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いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

神様。

2004-09-11 15:23:00 |  Study...
神様についてちょっと考えた。

ふと思い立って。
まぁ、以下に書くことは、何を今更、と思う人もいるだろうけど。

さて、こういった議論をするときに、定義というものが絶対的に必要になってくるわけだけれど、ちょっと置いておいて。

キリスト教の概念だと、
神様(創造神)は、自らに似せて人間を作った
というわけだけれど、ふと、
人間が、「自ら(=人間)を作った存在として」、自らに似せて作り出したのが「神様」なんじゃないかな
と思った。
そして、自ら(=人間)に似せた神様を作ることで、神様が自ら(=神)を似せて作った存在が人間である、と言わしめ、自ら(=人間)を他の動物とは違う、特別な存在として扱おうとしたのではないかと。
(似る、というのは、本来的には双方向的で、すなわち、一方が他方に似ている、というのであれば、同時に他方は一方に似ていることになる。これも、分析すると面白いところだけど。)

そういう意味での「神様」は、すなわち、人間が奉っているような神様というのは、人間を作ったもの、という役割を人間によって与えられた、人間による「作り物の神様」ではないのかと。

もしそうであるならば――そういう意味での神様であるならば、その神様が「存在しているのか」「存在していないのか」という議論については、「客観的に」「ただしその『実在性』(=認識者としての人間という存在が無くて存在しうるかどうか)を無視すれば」存在する、ということになるだろう。
もちろん、実在性を伴って存在する、と宗教心の強い人は主張する(この主張は主観的であるが)だろうし、そうでない人は、実在性はないが、象徴として――作られたものとしてならば、確かに存在している(これは客観的だといえる。作られたものとしてすら存在しないなら、「言葉」はそこに与えられない)、と言うだろう。

ただし、上における実在性――すなわち、人の定義した「人間をつくったもの」としての存在の実在、つまり、この世界の上位存在(映画『マトリックス』でいう、マトリックスの『外』の世界の存在、など)の有無、もしくはこの世界全体を司っているような物理法則の有無(つまり、人間が作られたのは物理法則で必然だったのかどうか)、あるいは人間を作り出すように偶然働いた「見えない力」の存在の有無、などは、もちろんあればそれが言葉の定義の上での「神様」になるのだろうけど(もちろん、その姿が人間に似ているのかどうかは定かでない。姿を持つかどうかすら分からないし)、それがあるのか、ないのかを、下位存在、もしくは観測者、もしくは結果のみしか知ることの出来ない存在の人間が知ることは出来ないので、そういった意味での神様がいるのかどうかについては、結論がでない、と。

まぁ、『キーリ』を読んでて、なぜか上のようなことが思いたった。
(ちなみに自分は、神様が本当にいるかどうかは別にどうでもよく、神様がいると信じること、それ自体がどう人に影響を及ぼすのかどうかの方が興味深いと思ってたり。


交換。

2004-09-03 03:02:00 |  Study...
Chronicle 2ndを聞いていて、ふと思ったことのメモ。

(ちなみに、まったく余談ながら、このCDめちゃくちゃいい。
オペラも好きだけど、こういう物語のある音楽(しかも、このCDの場合、音楽自体にすごく味がある)は大好き。)

で、このCDのうちの、沈んだ歌姫(13曲目)のなかで、娘を売れだなんだと出て来て、ふと浮かんだのが次のような疑問。

もし、人が娘同士を「売りあった」場合――結局それは、娘を交換し合っただけに過ぎないのだが――売られる前と後で、娘の待遇はどう変わるのか?

例えばこれが、単純な娘とお金の交換であればどうだろう。
倫理的な問題はとりあえず置いておいて、これは、「娘」という商品と、お金との交換であり、それ相応の交換が行われたと考えられる。(どちらが得したかは分からないが。)
売られた娘の待遇がどうなるかは、おそらく売られる前に比べて悪くなると思われるが、買った人の一意により、そこまで考慮した上でお金のやり取りがされると考えられる。

さてここで、これを「売りあった」場合にするとどうだろう。
つまり、AとBにはそれぞれ娘がいて、Aはx円で娘をBに売り、Aはそこで手に入れたx円でBの娘を買ったとしたら、どうだろう。
お互い売りあったのだから、それぞれの娘の待遇については、単に一方がお金で娘を買ったときと同様に、買った人の一意によることになる。
しかし、お金のやり取りに目をつけてみると、AとBのどちらもx円で娘を売り、x円で娘を買ったのだから、プラマイ0となる。つまり、単純な『交換』だ。
すると、お金のやり取りなしに娘を交換するだけで、娘が完全に他人の手に委ねられてしまうことになる。
このことに、違和感を感じるのは自分だけだろうか…?
(さらにいうと、この場合のx円は任意のお金になっている。娘の価値がそれ相応の値段になっているのかどうかは全く不明であり、100円でやり取りされた可能性もある。)

たねあかし(?)をすれば、商品と「させた」からこそ交換できるのだろうけど、交換自体が娘を「商品で無いもの」から「商品」に「成り下がらせてしまっている」ようで――交換自体が物の価値を下げているように見えて――すごく奇妙に思えた。

でも、この「交換」こそが経済の基礎なんだろうなぁ、と。
で、このような単純な「交換」は、「価値の損失」を生んでいくのではないかと。


ロボットの心。

2004-08-31 03:20:00 |  Study...
『ロボットの心』(講談社現代新書、柴田正良 著)を読んでいてふと思ったことのメモ。

実はこんなカテゴリ(Studyね)があったり(^^;
Studyには、勉強(哲学、数学、コンピュータなど)
をしていて思ったことや分かったことを書いていくつもり。

とまぁ、それはおいといて。。。

まだ読み途中なんだけど、予想以上に内容が深く、考えさせられる。
CLAMPの『ちょびっツ』から、最終的にロボットに「ココロ」が宿るか(宿ったか)どうかは「外側からは確かめられない」がゆえに、本質的にはロボットに「ココロ」が宿ったように『見なせるかどうか』がポイントになる(参照といっても自分のHPだけど)、と思っていたのだけれど、最終的にはそこに行き着くとして、その手前にクリアしなければいけないことがたくさあることにびっくり。
確かに指摘されてみれば、本で紹介されている『フレーム問題』などは(現実世界でロボットを作るとなれば)かなり問題になる。(限られた世界――コンピュータ上での仮想人格であれば、問題にならないので、あまり考えなかった……)
そして、それを解決すべくの並列分散処理のアイディアとその成果も非常に興味深い。(数学的に見ると、直列逐次処理モデルは1次元の世界での和、差などを基礎として用意された関数(出力は常に1次元)を使って処理をしていくのに対して、並列分散処理モデルはm×n次元の行列を基礎として(この行列は、遺伝的なものと学習的なもので得られる)、その積で演算をしていく(出力はm次元ベクトルになる)、という感じなのかな?)
ま、まとめはそのうち。

で、ふと思ったのは、曖昧な認識が得意の並列分散処理型で将棋をするロボットを作ったらどうなるかなぁ、ということ。(最終的に気になったのはここじゃないけど)
局面認識(形勢判断)をするには、細かいルールを定めてやる必要がある直列逐次方と違って、「確固たる根拠はなしに、パッと見で」形勢判断ができるはずだし、学習がちゃんと行われれば未知の局面でも強さを発揮できるはず。
ただ、その形勢判断の「学習」をするに――すなわち、どの局面が「良く」てどの局面が「悪い」のかを『判断』し、そして『フィードバック』させていくのかにおいて、それをどうやっていくのか、というのがまず気になった。
もちろん、そこでとられる方法は人間のそれと同じで、例えば本でこの局面はいい、とか、勝った/負けたという結果で、ここでこうやったから勝った/負けた、というのをフィードバックしていくことになると思う。
そうすれば、どんどん成長して、強くなっていくはずだ。

ここからが本題。
ところで、それを「将棋以外で適用」した場合にはどうなるのか。
すなわち、将棋の場合は『勝つ』『負ける』という結果と、そこに至るまでの過程を比較してフィードバックしていくことで成長できる。
そして、本によれば「認識を行動に結びつけたり、認識の正確さを得る(フィードバックの役割を果たす)ために、『感情』が存在する」となっている。これはもっともだと思う。
けど、じゃあ『感情』――頭脳ゲーム(?)の将棋におけるは、結果と過程の比較という理論的なものだが――によって成長していくということは、逆に言うと、将棋というゲームにおける成長が(普通は)「より勝つようになる」と定まっているように、『こう成長していくべき』という成長の正しい方向は『感情』によってあらかじめ定められてしまっているのだろうか?というのが気になったこと。

これは、別の言い方をすれば、『感情』を発するものは『正しい成長の方向』を知っていて、それにしたがって『感情』を発している、とも言えないだろうか?
ならば、その『正しい成長の方向』を定めているものは何なのか……

それはもちろん、「しかられた」とかの人為的なものであるかもしれないが、それ以外のものであるかもしれない。
あるいは、『正しい』かどうかは別にして、とりあえず『成長(もしくは『変化』)』を与え、自然淘汰なりによって残ってきたがゆえに『正しい』ものと見なせるのかもしれない。(つまり、論理で順序が逆転してしまっていただけ)

動物のことを考えれば後者が最有力だけれど、『感情』において突然変異が起こる、というのは想像しにくい……
どうなんだろう?