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いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

親殺しのパラドックス。

2005-05-20 17:42:00 |  Study...
「親殺しのパラドックス」に関して、思ったことがあったので。

まず、「親殺しのパラドックス」が何なのかというと、それはタイムマシンに関する問題提起であり、“タイムマシンを使って自分が生まれる前に行き親を殺した場合、親が死んでしまったのだから自分は当然生まれなくなるわけだけれど、そうなると親を殺してしまった自分がそもそも生まれなくなってしまうわけだからタイムマシンで過去に戻るという未来もなくなり、そうなれば親は殺されなくなるわけで、そうすると自分も生まれてきていて、そうすると…”と、あちらを立てればこちらが立たず的なパラドックスです。
図にすると、
過去に戻って親を殺す→自分が生まれてこない→過去に行って親を殺すことはない→自分は生まれてくる→(最初に戻る)
ってな感じですね。

んで、ふと思ったのが、昔の歴史の必然性?(2)。(そういえば、モデルを作ったあとで定理の証明とかをしてないですね。けっこうメンドイので…)での、一度選択された世界はそのあと過去の如何を問わず実在し続ける、というのを認めれば、実は矛盾しないのではないかな、ということ。
ようは、まさに「現在」という時間において、未来への道筋はいろいろあるわけですが、その未来への道筋を決めるのはまさにその「現在」であり、その「現在」へ至るまでの過去(の選択=現在の積み重ね)というものには影響を受けない(なぜなら、もし「現在」から見て「過去」でなんらかの変化が起きたとしても、それは「過去」というその瞬間に起こりうる可能性の別の一つが選択された、ということに過ぎず、それは別の「現在」へと続くことになるから。別の言い方をすれば、「現在」という状態が生まれたのはある決まった「過去の選択」がなされたからであり、「現在」が「現在」である以上(=別の「現在」でない以上)その選択された「過去」というものは「過去」として保存される)ということです。

分かりにくいですね(^^;
例えを使いましょう。

でっかい砂の山を作って、そのてっぺんから水を流すことを考えてください。
水は当然砂の山に一本の川を作りながら流れていくわけですが、水の先端で川が次にどちらに流れていくのかは、不確定です(ただし、それまでの道筋によって、どの位置に先端がたどり着いているかで、どのように進むかの確立は変化していきます。)
砂の山が可能世界の束、水の先端が現在、水によって作られた川が過去の例えです。

さて、現在水の先端がAという場所にあるとして、振り返って川の方を見てみましょう。今現在水の先端がAという場所にあるのは、今の川の流れだったからであり、もし川のどこかしらかでも水の先端が違う方向に行ってしまっていたらAという場所に来ていたとは限りません。
そういった意味で、その川の流れはAという場所に至るためには必然なわけです。
(けれど、ここで勘違いしてはいけないのが、現在に至るためには過去の各々の選択は必然であるのだけれども、今現在これから進む方向があくまで(過去によって与えられた)確立でしかないように、その過去の瞬間瞬間において、その選択は必然ではなく、あくまで可能性のうちの一つであった、ということ。)
(あー、指摘される前に。上の推論は、論理学的には間違っています。というのも、Aという場所に来ていたとは「限りません」、とあるように、別のルートでAという場所に来る可能性もあるから。しかし、その可能性はとても小さいと考えられるので、上のような推論をしても実質的には間違いがありません。)

まぁ、今までに言っていたことは上の例えで十分なんですけれど、せっかくなのでなぜこのように考えるとパラドックスが解決するのかも例えで行います。

ここで、Aという場所にホースをつけ、水の一部を取り出し、より上流のBというところに流すようにします。
すると、当然Aからさらに進み新しい流れを作っていく水の先端があるのですが、それとは別に、Bの地点で新しい水の先端が出来るわけです。なぜなら、今まで一定量の水が流れていたのに、Bの地点では水の量が増えるわけですから、流れに影響を与え、場合によっては支流を作り、それはすなわち新しい水の先端が出来たのと同じことだからです。
しかし、たとえ新しい水の先端によって支流が作られたとしても、もともとあった水の先端、およびそこまでの川の流れがなくなってしまうわけではありません。

すなわち、このモデルを採用すると、例え過去に戻って過去を変えたとしても、それは新しい別の「現在」を作り、そっちに過去へ戻っていった人の現在が流れて行ったに過ぎず、過去へ戻らなかった人たちの「現在」及び「過去」にはなんら影響を与えない、となります。
当然、過去に戻って親を殺したとしても、その時点で過去に戻った人が別の現在へと移っていっただけで、その人が生まれて過去に戻ったという現在は、変わってしまった現在に上書きされることなくそのまま保存されるので、パラドックスも起きないわけです。

少し補足をすれば、「空間的な時間」と「身体的な時間」とを意識して考えるために、双子を使って思考実験してみるのもいいと思います。
というのも、過去へ戻ってもそれは「空間的な時間」を過去へさかのぼったに過ぎず、「身体的な時間」は依然として進み続けるわけで、「身体的な時間」の同期をとった状態で、「空間的な時間」を過去へさかのぼった方、さかのぼらなかった方との見え方の違いを比べてみることで、より実感が出来ると思います。
(余裕があれば、別エントリで実際の思考実験の様子を書きたいと思います)


タナトス。

2005-05-19 02:53:00 |  Study...
友達と自殺に関する話をしていて、思ったこと。

まぁ事の起こりはいいとして、話の流れで友達が次のような感じのことを言ったわけですよ。

よく、自殺しようとする人に対して「あなたが死んだら多くの人が悲しむ。だから死ぬな」みたいなことを言うわけだけれども、そういった考え方が出来ないくらいに苦しんでいるからこそ自殺したいわけであって、そういう状態になった人に対して上のようなことを言うのは(さらに葛藤を生ませ、その人をより苦しくさせるから)酷なんじゃないか。



んー、数日経ってしまったのと自分の解釈が入ってしまっていて、ちょっと違いそう。。。

まぁ、なるほどねぇ、という感じでもありました。正直こういった問題はムズカシイですよねぇ。ただ、助けようとしている人がなぜその自殺しようとしている人を助けようとしているのか、というところを考えれば、それは利己的なものであるわけで、『東京BABYLON』第4巻の、子供を殺された母親が狗神使って復讐をしようとしていたときの昴流の行動、想いなんかが参考になりそうです。

おいといて。
んで、その彼も中学時代にいろいろあったらしく、当時は自殺したいとか考えていたようです。今は違う、と言っていましたが。

まぁ、自分もよく「死にたい」とか思いましたからねぇ。それこそそんな状態では死んだ後の事なんか考えられなくなるわけですから、上のような理知的な判断なんか効きませんよねぇ。
結局、やりたいことがあったからここで死んでしまうのはもったいない、という考えが出てきたのと、自分の場合はたいてい寝てしまえば心の荒れもおさまってしまうので、今こうして生きていますが。

それで、この会話の中で自分がふと口にしたことに、
「人間っていうのは、死のうとすると、それに対して悦びを感じるからねぇ」
というのがあったんですよ。
ようは、『タナトス』ってやつですね。(ちょっと違うかな?)
というか、自分自身で昔それを感じてしまったことがあるんで(^^;

この感情というのは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』で具体的に書かれています。
といっても、最初この小説を読んだときにはタナトスだとかそんなところはほぼスルーして、なんだこの欝すぎる小説は・・・くらいの感想しか抱かなかったんですけれど、実際に自分がタナトスを感じてしまうと、そこの部分が浮き上がって見えてくるから不思議です。(って、これは以前書いたポストモダンの哲学論。につながりますね。物事に出会う順序や時期というのがその人の考え方や感じ方に影響を与えるわけです。)

さてさて、自分の体験を語れば、どうして怒られたのかはもう全然覚えていないんですけれども、とにかく怒られて、布団にもぐりこんで泣いているときに(これは自分の癖)、ふと、自分がふらふら~と立ち上がり、窓を開け、ベランダへ出て、2階からこう地面へそれこそふらっと頭から落ちていく姿を想像してしまったわけです。
こう、飛び降りるぞ、という感じで飛び降りるのではなく、それこそ自然に、ふわっという感じで落ちてしまうんですよ、体が。無意識に。
んで、あっというまに落ちていって、地面に激突して、頭かち割って死ぬという様子を想像してしまったわけです。
そのとき感じたのは、死ぬということに対する恐怖でなく、まさに「悦び」。「喜び」というか、「悦び」という漢字が一番しっくりくる気がする。
こう、想像の中で自分の頭が勝ち割れるというまさにその瞬間に、体の奥からジワジワッと滲み出るような感じの、物凄い悦びを感じてしまったわけです。

んで、まさにそんなときですよ、『車輪の下』のことを思い出したのは。
しばらくして、そういえば昔こんな感じのを読んだことがあるなぁ、といろいろ本を見てみれば、『車輪の下』に次のような文章があったわけです。

 この苦しみと孤独の中にあって、別な幽霊が偽りの慰め手として病める少年に近づき、しだいに彼と親しみ、彼にとって離れがたいものとなった。それは死の思いだった。ほとんど毎日のようにそういう考えが、散歩する彼につきまとってきた。彼は、離れた静かな小さい場所をさがし、とうとう快く死ねそうな場所を見つけた。繰り返しその場所をおとずれ、腰をおろしては、近いうち、いつかここに死んでいるところを見つけられるだろうと空想することに、彼は不思議な喜びを感じた。
 いろいろな準備と大丈夫だという気持ちとは、彼の心によい影響を及ぼした。宿命の枝の下に腰をおろしていると、例の圧迫が去って、ほとんど喜ばしい快感に見舞われる時間を過ごすことができた。父親も容態のよくなったのに気づいた。自分の最後がまもなく確実にやって来るということが原因になっている気分を父親が喜んでいるのを、ハンスは皮肉な満足をもってながめた。
 運命は彼をして暗いもくろみを享楽させ彼が死の杯から毎日数滴の快味と生活力を味わうのをながめていた。
(『車輪の下』第五章より。一部省略)



この文章を見つけたときには、驚きましたね。
あぁ、自分の感じていたものは、まさにこれだったのか、という感じで。

この、死を想像することによって得られる快感の原因はいったいなんなのか、というのが気になりますが、あとから思えば、それはやはり復讐心によるものなのかなぁ、という気がします。
というのも、上の引用でも「自分の最後が(省略)ハンスは皮肉な満足をもってながめた。」とあるように、その喜びにはどこか皮肉めいたものがあり、実際自分がどうして悦びを感じられたのかというのを考えてみれば、その死は「自らを自らが殺した」というよりは「死なざるを得ない状態にさせられてしまった」という死であり、自分を死に至らしめたことに対して罪悪感を感じさせる、ということで復讐をはなすことに対する悦びである気がするからです。
ただ、正直それは後付けの説明であり、そういったのでは説明できないような、本能的なものとして人間は死を想像することによって快感を得られるような気もします。
なぜって、上のように論理的に考えた結果として悦びを感じた、というわけではなく、ただ単純に死ぬところを想像しただけで悦びを感じられたわけですから。

にしても、久々に読んでみたのですが、興味を引く部分が結構あり、驚きました。当時はなんとも思わなかったのに。
例えば次の部分。

 総じて――そのころは万事が違っていた。ずっと美しく、ずっと愉快で、ずっと生き生きとしていた。久しいあいだ彼はラテン語や歴史やギリシャ語や試験や神学校や頭痛のことしか知らなかった。だが、あのころは、おとぎ話の本や盗賊の話を書いた本があった。あのころは、小さい庭で手製のきねつき水車がまわっていた。あるいはそれらのものはなんともいえない力で彼を誘った。ホップを摘む時は彼も手伝い、大きい娘たちが歌うのに耳を傾けた。たいていのはふきだすほどおどけた文句だったが、中には、聞いていると、のどがつまるほど、きわだって悲しいのもいくつかあった。
 そういういろいろなものがいつのまにか影をひそめて、おしまいになってしまった。ああ、あのいろいろのものはどこにいってしまったのだろう?
(『車輪の下』第五章より。一部省略)



なんとういか、郷愁を感じさせます。子供の頃は無邪気で、いろいろなものが楽しく、面白く、美しく感じられた。けれど、成長し、勉強一筋になっていくにつれて、そういったものは失われ、終わりになってしまった。
最後の「ああ、あのいろいろのものはどこにいってしまったのだろう?」がとても悲しく感じられます。

思えば、昔はすごく感動していたのに、慣れてしまい、無感動になっていくということがたくさんあるわけです。文学的に言えば、「自動化」ってやつですね。
あるいは、無邪気に喜んだり、感情をあらわにすることが、恥ずかしかったり、ダサいことのように思えてきて、自らそれをやらないようにしてしまったりすることもあるわけです。
場合によっては、「もう大人なんだから」とかと言われ、それを奪い去られてしまうようなこともあります。

ホント、子供の頃のきれいな感情というのはどこへ行ってしまうんでしょうねぇ?


死に関する思考実験。

2005-05-07 00:49:00 |  Study...
なんか片づけをしていたら、昔考えて書き途中になっていた小説(もどき)が出てきたので。

どういう内容のものかというか、それは当時思いついた「死」に関する思考実験を表現するための小説。
(だから、正確には小説とはいえないのかな?自分が行った思考実験を他の人にも一人称で行ってもらうための文章のつもりだったから。もちろんお話しにする以上、無味乾燥なものでなくある程度は読めるものにしようとは思っていたけれど。

さてさて、この小説の中で自分が行った思考実験は後回しにして。
その前に。

単純に「死」というけれど、そこには実は3つの「死」がある。
すなわち、「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」。
この3つを区別することなく扱うと、「死」というものが客観的な、ただの現象として残るだけになってしまうので、「死」にまつわるいろいろな倫理的な問題を扱うにはあまりに非人間的になってしまう。

この3つについて簡単に説明しておけば、「一人称の死」というのはすなわち「私の死」であり、この「死」について考えるということはすなわち私が体験するであろう「死」について私がどう思うかということになる。(つまり、「死」について見つめる、という態度になる。哲学的な問題につながる。)
ついで、「二人称の死」というのは私とあなたという関係性における「あなたの死」であり、この「死」について考えることはすなわち私ではない(けれど関係性がある)「あなた」が死ぬときに、私はどう思うかということになる。(つまり、関係性の中での「死」を考えることになる。例えば臓器移植における遺族の問題など、倫理的な問題につながる。)
最後に、「三人称の死」。これは私でもあなたでもなく、自分とは関係性のないところで起こる「死」。それはおおよそ客観的な話しとなり、基本的には「死んだ人の数」や「死因」などの、死んだ人のパーソナリティや関係性とは無縁のところにある現象としての「死」を扱うことになる。(つまり、死そのものや関係性などについては見ずに社会的に、現象的に、死を扱う。「死」に対する一般的な見方であり、政治的な問題につながるけれど、個人的には否定したい見方。)

話は戻って。(って、簡単に説明しておけば、と言っておきながら簡単じゃない…OTL)
当時自分が考えていたのは「私の死」と「その後」。
といっても、あの世とかそういう話ではなくて、「私」が死んだ後の世界(←今まで生きていた世界、の方)について。
そこで「私」はいなくなってしまっているわけだけれども、それでも世界はあるのか、ないのか、という認識論的な問題。あと、「私」がいなくなることによる世界への影響性。
まぁ、ようは「私」がいなくなってしまうことによって、そもそも「私」がいたことまでなくなってしまうのではないか、という不安があったわけです。(それについては別に小説を書き上げましたが。)

ちなみに、上の問題に関して今はどう思っているのかというと、ただ今そこに「いる」ということだけで十分かなぁ、といった感じです。。
だって、「私自身」が確かに「いる」と「私自身」によって言えるわけですから。もちろん、それ以上のものは保証のしようがないわけですけどね。

それで、本題は上ので決着をつけたとして、それとは別に当時「死」(正確には「一人称の死」)について考えていたときに副産物として生まれたのが今回の思考実験。
それは何かというと、「はたして『一人称の死』というものは体験することが出来るのか」ということ。
まぁ、もっと簡単に言えば、「私はさっき死んできました。そのときの感覚はこれこれこういったもので…」と語ることは可能なのか、ということ。

順番に考えていってみましょう。

case1:死んだ後は意識が残らない。
まぁ、これは当然体験できないわけです。なぜって、これは肉体の死=精神の死という考え方であり、肉体が生から死へ変わる「瞬間」、その変化を経験するはずの精神も同時になくなるわけですから。

case2:死んだ後も何らかしらの意識がある。
まぁ、魂とでも言いましょうか、が存在すると仮定しましょう。
となると、その魂と呼ばれるものは肉体が生から死へと変わる瞬間、すなわち「一人称の死」を経験するわけです。けれど、まさに「死人に口なし」。その経験を体験として語ることは出来ません。
ただ、これだと言葉のあやだ、という反論がきそうです。
しかし、ここには言葉のあやだとかそういった問題以上に問題があります。
少し考えを進めてみましょう。「その経験が決して体験となりえないのは、それを語るための体がないからだ」というのは、言い換えれば「体がありさえすればその経験を体験として語りうる(けれどないから出来ない=体験にはなりえない)」となります。
だったら、次の場合を考えてみればいいでしょう。

case3:死んだんだけれど、息を吹き返した
いわゆる「臨死体験」っていうやつですね。
で、当時自分が問題にしたのはこの場合です。
一見、「死」というものを経験して、しかも生き返ったわけだからその経験を語る口も持っていて、まさに「死」を体験した、と言えそうです。
けれど、実はそうではないんですよね。
次に示すのが当時考えていた小説の流れそのものなんですけれど、
主人公がベッドの上で「死」について考えていた。 → いつの間にか眠っていたようで、気がつくと手術室に立っていた。 → 手術台の上には主人公が乗っていて、手術を受けている。しばらくすると心電図の音がピーッと鳴った。(主人公:変な夢を見るもんだなぁ。死について考えていたからかな?それとも、本当に自分が死んだ?) → 気がつくとお花畑に立っていた。(主人公:ここが天国?) → 死んだはずの祖父が現れて、「ここはまだお前が来るところじゃないよ」と言う。 → 気付くとベッドで寝ていた。
さて、上の流れを自分が経験したとします。
このとき、あなたは
 a.生き返ってよかった。
 b.夢だったのか。変な夢だったなぁ。
のどちらだと考えますか?
普通だったらbですよね。現に自分が生きているわけだから、まさか死んで生き返ったなんて思わないわけです。
そこで、小説では次のように続けるはずでした(ここの部分は最後の締めで重要だから、最初に書いてあった)

 ふと目が覚める。光がまぶしい。
 ――夢、だったのだろうか?不思議な夢だ。やはり「死」について考えていたせいなんだろうか?
 ふと、気付く。体がやけに重たい。僕は何時間ほど寝てしまったのかを確かめようと思い、机の上にあるはずの時計を見た。いや、「見ようとした」。
 しかし、どうにも体が動かない。
 やっとのことで目だけを机の方に向ける。が、そこには期待したものはなかった。いや、時計どころか、そもそも机がない。代わりにあったのは、母のやつれた顔。
 「――母さん?」
 僕は思わずそう呟いた。
 とたん、母の顔がくずれる。そして、押し殺すような声でよかった…よかった…と呟いている。訳が分からない。
 「どうしたの?何がよかったの?」
 「何がって、あなた…あなた心臓が止まっていたのよ!一時はどうなることかと思ったけれど、生き返ってくれて…本当によかった」
 僕の頭が一時停止をする。
 心臓が止まっていた――生き返った――?
 僕には母の言っていることの意味が分からなかった。混乱が僕を支配する。そして、今までを振り返り、そしてやっと遅れた理解が僕に訪れた。
 どうやら。
 僕は思った。
 どうやら僕は、死んでいたらしい。
 でも…
 理解すると同時に、僕は思った。だったら僕は、いったいどこから死んでいたのだろうか?
 あの手術台の上に横たわっていたとき?心電図のピーッという長い電子音が手術室に鳴り響いたとき?
 それとも、全てが生き返ったときに見たただの「夢」だったのだろうか?
 分からない。確かめようもない。
 結局、僕は死んでなお「一人称の死」を知ることが出来なかった。
 そして、それは…



という感じです。文章の推敲はしてないので勘弁を…
長くなってしまいましたが、肝心な点は2点。
すなわち、
1、死んで生き返ったときに、それまで自分が「死んでいた」ということは死んでいる瞬間には自分自身で確かめようがなく、生き返って第3者に「死んでいたのだ」と教わって初めて知ることが出来る。しかも、あくまで伝聞の形でしか知りようがないので、それが事実であるのかどうかは自身で確かめることは出来ない。(データの改ざんなんていくらでも出来るわけだし)
2、死んでから意識があったとして、生き返ったとしても、その意識が見た光景というものが、はたして生きているときに見たものなのか、死んでいるときに見たものなのかは判断できない。(脳波で判断できる、と言う意見もありそうだけれど、死んでからもしも光景を見ることが出来るのであれば、それは、肉体が死んでも見える=脳波によらず見える、ということであり、つまり肉体が死んでいるときにたとえ脳波がなかったとしてもそれは光景を見ていないことの証明にならない)
この視点に注目すれば、case2のときも同様に、意識が「死」を経験した、と感じていても、本当に肉体が死んでいるのかどうかを意識は確かめることが出来ないのであるから、それが本当に「死」の経験であるのかどうかを判断することが出来ないわけです。
そういう意味で、本質的に「死」を体験することは出来ません。
例えば、次のような場合も考えられます。

case4:自分は死んだものだと勘違い
マンガとかでよくありますが…
主人公が交通事故にあい、「ウワーッ、ダメだーっ!」というところで視界がホワイトアウト。
気がつけばお花畑に立っていて、「あれ、死んじったか。思ったよりも痛くなかったなぁ…にしても、ここがうわさに聞く天国かぁ」、みたいなヤツですね。んで、実は女の子の妖精が主人公を助けていて、あれ、オレ死んだんじゃなかったの?、みたいなね。(どういうマンガだ?絶対面白くないな)
自分では「死」を経験したつもりになっていても、それが本当に「死」の経験であるのかどうかは確かめようがないわけです。だからこういった勘違いも生まれて、第3者によって生きているんだよ、と言われて初めて勘違いに気付く、と。

まぁ、以上のような感じで、「一人称の死」というものは、「死」を経験したと感じている意識が、それが本当に「死」なのかを確認できないということから、あるいは後になって確認できたとしても、その経験が本当に死んでいるときに行われたものなのかは判断できないことから、絶対に体験することが出来ないわけです。


商品化。

2005-05-06 02:27:00 |  Study...
本田透さんの『電波男』を読んでいて。

まだ読み途中で、意見が固まっていないですが…
まぁ、単純に面白いですね、funという意味でも、interestingという意味でも。

にしても、それなりの文章書ける人はやはりいろんなことを知ってますよねぇ。
いろんな意味で、知識人。
恋愛資本主義、という考え方と、それに基づく考察の展開もかなり興味深く、また的をついていると思います。

まぁ、内容をまとめる、というのは後で行うとして、雑感を。
なんとも、やはり感じざるを得ないのがルサンチマンとそれに抗おうとする力への意志、というか。
その理論武装にいたるまでの、というか、いたらざるをえなくなった状態というものをみると、それは自分がもてなかったことに対する復讐心があるように思えてしょうがないわけです。

さてさて。
内容に移って、2次元には愛があり3次元には愛がない、と言い切ってしまうのはちょっといただけないかも。
というのも、そこの次元数はやはり本質ではない気がするんですよねぇ。
ここで注目しなければならないのは、やはり恋愛と消費(資本主義)が癒着してしまった、という事実の方だと思うんですよねぇ。

自分は公立の男子高に通っていたんだけれど、そこで公立の高校を全部一律共学にしようという流れが県内で起きて、そのとき自分がどう反応したかというと、生徒の側で起こった共学化ではなく県によるお仕着せの一斉共学化であるならば、共学化によるメリットよりもデメリットの方が目立つんじゃないかなぁ、と思ったわけです。
もちろん、男子高にいるからこそ見えた問題がないでもなかったんだけれど、その問題点に自覚的になることなく、ただ形の上での男女平等(?)を目指しても、百害あって一利なしですからね。

んじゃ、男子高にいて見えてきた男子高の問題点はなんなのか、ということになるわけですが。
もちろん、だらしなくなる、とかそういったことではなくて、それは女性の「商品化」
どうしてそんなことを感じたのかというと、文化祭のときに女子高からバトンとか吹奏楽の人が招かれてパフォーマンスをやってくれたんだけれど、周りのうるさいことうるさいこと…会話を聞いてみれば、そこで行われていたのはパフォーマンスを評価するということではなく、女の子の「品定め」だったんですよ。あの子はかわいい、とか、いや、あっちの子の方がいい、とか。

これが男子高であったから生じた状態であるのかどうかは、自分が共学高の様子を知らないから断定しかねるんだけれど、普段女子と接することがないから、女性を一人間としてでなくまるで商品のように扱うという女性の「商品化」が起こるんじゃないかなぁ、と思うわけです。
ただ、上で断定しかねたとおり、これが共学化されたからといって、あるいは共学高だからといって、起こりえないとは思えないわけで。

あー、ちなみに。女性の「商品化」というのを自分は問題視する見方をしましたが、別の見方をすればそれは女性の「女性としての魅力」を評価していることになるわけで、商品化しない見方というものは「女性としての魅力」というものを重要視していないといえなくもないわけで。女性にとってはどちらの方が失礼なのかなぁ…?

戻って。
電波男で本田さんは「2次元には愛があるけれど、3次元には愛がない」とさんざ言うわけだけれども、じゃあ「愛」ってなんなんだろうね?という問いには答えていない気がするんですよ。
どうにもここで認識の差が出てる気がするわけです。
なんとも、2次元の作品というか、をよく読んでいる人であれば、それが(2次元だろうと3次元だろうと)一方通行の恩着せがましいものだということに自覚的であり、そいういった意味で2次元も3次元も違いはない、と見れるのだろうけれど、そうでない人にはどうにも(たとえそれが原因で失敗を繰り返していたとしても)無自覚であり、必ずのレスポンス(しかもそれは機械的なものでなく人間的だと十分に思えるだけの)を必要とするものであり、だからこそ2次元と3次元ではぜんぜん違う、となる。

んで。
その認識の差はおいておいて(きっと平行線を辿るだけなので。)
こうやって2次元と3次元の差をとっぱらったと仮定して。
そこで2次元が選ばれている理由を見ると、3次元は資本主義と結びつくことで腐敗し、愛がなくなってしまったけれど、2次元には純愛が生き残っているから、みたいなことが書かれている。
ただ、それは本当に「愛」なのか?
それがどうにも自分には分からないわけです。(というか、そもそもがよく分からないし。)
どうにもよく見てみればこれは2次元の女性と3次元の女性をそれぞれ「商品化」して同列に並べたときに、2次元のほうが商品として価値がある、と見なしているだけにすぎない気がするわけです。

よくよく見れば、本田さんの3次元の女性に対する批判というのは男を「商品化」して扱う態度にあるとも見れます。
だから、問題の本質は(というか、本田さんのトラウマの本当の原因は)3次元における恋愛と資本主義の癒着構造ももちろんですけれど、その大元になっている男性・女性の「商品化」というものがあるような気がします。
そして、自分がキモメンである、という見方は、自分が「商品」として価値がないとみなされていることに対する反感が元になっているような気がするわけです。

まぁ、まだ読み終わっていないので、読み終わってから内容のまとめと感想、及び考察を書きたいと思います。


ポストモダンの哲学論。

2005-05-02 19:20:00 |  Study...
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)を読んで思ったこと。

けっこう面白い内容でした。

最初に出てくる「擬似日本」というので、以前小熊英二さんの話で「小林よしのりが『戦争論』とかで『戦後』という言葉を使っているけれど、そのイメージの元になっているのは高度成長以降の社会であり、言葉どおりの戦後ではない。けれどそれを戦後といってしまうことで、対比として出てくる『戦時中』というのは『戦後』のよくない状態とは違っていいものだった、としてしまう」みたいなこと(うろ覚えかつ5,6年前のことだから違うかも)を言っていたのを思い出しましたねぇ。

80年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージにまで戻るのがもっともたやすい。大塚や岡田のオタク論に限らず、江戸時代がポストモダンを先取りしていたというような議論が頻出する背景には、そのような集団心理が存在する。
したがってそこで見出された「江戸」もまた、現実の江戸ではなく、アメリカの影響から抜け出そうとして作り出された一種の虚構であることが多い。



上のは本文からの引用ですが、小熊さんの言葉に近いものを感じます。
つまり、今と対比させることで「昔はよかったなぁ~」と、実際には良くないこともあったはずなのに良くないことがあったことを無視して、擬似的な昔のイメージを作り上げ、それを賛美する、といった感じです。

閑話休題。(上の話はこの本の本題ではないので。)

この本で言っていたことをまとめると、以下のような感じ。
近代の世界像は『ツリー・モデル』であり、すなわち世の中の事象(=小さな物語)の大元には不可視の原理(=大きな物語)がある、というものだった。けれど、ポストモダンでは大きな物語が失われ、替わって要素の集合であるデータベース(=大きな非物語)と、その組み合わせによって生まれるシミュラークル(=小さな物語、ただし、オリジナルとパロディの境界が曖昧になる)がある、という『データベース・モデル』になる。
そして、大きな物語が失われていく過程で、それでも大きな物語を求めようとするスノッブ化(あるいはシニシズム。「分かってはいるけど…」の世界)が起き、さらには大きな物語すら必要でなくなる動物化が起きる。
動物化された世界(=世界像が『データベース・モデル』の世界)では異なった階層のものすら同一平面(超平面)に並べられ、あるシミュラークル大きな非物語を得ようとする行為も、結局別のシミュラークルへ行くだけで大きな非物語全体を得ることは出来ない。
といったところですかねぇ。

で、この議論の如何は別にして(まぁ、個人的にはなるほど、という感じだったんですけれど、大きな物語がなくなった、ということに感情的に反論したくなる人がいないとは思えないわけで。あるいは萌え要素に単純に分解できるほど簡単じゃない、とか。まぁ、その反論は唯物的なところに還元できない何かがあると信じたい気持ちによって生まれるんでしょうけれどね。結局、理論なんてものは感情や直感の後についてくるもんなんですよ。)、思ったことが一つ。それは、ポストモダンの時代において行われたこのポストモダンについての考察は、ポストモダン的なのか?ということ。

哲学にしろ、自然科学にしろ、社会科学にしろ、一般に学問というのは、世の中の事象の背後には一定の法則(すなわち大きな物語)がある、という「仮定」のもとに行われているわけです。
その法則というのは、例えばカントの「物事の間には必ず因果がある」という考えや、「文明は革命により社会主義になり、さらに共産主義になる」といったマルクスの考え、あるいは物理のニュートンの運動の法則だったりします。
ただし、ここで重要なのは、それがあくまで「仮定」であって、本当にそういったものがあるのかどうかは分からない、ということ。つい、物の運動はF=maという法則にしたがって動くように「なっていた」と倒錯してしまうけれど、こういった法則は本当は上の「仮定」を認めたうえで、はじめて帰納的に導かれるものなわけです。
同様に、歴史が因果律によって必然的に動いているように見えるのも、過去に起こった事象間には何らかしらの法則がある、という仮定の下、すでに起こった事象間での関係から法則性を見つけ出そうとして初めて生まれる法則なわけですから、歴史が因果律によって必然的に動いているように見えるのも当然なわけです。

ちなみに。上の仮定に自覚的であるかどうかが構造主義的であるかどうかの分け目でもあります。
構造主義とは、集合と集合の間にある種の変換(写像)を定義したときに、それでも変わらない「構造」を探し出そうとする手法なわけですが、それはすなわち上の行為を自覚的にやっていることに他なりません。
そして、それが「仮定」であるということに自覚的なので、それが本当かどうか(唯一つの真実であるかどうか)はさほど重要でなく、むしろよりいろんなことを説明する出来るか、よりいろんなところに応用できるか、といった実用性重視になります。
(けれど、結局世の中の事象の背後には一定の法則(あるいは構造)が隠されているという仮定の下で行われる点では、他の学問と同じなわけです。

さて、話は元に戻って。
哲学や社会学というのも学問ですから、やはり上の「仮定」を認めたうえで、何らかの法則や構造を見つけようとする形になります。そして、これは明らかに『ツリー・モデル』なわけです。
すると、このポストモダンの時代に行われたポストモダンについての考察の仕方は、ポストモダン的だとは言えないのです。
実際、このポストモダンについての考察によって得られたのは「近代の世界像は『ツリー・モデル』であり、ポストモダンの世界像は『データベース・モデル』である」という「大きな物語」であり、それは「大きな非物語」ではありません。

しかし、よくよく見てみると、上の批判の仕方はいたってポストモダン的なわけです。なぜなら、もし「近代の...」が「大きな物語」であるのならば、他の言説と並べられて「近代の...」との整合性を調べられることはありません
なぜって、それをするのは、「大きな物語」であったはずの「近代の...」の言説と、他の「近代の...」という言説によって生まれるシミュラークルを、同列に並べて扱っていることになるからです。
つまり、「近代の...」という言説が、「大きな物語」でありかつ「小さな物語」でもある、というポストモダン的な状態が生じているわけです。
けれど、それは許されていない操作ではないわけです。誰も「近代の...」という言及がポストモダン的であるかどうかを調べてはいけない、とは言ってないし、またそんなことは言えないわけです。

そこで気がつくかもしれませんが、実は「近代の...」という言及は、哲学におけるシミュラークルとなっています。
というか、よくよく考えれば「オリジナル」というものは存在できないわけです。
なぜなら、もしそれが全くの、今までに出ているデータベースのどれとも違う――言葉や表現方法さえも――考えだとしても、次の瞬間にはそれはデータベースに組み込まれ、シミュラークルとなってしまうからです。(もちろん、そもそもそんなオリジナル自体を作ることが出来ませんが。人間は言葉なしでは考えられませんからね。一番最初、がどうなっていたのかはもちろん分かりませんが。)

よくよく考えれば、「大きな物語」というのもシミュラークルの一つです。
というのも、だってそれは「物事の背後には何らかの法則が隠されている」という「大きな物語」によって生み出されるものですから。

ならば、○○の考え、というのは――例えば、ニーチェの考え、といったものや、ヴィトゲンシュタインの考え、といったものは――オリジナルではないのでしょうか?
これはオリジナルであるともいえるし、オリジナルではないともいえます。
というのも、出来上がってしまった思想、というのはもちろんシミュラークルであり、出来たと同時にデータベースに入れられてしまいますから、オリジナルではありません(オリジナルではいられません)。けれど、それをどうやって作ったのか、というのを考えたとき、それはそれまでにあったデータベースからいくつかの要素を組み合わせて作ったものになるわけですが、その組み合わせ方にはオリジナリティが生じるわけです。

ここで気をつけなければならないのは、今まで単純にデータベースと言ってきましたが、実はデータベースには2つのものがある、ということです。
一つは「全人類的なデータベース」
もう一つは「個人的なデータベース」
です。
このとき、「個人的なデータベース」というのは、経験や学習を通して「全人類的なデータベース」から取捨選択して構築されていきますが、その順序、採用率、組み合わせ方というのは、もちろん絶対的に有限ではありますが、どの一人として同じ経験・学習を同じときに同じ場所で同じ順番にすることは不可能なので、どうやっても同じになりません。
(ここで、組み合わせ方が有限なのにどの一つも同じにはならない、というのは数学的におかしい、と思うかもしれませんが、組み合わせが有限であってもその組み合わせが集合族として集合に加わることになるので集合は無限にでかくなっていくので、矛盾ではないです)

さて、上のように考えると面白いことが分かってきます。
昔の時代性と文化の関係。のエントリの中で、

自分のエントリはなんだかんだで縁があるものが多いのですが、(そしてなんで縁が出てくるのか、というのを考えれば、それはそれで面白いのですが、)



と書きましたが、上の引用に対する答えが今までの議論となります。
つまり、ある人が何を問題に思うのか、というのはそれまでに築き上げた「個人的なデータベース」によるので、おのずと考えることには縁が出てくるわけです。もちろん、考える方法も、です。

ちなみに上のような考え方を久々に思い出しました。
当時は高校生。んー、ネクラだなぁ(^^;
当時何でこんなことを考えていたのかというと、『寝ながら学べる構造主義』を読んでいて、結局オリジナルなんてないんだよ、みたいな文が(たしか)あったから。自分はそれに納得がいかなくて(納得したいと思えなくて)、それでもなんらかしらのオリジナリティがあるんじゃないか、と考えてた結果が上。つまり、素材は同じでもその組み合わせ方にはオリジナリティが出てくるんじゃないのか、といった考え。
まぁ、結局のところ、こういったモデルというのは時代性と文化の関係。のところでも書いたとおり、必要条件ではあっても十分条件ではないから、モデルの作り方は個人次第というか。ようはそのモデルで本人がどれだけ納得できるのか、というところになるんですよねぇ。