クオリアの何が問題なのか、について。
クオリア問題、というのがあります。
参考URL:(1) (2) (3)
正直自分はこれをあまり重要視していなかったわけです。
上の話をモデルにすれば、Oというものがあったとして、AさんはOをPというクオリアとして、BさんはOをQというクオリアとして感じているのかもしれない、ということです。
けれど、すなわちAさんにはfという変換、Bさんにはgと言う変換が用意されていて、f(O)=P,g(O)=Qと対応付けられているのであれば、今度AさんがPを思ったのであればf^-1(P)=O、またBさんがQを思ったのであればg^-1(Q)=Oとなり、結局ズレは生じません。
結局のところ、各人がもつ変換が異なることで同じ意味・感覚が別のクオリアとして人によって感じられていたとしても、結局は逆変換が同じ意味・感覚が導けるので、クオリアがいかに違ってもそこに認識の差が生じるわけではなく、それゆえ齟齬も生まれないわけですから、何も困らないわけです。
けど、よくよく読んでみると、問題の本質はそこではなく、そもそも、なぜそのような変換が存在するのか、というところなわけです。
上の例であれば、なぜfやgといった変換が生じるのか、ということです。(それも、ただの変換ではなく、物質や現象に「それ以上の意味」を持たせる変換となります。)
言い方を変えれば、脳に電気信号が走ったときに、なぜそれが「見る」という行為とつながるのか、「映像」というものになるのか、といったところでしょうか。
具体的に言えば、上の参考URL(3)にあるように、分子の動きや電流などはただの物質や現象なわけです。けれど、それらが組み合わさることで、クオリアという質感(これは物質的なものではない)が生じるのはなぜか、となります。
現象学の立場から言えば、見えている・感じているものに関して初めて「自己」が得られ、また「自己同一性」も得られるわけですが、そもそもその「見えている」というもの――クオリアがどこから生じるのか、ということを問うている、となります。
クオリア問題、というのがあります。
参考URL:(1) (2) (3)
正直自分はこれをあまり重要視していなかったわけです。
上の話をモデルにすれば、Oというものがあったとして、AさんはOをPというクオリアとして、BさんはOをQというクオリアとして感じているのかもしれない、ということです。
けれど、すなわちAさんにはfという変換、Bさんにはgと言う変換が用意されていて、f(O)=P,g(O)=Qと対応付けられているのであれば、今度AさんがPを思ったのであればf^-1(P)=O、またBさんがQを思ったのであればg^-1(Q)=Oとなり、結局ズレは生じません。
結局のところ、各人がもつ変換が異なることで同じ意味・感覚が別のクオリアとして人によって感じられていたとしても、結局は逆変換が同じ意味・感覚が導けるので、クオリアがいかに違ってもそこに認識の差が生じるわけではなく、それゆえ齟齬も生まれないわけですから、何も困らないわけです。
けど、よくよく読んでみると、問題の本質はそこではなく、そもそも、なぜそのような変換が存在するのか、というところなわけです。
上の例であれば、なぜfやgといった変換が生じるのか、ということです。(それも、ただの変換ではなく、物質や現象に「それ以上の意味」を持たせる変換となります。)
言い方を変えれば、脳に電気信号が走ったときに、なぜそれが「見る」という行為とつながるのか、「映像」というものになるのか、といったところでしょうか。
具体的に言えば、上の参考URL(3)にあるように、分子の動きや電流などはただの物質や現象なわけです。けれど、それらが組み合わさることで、クオリアという質感(これは物質的なものではない)が生じるのはなぜか、となります。
現象学の立場から言えば、見えている・感じているものに関して初めて「自己」が得られ、また「自己同一性」も得られるわけですが、そもそもその「見えている」というもの――クオリアがどこから生じるのか、ということを問うている、となります。