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いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

自己言及問題(難問編)。

2006-05-17 16:20:00 |  Study...
自己言及問題。で、難しそうな問題のリストアップ。

この問題、まだ考え中なのですが・・・自分が今とっている方法を書くには時間がかかるので、とりあえず前回出した問題の答えと、(答えが出るかどうかも調べていないけれど)難しそうな問題を何個か置いておきたいと思います。

とりあえずは前回の解答。


 ┌──────────┐
│2006年5月10日│
│この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│
│0(4)  5(3)│
│1(5)  6(2)│
│2(4)  7(1)│
│3(2)  8(1)│
│4(4)  9(1)│
└──────────┘



詳しくはあとで書くつもりですが、自分がこの問題を解くときに使っているアプローチの形で答えを表現すれば、

0|●●●●
1|●●○○○
2|●●○○
3|●○
4|●○○○
5|●●○
6|●●
7|●
8|●
9|●
(●:初期配置数字、○:振り分け数字)

で、この解の必要条件である方程式は、
Σx_i = 10 (0≦i≦9)
Σ(i*x_i) = 27 (0≦i≦9)
十分性も満たす解(これは、上の図の通りの解になりますが)は、
x_0 = x_6 = x_7 = x_8 = x_9 = 0,
x_1 = 4, x_2 = 2, x_3 = 1, x_4 = 3, x_5 = 1
となります。

それと、難しそうな日付をいくつか書いておきます。
いずれも解を持つかどうかはまだ調べていないので、もしかしたら解を持たないかもしれないですが、よかったら挑戦してみてください。


 ┌──────────┐
│2002年2月22日│
│この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│
│0( )  5( )│
│1( )  6( )│
│2( )  7( )│
│3( )  8( )│
│4( )  9( )│
└──────────┘




 ┌──────────┐
│1999年9月19日│
│この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│
│0( )  5( )│
│1( )  6( )│
│2( )  7( )│
│3( )  8( )│
│4( )  9( )│
└──────────┘




 ┌──────────┐
│1987年6月22日│
│この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│
│0( )  5( )│
│1( )  6( )│
│2( )  7( )│
│3( )  8( )│
│4( )  9( )│
└──────────┘




自己言及問題。

2006-05-11 05:23:00 |  Study...
面白いパズルを知ったので。

以前書いたエントリ、間違い探し。間違い探し(解答編)。とも関係してくる問題。

ちょっと言葉にしにくいのですが、次のような問題です。


 ┌──────────┐
│2006年5月10日│
│この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│
│0( )  5( )│
│1( )  6( )│
│2( )  7( )│
│3( )  8( )│
│4( )  9( )│
└──────────┘



例えば、0であれば4つ(2006年に2つ、10日に1つ、あと、空欄の横の1つ)使われているので、4と記入します。
すると、4はこの枠内には2つ(最初から書いてある4と、今書いた4)あるので、4の横には2が書かれます。
ただ、同じようにやっていくと2のところには3が、3のところには2が書かれますが、この瞬間に2が1つ増えています。
そこで、2のところを4とすると、3は1つ減って4は1つ増えて・・・と、どんどん変化していってしまいます。
こんな感じで空欄を埋めていって、ピッタリになるようにする、というのがこの問題です。

簡単な例であれば、次のような感じになれば終了なわけです。

 ┌──────────┐
│この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│
│0(1)  1(2)│
│2(3)  3(2)│
└──────────┘


確かに、0は1個、1は2個、2は3個、3は2個ありますから、矛盾は起きていません。

これ、日曜日に後輩に教えてもらってからだいぶ考えているのですが、いろいろと考えることが出来て、

  1. 解を求める一般的な方程式が存在するのか。存在するのなら、どのようなものなのか。


  2. 解を求める具体的なアルゴリズムが存在するのか。存在するのならば、どのようなものなのか。


  3. 解が存在するための条件はどうなっているのか。どんなときでも解は存在するのか。


  4. 解が存在するとして、その解は一意に定まるものなのか。



など、どれも一筋縄にはいかなそうな問題が転がっています。

この問題が興味深い点は、問題が自己言及的であるという点です。
答え自身が、答えがあっているかどうかに影響を与えている、と言ったらいいんでしょうか?
他の数字だと矛盾が起きてしまうのだけれど、ちょうどいい数字を持ってきたときにだけ矛盾は起きない、というのが、間違い探し(解答編)。の内容に似ています。

また、解の数字が二重の意味で意味を持つという点も、自己言及的であるとみなせます。
ここでいう二重の意味とは、たとえば0(1)(=0の個数が1個)となっていたときの‘1’は、記号としての1(=数えられる対象としての1)であると同時に、より高位の立場からは、記号についての言及としての1(=0という記号が‘1個’という意味をもつ1)、の2つの意味を持つ、ということです。
これは、「この文は偽である」という文が、真偽の対象としての文であると同時に、言及としての文でもある、というのと同じような感じです。

すなわち、この問題について答えを得る方法を得るということは、自己言及型の問題において、その問題をどう表現することが可能でありうるのかを示せる可能性を秘めています。

さて、その上でこの問題をどう解いていったらいいのかを考えてみましょう。

実をいうと、まだ全然解決できていないです^^;
一応、見方を変えるということをすることで、2本ほど方程式を得られたのですが・・・完全に解ける様にするにはあと高々7本の方程式が必要です。(10変数ですが、ほぼ9変数とみなすことが出来るので。)
それはまた後述するとして、アイディアを2つほど書いておきます。

まず1つは、微分方程式のような感じでこの問題を考えていくという姿勢です。
この問題についていろいろ考えられる、というところでいろいろ書きましたが、解を持つ条件や解の一意性の問題というのは微分方程式を考えるときによく問われることです。
改めて微分方程式を考えてみると、これって自己言及的なんですよねぇ。
微分される対象としてのx=x(t)と、方程式としてのx=x(t)が同列に扱われているわけですから。

ただ、当然この問題は離散的な問題ですし、関数を扱うわけでもないので、微分方程式ではないわけです。
けれど、次のように言い換えてやれば、実は微分方程式風と言えなくもないのです。
x=(x_0,x_1,…x_9)∈Z^10:ベクトル
A:Z^10→Z^10 写像
x = A(x)
となるxを見つける。
言い換えれば、AというZ^10上のベクトル場において、座標とAのベクトルが一致する点を見つけるといった感じでしょうか。(微分方程式の場合は、曲線上の任意の点において、その点のベクトル場と曲線の接線が一致するような曲線を見つけるわけですが。)
ただ、当然のごとくAは線型でないし、そもそもどういったふうに表すことが出来るのかすら分からないんですよねぇ。

答えの例で出した簡単な問題であれば、無理やり表現するなら
A(x)_i = |{ x_k ; x_k = i 0≦k≦3 }| + 1
で、
A((1,2,3,2)) = (1,2,3,2)
ですが、こんなのただの問題の言い換えに過ぎないし、問題は添え字と数字と数字の個数が同じレベルで扱われていて、たとえ式で表すことが出来たとしてもそれを解く方法論が存在しないということ。(あるのかな?)
ただ、しっかりと基礎研究をするなりすれば、それなりの結果は出てくるんじゃないですかねぇ。
聞いたことがない試みだし。(自分が聞いたことないだけ?)

もう1つは、エネルギー関数の考えでこの問題を考えていくというもの。
もし、この問題をコンピュータに解かせるといったことを考えた場合、具体的な式は浮かばないし、まぁ当然動的計画法やらなんやらというアルゴリズムはあるのだろうけれど、後に述べる形で表現してあげれば相互結合型のニューラルネットワークで解くのがけっこう有効かな、と思います。
その発想からいって、問題となるのは数字を変えたときにどれだけ答えに近くなっているのか、すなわち、答えに近づけば近づくほど値が小さくなる関数
φ:Z^10→Z
を与えてあげることが出来ればいいわけです。
(相互結合型のニューラルネットワークの原理は、上のような性質を持つエネルギー関数を与えてあげて、そこから得られる動作式に基づいてエネルギーを最小にするように各ニューロンが動作することになります)
その関数さえ得られれば、いろいろな最適なアルゴリズムが使えるので、だいぶ見通しがよくなります。

ただ、やはり問題となるのがこの関数をどうやったら得ることが出来るのか、というところで、例えば1の欄の数字が3から4へ変わることでどれくらいエネルギーが減ったのか/増えたのか(=答えへ近づいたのか、離れたのか)を計算することが出来るのか、というのを考えるだけでも、これがどれだけ難しいことなのかが分かります。

以上のように、最終的に問題となってくるのがやはり「自己言及性」の部分で、そこをうまく式に表現することが出来れば、問題は解決するのですが・・・

自分のしたアプローチその他は次のエントリに書きたいと思います。
よかったら考えてみてください。
(ついでにいうと、答えなり理論なりが分かったら、教えてください。。。)


人の意志、社会の構造。

2005-12-20 08:57:00 |  Study...
最近の殺人事件に関して、雑感。

昨日バイト先の塾で緊急ミーティングがありました。
内容は言わずもがな。ついこの間起こった京都での小6女児刺殺事件に関してのこと。(※一応念のために書いておくと、うちの塾は京進とはまったく無関係ですよ。)

そのミーティングで今後問い合わせがあった場合の対応について確認をしたわけですが、それとついでにアンケートが実施されて、その一番最初の質問が、「今回の事件を聞いて、あなたはどう感じましたか?」というもの。
室長はこの質問を出すとともに、「自分がこの事件を聞いて最初に思ったことが、恥ずかしながら『女の子がかわいそう』とかそういったものではなく、『この集客の時期になんてことしてくれたんだ』というものだったので・・・」と話して、まぁ、まわりはフォローしたりとかだったのですが、自分はこの発言を聞いて初めて「そうか、女の子がかわいそうという考えもあったのか」と気づかされて・・・なんというか、人間として終わってますね。

もちろん、殺された女の子も女の子だ、というような考えであったわけではないですよ。
というか、女の子に関しては全然思考が及んでいなかった。なんら感情や感想というものが女の子に対しては全く浮かばなかった。
ホント、思考から「殺された女の子」というものが完全に抜け落ちてしまっていた感じで・・・殺した男の境遇とか心境、思考、あるいは男の置かれていた状況、それと他の事件との比較、関わり合いなどの方にしか目がいってなかった。

なんというか、実験でのサンプルの一つを分析するかのような視点にしか気が向かず、そこに一人一人の生きた人間の「感情」というものが存在することを完全に見落としてしまっていて・・・
こういった「第三者」的な見方は『東京BABYLON』第4巻の麻衣ちゃんのエピソード、および第5巻~第6巻の勇弥くんのエピソードと2度にも渡って否定されているのに、情けないですね。

あの子が殺されて初めて分かったわ。
犯した『罪』も、それを裁く『法律』も、その償いの『罰』も、全部『他人』が決めるんだって。
噂話する『他人』や、取材しに来る『他人』や、犯人を弁護する『他人』や、あいつを精神鑑定した『他人』や、無罪を言い渡した『他人』。
『他人』には『被害者(わたしたち)』が受けた本当の『傷』は絶対に分からない。
(『東京BABYLON』第4巻より)



(一般論を展開するコメンテーターに対して、北都)
『みんな』?
『みんな』って誰よ。
『同じ』苦しみ?
『誰かと同じ』苦しみなんか、あるわけないじゃない!
みんなそれぞれ違う悩みや苦しみを抱えているのよ。
ひとつだって『同じ』じゃないわ。
勇弥くんのお母さんの苦しみは勇弥くんのお母さんにしかわからない。
子供を愛してるお母さんがその子供が苦しんでいるのを見て普通でいられるはずないでしょ。
確かに勇弥くんのお母さんがやったことは犯罪だわ。
でも、刺されたのは星ちゃんよ!
あんたじゃない!!
(『東京BABYLON』第6巻より)



僕たちはTVや新聞の『ニュース』は正しいと思いがちだ。
確かにだいたいの『ニュース』は正しいかもしれない。
でも加害者や被害者の気持ちや、その家族たちの想いまでは書かれていない。
ほとんどの場合、僕たちは起こった事件の『現実』だけを知って、『真実』を探ることは出来ない。
(『東京BABYLON』第6巻より)



それぞれの事件にはそれぞれの当事者がいて、みんな感情を持っていて、みんな違っていて、それを一般論で述べることなんて出来ない。けれど、それが一般論で述べられてしまうと、当事者たちの感情などといったものが無視されたり、あるいは『みんな』というありもしないものによってすりかえられてしまうわけです。

ただ、既に起こってしまった事件に対しては上のような見方をしていかないとあまりに非人間的になってしまうことは忘れてはいけないことですが、最近子供が殺される事件が多く起きている点を踏まえると、今後このようなことが起こらないようにするために分析をしていく必要があるわけです。
そのうえで、どうしても一般化は避けられないわけで・・・

で、今回の事件について自分なりに考えて思ったことは、被害者の家族の人には大変申し訳ないんだけれど、この加害者も犠牲者なんじゃないのか、ということ。
ただ、誤解のないように言っておくと、最初の方にも述べたとおり、女の子にもそれなりの落ち度があったとかそういう話ではないです。
女の子は何も悪くない。
そうではなく、この加害者自身も(そして女の子も)「社会の構造」の犠牲者なのではないかな、ということです。

こういった見方が被害者や被害者の家族にとってどれだけ残酷な物言いをしているのかは分かります。
もし自分に娘がいたとして、その娘を今回のように殺されたとしたら、怒り狂って犯人に憎悪の念を抱くだろうし、そんな犯人に「犯人も犠牲者だ」なんていう識者がいたとしたら、その(犯人は悪くないんだ、と言っているように見える)識者に対しても憎悪の念を抱くでしょう。
もし殺されたのがお前の娘だったとしても、お前はまだいけしゃあしゃあと「犯人も犠牲者なんだ」と言い続けられるのか、と。

誤解されてもしょうがないのでしょうが、ただ、「犯人も犠牲者だ」というのは別に「犯人は悪くない」と言っているわけではないです。
「犯人は確かに悪いけれど、犯人だけが悪いわけじゃない。」
ということです。
けれど、一般のニュースでは犯人に異常性を見つけ出すことで(見つけ出そうとすることで)犯人だけが悪いように仕向けている気がしてなりません。(この点については後で考察します)
まぁ、いくら自分が懸命に弁明しようとしても、それでもなお誤解されてしまうのであればそれはそれでしょうがないのかなぁ、と思います。
先にも述べたとおり、「犯人も犠牲者だ」なんていうのはもし自分が被害者側だったら絶対に言えないし許せない発言ですからね。
けれど、それでもなお、被害者側でないからこそ、今後こういった事件が起こらないようにするためにも、上のような意見を述べていきたいと思います。

こういった殺人事件が起きたときに、被害者の家族が必ず言うこと、言わずにはいられないことは、「どうしてうちの子に限って・・・」ということ。
この声には殺されたことへの理不尽さと犯人への憎悪が含まれていますが、同時に注目しなければならないのは「誰が殺されていてもおかしくはなかった」ということ。
殺されるようなことは何もしてなかった。これはどの子供も同じ条件です。誰が殺されてもおかしくない状態だった。
なのに、偶然、ただ運が悪かったので、殺されてしまった。
この「偶然性」がこの言葉には含まれています。

上のように書くと反論がきそうです。
すなわち、女の子だって犯人に対してひどいことを何度も言っていたんだから、他の子よりも殺されやすい状態だった、と。
これは「女の子にも落ち度がある」という考えに繋がるものです。
けれど、女の子の発言は「一般的に見れば」そこまでひどいものではないでしょう。
不運だったのは、その発言がたまたま犯人の逆鱗に触れてしまったということです。
犯人の逆鱗が他のものであれば、他の子が殺されていたかもしれない。
今回はたまたま「犯人の逆鱗」と「殺された女の子の発言」が一致してしまったがためにこのような事件が起きたと考えられます。

ところで、こうしてみると「犯人の逆鱗」というものが今回はたまたま萩野容疑者のものであったけれど、それもかなり「偶然性」が強いのではないか、ということに気付かされます。
犯人からすれば、「どうして自分が殺すようなことになってしまったのか・・・」という感じでしょうか。

このように書くと、先ほどにも増して反論がきそうです。
いくら逆鱗に触れられたからといっても、殺すまではしないだろう、殺すということにまでいたったのは犯人の特殊性からだ、と。
けれど、本当にそうかなぁ、というのが正直なところです。
というのも、最近の事件を見ているとキレやすいというか、ひょっとしたきっかけで一線を踏み越えてしまう人が結構多いんではないかなぁ、と思わざるを得ないからです。
実際に事件になるのは、様々な条件がたまたま重なってしまったからであって、潜在的には誰もが事件を起こす可能性を秘めているのではないか、と。



すでに3000字を超えてるし、なんか(ネットサーフィンを含めて)6時間近くこのエントリと格闘してる気がする・・・
以下、この後の展開(予定)のメモ。

・昔と今の違い

・人の意志と、社会の構造(自由意志の問題、裁けるかどうかも含めて)

・どうすべきなのか(「可能性」の肯定と、社会のそれに対する容認)

・犯人に特殊性を求める言論に関して

・ホームレスに関する問題

・「無知のベール」という概念に関して


情報場。

2005-10-25 02:16:00 |  Study...
人工知能のモデルにおける情報場という概念の導入について。

情報場、といえば、『飾られた記号』に出てきたあくまで空想的なものなわけですが、この概念というのが実は人工知能に身体性を与えるにあたってすごく便利なものなんじゃないかなぁ、と。
(って、飾られた記号のレビュー(もどき)がまだ書きかけですね。続編も一応買ったものの、まだ読んでない・・・)

話を順序だてて話すのが難しいんですけれど、まぁ端的に言ってしまえば人工知能のモデルについて考えていたわけです。
んで、人工知能が知能と呼べるものを持っているのかを調べるには、やはり言語を使えるかどうか、というのが大きいと思うわけです。

となれば、人間と同じように言葉を話せるようにしよう、これが普通の目的となります。(これは人工無脳と同じレベルですね。)
ただし、これは「中国語の部屋」の問題が出てくるわけです。
重要なのは、
(i)言語は確かにある規則によって繋げられた記号列にすぎない。
(ii)けれど、それは現実においてなんらかしらの現象を指し示している。
ということです。

(i)に注目したのが、人工無脳などの考え方で、ようは記号自体に意味はないし、コンピュータも理解していないのだけれど、重要なのは「どういったパターンで使用されるのか」ということに気をつけて記号運用さえしていけば、その記号の運用のされ方から、「人間には」その記号から意味が汲み取れて、かつコンピュータも言葉を理解しているように見える、といったものです。
これはヒルベルトの形式主義にも現れていて、たとえば∧,∨,¬,⇒などの記号「それ自体」は定義の仕様がないわけです。
けれど、その記号の使われ方から、それらの記号にある「意味」を付加して人間はそれを読んでいくことが出来る、というわけです。

ただし、これでは到底言葉を「理解している」とは言えないわけです。
というのも、「言葉の使い方」は知っているのだけれど、じゃあ「その言葉がどういったことを指し示しているのか」は理解できないからです。
つまり、(ii)のレベルでの言語理解が出来ないわけです。

そこで、自分が考えたのは、「言葉が何を指し示しているのか」というものを、オブジェクトの属性によってコンピュータに教えてやる、というものでした。
例えば「リンゴ」であれば、「赤い」「丸い」「食べ物」「果物」「直径10cmくらい」「おいしい」etc...
で、じゃあそういった「赤い」などの属性をコンピュータにどう教えるのか、となると、今度は逆に「リンゴ」「太陽」「血」とか、名詞の集合に共通するものとし、相互補完的に示して、そこから言語をどう使っていけばいいのかと言語の指し示すものをコンピュータに教えていけるんじゃないかなぁ、と。

けれど、これもダメなことが分かります。
というのも、初めて見た(知った・聞いた)もの(もの、あるいは記号、オブジェクト)に対して、「教わる」以外に「知る」というすべがないからです。
結局、言葉を言葉で定義しても、言葉の間の関係や構造をつかむことは出来ても、その言葉の指し示すもの「それ自体」を捉えることは出来ないわけです。
そして、初めて見たものを「自分の力で」分類し、既存の言語構造(単語間の関係の構造)の中に取り入れることが出来ないわけです。

結局何が必要になるのかというと、「言語で表されていない『それ自身』」に触れ、見て、こういうものなんだ、という「実感」を持った上で、じゃあそれがなんと呼ばれるものなのか、その感触、色、味、においなどがなんと呼ばれるものなのか、という「身体性」がまずあり、それに対して「名前」が与えられる、というのでなければ、言語が「何か」を指し示すものである、ということが伝わらないわけです。
(なんかヘレン・ケラーの話を思い出しますね)

となると、まずコンピュータ内に(擬似的な)「空間」というものを作り出して、その中に人工知能を入れてやることで身体性が与えられそうかな、と。
実は、言語による相互補完的な定義によって「意味」を与えようという考え以外は、すでに以前から考えていたことで、結局「言葉遊び」に至らないためには、現実の空間とは違う形でもいいから、なんらかしらの「空間」を与えて、そのなかでさらに人工知能に「身体性」を与えてやらなきゃいけないんだろうなぁ、と。
んで、3次元空間を擬似的とはいえ表現するのは大変だろうから、ループ状の1次元空間とかがまずはいいのかなぁ、とか考えていたんです。(与えられる身体性はミミズとかに近いんですかねぇ?)

けれど、この身体性を与えなきゃ、という考えをしていたところで、じゃあどうやってその「感覚」を伝えるのか、それが問題だと気が付いたわけです。

実はさっきの言語による相互補完的な定義によって「意味」を与える、というのもそれを考えていたときに出てきたもので、空間内にオブジェクトを設置し、それを見たり触れたりする(=アクセスする)ことでオブジェクトの「内部」に隠されていた「属性」が取得できるようにすればいいんじゃないのか、というのが最初の考えなわけです。
たとえば「リンゴ」に対して「見る」という行為を行えば、「赤い」とか「丸い」という属性が取得できる、と。
けれど、じゃあその「赤い」とか「丸い」というのが“どういったものなのか”が分からない。そこで、いろいろなものにアクセスすることで「抽象的に」それらの意味が知れるようになるんじゃないかな、と。
(つまり、「リンゴ」は様々な属性の集まりによって定義され、各属性はその含まれ方から概念的に抽出される、というヒルベルトの形式主義に近い考え方ですね)

ただ、このアプローチで困るのが「感情」というものなんですよ。
リンゴを食べる。→おいしい。(という属性が得られる)
ここまではいいわけです。(本当は不十分なんですけれど。)
けれど
おいしい。→うれしい。
このプロセスがこれでは得られないわけです。
もちろん、事前に“おいしい。→うれしい。”なんだよ、と教えてあげればそれでいいようですが、これは「こういう属性に対して抱く感情はこうなんだよ」と結局「言葉」によって定義してしまっているにすぎず、そこに身体性がないわけです。
確かに、おいしかったらうれしい、というそのパターンは覚えられるかもしれませんが、じゃあその「うれしい」というのが「どういう状態なのか」が「身体」から得られたものではなく、「パターンとして与えられたもの」でしかなくなってしまうわけです。

でも、上の議論から見えてくるのは、すなわちそういった感情というものは「体の変化」から得られるようにすればいい、ということです。
だから、オブジェクトにアクセスしたときに必要となるのは、オブジェクトの属性という「言葉」ではなく、「オブジェクトが『身体』に与える影響値」となります。
その影響値のパターンそれ自体に「名前」を与えていけばいいわけです。
例えば「リンゴ」というものに対して「食べる」というアクセスを行った場合、「身体」の味覚のパラメータに+の影響を与え、さらにそのパラメータが今度は感情のパラメータに+の影響を与える、といった具合でしょうか。(実際にはもっと細かい感覚の分類と感情の分類が必要でしょうが。)

ここで注目したいのが、「リンゴ」はその内部に「身体に対してどのように影響するのか」というメソッドを「内包している」、ということです。
見られたら、視覚に対して変化を起こさせるメソッド、触られたら、その固さの具合、滑らかさ、形を伝えるメソッド、匂いをかがれれば嗅覚に変化を与えるメソッド、etc...
それらすべてがリンゴに内包されていることになります。
というよりも、上のような変化を与えるメソッドの集まりそれ自身がリンゴと呼ばれるものなんだ、ということも出来ます。
これって、まんま「情報場」の考え方ですよね?

オブジェクトはまず情報場(と呼んでしまいましょう)にアクセスされることで身体に変化を与えるわけです。
んで、今度はその身体の変化が思考に影響を与える。
そうすると、そのパターンというものに対して思考が各々に名前を与えていくことが出来ます。
そうすることで、身体性の伴った(ii)のレベルでの言語理解が可能になると考えられるわけです。

いっそのこと、空間における座標それ自体にメソッドの集まり、つまり情報場を定義してしまえば、身体性を備えた人工知能というものを作ることが出来るんじゃないかなぁ、と思うわけです。

追記:
なお、上のでモデルで未だ解決しないものがあって、それは「欲」をどう表現するのか、ということ。
もちろん身体自体に本能として「ある状態を目指す」というのがプログラムされていればいいんだろうけれど、その場合「道徳」的な行動をしよう、という「欲」(つまり、身体性というよりは社会性によって生まれてくる「欲」)をどうやって「身体」に覚えこますのか、という問題が出てくる。
考えているのは、状況からの学習によって「言葉」自体に情報場的な役割が生まれるようになってきて、「ほめられる」という行為が身体的な喜びと繋がってくるようなモデルが作れればいいのかなぁ、と。


『萌え』を取り戻せ。

2005-10-12 13:20:00 |  Study...
巷にあふれる萌え言説について。

『電車男』の流行(?)によるものなのか、世間一般での2chやオタクに対する認識というものが変わりつつあるように思います。
といっても、別に「印象がよくなった」とか「少なからずよい部分もあるのだな」といったものではなく、あくまでも「そういうものがあるんだ」という、存在しているのだということを認識されるレベル、もう少し自虐的にいえば、認識して「もらえる」レベルになった、という感じでしょうか。(そのうえで、その人がそれらに好印象を持つか悪印象を持つかはまた別の話ですが。どちらかというと今までオタクとかというのはどこぞの気味の悪い「生き物」という感じだったのが、やっとどこぞの気味の悪い「人間」として扱ってもらえるようになったというか。)

さて、閑話休題。
そんな中で、「萌え」や、以前では考えられなかったのですが「ツンデレ」というものが一般メディアでも現れるようになったわけです。
しかし、以前から(といっても高校に入ってからですが)そういう世界に少なからず触れていた身としては、メディアで「萌え」や「ツンデレ」が扱われることに、どうしても不快感やいらつきを感じざるを得ないんですよねぇ。
こういった人は少なくないと思います。
根本にあるのはルサンチマンなんでしょうけれど、そもそもなんでそんなルサンチマンが生まれてくるのか、というところを考えていきたいと思います。
(ちなみにこれを考えていて渋谷駅で階段を踏み外し、信じられないほどに定期入れを吹っ飛ばしてしまった。。。恥ずかしかった~、、、)



そもそも萌えがどのようにして語られ始めたのかという起源の問題がこの話題においては大いに関係してくるのだろうけれど、残念ならが自分が「萌え」という概念の存在を知ったのがすでに萌えが(オタクの間では)広く広がってからであったので、この点からの考察は(もしやる人がいれば)他の人に任せたい。

自分がまず問題としたいところとして、「萌え」といった場合の文脈における2つの用法の存在という点である:
すなわち、
 1、感情としての「萌え」
 2、属性主張としての「萌え」

この2つの用法を完全に区切ることは難しいのだけれど、いうなれば前者は感情であるがゆえに「湧き上がる」ものであり、個別の具体的な対象、あるいはその一定のグループから抽象化された「抽象」――「概念」それ自身に対するものである。

対して後者は、前者によって行われた――そう、前者は「行われる」ものなのである――「萌え」をとりまとめるグループにおける共通項として浮かび上がる「性質」としての「萌え」といえる。よく、「萌え」とは「フェチ」と同等の意味である、という言説を見かけるが、この用法は後者の用法であると考えられる。

さて、2つの用法の区別による上の議論で、それぞれの用法の差異がどこから生じてきているのかが明らかになっただろう。
すなわち、前者は「動詞的」であり、後者は「形容詞的」(あるいはときに名詞的である――というのも、ときに後者は前者における目的語、すなわち抽象された「概念」として現れうるからである)ということが出来るだろう。
そこで、前者を「(萌えの)動詞的用法」、後者を「(萌えの)形容詞的用法」と呼ぶことにしよう。

ときに、ここで注目したいのが動詞的用法におけるその感情の「曖昧性」である。
これは萌えの議論になるときに、「そもそもどういった感情が萌えなのか」という根本的なところで議論が起こる、そしてその議論が議論として成立しうる、というところからも見て取れる。(すなわち、共通の認識としての「萌え」があるのであれば、そもそも議論にならない。)
そして、「曖昧性」に注目するとともに注目したいのが、ではその「曖昧」な「萌え」というものが、しかし各個人の中においてはしっかりとした根を下ろしたものである――確立されたものである、という点である。
この点については、今度は先に述べた議論の「中身」を見ることで窺い知れる。

さて、そこで「各個人における『萌え』という概念がいかにして構築されるのか」という点から、上の2つ――すなわち、言葉としての「曖昧性」と、各個人における「確立性」について考えていきたいと思う。

思うに、「萌え」という概念が構築されるには、2通りの方法――というよりは手順――が考えられる。
まず一つは、何か言葉では言い表せないような感情が存在したときに、その感情をうまく言い表せてくれている言葉として「萌え」を知り、それにより自分の中のもやもやした感覚がハッキリとさせられることで「萌え」の概念が構築されていった、という場合。(ちなみに自分はこっち)
もう一つは、他者から(他者にとっての)「萌え」を経験させられていくうちに、その中で実際に自分が「あぁ、このなんともいえない湧き上がるような感情が萌えなのかな?」ということを体験することで、自分自身の「萌え」の萌芽が見出され、そして「萌え」の概念が構築されていった、という場合。

この2つがどう違うのかを簡単に言ってしまえば、萌えの原形とも言うべき感情が萌えを知る以前に存在していたかいないかの違いである。
しかし、前者の場合、渇望していたところに言葉が与えられたことにより、それまでもやもやしていた概念は、急激な勢いでしっかりとした「萌え」の概念になっていくと思われる。
対して後者の場合、見出された「萌え」の萌芽が、何度か繰り返されることにより形容詞的用法の萌えが見出され、今度はその抽象的な萌えに対して動詞的用法の萌えが行われる、ということ(すなわち俗に言われる「萌えが進む」という状態)が繰り返されることによって、より抽象的な、すなわちしっかりとした「萌え」の概念になっていくと思われる。

ここで注目したいのが、前者である。
概念が急速に確立されることによって、各個人における萌えの原形とも言うべき感情の幅がそのまま萌えの概念の幅として現れてくると思われる。これが萌えの曖昧性の始まりになるのだろう。

さて、前の議論を踏まえたうえで、今度は両者の共通点に注目してみたい。
前者後者に関わらず共通していること、それはその「萌え」が「私」によって行われた、体験された「萌え」である、ということである。
だからこそ、「これが『私の』萌え(という概念)なのだ」という萌えの(各個人による)確立性が生まれてくると考えられる。
このことは、逆に言えば各個人が自分の「萌え」を持つことで萌えに曖昧性が生まれているとも見える。
逆に、どうしてこのような各々が各々に萌えることが出来るのか、というところを考えてみれば、「萌え」が曖昧であるからこそと考えることも出来る。

以上の議論から、「萌えの曖昧性」こそが各個人に「各個人の『萌え』」を与えるだけの余裕を生み、また「各個人による萌え」こそが萌えに曖昧性、あるいは多様性を与えていることが分かる。

客観的に「萌え」なるものがあるのではなく、各個人が各々に行う「萌え」があるのみであり、だからこそ「萌え」という言葉の指すものは曖昧で、しかし各個人においては確固としたものとなっている。
このような「萌え」は主人的であり、とても力強く活き活きしたものだといえる。

(以下、時間がないのであとで書きます。とりあえず箇条書き)

・一般メディアで取り扱われている「萌え」の抽象性、すなわち動詞的用法のなさ、およびそれによる「個人による」萌えのなさ。

・それにともなう、「萌え」の恋愛資本主義への取り込まれ方。

・萌えは恋愛資本主義における一つの「カテゴリ」と化されてしまった――そこに主人的な力強さはなく、もはや従属的になってしまっている。

・(反論)恋愛資本主義に対するルサンチマンからくるものではないのか。

・では、なぜそのルサンチマンが生まれるのか

・マイノリティ志向

・まとめ