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いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

時間。

2004-11-03 01:11:00 |  Study...
時間についての、自分の考えをとりあえずまとめたもの。

とりあえず、思考実験を。

(問1)
もし時計が一つだけあるだけで、完全に外界から隔離された部屋があるとする。もちろん窓もない。
寝るときに時計は12時を指していて、起きたら9時を指していた。
何時間寝ていた?

(問2)
周りの時間だけをストップさせる魔法を覚えた。
さっそく唱えてみると、みんなピタっと動きを止めた。
時間が再び動き始めたとき、止まっていた人たちは時間が止まっていたと気付くだろうか?

どうだろう?
質問の意図も考えてみて欲しい。



(問1)について。
普通に考えれば、9時間、と推測するしかない。
けれど、寝ている間に誰かが時計を進ませていれば、もっと短いかもしれないし、時計がゆっくりと動いていればもっと長いかもない。
あるいは、一日以上寝ていて、実は33時間寝ていたのかもしれない。

結局、寝ている=意識がない間に時間がどれだけ過ぎたのかについては、外界の情報(この場合は時計)から推測するしかなく、その間に「本当はどれだけ時間が過ぎたのか」は知ることが出来ない。
(お腹がすいてたから、こんなもん、と推測できる人もいるかもしれないけれど、そんな感覚も結局「外界の情報」なわけで。)

このように考えてくると、そもそも何の前提もなしに「時間」なるものがあるのか、という問題がある。普通の感覚だと、「時間」なるものがあり、それにしたがって運動が行われている、となるだろう。けれど、上で見たとおりに「時間」というのは「物が動いていたんだから時間も進んでいたに違いない」と推測することでしか得られない。

例えば、太陽がさっきは東にあったけれど今は真南にある、だから時間が経ったんだ、と推測は出来るけれど、本当にそうだと言い切れるのだろうか?自分の意識のない間に、太陽がすごい勢いで真南に行ってしまっていたという可能性を、どうして消すことが出来るんだろう?

物理とかで運動方程式を習うと、物が時間をパラメータにして運動方程式にしたがって動くように思われるけれど、実際はその逆で運動の様子を運動方程式に当てはめることで時間が得られているといえる。



(問2)について。
じゃあ、物の運動によって時間が定められるのであれば、物の運動が連続であれば、時間も連続であると言い切れるのか、というのが問2の意図。
時間が止まっていたことに、当然止まっていた人たちは気付きようがない。
なぜなら、「時間が止まっている」ということを認識する「意識」が働くためには「時間が動いていないといけない」から。

よくマンガであるように、物の場所が変わっていれば気付く、という意見もありそうだけど、問1での帰結どおり、物が動いていたらそれは時間が(自分の知らぬ間に)過ぎてしまったんだと推測するしかない。(目の前から急にコップが消えていたとしても、今度は時間が過ぎてしまっていたのではなく、コップがワープしたと考えるだろうし。そして、超常現象でワープが起きたのか、それとも時間が止まっていたのかは知ることが出来ない。)

これはさらに言ってしまえば、時間が巻戻りを繰り返していたとしても、それを知ることが出来ないことにもつながる。
例えば、時間があるところまでいって、そこから1日逆戻りをしたとする。でも、時間が戻ってしまえば、時間がそこから1日進んでいたという事実を経験している人は時間が戻ってしまったんだからいなくなり、時間が1日分戻ったことを知っている人はいなくなる。



まとめると、

  1. 運動が時間に従うのでなく、運動から時間が得られる。


  2. 時間が止まっている瞬間というのが存在するかどうかは、知ることが出来ない。


  3. 同様に、時間が逆戻りをしているかどうかは、知ることが出来ない。



「時間が早く感じる」などの問題は、自己同一性の問題と絡んで、現象学的なアプローチで説明が出来る。


思考分析学。

2004-10-01 04:08:00 |  Study...
タイトルは思いつきだけど。
論理学とは異なる、論理展開の「そのもの」の仕方がどうなっているのかを調べていけないものなのかなぁ、と。

といっても、具体的な方法論とか、そもそも何を目指しているところなのかも曖昧なんだけれども。

何でこんなものを考えたかというと、今の論理学だと、どうにも「ニーチェ」における議論や、「嘘つきのパラドクス」「ラッセルのパラドクス」などの、「言及自体についての否定的言及」あるいは「メタ言及の連鎖」を扱えないような気がするから。

論理学は、推論の正当性を調べていく学問だけれど、そこで、どんな論理展開が行われているのかについては抜けていると思う。
例えば、なんらかしらの命題について、真偽が定まるわけだけれども(※二値論理として)、じゃあ、どうやってその真偽を「確かめているのか」という点については、特に言及していない。
あるいは、何らかの推論をして、その推論の正当性の如何は議論するけど、なぜその推論を導き出そうとしたのか、という部分については抜けていると思う。

思考分析学(と仮に呼ぶことにして)の調べる対象というのは、とりあえず論理の真偽などは置いておいて、「人はどうやって考えていっているのか、判断していっているのか(、もしくはその他。この「その他」が存在するのか否かも問題。)」ということ。
これを、おそらく「こういうときは考えているよなー」という場面を想定して、そのとき、どのような段階を踏んで考えていっているのか、というものを分析していく、という形になると思う。
(そして、上のようなものは、「思考」というものの様子を調べていくのだから、その例をたくさん出していって、帰納してみよう、という「思考」に基いている、と分析できる。とりあえずは。)

と、上のように書くと、「『思考』していることの分析」について「思考」している、となり(事実そうであり)、その「思考」について、やはり分析しなければならないように思われ、それすなわち、「メタ思考」について「メタ「メタ思考」」しなければならない…と、やはり「メタ言及」になってしまいそうだが、思考についての分析それ自体を「物事」という変数に入れてしまえば、その「メタ思考」と思われるものは実は「思考」にすぎない、となり、無限に調べるような必要性はなくなる。(すなわち、どのレベルの「メタ思考」についても、「思考」と同レベルに扱える)
(そして、上のような思考は、類推解釈をし、もしそうなら、を試してみよう、という「思考」に基いている、と分析できる。あくまでも、とりあえずは。(というのも、実際に調べていって、パターン化がされているわけではないから)(←で、これ自体は、「これで本当に正しいのか」という疑問により、正しくない可能性が想定できるかどうか、という「判断」に基いている、と分析できる))

そして、「判断」についても、「その『判断』が正しいのかどうか」の判断、と、メタ記述されそうだが、「その『判断』が正しいのかどうか」というのを、「価値」という変数に入れてしまえば、その判断というのは、やはりあるひとつの「価値」についての判断となるので、それはメタな判断でなくなる。

そして、今までの記述の中で、分析される対象として、とりあえず「『思考』の方法(思考の方向付け?)」と「『判断』の方法(物事の価値判断?)」がありそうであり、それを分析していく中でまた新たな対象が見つかっていきそうに思われる。

とりあえず、『判断』については、「物事」から、「物事」の部分空間である「価値」への写像だと考えられそう。
(この思考は、性質の似たものを探す→検証、というものだと考えられる。)


0時。

2004-09-24 08:10:00 |  Study...
時間の「0時」について、思ったこと。

よくよく考えれば、なんで「0時」は真夜中なんだろう?
ふと、そう思った。

というのも、西洋における0時が真夜中なのはともかく、日本においても一番最初の「子の刻」(23時~1時)は真夜中になっている、というのは、よく考えれば不思議でないだろうか?
1年を切り取るときには、太陽暦、太陰暦の2通りの考え方があるのに、一日の始まりについては、そのどちらも真夜中となっている。
また、「一日の始まり」として0時を定めるのであれば、日の出にあわせて0時とするのが自然な気もする。

ただ、実際にじゃあ0時を日の出で定めようとした場合、いろいろと不都合があることが分かる。

まず、毎日日の出の時刻が違うので、0時が安定しないということ。
ただ、これ自体は本質的には問題ではない。むしろ、実用性の上では0時が変動した方が、日の出を基準に行動できるので、なにかと便利かもしれない。

しかし、「時間を定めていく」段になると、困ったことが出てくる。
例えば、日の出を0時、日の入りを12時とし、その間をそれぞれ12等分して時間を決めていくとすると、「昼一時間」と「夜一時間」が生じ、それぞれ等しくないし、年を通しても「夏昼一時間」と「冬昼一時間」が生じ、それぞれ等しくなくなってしまう。
これは、「時間」としては致命的だといえる。

他に方法として、ある日の日の出から次の日の日の出までを24等分して時間を決めていく、という方法も考えられるが、この場合も、微妙ながらやはり「一時間」の長さが変わってしまう。
というのも、例えばある日の日の出が前日より+α秒遅ければ、前日は24時間α秒あったわけで、これを24等分すれば、もちろん一時間は長くなる。
(このようなズレは、真夜中を0時とする方法だと小さく出来る。後述。)

また、同経度にあるにもかかわらず、緯度によって0時が変わっていく、ということもおきる。
これでは、時間帯を定めようにも定められない。(時間帯を定めるに、季節によって時間帯を分ける線が変わってきそう・・・)

毎日の日の出を0時としていくのが問題であるとするならば、特定の一日、例えば春分・秋分の日、冬至など、の日の出を基準にするのはどうだろう?

この場合、確かに「一時間」の長さが変わってしまう、ということは避けられるが、一時間という長さを決める機会が一年に数度のみになってしまうのと、依然として緯度によって0時が変わってしまう、という問題が残る。

つまり、日の出基準の0時は、
1、ローカル使用で
2、「一時間」という長さに正確性を求めない
のであるのならばまだしも、そうでない場合には使えないことが分かる。

逆に、真夜中を0時にする方法――これは、0時から日の出までと、日の入りから0時までがほぼ等しい時間であることを「逆に」考えれば、「日の入りから日の出までの時間の、ちょうど中心を0時とする」というふうに定める方法である――であれば、上のような問題は解決できる。

すなわち、同経度であれば南中時刻が同じであるように、日の出、日の入りの時間が緯度によって違っていても、その「真ん中」の時間は変わらないことになる。
よって、時間帯というものを定めることが可能になる。

また、日の出、日の入りの時間の誤差についても、ある日の日の出が前日に比べてα秒{早く/遅く}なり、その日の日の入りが前日に比べてベータ秒{遅く/早く}なったとすると(普通に考えて復号?同順)、そのときの一日の長さの誤差は
|α-β|/2
であり、当然
|α-β|/2 <= max{α,β}/2 < max{α,β}
で、α≒βの時、
|α-β|/2≒0
となる。
つまり、最大でも日の出を0時とするときの半分程度の誤差で、かつほとんどα≒βだと考えられるから、その誤差は無視できるほどに小さくなると考えられる。

そして、特定の日に依らないので、どの日でも0時を定めることが出来る。

もちろん、同様にして南中時刻を0時とすることも出来るけれど、それでは働いている途中で日付が変わってしまって、昔の人の感覚として(というか、今もそうだけど)おかしく感じられたのだろう。

以上のことを踏まえて、この方法(日の入りと日の出のちょうど中心を0時にする方法)が用いられ、そしてそれゆえ0時は真夜中なのだと考えられる。


Pure再考。

2004-09-23 12:06:00 |  Study...
Pureであることについての再考。
前回のはコレ。

さて、前回、Pureに「戻れるかどうか」の議論において、「Pureに戻ろうとすること」自体が、「穢れ」を知らなければ出来ないので、Pureであろうとする限り、Pureにはなれない=Pureであることは不可逆、という結論を出した。

しかし、『これがニーチェだ』(著、永井均 講談社現代新書)(←ちなみに読み途中)のアクロバティックな議論に触れるうちに、逆説的な可逆性が見出せた。

そもそも「穢れ」とは何であるか、といったことを考えるに、穢れなるもの(客観的存在)が存在するのではなく、それはある共同体における共通の認識によって作り出されるものであり(共通認識による存在)、それゆえ「穢れを知る」とは、それが穢れと「される」ことを知ることである。
日本という共同体におけるは、それすなわち「恥」を知ることに近いと思われる。

さて、そうすると、穢れていく、とは、穢れとされるものを知っていったうえで、穢れとされる行動をすることだろうか?
いや、そうではないだろう。
例えば子供がPureである、といわれるのは、ある行動において、その行動が「穢れとされる」ものであるにもかかわらず、それが「穢れとされるもの」であると知らないがゆえに、Pureである、とみなされるのだ。
言うなれば、「恥」を知らないのである。そして、それゆえにPureなのだ。

そして、逆に言えば、「穢れていく」とは、つまりPureであることが出来なくなっていくことに他ならず、すなわち「恥」を知り、「穢れとされる行動をとらなくなっていく」ことに他ならない。

なので、「Pureになろうとする」行動――「穢れをなくしていこうとする」行動は、「穢れとされる行動をとらなくしようとする」行動に他ならず、それはPureになるのとはまったくの逆方向に向かうことになり、それではPureにはなれない。
これは前回の帰結と一致する。

しかし、だからこそ逆に、「Pureになろうとしなければ」――穢れとされる行動を「意識的に」避けたりしなければ、いかなる行動にも「恥」を感じなければ、それは、(本人はともかく)周りにはその行動からしかその人の心理状態を図ることが出来ないので、「穢れとされる行動を知らない」もしくは「恥を知らない」と見なすことしか出来ず、それゆえその行動はPureである、といえることになる。
もちろんその姿は、「穢れとされる行動」を知る人たちからは「穢れている」と見なされるであろうが、しかしその姿こそ「Pureである」姿に他ならない。

つまり、「穢れとされる行動」を「しないようにする」というのは、一見「Pureになろうとしている」ように見えて、実際はまったく逆の方向に進んでいて、それゆえPureにはなれず、しかし「穢れとされる行動」を「意識的に」避けなければ、その姿は一見「穢れている」ようだが、実際はPureなのである。

ただし、それを「狙って」することは、すなわち「『Pureになろうとしない』ということしようとする」ことは、上のようなことを知った上(つまり、「Pureになろうとしない」ことがPureであることなんだ、ということを知った上で)で「Pureになろう」としていることに他ならないから、その姿はPureではない。
つまり、「Pureになろうとする/しない」のどちらにおいても、そこに能動性が生まれた時点で、その行動はPureではなくなると言えるのだろう。


Pure。

2004-09-18 18:59:00 |  Study...
Pureであることの、不可逆性について。

サークルでpure部なるもの(いわく、pureでなくなってしまった人たちがpureになることを目指す部)が出来て、チャットでその話が出てふと思ったのは、pureである、ということは、可逆なのか、不可逆なのか、ということ。
すなわち、
一度、『pureでない』状態になってしまったときに、再び『pure』な状態に戻れるか否か
ということ。

pure部の主張は、汚れてしまった洗濯物も、洗えば再びきれいになる、すなわち、可逆である、というもの。
しかし、例えば消しゴムで文字を消し、その消しかすを集めたところで再びきれいな消しゴムに戻すことは出来ない、と考えれば、不可逆ともいえる。

ここで、pure→pureでない、という過程は、どう生まれてくるかを考えてやる。
前者の例えは、すなわちpureでないものを身に付けていくことでpureでなくなる、という例えであり、後者の例えは、身をすり減らしていくことでpureでなくなる、という例えだ。

実際がどっちであるかがはっきりとしていれば、どちらの例えが正しいのかが分かり、それゆえ可逆性如何も決まってきそうだけれど、実際のところ、このどちらも起こっていると考えられる。
そうであるならば、前者の過程による穢れが例え取り除かれたとしても、後者の過程が起こっている以上、一定以上の穢れは蓄積していき、一番最初のpureな状態に戻ることは絶対に不可能であるといえる。

ところで。
仮に後者の過程が行われないとして、それでなら完全にpureな状態に戻れるのだろうか。
どうやら、これも怪しいと言わざるを得ない。
というのも、『完全にpureな状態』とはすなわち、『穢れを知らない状態』であり、そうであるならば、pureの対立項の穢れという概念が存在しないと同時に、pureという概念も存在しないことになる。
つまり、『完全にpureな状態』とは、『“自身がpureである”ということを知らない状態』であるといえる。

そう考えると、pureになろうとする、ということは、最終的には“pureになろうとすること”を忘れようとする壁にぶつかることになる。
つまり、『pureになろうとする』というのは、『その時点で依然穢れを知っている』ことであり、そしてそれ自身が『穢れ』であるといえるのだ。
なので、仮にその穢れが取れたとしても、今度は穢れが何かすら知らない状態になり、かつ『pureであろうとする』穢れもなくしてしまっている(これはpureであること自体を知らないので、当然)ので、すぐにpureでなくなってしまうと考えられる。

したがって、pureであるということは、不可逆であると考えられる。