goo blog サービス終了のお知らせ 

いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

クオリア。

2005-10-04 01:50:00 |  Study...
クオリアの何が問題なのか、について。

クオリア問題、というのがあります。
参考URL:(1) (2) (3)
正直自分はこれをあまり重要視していなかったわけです。

上の話をモデルにすれば、Oというものがあったとして、AさんはOをPというクオリアとして、BさんはOをQというクオリアとして感じているのかもしれない、ということです。
けれど、すなわちAさんにはfという変換、Bさんにはgと言う変換が用意されていて、f(O)=P,g(O)=Qと対応付けられているのであれば、今度AさんがPを思ったのであればf^-1(P)=O、またBさんがQを思ったのであればg^-1(Q)=Oとなり、結局ズレは生じません。

結局のところ、各人がもつ変換が異なることで同じ意味・感覚が別のクオリアとして人によって感じられていたとしても、結局は逆変換が同じ意味・感覚が導けるので、クオリアがいかに違ってもそこに認識の差が生じるわけではなく、それゆえ齟齬も生まれないわけですから、何も困らないわけです。

けど、よくよく読んでみると、問題の本質はそこではなく、そもそも、なぜそのような変換が存在するのか、というところなわけです。
上の例であれば、なぜfやgといった変換が生じるのか、ということです。(それも、ただの変換ではなく、物質や現象に「それ以上の意味」を持たせる変換となります。)
言い方を変えれば、脳に電気信号が走ったときに、なぜそれが「見る」という行為とつながるのか、「映像」というものになるのか、といったところでしょうか。

具体的に言えば、上の参考URL(3)にあるように、分子の動きや電流などはただの物質や現象なわけです。けれど、それらが組み合わさることで、クオリアという質感(これは物質的なものではない)が生じるのはなぜか、となります。

現象学の立場から言えば、見えている・感じているものに関して初めて「自己」が得られ、また「自己同一性」も得られるわけですが、そもそもその「見えている」というもの――クオリアがどこから生じるのか、ということを問うている、となります。


この<私>?。

2005-07-29 23:42:00 |  Study...
一人称としての「私」でなく、まさにいま知覚者として存在する<私>に関するちょっとした疑問と考察。

眠いのでメモ程度に。
後で補足します。(って、そんなのばっかだ。。。)

永井均さんとかもそうですが、哲学によく登場する、この<私>という概念。
どうにも、これについての議論や思考実験というのは話をわざと変な方向に持っていっているような気がするんですよねぇ。
といっても、じゃあどう解決すればいいのか、というとまだ模索中なわけですが。

(これも同じく書き途中の)クオリアに関する問いというのも、よくよく見てみればこの<私>というものがどうして生まれるのか、というところを問うものなんですよねぇ。
よく勘違いされて(というか自分も勘違いしていたわけですが)クオリアの質の差があるのかないのかの議論にばかり目が行ってしまうんですけどねぇ。

さてさて、この問題を解決するのには、やはり現象学的にエポケーの状態からそもそも<私>とはなんなのか、というのを構築していくのがいいと思います。
なんとなく、それでほとんどのことが解決しそうな気もするので。

最終目的は次のことを示すことであるような気がします。
“<私>において他の<私>候補と<私>との同一性を示すことは出来ない。”
そして、その一歩手前の重要な点として、
“<私>において、<私>は常に一定である、という思い込みが存在する。”
ということに気がつく、必要がありそうです。

そのための思考実験として、やはり自分の時間に関する考察に似ているのですが、「私がいない時間」を経るという考察――例えば、寝る前と寝た後とで、どうして私が私であると認識されるのか(認識「してしまう」のか)、といったものを考えていく必要がありそうです。


自由。

2005-06-27 10:38:00 |  Study...
ちょっと思い立ったフレーズ。

“自由でないという思いから自由を求め、自由を求めれば求めるほどその思いによって自身が自由でなくなる。”

老子風w



改めてみると、以前書いたPure。およびPure再考。のに似てますね。

そもそもこれを考えていたのが、『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』(三砂ちづる 著)をちらっと読んでいたときなのですが、この本、本田透さんの『電波男』の第3章にも出てきています。まぁ、だからこそ手にも取ったわけなのですが。

改めて『電波男』の該当部を読み直してみれば、次のような感じで載っていました。

 三砂ちづるの『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』という本が、今、負け犬たちの怒りを買っている。この本によると、女性は結婚してセックスして子供を産んで育てるという生物としての女性の役割を果たさないと、生命エネルギーが塞ぎ止められ、行き場を失ったエネルギーが変質して「オニババ」になってしまうというのだ!

 日本の昔話には、よくオニババや山姥が出てきます。たとえば、山にひとりで住む山姥が、ときおり道に迷った小僧さんを夜中に襲う話があります。
 あれは、社会の中で適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に篭るしかなくなり、オニババとなり、ときおり「エネルギー」の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だった、と私はとらえています。
 この「エネルギー」は性と生殖にかかわるエネルギーでしょう。
(『オニババ化する女たち』より)




 そうなのだ、「オニババ化する負け犬女」と「鬼畜化するモテない男」は、同じコインの裏表なのだ!人は、愛のエネルギーを、何らかの形で消費しなければならない。さもなくば、エネルギーが変質してしまい、邪悪なダークサイドに落ちてしまうのだ!
(『電波男』より。一部省略。)



ただ、上の部分だけ見れば確かに本田さんのように読むことも可能なのですが、もう少し読んでみると、どうにも違う。
本田さんが言っていることを簡単にまとめてみれば、

  1. 「愛のエネルギー」というのは何らかの形で消費しなければならない。


  2. けれど、モテない男や負け犬というのは、「愛のエネルギー」を消費できない。


  3. だから、そのエネルギーを発散させようとして鬼畜化したり犯罪に走ったり、あるいはオニババ化する


  4. けれど、ヲタクは「萌える」ことによって、「愛のエネルギー」は消費され、そうならないで済む。ヲタクマンセー。



みたいな感じなわけです。
けど、自分もざっと読んだだけなので確信は持てないのですが、この本で言っているのはそういったことではない気がするんですよねぇ。
じゃあどんなことを言っているのかといえば、「愛」や「恋愛」という幻想の否定なんじゃないかなぁ、と。
そういった意味で、この本の言っていることは『電波男』の批判にもなっていると思います。

ようは、ヲタクにしろ、負け犬にしろ、あるかも分からない本当の愛、あるいは恋愛を求め続けることによって、片や「萌える」ことによって本当の愛を得られる、という『萌え』への賛美と3次元への蔑みが生まれ、片や本当の恋愛(あるいは、それによって得られる本当の愛)への固執から負け犬へ、さらにはオニババへとなり、恋愛をしようとしないヲタクたちへ怒りの矛先が向く(というか八つ当たり)、ということが起こってしまう。

ただ、気をつけなければならないのは、「萌えよう」と思って「萌える」のと、ただ単に「萌える」ものに出会って「萌え」を感じるのとでは違う、ということ。
同様に、「恋愛しよう」と思って恋愛するのと、ただ「この人好きだ」という人に出会って恋愛したいと思うのも、やはり違います。

前者においてはなんらかしらの強迫観念、あるいは世間によって作られた価値観のお仕着せがあるわけです。
対して、後者はそうではなく、「私」の身体において湧き出てきたものであるわけです。
(なんか、ニーチェの言わんとするところが見えてきた気もしますね)

こうやって見てくると、そもそも人を幸せにするはずだった「愛」という概念によって逆に人が縛られてしまっているように見えます。



話は一番最初に戻って。
まぁ、上のようなことを考えたから、最初のようなフレーズが浮かんだわけです。

「自由」というのがいいと思うのは誰もが認めるところだと思うわけですが、それを認めて自由になろうとするからこそ、その思いが強迫観念となり逆に自分から自由を奪っていく、と。

そう考えると、「無為自然」というのは西洋のこういった闘争的な思念を超越してますねぇ。


北極人。

2005-06-15 06:45:00 |  Study...
ニーチェの『アンチクリスト』(現代語訳)を読んでいて。

なんともまぁ読みやすいこと読みやすいこと。
ちょっと機会があってちくま学芸文庫の『アンチクリスト』もちょこっと見たんですけれど、こちらはかなり読みにくい。(というか、難しい)

本の内容はまぁキリスト教っていうのは人間性というものを汚してしまっている、キリスト教徒はバカばっか、というようなものなわけですが、それとはまた別にちょっと思ったことがあったので。

それが何かというと、以前から何度か書いている自己言及についてのこと。

はじめに自己紹介いたします。
私は言ってみれば、北極に住んでいるのです。



自己言及について考えていたとき、ふと上の文から思い立ったのが、自分がその言及の対象にはならないことをあらかじめ言ってしまっておけばいいということ。

すなわち、(これはニーチェが上の文で言おうとしたこととはズレますが)自分は北極に住んでいて、人間に対する言及は当てはまらない、とした上で「人間は~」と言及をすれば、その言及は自分には返ってこないことになります。

よくよく考えれば集合論が矛盾を起こさないようにするためにとった手段もこれと似ていて、{x|x≠x}などというものは集合として認めない(クラス、とかいうらしいですが)ように公理を定め、この公理で定められた手続きによってのみ作られるものを集合と呼ぶ――すなわち都合の悪い事故言及を含むようなものは最初から集合としないことにして矛盾を回避したわけです。

そもそも「命題」とは「真偽の定まる言及」のことですから、「この文は偽である」という文は、もし真偽を定めようとすると矛盾が起こる=真偽が定まらない、ということより「命題」ではなく、したがってそもそも真であるか偽であるかを問えない、としてしまえばよさそうです。(なんか、これでもまだ矛盾が起こっている気もしますが…

なお、集合の言葉をで使えば、
∀x∈X\{this}、P(x)
(※Xは言及の集合、thisはこの言及のこと、Pは性質)
というような感じでしょうか。

ただし、一度これを認めたうえで、今度はthisを含むような集合Yを考え、もしy∈Y\Xとなるようなyが存在し、今度はこのyをthisと考えて…とやっていくことで、上手くいけば数学的帰納法に近い方法でこの議論について話していけ、なんらかしらの成果を得られるかもしれません。


自己言及の難しさ。

2005-05-31 02:41:00 |  Study...
自己言及に関することで、ちょっと思ったことがあったのでメモ。

自己言及って言うのは、まぁよくある例であれば、
「この文章は偽である。」
といった人が真であるか、それとも偽であるか、というヤツですね。
仮に真だとすれば、この文章は偽であるのだから、矛盾。逆に、偽であるとすれば、この文章は真になるのだから、やはり矛盾。
結局、真であるか偽であるかが定まらない、というわけです。

んで、この自己言及について取り上げないとどうしようもなくなってしまっているのがポストモダンの哲学な気がします。
というか、どうにもこの自己言及を軽んじられてしまっている気がするわけです。

自分もエントリで何度か挙げているように、ニーチェの哲学というのは強力であるけれど、強力であるた為に、ともすれば自分自身にもその言及が及んでしまうことがあるように思えます。
おそらくニーチェ自身もこの点については気がついていたと思われるわけですが(メモ。の途中を参照)、こういった言及を避けることで――すなわち、この問題には目を瞑った形でしか問題を解決出来ていないような気がするわけです。
思想、としてではなく、論理学、として、この問題にかたをつけたい、と自分は思うわけです。

その関係で、実は思考分析学。というのも考えたわけです。(って、久々にみたら最初の方にちょこっと書いてありましたね。)
というのも、上の自己言及で問題になっている箇所は、明らかにどのようにして命題の真偽を判断しようとしているのかという「判断」の部分であり、ここをどうにかしなくちゃいけないわけです。

ちなみに、この問題を実際の数学で再現したのがゲーデルの不完全性定理、となるわけです。(よく量子力学の不確定性原理と混同されますが、ゲーデルのほうは「定理」であり、証明が出来る命題となります。)

なお、最初にあげた命題ですが、それを逆にした命題も実はダメなんですよねぇ。
すなわち、
「この文章は真である。」
という文も、この文が真であると仮定すると、この文章は真であるのだから真になり、この文が偽であると仮定すると、この文が偽であることから文章は偽であることになり、したがって偽となる。よって、最初の場合と同様に真偽が定まらないわけです。

あー、ここからがメモの本題。

こういった学問的なのとは別に、実質的にもこういった言及が現れうるというのを体験して、かつ困ったのを思い出したので。
それは何かというと、団体とかで用いられる規約。

よく、規約とかで、この規約がいつから有効になるかという記述を書くわけです。
例えば、「第12条 この規約は平成17年4月1日をもって有効とする」とかですね。
ただ、これを見れば分かるとおり、この条文も規約の一部であるのだから、この文が効力を持つためにはまず規約が効力を持たねばならないわけですが、規約に効力を持たせるための文がこの条文になっているため、卵が先か鶏が先か、ということになってしまうわけです。
この問題もやはり、この条文がこの条文を含む規約について言及しているために、その言及が規約に含まれる条文にも影響を与えてしまうことによって――すなわち自己言及によって生じてしまっているわけです。

それで、これを解決するために、例えば次のように変えてみるのを考えたわけです。
「第12条 この規約は平成17年4月1日をもって有効とする。ただし、この条文についてはこれによらない。」
一見大丈夫そうですが、これでもダメなわけです。というのも、この文というのは、規約に効力を持たせる文がいつ効力を持つようになってもいい、というその文自体が効力を持ってはじめて効力を持つわけですから、じゃあその文自体に効力を持たせるのはいったい何なのか、という話になる。
これは、具体的な日にちを決めたような条文
「第12条 この規約は平成17年4月1日をもって有効とする。ただし、この条文のみ平成17年3月31日から有効とする。」
としたとしても、やはり「この条文のみ平成17年3月31日から有効とする」という文が有効になるには、まずこの文が有効にならねばならないわけで、ダメなわけです。

これを逆に自己言及の命題に応用してみれば、自己言及によって矛盾が起こらないように
「(自己言及文)。ただし、この文にはこの言及は影響しない。」
としたとしても、それは解決になっていない、ということが分かります。
というのも、もしこの文にはこの言及は影響しない、のであれば、その「この文がこの言及には影響しない」という文がこの文には影響を与えなくなるのであるから、「この文にはこの言及は影響しない」というのは無視していい文となり、自己言及文はやはりこの文について自己言及することが可能となります。
逆に、もしこの文がこの言及に影響を与える、とすれば、やはり自己言及文はこの文について影響を与えることになるわけですから、付け足した文が意味を持たないわけです。

結局この問題を解決するには、言及の外側からその言及を保証してやる、という方法になるわけですが(ゲーデルの不完全性定理はこの方法ですね)、そうするとその言及を保証するための言及、さらにその言及を保証するための言及…と無限に続くメタ言及になってしまうわけです。



今までのとは関係なく。
次のような文はどうなるのかなぁ、というのが思ったこと。
「戯言であるほどその言葉は正しい。」
戯言シリーズみたいですね(^^;)
この文は戯言だと思うんですが、そうすると正しさが増して…と、正しさがその正しさをさらに強くするみたいな感じになるのかなぁ、と。
(こんな文の正しさを強く言えば言うほどそれはくだらないこと――戯言になっていく)