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いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

柱状グラフと平均。

2005-05-01 05:46:00 |  Study...
『電波男』を読んでいて、本文とは関係ないけれど気付いたことが一つあったので。

何かというと、タイトルにあるとおりで、柱状グラフから平均を求める方法がある、ということ。
うーん、我ながらこの本読んでいて数学のことを考えるとは、ちょっと病的かも。

そもそも何でこんなことを考えたのかというと、『電波男』の29ページにあった図で、それはまぁ本田透さんが推測する“年間セックス回数平均46回”の内幕の図なんだけれども、横軸には回数、縦軸には人数がとられていて、0回と100回の辺りが極大、50回の辺りが極小になっているわけです。
んで、こうなっているから本当はそんな人はあまりいないのに年間46回というのが平均として出てくる、と。

それで、この図をパッと見たときに「平均」と聞いて自分が最初にイメージしたのはこの図をならして平らにすることだったわけですよ。
言葉だと分かりにくいかもしれないから式で言うと、
y=f(x) (y:人数、x:回数)
となっていて、
∫f(x)dx=∫kdx (kは定数)
となるようなkを求めようとしたわけです。
普通の棒グラフから平均を求める方法というのは、全体の合計を足して個数で割る、すなわち上の式のようなことをやればいいので、ついそれに従って考えてしまったわけです。

けれど、よくよく考えるとそれでは平均は出てこない。なぜって上で求められるkというのは人数であり、各回数における平均の人数というのを出すのに過ぎない。んで、そんな人数の平均を出したって何の意味も無いわけです。

ここではじめて気がつくのが、今出そうとしている平均というものが縦軸のものでなく、横軸のものである、ということ。
だから、普通の棒グラフのときの方法ではダメで、別の方法を考えなければならないわけです。
けれど、「ならす」というのは横軸の場合は使えないですし(具体的にどうやるのかが出てこない)、横軸を縦軸にしたってダメだし(つまり横軸に人数、縦軸に回数をとってならしてもそれは平均になっていない)、かといって棒グラフを各人ごとに書いていってならす、というのでは手間がかかります。
せっかくだから元のグラフからパッと分かるようにしたいわけです。

ちなみに横軸に値(や値の範囲)、縦軸に人数(や個数)をとるグラフを柱状グラフというわけですが、これはテストの点数や体力測定の結果を表示するのによく使われているわけです。
で、テストの点の分布の図とかを思い浮かべて欲しいわけですが、グラフを見れば感覚的に、ここら辺が平均だよなぁ、というのはなんとなく分かるわけです。けれど、根拠は?、と言われるとそれを示すのはなかなか難しい。

実際、一番最初の本田さん図の例で、0回と100回が同じくらいの人数がいるのであれば平均は大体50回くらいだと思える(で、実際に正しい)わけですが、これが少し複雑化すると――例えば、“0回と75回の人しかいなくて、平均が50回になっているとき、0回の人数が50人だとしたら75回の人は何人いるの?”とかいう状態になると、ちょっと考えただけでは答えが分からないわけです。
(ちなみに正解は100人。というのも、75回の人二人が50回になれば、浮いた分の25回×2の50回が0回の人一人にいき50回になる。つまり、0回:75回=1:2という関係がある)

それじゃあ、どうやれば簡単に柱状グラフにおける平均を出せるのかなぁ、となるわけです。

実は、一般論を出すためにとりあえず計算してみるのが正解です。
平均というのは(数量の合計)÷(個数)ですから、それぞれを出しましょう。
数量の合計というのは、x回の人はf(x)人いるわけですから、Σxf(x)回、個数というのは人数の合計ですから、Σf(x)です。
xが整数値だけをとる場合は上でいいのですが、せっかくだから実数値をとってもいいようにすれば、それぞれ∫xf(x)dx、∫f(x)dxとなります。
したがって、回数の平均は
(∫xf(x)dx)/(∫f(x)dx)
となります。

これだけでは、何をしてるのやら、という感じですが、ここでそれぞれが何を意味しているのかを考えてやると、すごいスッキリした結論が導けます。

とりあえず、y=f(x)とx軸とで囲まれた部分をダンボールとかで形作ってやったとしましょう。
すると、このダンボールの重さは∫f(x)dxで表せます。(本当は定数kが必要だけれど、結局消えるので無視)
また、このとき∫xf(x)dxが何を意味するのかと考えると、f(x)が原点から距離xのところのダンボールの重さなわけですから、距離×重さ、すなわちこれは原点周りのモーメントになっています。
そして、このとき(∫xf(x)dx)/(∫f(x)dx)の意味する物といえば、(原点周りのモーメント)÷(重さの合計)、すなわち重心の原点からの距離に他なりません。
だから実は、柱状グラフにおける平均とは、グラフにおける重心のx座標なわけです。

上の事実は結構使えます。
というのも、元のグラフがあれば、そのグラフの形を何かで切り抜いてやりさえすれば重心は簡単に求まる(紐で2回つればいい)ので、めんどうな計算をすることなく平均が求まってしまうわけです。
なんとなく、の平均の出し方にしても、このグラフの重心を見つければいいんだな、という方針がしっかりするので、間違えることも少なくなります。
(実際、さっきの問題でも、中心(50回)からの距離が0回は50、75回は25、すなわち2:1であるので、重さ(人数)は逆比の1:2になるとすぐに分かる)

ちなみに小学校で出てくる柱状グラフというのは値でなく範囲であることが多いのですが、範囲の中心の値を代表の値として平均をとる、という考え方をするのであれば、やはり同様の方法で平均が得られます。

すでに知っている人には何を今更な事なのかもしれないけれど、平均を求める式が重心の式と同じ形をしているのに気付いて、おぉ、とちょっと感動してしまった自分がいたりw


2次元、3次元?。

2005-04-26 19:37:00 |  Study...
どうも心に少年少女の輝きをのkagamiさんと404 Blog Not Foundの小飼弾さんがバトっている感じなんだけれど、それに関しての所感。

議論は「電波男」(本田透 著)の内容に関するもので、
Give women a chanceがことの起こり。
それに対してkagamiさんが正と誤、好きと嫌い -電波男に対する批判的考察は何を意味するか-という批判をして、そのエントリに対して小飼弾さんがいぬからひとへと反応。
これに対してkagamiさんが再び単眼の現実、複眼の芸術 -小飼弾氏への応答-と応えを返した、というのが現状。

なんとうか、やはりkagamiさんの理論武装が、というか、ニーチェの言説が強力すぎて、小飼弾さんは正直かなわないんじゃないかなぁ、と。(正直、kagamiさんには議論を挑みたくない。。。)

とりあえず、議論を追ってみる感じで。

まず、Give women a chance
小飼弾さんと本田透さんは似た境遇であるが、片方は3次元に家庭を築き、片方は脳内に家族を築いた。二人を分けたものは何なのか、という提示。(ここで、小飼弾さんは自身をDQNといっているが、よく読めば本田さんは脳内へ「逃げた」、と言って自身はたしかにDQNかもしれないが本田さんには勝っている、と考えていることが分かる。つまり、上の問いは何が「小飼弾さん>本田さん」とさせたのか、と読み替えられる)
小飼弾さんはその答えとして「母」の存在を挙げた。ただし、たとえ母が愚母であったとしても、「賢母の息子>愚母の息子」とはならず「がんばれば」愚母の息子だって賢母の息子に勝てることをマンガを引用して言っている(けど、正直この引用は分かりにくすぎ、論点が見えなくなる。実際、引用の終わりの方には小飼弾さん自身が、何のためにこの引用をしたのかを忘れてしまっているようにさえ見える)(と、同時に、実際上のことを言うためにした引用なのに、上のことがぜんぜん言えていない)(かつ、特に何もしなければ「賢母の息子>愚母の息子」であるのは当然である、という態度がある)
で、引き篭もりたいなら引き篭もったっていいんだ、と「電波男」で述べたのは画期的だ、と譲歩した上で、けれど本田さんは「電波男」を「批判されうる世界」へ出してしまったんでしょ(=本当は3次元の価値で評価されたいんでしょ)、という揚げ足をとるような形で、かつ、女は怖くないよ、迷惑かけたっていいんだよ、3次元は怖くないんだよ、だからもっと3次元へ挑戦してみな、と述べる。
(そして同時に、自分は2次元へ逃げず、3次元に挑戦しているんだ、というスタンスを取ることで自らの優位性を保とうとしている)

対して、正と誤、好きと嫌い -電波男に対する批判的考察は何を意味するか-
上で自分が時折つけたカッコ内の批判と同様、3次元>2次元という捉え方で自身の優位性を保とうとしている小飼弾さんの態度を批判。

二次元にコミットメントすることを小飼弾氏はエントリで「逃げる」と書かれておられますが、こういった思考形態こそが電波男で批判されているものなのです



そもそも2次元だって楽園ではなく、そこには憎しみと悲しみが存在するのであり、2次元を志向することは逃げではないのだと主張。
そこには正も誤もなく、あるのは好きや嫌いといったものであり、自身を優位にするために形而上学的な正・誤を捏造するのはどうなのか、と批判している。
(けれど、そもそも「2次元への志向は逃げではなく、好みの問題なんだ」というのは、一般的な2次元<3次元、という価値観を転換させる捏造の一つにはなりえないのか、という問題が出てくる。かつ、それが好みの問題であるとするならば、なぜわざわざ批判するのか、という問題が出てくる(というのも、好みの問題だと思っているのならば、2次元<3次元だ、といっている人がいるならば、それがその人の好みなのだから、勝手に言わせておけばいいや、となるから)。強力な言論ほど、それは自らの首を絞める。。。)

んで、いぬからひとへ
でも、後半部分は本田透さんのいう「素人童貞」に関する話題で、取り上げるに意味がない。んで、そのあとの「反論に戻ろう。」以下の部分は反論として全くの意味をなしていないので無視。
重要なのは下の部分だけ。

好き嫌いに関わらず三次元は逃れ得ない現実であり、少なくとも「二次元の器」として必要であり、「二次元を悟る」ためにもあえて三次元世界の探求を本田氏はさらに進めるべきではないか



まぁとりあえず、Give women a chanceで上のことは言えてないでしょ。
でもそれじゃしょうがないので、仮に上のことを言っていたと仮定したとしても、引っかかる点が何点か。
まず簡単な方で、なぜ小飼弾さんが本田さんに対して「~すべき」と言うことが出来るのか、ということ。一方で2次元だっていい、というのを認めるような態度を取りならが、結局「2次元に逃げたっていいけれど、だったらせめて3次元も探求して2次元を悟るぐらいにはなるべきなんじゃない?(自分はそもそも2次元に逃げないけれどね)」と自分の優位性を保とうとしているだけに過ぎない。
それと、“3次元は逃れ得ない現実であり、少なくとも「2次元の器」として必要”という記述。そもそもなぜそこまで3次元と2次元を区別しようとするのか、というのもあるけれど、注意すべきはそこで用いられている「現実」という言葉の裏側にあるイメージ。
まぁ、それは後回しで。

んで、単眼の現実、複眼の芸術 -小飼弾氏への応答-
3次元と2次元に優劣の差などないけれど、それを「嘘をついて」3次元を優位に見せようとしている、と批判。(けれど、その根拠がちょっとずれている。“三次元は逃れ得ない現実であり、少なくとも「二次元の器」として必要”というのは、物理的に3次元世界がないと2次元世界は存在できない、と言っているのに過ぎず、それ自身には優劣の言及はなく、かつ批判も出来ない。問題はそこではなく、3次元と2次元を区別して扱おうとする態度。前回のエントリでは自身でそこを指摘しているのに、小飼弾さんにごまかされている気がする。)
そして、(読みにくいけれど)2つの意味で「現実」という言葉を使っていることが分かる。(本人に自覚はあるのかな?)
一つは小飼弾さんの言うところの「現実」であり、それは3次元を意味し(=単眼によって見えてくる現実)、もう一つはそのまま引用すれば『複眼の現実』。これは受け取り手の存在を考え、受け取り手の内部に生成される『現実』を指すのでしょう。(けれど、それを「現実」と表現するのが妥当なのかというと、それは微妙な気が。ここも、それを「現実」といってしまうとどうにも小飼弾さんのペースにはめられてしまう気がする。)

まぁ、まとめると上のような感じでしょう。

やはり、結局のところ2次元と3次元の優劣を争う議論に終始しているような気がするわけです。小飼弾さんは3次元の優位を保とうとすることで自身を勝者としようとしているし、対してkagamiさんは2次元、3次元に優劣なんかないんだ、ということを主張し、(ここが重要なんだけれど)結局2次元<3次元としか「見れない」小飼弾さんを敗者にしようとしている。
いうなれば、それぞれが「力への意志」を貫いているだけ、という感じですね。(って、「力への意志」の使い方が間違ってたらスイマセン。

ただ、そういう意味では、小飼弾さんは当然なんだけれど、kagamiさんの方も「自身が」いったい何を示したいのか、という点に関して無反省かも。
これはさっきも指摘したとおり、kagamiさん自身は、小飼弾さん自身が「何を示したいのか」に無反省である点に対して最初に批判したわけだけれども、じゃあその言論自身は、その言論が「何を示そうとしているのか」というのに対して無反省な気がするわけです。
いつの間にか小飼弾さんの言葉にごまかされて小飼弾さんの土俵で闘っている感じになってしまっているし。

まぁ、それはおいておいて、ここで考えたおきたいのが、さっき後回しにした「現実」という言葉の裏側にあるイメージ。
2次元、3次元という言葉に惑わされてしまいそうだけれど、本質はそこじゃない。本質は、その世界が人を「傷つける」かどうか。
そして、小飼弾さんの持っているイメージとして、
3次元=現実=世界は人を傷つけうる
2次元=虚構=世界は人を裏切らない
というのがあるのだと思う。
だからこそ、3次元で傷つけられた人は2次元へ「逃げる」という発想が生まれてくる。

で、実際これはkagamiさんが最初の批判で

三次元(常識的規範の世界)に憎しみと悲しみの苦悩が存在するように、そことは別の場である芸術的な諸空間(オタ文化、その他文化世界)にも、また憎しみや悲しみは存在しますよ。楽園などどこにも存在しない。



と述べているところから、kagamiさん自身は小飼弾さんの持っているイメージに気付いている、というか、そういったイメージが普通わけで。

そして、「普通」という言葉が示すとおり、オタクの2次元への志向の多くは、3次元からの、というよりは、「傷つけられうる世界」からの逃避であることが多いのでしょう。
もちろん、kagamiさんのように憎しみや悲しみから逃げたいのではなく、単純に2次元の世界がより好きだ、といいきれる人もいるのでしょうが。

ただ、ここでしっかり見て欲しいのが、結局のところ3次元とか2次元とかの次元の話しではなく、小飼弾さんが批判しているのは「人を傷つけない世界への逃避」であり、kagamiさんが批判しているのは「人を傷つけない世界への逃避」=「2次元への志向」と安直にみなして自身の優位性を保とうとしている小飼弾さんの態度なわけです。
kagamiさんは「人を傷つけない世界への逃避」を認めるようなことは言ってないわけです。

そして、安直に「人を傷つけない世界への逃避」=「2次元への志向」としていますが、そもそも「人を傷つけうる世界への挑戦」=「3次元への志向」となるのでしょうか?
そう考えると、たしかに2次元には逃げてないけれど、3次元でも出来る限り他人と距離をとろうとするという態度だって十分批判されうるものになります。そして、そのことからも上の等号が安直には成り立たず、結局自身の優位性を保とうとするがゆえに生まれた幻影であることが示されるわけです。

そして、二人の議論の2次元、3次元に関するところの結論として、小飼弾さんは「2次元<3次元」、kagamiさんは「2次元、3次元に優劣はない」とまったく別のものに見えますが、そういった次元にごまかされなければ、結局二人とも「逃げる行為<挑戦する行為」となっているのが分かります。
小飼弾さんの方は逃げる行為=2次元、挑戦する行為=3次元、と安直にしたがゆえに上のような式が現れ、対してkagamiさんは2次元の世界にも(3次元の世界にも)逃げる行為と挑戦する行為がある以上、優劣の決めようはない、という結論になったわけです。

(そして、自分はこの文章を書いて何を示そうとしているんだろう?という問いが出てきうるけれど、結局いかなる理論を作ったとしてもそれが「逃げ」なのかどうかが最終的には重要になる、ということを示したかったのかなぁ…?


時代性と文化の関係。

2005-04-19 02:49:00 |  Study...
歴史の必然性?。および歴史の必然性?(2)。の続き。

さて、とりあえず前回の帰結をまとめてみましょう。
すなわち、

物事に必然性は無いけれど、一度起きて「歴史」として語られてしまえば、あたかもそれが起きるのが必然で「あった」かのように見えてしまう。



ってな感じですね。
この帰結自体は今回の議論には直接は関係ないのですが、まぁ後々関係してくるので。

さてさて、前回やり残した、

ただし、じゃあなぜB≠B'なのにB'にはB'という名前がつくのか?というところに目がいく人は、するどい。



という文についての考察をしていきましょうか。

そもそも、なぜ上の文が引っかかるのか、というところをまず説明しないといけない気がします。
なぜって、事実として仮に現実世界がA→B→C→…として変化していったとして、(だからといって次にDが来るとは予想できない。むしろ、次に来たものがDと名付けられると考えた方がいい。これは前回の帰結。)また漫画世界がA'→B'→C'→…と変化していったとします。
このとき、なぜBとC'を比較しないのか?
もしかしたら、B≠B'であったとしても、B=C'であるかもしれないわけです。
けれど、普通BとC'は比べない。
そして、本当のことを言うと比べるべきでもないのです。(もちろん、可能ではありますが)

実は、というか、自分のエントリはなんだかんだで縁があるものが多いのですが、(そしてなんで縁が出てくるのか、というのを考えれば、それはそれで面白いのですが、)以前書いたメモ。の2つ目、同一性に関わることのメモを見ていただければ分かるとおり、何かと何かを比べる、というときには、特にそれが時間と関係してくるものである場合には、何らかの軸(それは時間であったり、物であったり)を固定した上で比べていかないといけないわけです。

よく「あの人は変わってしまった」とか言うわけだけれど、これはあくまで一性質について変わってしまった、ということに過ぎない。というのも、もし全てのものが変わってしまったんであれば、どうしてその2つのものを比べることが出来るだろうか?
すなわち、何かが変わる、というのは、何か変わらないものがあってこそ分かるわけだ。




それでは、BとB'に共通するものは何なのか?
少し考えれば分かるとおり、それは「時間」です。
だから、よくよく考えてみればA→B→C→…というのは、時間tに関する写像であり、その写像をfであらわせば、f(t_1)→f(t_2)→f(t_3)→…、同様にA'→B'→C'→…というのを写像gであらわせば、g(t_1)→g(t_2)→g(t_3)→…となります。
だからこそ、BとB'を比べるわけであり、またB≠B'であるのに、B'をB'と書くわけです。(t=t_2で等しいから)

さて、上のように書いてやれば、たとえtが等しくてもf(t)=g(t)とは限らない、というのは明らかです。
だから、上のようにしっかりとモデル構築をしてやれば、最初に行ったような議論は嘘であることが分かります。(だからといって結論まで嘘とは限りません。“誤った推論をしたならば、結論も間違いであ”る、という命題は偽です。事実、しっかりしたモデルを作っていけば正しい(というか、そもそもの議論が無意味だ)と分かります。)

ただし、よく見て欲しいのは上の=(イコール)の使い方です。
無反省にこういった使い方をしてきましたが、じゃあそもそもf(t)=g(t)というのはどういう状態なんでしょうか?
というより、f(t)とg(t)は=で結ぶことが出来るのでしょうか?

やはり先ほど挙げたメモ。の2つ目、同一性に関わることのメモなのですが、なにか2つのものを比べようとするならば、まずその2つが同じ集合に属している必要があります。
ならば、f(t)∈Aかつg(t)∈Aとなる集合Aとはなんなのか?
また、よくよく考えれば、f(t)とg(t)において、ここは同じだけれどここは違う、というのが存在することを考えれば、f(t)やg(t)が(性質の)集合であることが分かります。

さて、以上のような要求を満たすようなモデルを構築する必要があります。
ただし、このように構築されたモデルはあくまでも十分条件として構築されたモデルにすぎず、必要性(必要条件)は満たされません。(=これから述べるようなモデルを構築することによって上の要求は満たされるが、上の要求が満たされるからといってこれから述べるモデルになるとは限らない。すなわち、違うモデルが存在する可能性がある。)

どのようなモデルか、というと、すなわち次のようになります。
(要素の)小さい方から構築していくと、
X:={x|xは性質}
T:={t|tは時間}
ここで、
T⊂Xとします。
これは時間というのが性質の一つであると考えるのが妥当であると考えられるからです。

次に、物、文化というものを定義していきます。

物というのは性質の集まりであると考えられますから、
m={t,x_1,x_2,…,x_n} (ただし、t∈T,x_i∈X,1≦i≦n)
と定義できます。
またこのとき、物全体の集合を
M:={{t,x_1,x_2,…,x_n}|t∈T,x_i∈X,1≦i≦n,n∈N}
と定義します。

同様に、文化というのは物の集まりであると考えられますから、
c={m_1,m_2,…,m_n} (ただし、m_i∈M,1≦i≦n)
と定義できます。
またこのとき、文化全体の集合を
C:={{m_1,m_2,…,m_n}|m_i∈M,1≦i≦n,n∈N}
と定義します。

これで土台は終わりです。
次に写像を定めていきます。

まず、ある時間tにおいて存在する物全部を集める写像、いうなれば「時代全体」を得る写像aを定義しましょう。
a:T→C
a(t):={{m_1,m_2,…m_n}∈C|t∈m_i,1≦i≦n}

また同様に、ある性質を含む物を全ての集合(=ある条件を含む文化)を取り出す写像、いうなれば「ジャンル」を得る写像jを定めます。
j:X\T→C
j(x):={{m_1,m_2,…,m_n}∈C|x∈m_i,1≦i≦n}

上のように定義したところで、物・文化のときと同様に「時代全体」の全体、「ジャンル」の全体を定義しておきましょう。
A:={a(t)∈C|t∈T}
J:={j(x)∈C|x∈X\T}

さて、ここまで定義して気がつくのは、「時代全体」というのは今までの議論でいう「時代性」というにはあまりにもでかすぎる、ということです。
そこで、時代性を定義したいのですが、普通に考えれば、時代全体の中でとくに重複の回数の多い性質が集まったものを「時代性」と定義しそうです。
ただし、この「重複回数が多い」というのは恣意的にならざるを得ない(ここがポイント)ので、ある変数Lを用いて次のように定義することになります。
s:T×C×N→M (Nは自然数全体の集合)
s(t,c,L)={{t,x_1,x_2,…x_n}∈M|#(a(t)∩j(x_i)∩c)≧L,1≦i≦n}
(ただし、#(N)は集合Nの要素の個数を意味する)

このように定義すると、時代性というのは、集合のレベル的に物の集合と同じであることが分かります。だから、その意味で比較が可能なわけです。

大体定義はこんなものです。
このモデルを使っていろいろと調べていきます。
それはまた後で書きます。。。


歴史の必然性?(2)。

2005-04-07 02:26:00 |  Study...
歴史の必然性?。のつづき。

さてと、つづきです。
前のエントリでは2つのことをほったらかしにしていました。
すなわち、

もちろん、そんな必然性が本当に存在するのか?という問題もあるけれど、それは後回し。



のところと、

ただし、じゃあなぜB≠B'なのにB'にはB'という名前がつくのか?というところに目がいく人は、するどい。



という2つの文。
んで、実はこの2つについて議論していくと、直感的に得られる(けど、論理的ではない)前回の帰結が、それほど間違ってもいないということと同時に、そもそもそういった議論には意味が無いということが出てきます。

あー、ただ、今回の議論も論理的ではないです。
なぜなら、最後に行うのは「論理的に判断できるところを越えたところ」での議論、というよりは、判断、になるからです。
もちろん、それぞれの「モデル」においては論理的になるんですけれど。
まぁ、そこら辺は最後の方で話しましょう。



いきなりですが、問題です。

S社の株価が今どんどん上がっていっています。S社はつい先月新製品を発売したばかりでした。
(1)S社の株価が上がっていっているのは、なぜですか?説明しなさい。
(2)あなたはS社の株を買うべきですか?買わないべきですか?どちらかを選び、選んだ理由を答えなさい。
(3)もしあなたの前に未来人がやってきて、「S社は明日新製品に欠陥が見つかる」と教えてくれましたとしたら、あなたはS社の株を買うべきですか?買わないべきですか?正しい方を選び、理由を答えなさい。



中学入試の問題みたいですね(^^)
解答例は次のようになると思います。

(1)先月発売した新製品が人気で、この先も株価が上がっていくと多くの人が判断し、株が買われたから。
(2)買うべき、を選んだ→S社の株はこの後もまだ上がっていくと思うから。
   買わないべき、を選んだ→すでにだいぶ上がったので、そろそろ止まる頃だと思うから。
(3)買わないべき。なぜなら、欠陥が見つかったことでS社の株価は落ちると判断できるから。



ここで重要なのは、(2)においてはどちらを選んでも理由がしっかりと書けていれば正解になる、ということです。(ただし、買わない理由で、S社で欠陥が見つかるから、と書いたら間違いになります。)

それと、(3)については「おかしいんじゃないか?」という声が聞こえそうです。というのも、欠陥が見つかったからといって株価が落ちるとは限らないからです。だから、いくら欠陥が見つかると分かっていても、実際に株価がどうなるかはそのときになってみないと分からない、という反論が利きます。
それでは(4)(5)を次のように出題してみましょう。

未来人が来た次の日にS社の新製品に欠陥が見つかりましたが、S社はその欠陥を直したさらなる新製品を発表し、欠陥品はその新製品と交換することになりました。
(4)株価は結局下がっていってしまいました。なぜですか?
(5)株価は結局上がり続けました。なぜですか?



解答例は、

(4)欠陥があった、というのがイメージを悪くし、新製品を出してもそのイメージが拭えなかったから。
(5)欠陥を忘れさせるほど新製品が魅力的だったから。



とかでしょうか。

さて、これをじっくりと分析していきましょう。
(1)は現在から過ぎ去った過去を見て、理由を答える問題です。
(2)は過去の状態から未来の状態を予想しなさい、という問題です。未来はまだどうなっていくのか分からないのですから、答えはどちらを選んでも、理由さえしっかりと言えていれば正解になります。
(3)は未来の状態を推測するに重要な情報を得たとして、現在から未来の状態を推測しなさい、という問題です。基本的には正解は一つですが、上ですでに述べたとおり、その答えが本当に正解なのかどうかは実際にそのときになってみないと分かりません。
(4)、(5)は起こりうる2つの未来のうち、片方が確定したときにおいて、振り返ってみて何がその片方を確定したのか、というのを答える問題です。

これを見て分かることは、まず(2)で、いくら過去から未来のこと推測してみても、それはあくまで推測であるからいろいろな可能性が残っていることが分かります。それは(3)のように未来についてかなり高い確率での予想が立っている状態においても、未来のことはあくまで未来のことで、実際にそうなるのかどうかは、そのときになってみないと分かりません。
でも、実際にそのときになってしまえば、それ以外の可能性はもはや可能性ですらなくなってしまい(こうなるかもしれない、は、こうなっていたかもしれない、になる)、振り返ってその現実になった(いくつかある可能性から、その可能性のみが選ばれた)理由を考えることが出来ます。

つまり、現在において、未来の可能性と、その可能性を生み出す要因はたくさん存在するわけです。けれど、いったん未来が未来で無く現在となってしまえば、他の未来の可能性は無くなってしまう。
同時に、その未来から現在を振り返ってみれば、たくさんあった「未来を生み出す可能性のある要因」というのは、もはや「未来を生み出す可能性のある要因」ではなくなってしまい、そのうちいくつかが「その未来になった理由」としてピックアップされるわけです。
その結果、決まってしまった未来――すなわち現在から見れば、過ぎ去ってしまった現在――すなわち過去において現在以外の現在があったかもしれないという可能性というのは、忘れられてしまう。

実際、(4)が現実になれば、原因として省みられるのは当然「S社の新製品に欠陥が見つかったから」ということのみであり、(5)という現実があったかもしれないという可能性は忘れ去られ、結果として「S社は新製品を出して株価が上がっていたけれど、欠陥が見つかり株価が落ちた」ということのみがまるで必然であったかのように見えるようになる。

この「まるで必然であったかのように見える」というのが重要です。
そんなことはない、と思う人がいたら、それはあくまで自分が(4)、(5)という風にパラレルワールドの可能性を考えられるように出題したからにすぎません。
実際(1)の問題を見てください。誰もこの問題を考えるときに「株価が上がり続けている」という現在以外の現在を考える人はいないでしょう。ただ単純に、「株価が上がり続けている」という現実を説明しうるに十分なだけの「理由」を過去の事実(これは「なりえたかもしれない現在を作り出したかもしれない要因」の集まりですね)の中から「探そうと」するだけのはずです。

だから、本当のことを言えば、過去にある事実間に「原因ー結果」という関係は無く、実際にあるのは「過去にこうだった」という事実だけなんです。けれど、人はその事実の間に因果を作りたがる。すなわち、“これこれこうだった。だから、これこれこうなった”と。
ようは、過去がそう進んでいったことに対して、自分が納得しうるだけの「理由」「原因」を見つけ出そうとする。そして、その連続によって生まれる「物語」――すなわち『歴史』というものを作らずにはいられないわけです。
もちろん、そうやって作られた『歴史』は、そう進むことが当然であったと思えるように作られているのであるから、過去に起こったことに対してそれは当然であったように見えわけです。

例えば、過去Aというものがあり、この過去Aが原因で過去Bが生まれ、過去Bが原因で過去Cが生まれ、という歴史があったとします。
けれど、これは実際は、過去Cがあって、どうして過去Cのようになったんだろう、と考えたときに過去Bが原因として考えられ、じゃあどうして過去Bになったんだろう、と考えたときに過去Aが原因として考えられて、の連続なわけです。

ただ、いったんそういった『歴史』が作られてしまえば、それが、あたかもただ一つの事実であるかのように見えてしまう。
因果関係によって、必然性によって、歴史が進んでいっているように見えてしまう。
起こりえたかもしれない違う過去、というのを考えることは無いので、こういった倒錯したモデルが受け入れられてしまうわけです。



長くなったので、とりあえずこの辺りで。
でも、これで1つ目の文については解決しましたね。
すなわち、必然性なんてものは無いけれど、物事が起こってさえしまえば、後付けでいくらでも必然性は与えられ、ひとたび必然性を与えてしまえば、後付けでつけた必然性が物事が起こる前にすでに存在していたかのように見える、ということです。
予言みたいなもんですよ、結局。

そういった意味で、「歴史による自然な成立」というのは、「自然に成立したように見える」歴史を作っただけにすぎず、逆に『SD』が成立する前にそんなことをいくら言っても、それはたくさんある可能性のひとつにしかすぎず、それこそ予言にすぎないわけです。

2つ目の文について、およびその後の考察については、時代性と文化の関係。で行います。


歴史の必然性?。

2005-04-02 07:02:00 |  Study...
紺屋さんのスポーツ漫画の変遷の中における『スラムダンク』を読んで、疑問に思ったこと。

いやー、こういった系譜学(というと別の意味が入ってきちゃうけれど。まぁここでは単純に、文学史みたいなもの、という意味で)的に研究をするのって、すごいなぁ、と思うわけです。
自分はそういった研究の仕方は出来ないですからねぇ。

ただ、疑問に思ったのが、

しかし、ここまで述べてきたように、あくまで漫画の歴史の中で、自然な変遷があった結果成立している。『SD』は90年代を代表する漫画の一つであり、アイコンである。しかし、アイコン化するあまり、漫画の歴史を無視しし、時代性を主にして語ったりするべきではないのだ。



の部分。
すなわち、スラムダンクが成立したのは漫画の歴史による自然な帰結によってであり、けっして時代性によるものではない、という主張。

ただ、紺屋さん自身がその前で、

文化はその時々の社会情勢を反映するものであるから、多かれ少なかれ共通点があるに決まっている。特に『SD』のような大ヒット作は、時代と寄り添っていなければ、あれほどの読者を獲得することはできないから、なおさら共通する部分はあるはずだ。その意味では、『SD』は「90年代的」であると断言できる。



とも述べている。

もちろん、ここから「矛盾してる!」と指摘するのはあまりに安直で、実際、

ただ、ここで注意したいのは、時代の雰囲気と共通点があるからといって、その時代が『SD』の作風を生んだとは言えないことだ。(中略)少年漫画の歴史を素直に振りかえってていけば、『SD』は、それまでスポーツ漫画の延長上に位置しているとわかるように、90年代という時代背景がなくとも、自然な流れであのようスタイルになっていたと僕は思う。



と、その態度は一貫している。

しかし、ここで注意したいのが、自然な流れでという言葉。
紺屋さんはこの言葉が好きなのか、さっき取り上げた引用でも自然な変遷という言葉を使っている。
これは、それまでの歴史によって新しい歴史が作られていくという、ヘーゲルの弁証法的な考え方だ。
歴史の必然性を認めているとも言える。
すなわち、それまでの歴史によって、歴史は自然に、なるべくしてそうなった、と。
(もちろん、そんな必然性が本当に存在するのか?という問題もあるけれど、それは後回し。

この考えを認めるならば、そして認めているからこそ、『SD』は漫画の歴史によってなるべくしてなった(=歴史性によって成立した)と言えるだろう。
けれど同時に、この考えを認めるならば、漫画に限らず現実の世界だって必然性によって作られていることになる。
そのうえで先ほどの

文化はその時々の社会情勢を反映するものであるから



という言葉から分かるとおり、時代性によって成立した漫画も無きにしも非ず、と考えるのであれば、結局のところ漫画と現実世界は平行して存在する裏と表の関係にすぎないことになるわけである。

すなわち、ある時代Aにおける漫画A'が時代性によって成立したものであるとすると、時代Aによって時代Bが、時代Bによって時代Cが、と作られてき、同時に漫画A'によって漫画B'が、漫画B'によって漫画C'が、と作られていくことになる。
図で書けば、
時代 ー 漫画
 A ⇔ A'
 ↓  ↓
 B   B'
 ↓  ↓
 C   C'
この図から、漫画の歴史から漫画C'が生まれた、と言ってもいいけれど、別に漫画の歴史を見なくても時代Cを見れば漫画C'が生まれた、と言えることが分かる。(もちろん、成立時期が必ずしも一致するとは限らないけれど、そういう漫画は時代に受け入れられないことになるので人気が出ない。

とどのつまり、上の2つの仮定(歴史の必然性、時代性によって成立した漫画が少なくとも一つ存在する)を認めるのならば、漫画の歴史性から見ていっても、漫画の歴史を無視して時代性から見ていっても、結局同じ漫画が成立してくる、という帰結が得られるわけだ。
そこで、片方から成立したと見るのが正解で、もう一方から成立したとは見るのは間違いだ、ということはできない。



さてさて、本家で反論されているようです。
やまいもさんの疑問に答える
いやー、やっぱりちゃんと論理を知っている人はごまかせないですねぇ(^^;
紺屋さんの反論は厳密な論理学上では全部正解で、自分の

けれど同時に、この考えを認めるならば、漫画に限らず現実の世界だって必然性によって作られていることになる。



はおっしゃるとおり拡大解釈、また、この前提を仮定しても

とどのつまり、上の2つの仮定(歴史の必然性、時代性によって成立した漫画が少なくとも一つ存在する)を認めるのならば、漫画の歴史性から見ていっても、漫画の歴史を無視して時代性から見ていっても、結局同じ漫画が成立してくる、という帰結が得られるわけだ。



という帰結は、厳密には得られません。
というか、どうあがいても得られません。

実際、自分も困ったんですよ。そのためにいれた苦し紛れの文が、

もちろん、成立時期が必ずしも一致するとは限らないけれど、そういう漫画は時代に受け入れられないことになるので人気が出ない。



というもの。
数学で言えば、現実世界(A<B<C<…)と漫画世界(A'<'B'<'C'<'…)を対応させる写像fを順序同型写像としたとしても、f(A)=A'だからといって、f(B)=B'だとは限らない、ということ。
ただ、上の一文を入れておくことで、x'=f(x)以外の単射をむりやり論理性も無く排除しているわけです
(ただし、じゃあなぜB≠B'なのにB'にはB'という名前がつくのか?というところに目がいく人は、するどい。

まぁ、数学の議論は置いておいて、ただ、正直普通の生活で行われている推論の多くが厳密性を有していないとおり、(←と、これに対して「本当か?」と思った人、どうしてそう思ったの?、と問われれば、それは直感や感情によるものと言わざるを得ないですよね?もちろん、裏づけをつけるための論理はその後いくらでも練れるけれど)重要なのはこのような議論に対して共感を持ちうる人がいる、ということ。(悪く言っちゃえば、だまされちゃう人がいる、ということ。

じゃあ、なぜだまされるのか?
それは、「歴史」や「時代」というのについての認識が「倒錯」され、上のようなモデルが普段の感覚と共感を得てしまうからなんですよねぇ。まさにその一点。でまぁ、そこからが本論になるわけです。

ということで、長くもなったし、反論?も含めて、本論は新しいエントリで書いていくことにします。
(バイト忙しいから遅くなりそうだけれど