんで?」と聞かれて、(そもそもなぜそれを疑問に思うのか、というもの重要な気がするけれど、)「りんごに重力が働いているから」と言えば、大体の人は納得がいく。
けれど、じゃあ「なんで重力が働くの?」と言われると、閉口する。(もちろん、万有引力のせいだけれど、じゃあ、なぜ万有引力なんて(略)となる。)
つまるところ、「なぜ」の質問に答えはなく、(というのも、さらに「なぜ」と聞けるから)しかし人は多くの「なぜ」の質問に対して大抵は納得しうるだけの「理由」を知っている。
じゃあ、そこにある「基準」はなんなのか、というところで、ひとつに考えられることは「予測が可能になること」「コントロールが可能になること」あるいは「実際に自分がその考えを道具として使えるようになること」ではないかな、と。
かなり構造主義的だけれど、上のように考えると十分に納得がいくと思う。
実際、「分かる」ということは、上のようなことが可能になるところまで「分かればいい」んだ、というふうに、「何かを分かろうとしているとき」にこの考えは使える。
(って、これもトートロジーっぽい(^^;)
最後。開集合であり、閉集合である集合、について。
位相数学で、「連結」の定義についてやったときに、「集合Xに、開集合であり、かつ閉集合であるような、φ、X以外の部分集合が存在しない」というのが「連結」の定義であり、一瞬「は?」となった。
というのも、(開集合系の場合)閉集合の定義は{C⊂X|Cの補集合が開集合}であり、これを普通の開集合・閉集合から考えて、開集合でも閉集合でもない集合こそ存在すれ、開集合でも、「開集合でも閉集合でもない集合」でもないならば、それは閉集合となる、と考えていたからだ。
しかし、よく定義を読めば、指定しているのは「Cの補集合は開集合」というのだけであり、「かつ、Cは開集合ではない」というしばりはない! だから、開集合でかつ閉集合という集合が存在することになる。
実際、{1,2}という集合で位相(開集合)を
{φ,{1},[2},{1,2}}
と定めれば、これは開集合の公理を満たしていて、このとき閉集合は
{φ,{1},{2},{1,2}}
となり、(で、これは閉集合の性質を満たしている){1},{2}は開集合であり、かつ閉集合にもなっている。
ここで思い付いたのが、論理の構造。
「正しい」「正しくない」の判断もそれが「カテゴリ」(=同値類)に分類される、というものなのであれば、そこに命題の集合と構造を持つ。で、この集合(と与えられた位相)が連結でないのならば、「正しくて、かつ正しくない」命題(の集合)というものがあることになる。
実際にこれを満たすような集合の構造をちゃんと記述できるかというと難しいだろうけれど、この考えは使えるんじゃないかなぁ、と。