浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

日本の語り継ぐべきお話

2014-11-12 01:39:28 | 資料

縄文人と弥生人は同じ人

ねずさんの ひとりごと 2014年5月6日

のっけから物騒な頭蓋骨の写真を掲示して申し訳ないのですが、上にある写真は「縄文人と弥生人」の頭骨の比較として、あちこちに引用されている写真です。
この話は、先日行われた日本史検定講座における長浜浩明先生の講義で、私も初めて知ってびっくりしたのですが、なんとこの写真、偽造(変造)写真だというのです。

写真を見ますと、なるほど縄文人よりも弥生人の方が、頭骨が面長に見えます。
だからこの写真は、縄文人よりも弥生人は面長な顔立ちで、民族的特徴がまるで違うということを証明する写真として、NHKが「日本人はるかな旅」という番組で放送し、その後、同じタイトルの本でも紹介され、さらにマンガでも出版されて、広く世の中に出回っています。

ところがこの写真、真っ赤な偽写真です。
本物の写真は、下の写真です。

こちらの写真の方が全体に白いですが、冒頭の写真は、この写真を何度もコピーを繰り返すことで(当時はコピー機の性能が低かったため)全体に写真がくろずんだものです。
しかも、写真をよくみると、顔を線対称にして、張り合わせていることがわかります。

最近、STAP細胞に関して、データの改ざんや切り貼りなどが問題視されていますが、こうした考古学や歴史学、あるいは古代史の分野では、戦後左翼系の学者たちによって、このようなデータの改ざんや証拠のねつ造が、繰り返し何度も行われ続けてきました。
そしてそれが教科書にされ、本になって出版され、デレビでも何度も繰り返し放送され続けてきたのです。
それこそ、小保方さんどころの話ではないのです。

それにしても、なぜ、このような古代史に関するデータの改ざんやねつ造が行われ続けてきたのでしょうか。

その答えが、戦後のGHQによる検閲があります。
GHQは、お仕着せの日本国憲法等においても、表向きは検閲の禁止をうたっていましたが、実際にはガンガン検閲を行い、また戦前から伝わる(ということは日本の古代から中世、近世、近現代へと続いて来た)歴史を教えたり研究したりしている者たちを、片端から公職追放しました。

その影響をもっとも大きく受けたのが大学で、大学の教授たちで、日本書紀を研究し、神代からの天皇の歴史をまともに研究する教授たちを、ことごとく追放してしまったのです。
代わって教授職に就いた者、あるいは生残った教授たちは、生き残りのために、一斉に、戦前までの日本史を頭から否定する学説を発表しました。

なかでも有名なのが、東京大学の江上波夫(なみお)名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」です。
長浜先生によると、あれは江上教授の「私は日本書紀を否定してますから、どうかクビにしないでください」というアピールに他ならないとのことですが、ところが昭和23年に発表されたこの説は、さまざまに形を変えながら、いまも強固に歴史学会、人類史学会、考古学会、古文学会等に、根強く残っています。

それがどういう思想かと申しますと、概略以下のようなものです。
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かつて日本列島には、鹿の毛皮をまとっただけの、ほとんど原始人のようなオクレタ生活をしていた縄文人たちが住んでいた。
そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。
そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。
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というものです。そして、
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入れ替わったはずの弥生人たちも、その後、なんら文明の進歩がないまま、意味のない古墳などの土盛りをして、豪族たちが勢力を誇示していたけれど、そこに7世紀になって、またまたススンダ文明を持った渡来人たちが朝鮮半島からやってきて、日本人に箸の使い方から文字、仏教などを教え、そのためようやく日本には、文明が花咲いた。
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とされ、落しどころとして、
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こうして朝鮮半島から常に大きな影響を受けることで、やっと文明化した日本人は、あろうことか明治以降、その朝鮮半島を征服し、若い女性をことごとくセックス奴隷にしたあげく、大陸においても残虐な人殺しをし続けた。
そうした日本人のもとになっているのが、弥生時代に渡来し、縄文人の男たちを皆殺しにし、縄文人の女たちを強姦し抜いた血に基づくものなのである。
========
と続いて、ぐるりとまわって現代と古代がつながるわけです。

これが要約すれば、戦後の文系大学を流れる大学教育の根幹にある「思想」です。
このようなものは、歴史でもなんでもない。ただの「思想」にすぎないからです。

そしてこの「思想」に反する実証学的な証拠類は、ことごとく否定され続けてきました。
まれにこの「思想」の間違いを指摘する学者などが現れても、そういう学説は、どんなにグウの根もでないほどの証拠をそろえても、学会からは排除され、あるいは無視され、決して日の目をみることもなく、本にする場合でも、せいぜい自費出版で、2〜3千部売れれば良い方となりました。

逆に、上にある「思想」を補強するような内容の本を、権威ある学者がはずかしげもなく発表すれば、これがビックニュースになり、また本にすれば、その本は文科省や教育委員会の推薦をもらって、全国の行政、学校、図書館などに公費を使って配下され、それだけで最低5万部が売れ、それだけではなくて、テレビでも紹介されると、本は学説本でありながら、数十万部の大ヒットとなって、書いた学者や左翼系出版社のフトコロを潤してきたわけです。

東京書籍の小学校歴史教科書の代表執筆者となっている佐々木毅という人物は、元東京大学教授で、その後、東大の学長にまでなり、その後、学習院大学の教授ににまでなって、いまは学士院の会員となっている、肩書きだけみたら、ものすごく偉い人です。
けれどその人たちが書いたその教科書をみると、まさに上に述べた「思想」がそっくりそのまま反映しているわけです。
そしてその教科書が、小中高の歴史教科書として広く採用され、日教組という手足によって、何も知らない子供たちに「事実」として刷り込まれています。
実に、とんでもない話です。

小保方事案は、いまだにマスコミなどによって、激しい追求がなされているようですが、むしろそんなことよりも、戦後の教育を歪めて来たいまの左巻きの大学教授たちをこそ、証拠のねつ造、改ざん、デタラメな記述等で追求し、公職を追放すべきと思います。

では、実際の姿はどうだったのでしょうか。
まず、
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かつて日本列島には、鹿の毛皮をまとっただけの、ほとんど原始人のようなオクレタ生活をしていた縄文人たちが住んでいた。
そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。
そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。
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このくだりですが、これはまったくデタラメです。
9500年前の上野原遺跡や、5500年前の三内丸山遺跡などの縄文時代の遺跡など、いまや多数の縄文時代の遺跡から、当時、すでにきわめて高い文明文化が日本に存在していたことが、明確に確認されています。

鹿の毛皮にしても、なるほど冬の寒いときには毛皮を外套として羽織ったかもしれませんが、衣類は鳥浜貝塚から、間違いなく布製の衣類を着ていたことが、確認されています。
もっというなら、縄文式土器は、壁面には縄目の模様があるという特徴があるわけですけれど、縄というのは、編んで作るものです。

編むという技術があるなら、その技術を用いて布をつくるのは、当然にあり得ることで、実際、縄文式土器というのは、必ずといって良いほど、底の部分に布の模様が遺っています。
これが何を意味しているかというと、縄文時代には、土器を作るに際して、土器の下に布を敷いていた、ということです。

縄を編み、土器を作るに際しても下に布を敷いていたのなら、その布を身につけなかったと考える方が、そもそもどうかしています。
縄文時代の人々は、いまの学会の通説よれば、鹿の毛皮しか着ていなかったそうですが、そもそも森や草むらに男たちが狩りにでかけるに際しては、男性はフリフリ状態では、大事なところを怪我してしまいます。
ですから、かならずフンドシやパンツを穿いていだであろうことは、あたりまえすぎるくらいあたりまえにわかることですが、そのフンドシやパンツが、この高温多湿の日本で、しかも夏の暑い盛りに汗まみれになって狩りをするのに毛皮のパンツだったら、大事なところがインキンタムシになってしまいます。

日本では、3万年前の磨製石器が発見されています。これは世界最古のものです。
そして1万6500年前には、やはり世界最古の土器が作られていたことが確認されています。そしてこれが縄文時代のはじまりで、その後、土器や土偶などはどんどん工夫されて行き、縄文時代の後期になりますと、あの大阪万博の太陽の塔のモチーフになったハート形土偶などの美しい造形物も制作されるようになっていました。
オクレタ生活どころか、当時の世界にあっては、まさに最先端ともいえる文化的生活が営まれていたことが、考古学的に実証されているのです。

では、同じ時代の朝鮮半島はどうだったかというと、いまから1万年前から5千年前までの5千年間(一説には12000年前から5000年前の7千年間)もの間、人類の痕跡が途絶えています。その期間の遺跡がないのです。
遺跡がないということは、そこに人が住んでいなかった、ということです。

その後、いまの北朝鮮辺りに人が住むようになったのですが、この種族のことを、古代の支那では「濊族(わいぞく)」と呼びました。
古代の支那人たちは、周辺の種族たちに、それぞれ、ろくでもない漢字をあてていますが(日本は倭で、これは背の低い人という意味の漢字)、糞尿を意味する「濊」という漢字を当てられたのは、古代の朝鮮半島の中部から北部に住む人々だけです。
「濊」は「汚」という漢字と結びついて「汚濊」となりますが、どれだけ汚い民族だったかということです。

もっというなら、汚いということは、同時にオクレタ文明、もしくは文明的に未開であったことを意味します。そのどこからどう日本が教わったというのでしょうか。

さらに稲作については、いまから約6500年前の朝寝鼻貝塚から、大量のプラントオパールが見つかっています。
プラントオパールというのは、植物が土に含まれる珪素(けいそ)土中から吸い上げたとき、その硅素が、葉脈に沿ってガラス質に変化してオパールとなって蓄積するもので、葉脈の形状に沿って固まることから、どの植物によって形成されたのかが特定できるというものです。
オパールは、何千年経っても壊れないし、焼いても形が残るため、土中や土器の破片に含まれるプラントオパールを研究することで、当時、どのような植物が栽培されていたかがわかるわけです。

そして、日本で大量の稲のプラントオパールが見つかったということは、6500年前に、すでに日本では稲作が行われていた、ということです。
そしてその時期の朝鮮半島には、まだ人が住んでいません。

さらにいうならば、朝鮮半島で稲作がはじまったという痕跡は、5世紀頃のものです。つまりいまから1500年くらい前のものです。すくなくとも考古学の実証主義的に見る限り、日本に遅れること4000年の差があるのです。
そうした事実がすでに明らかになっているのに、どうして朝鮮半島から稲作が渡来したことになるといえるのでしょうか。

さらに申し上げますと、稲作は、いまから7千年前に、支那の上海辺りにある河姆渡遺跡(かぼといせき)ではじまり、それが山東半島、遼東半島、朝鮮を経由して日本にもたらされたというのが、いまどきの左巻きの学者たちの言い分ですが、そもそも山東半島や遼東半島のあたりは、地形が険しすぎるし水利がないため、稲作ができません。
できないのに、どうしてそういう経路で伝わったのか、誰も説明ができていません。
できていないということは、そんな事実はなかったということです。

さらにいえば、河姆渡遺跡の稲作にしても、日本で6500年前の稲作の痕跡が見つかったという発表があったら、突然、支那から7000年前の稲作跡が見つかったことにされています。
けれど、河姆渡遺跡の稲の痕跡が、ではいったいいつの時代のものなのか、これについては、誰も検証していません。
支那の当局が、7000年前のものと発表したから、7000年前となっているだけのことです。

そもそも中国5千年という話も、明治時代に日本にやってきた支那人留学生たちが、当時の日本の皇紀が2500年だったために、「とりあえずその倍くらい言っておこう」とばかり、いきなり5千年と言い出しただけのもので、そもそも根拠がありません。
後に、この中国5千年は、戦後の高度成長期に、さすがに倍だとすぐにバレるからと、「おかずは桃屋の花らっきょ」のCMで、中国4千年に言い換えられました。
もともと、いいかげんなものでしかないのです。
そのいいかげんな支那が、とつぜん根拠もなく7000年と言い出したから、稲作は支那から渡来したというのは、あきらかに支那におもねる思想であって、これは学問ではありません。

もともと人類史をたどりますと、日本列島に人がやって来たのは、いまから約3〜4万年前であったろうといわれています。
人類が猿から分化したのはいまから約700万年前のことで、そこから人類は、猿人、原人、旧人と変化しました。
いまの人類を「現生人類(ホモサピエンス)」といいますが、これが誕生したのが、いまから約15万年前で、旧人等と現生人類には、交配はなかったとされています。

面白いので、下の絵を貼っておきます。
猿人、原人、旧人たちと現生人類の間には、血の結合性はないのだそうです。つまりわたしたちは、旧人たちの子孫ではありません。(それにしても、やっかいな種に育ったものですね)

この絵はもちろんパロディですが、ただこの絵を見て思うのは、日本のたとえば鳥浜貝塚で、漆塗りの櫛(クシ)は発見されているのに、漆塗りのたとえば槍の柄とか、漆塗りの棍棒(こんぼう)のようなものが日本ではまったく発見されていないということです。
発見されているのが、女性の装身具である漆のクシで、漆塗りの武器が発見されていない。そういう時代が日本では1万5千年近くも続いたというのは、これは人類史上の奇跡と言っても良いくらいの出来事なのではないかと思います。

現世人類が最初に誕生したのは、15万年前のアフリカ中央部です。
それが10万年前には中東あたりに移住し、そこから6万年前にユーラシア大陸を四方に散りました。
それが日本列島に北と南からやってきたのは、いまから4〜3万年前とされています。

ちなみに日本では、約12万年前の石器が発見されていますが、これが新人類のものなのか、旧人類のものなのかはわかっていません。
けれどもし、それが新人類(ホモサピエンス)のものであったとしたら、これは世界の人類史を揺るがしかねない大事件となります。

一方で、勘違いしてはいけないのは、日本列島に北と南から人類がやってきたのは、いまから4〜3万年前だということであって、それは2500年ほど前の、渡来系弥生人とかいう話とは全然違うということです。

推定される新人の世界拡散の経路とその時期
(篠田謙一著「日本人になった祖先たち」より)

日本列島にやってきた人たちが、北のモンゴル系と、南からのフィリピン・マレー系であったことは、日本人のDNAが、それぞれ北と南の特徴を半分ずつもっていることからも、確認することができます。
もしこれが、一方側に偏っているとなると、それは大陸と同じように、相互に民族的な戦闘があったということを意味します。

どういうことかというと、男性から男性へと伝わるY遺伝子のDNAは、男たちが殺されることによって、次第に絶えてしまうからです。痕跡は女性から子へと伝わるミトコンドリアDNAの中にしか残りません。

支那では、およそ4千年前の黄河文明の前に、長江文明(およそ6千年前)が栄えたことが確認されていますが、このとき、先に長江文明をなしていたのがモンゴロイドです。
ところが後になって、北の黄河の流域に、白人系のコーカソイドたちがやってきました。おそらくは大型動物を追ってきたのだろうと言われています。

両者が人種的に異なっていたことは、遺跡から発掘された人骨や住居の形状の違いなどから確認されているのですが、コーカソイドたちは大型動物を狩りますから、手に武器を持っています。
一方、長江のモンゴロイドたちは、農耕文化ですから、武器を持っていません。
あるとき、長江流域のモンゴロイドに出会った黄河のコーカソイドたちは、モンゴロイドを殺し、食料や女を奪いました。

もちろん生残った長江人たちは、コーカソイドに戦いを挑みました。
こうして約2千年の時が流れて、黄河人たちは政治的軍事的に長江人たちを完全に支配下に起きました。
けれど、人口はモンゴロイドの長江人たちのほうが圧倒的に多いわけです。
そのため、彼らの外見上の特徴は、モンゴロイド系になりました。

その後も白系の人種たちは、陸続きですから、数多く支那に入り込みました。
2千年前、つまりそれは三国志の時代ですが、その時代の人骨を調べてみると、男女ともにコーカソイド系の特徴が多くみられるそうです。

考えてみれば、関羽も張飛も、外見上の特徴は、モンゴロイドというよりも、関羽は大柄で髭が長くて顔の堀が深い。これはバイキングなどにみられる人種的特徴です。
張飛は、丸ぽちゃで大柄で、髭はもじゃもじゃ髭です。これはドアーフにみられる人種的特徴です。
要するに、紀元200年頃の支那には、白人系の人種的特徴を示す者たちが、まだたくさんいた、ということです。

ところが現代支那人のDNAからは、ミトコンドリアDNAの中にわずかにコーカソイド系の遺伝子が見つかるだけで、男から男へと伝わるY遺伝子のDNAには、コーカソイド系のDNAがまったく発見できません。
つまり、コーカソイド系の戦う男たちのDNAは、繰り返された戦乱の結果、みんな絶えてしまったわけです。

古来大陸では、殺し合いで負ければ男は奴隷にされるか皆殺し、女たちは陵辱されて子を産まされました。
こうしたことが繰り返されると、やはりその痕跡が時代の変化とともにDNAの変化となってあらわれるわけです。

ところが日本人はどうかというと、あきらかに4〜3万年前に北と南から異なる民族がやってきたにもかかわらず、相互のDNAは、男にも女にも、互いにほぼ均等に出現します。
これが何を意味しているかといえば、明らかに、双方は共存した、ということです。
日本人は、4万年前から、共存と共栄の道を選択してきたのです。

では、北と南のそれぞれからやってきた日本人は、どちらが先に日本列島にやってきたのでしょうか。
これも、ほぼ答えが出ていることです。
それは、おそらく最初に日本列島に住んだのは北方系であったということです。

なぜそのようにいえるかといえば、答えは言語にあります。
日本語は、基本的な語順はモンゴル語系です。
ところが単語の多くは、インドから東南アジア系です。

つまり、モンゴル系の語族の特徴の上に、南方系の単語が取り入れられて、日本語ができたということです。
そして両者の言語は、3〜4万年という途方もない長い期間を経て混じり合い、日本語の型が生まれたわけです。
これが完全に、日本語の型として定着したのは、縄文末期頃であったろうという説もありますが、私は縄文中期には、すでに確立されていたであろうとみています。

なぜこうしたことがいえるかと言いますと、言語学的にそれとそっくり同じことが、実は朝鮮半島にも起きているからです。
朝鮮半島には、もともと倭人たちが入植し、いまの韓国の南半分は倭国です。

ところがそこに、武器を持った中華系や、北方遊牧民系がやってきました。
最終的に倭国は、かつて満州から撤退して人々が日本に帰って来たのと同様に、朝鮮半島から撤退し、日本列島にもどってきました。
その結果、朝鮮半島内では、倭人たちの言語である日本語の語順(文法)の上に、すべての単語が支那語などに置き換わっています。

もともと朝鮮語なるものがあったのではないのです。
もともと朝鮮語なる言語がもしあり、そこに高い朝鮮文明があったのなら、これまた長浜先生から教えていただいたことなのですが、朝鮮語には、民族の国語である「訓読み」がありません。全部、支那式の「音読み」なのです。

このことが何を意味しているかというと、古代において朝鮮半島にいた人たちは、もともと日本語によって文明を開かれ、言語を学び、それが支那か北方遊牧民たちによって征服されることで、言語の単語の読みが全部音読みに置き換わったということです。

彼らは「日本に文明を教えてやった」どころか、日本からせっかく文明を教えてもらいながら、北方系遊牧民や支那人たちと結び、まさにウシハク国を築き上げ、文明を崩壊させてしまっていたわけです。
そしてそのことが、現代艦国語に、確たる証拠として明確に遺っているわけです。

さて、そうなると冒頭に申し上げた「思想」
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そこに2500年ほど前に、朝鮮半島からススンダ稲作文明を持つ渡来人(弥生人)たちがやってきた。
そして縄文人たちを殺戮し、日本民族は入れ替わった。

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というご高説も、ずいぶんと疑わしいものになってきます。

そもそも稲作は、稲を栽培して食料を得るものです。
その稲は、熱帯性植物です。
これはなんどもこのブログに書いていますし、またねず本にも書かせていただいたことですが、熱帯というのは、雨期と乾期があります。
けれど日本は温帯です。雨期と乾期はありません。
そこで、人工的に雨期と乾期を演出したのが、水耕栽培です。
つまり、春には田に水を引いて、田植えをする。これは雨期を演出したのものです。
そして秋には、田から水を抜き、乾田にして、収穫する。これは乾期を演出したものです。

こうしたことを実現するためには、田の水位を変える灌漑技術が必要です。
地面の高さは一定ですから、水位を変えなければならないのです。
そのためには、川に堤防を作って、川の流れを塞き止めて、川の水位を上げなければなりません。これには、相当の水圧に絶えうるだけの堤防技術が必要です。
また、田の地面の高さは、広大な水田が、すべて一定の同じ高さになっていなければなりません。そのためには、測量の技術が必要です。
安全に水を引き、安全に乾田にすること、そして田の高さを一定に保つこと。
これらを工夫し実現するためには、数限りない試行錯誤の蓄積がなければなりません。
そしてまた、稲がどういう植物か、つまり熱帯地方には雨期と乾期があるということを、知識として持っていなければなりません。

考えてみると、これはものすごい農業技術革新です。まさにイノベーションです。
そしてそういうことは、みんなの協力があってはじめてなし得ることです。
殺し合いや奪い合いばかりをやっているような地域では、絶対になし得ないことです。

日本はこれを行いました。
いつやったのかといえば、縄文時代です。それも弥生時代が始まるよりも4千年も前から、これをやっていたわけです。
すくなくとも、同じ時代に人の痕跡さえなかった朝鮮半島で、これが行われていたとは、まったく考えられません。

では、弥生人というのは何なのでしょうか。
冒頭の写真では、弥生人は頭骨が細長いとされていました。
「思想」によれば、その弥生人たちがやってきて、縄文人を滅ぼしたとあります。

ところが全然違うのです。
そもそも弥生人の骨格なるものは、それより古い縄文人たちにもまったく同じようにみられる特徴でしかありません。
そもそも一重まぶたや二重まぶた、高い鼻や低い鼻、背の高い低いから頭骨の縦長、横広といった特徴は、縄文時代よりも、もっとずっと古い時代から、日本人が北方系と南方系の血が入り交じったことによって、縄文時代には既に出来上がっていたものに他なりません。

このことについて、藤岡信勝先生が、実に面白い言い方をされていたのですが、「縄文人と弥生人を区別するということは、鎌倉時代に住んでいた人を鎌倉人、江戸時代の日本人を江戸人、明治時代の日本人を明治人と呼ぶことととなんら変わりがない」というのいうのです。

つまり、弥生人などというシロモノは、ないのです。
縄文人も、弥生人も、同じく太古の昔から日本列島に住んでいた日本人でしかないのです。

なるほど、弥生時代になると、日本人は武器を持ち始めました。
その時代になると、遺跡からたくさんの槍や弓、刀剣などが出土しています。
そして、土器は、縄文時代のような装飾性の高い土器ではなく、きわめて簡素な土器へと変化しています。

なぜそうなったかといえば、縄文時代の終わり頃から、日本人が朝鮮半島に進出しはじめたことが最大の理由です。
日本列島の中で生活している分には、日本人は武器など必要ありませんでした。
このことは江戸時代から明治、大正、昭和初期にかけて、日本人の家屋に鍵などというものがなかったのと同じです。
泥棒がいなければ、鍵など必要ないのです。
同様に、襲う者がいなければ、武器など必要ないのです。

ところが朝鮮半島は、大陸と陸続きです。
高い文明を持った日本は、大陸(支那)等との交易も行いますが、そこには濊族もいるわけです。
彼らは、倭人たちの集落を襲い、食べ物を奪い、男たちを殺し、女たちを陵辱します。
そうなれば、倭人たちも、いきおい武装しなければなりません。

倭人たちの進出によって半文明化された朝鮮半島からは、日本本土にも、濊族などの外来人たちがやってきます。
数はごく少数ですが、中には、福岡一家惨殺事件や、女子高生コンクリート詰め殺人事件のような、むごい事件を起こす悪者もいます。
そしてそういう悪者たちは、悪さをしてはあちこちを旅しますから、いきおい日本列島の中も、物騒な情況になってきます。
もし、おかしな連中がやってきたら、戦わなければなりません。そのためには武器が必要だし、女たちもすぐに逃げ出せるように、服装も簡素になります。食器類も簡素になる。
低い温度で、長時間賭けて焼いていた土器(食器)も、できるだけ短時間で焼くために火の温度をあげ、焼き上がりが早くなるように、食器類も薄くなります。
こうして、生活の道具類が大きく変化したのが、弥生時代であった、ということです。

つまり、縄文人から弥生人への変化などは、なかったのです。
縄文人も弥生人も、ひとしく日本人であり、ただ、朝鮮半島に進出したことから、文明文化の度合いの、明らかに低い野蛮人たちと接することになり、結果、日本人は、武装したり、食器を簡素なものにしたりする必要が生まれたということにすぎないのです。
そして、これが事実です。

ましてや、渡来系弥生人によって、縄文人が駆逐されたなどという事実もありません。
なぜなら、縄文時代の日本人も、現代の日本人も、持っているDNAは同じなのです。

また、「6〜7世紀にススンダ文明を持った渡来人たちが朝鮮半島からやってきて、日本人に箸の使い方から文字、仏教などを教え、そのためようやく日本には、文明が花咲いた」などということも、まるで事実無根です。

そもそも朝鮮半島からススンダ文明がやってきたといいますが、それは何のことを言っているのでしょうか。
仏教伝来のことでしょうか。
仏教は、インドで生まれて支那で漢字化されました。
それがそのまま日本に伝わってきています。
朝鮮半島で、なんらかのオリジナルが加えられていたのなら、朝鮮半島を経由してはいってきたといえますが、なんら朝鮮オリジナルがないのなら、それはただ通過しただけのことでしかありません。

そもそも仏教伝来は、百済の聖明王(聖王)が、西暦552年に日本の欽明天皇に仏像や経典を献上したという出来事をいいます。
この当時、百済王は、その跡継ぎの王子を、日本に人質として差し出しています。
つまり、当時の百済は日本の属国だったわけで、属国である以上、その土地の名産品を朝貢するのが筋です。
ところが百済には、名産、特産となるべきものが何もない。
何もかもが、日本から教えられたことだったからです。
そこで、ばんやむをえず聖明王が、苦肉の策として選んだのが、支那の特産である仏像と仏教教典を、日本の天皇に献上するということだったのです。
逆にいえば、百済が、どれだけオクレタ国だったか、ということです。

では、オクレタ日本に渡来したというのは漢字でしょうか。
なるほど漢字は、仏教とともに、日本に渡来しました。
けれども、それよりも数世紀も前(あるいはもっと何千年も前)から、日本は支那や渤海国等と交易をしています。そこのことは黒曜石の分布で確認することができます。
つまり、日本は、朝鮮から仏教教典の献上を受ける前から、漢字を知っていたといことです。

では、他に朝鮮半島から6〜7日本に渡来したススンダ文明というものは、何があるのでしょうか。
「三つ答えて、下の( )の中に書きなさい」
(    )
(    )
(    )

建築技術? 答えは×です。世界最古の木造建築物は日本の法隆寺五重塔です。
高麗人参? ×です。それが栽培されるようになったのは、徳川将軍吉宗の時代です。
キムチ?  ×です。キムチが生まれたのは、大正時代です。
韓流ドラマ? ×です。古代ではありません(笑)
たぶん、書ける人はいないと思います。
なぜなら、何もないからです。

========
こうして朝鮮半島から常に大きな影響を受けることで、やっと文明化した日本人は、あろうことか明治以降、その朝鮮半島を征服し、若い女性をことごとくセックス奴隷にしたあげく、大陸においても残虐な人殺しをし続けた。そうした日本人のもとになっているのが、弥生時代に渡来し、縄文人の男たちを皆殺しにし、縄文人の女たちを強姦し抜いた血に基づくものなのである。
========
↑この記述も、まさにとんでもない、最早いいがかりとしか言いようがないものです。
そもそも、日本人が殺しや強姦好きの人種なら、先の大戦前の国際連盟の時代に日本の版図となっていたエリアには、日本人のDNAを持つ人たちが、山のようにいるはずです。

けれど、いません。
殺したり強姦したりするどころか、徹底した善政を施し、しかも大戦終了後は、逆に日本人が一方的に犠牲になっています。
だから、当該エリアに、日本人のDNAが残っていません。
事実は、まるで逆なのです。

縄文人と弥生人の違いは、鎌倉時代の人を鎌倉人、江戸時代の人を江戸人と呼んで別な人種、別な民族と主張するのと同じまったく馬鹿げた「とんでも思想」にすぎないということを。
日本人は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和、平成と、ずっと日本人は日本人のままなのです。 

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2250.html

◆『君が代』

『君が代』の原歌は古今和歌集の賀歌に出てきますね。
長寿を祈る歌です。

「私の敬愛する人よ、
千年も八千年も、
小さな石が巨岩となって、
さらにその表面を苔が覆うように
なるまでの永い歳月を、
どうか息災でいて下さい」

という、君が代の「君」…
つまり、親、兄弟、恋人、仲間など、
『愛する人の長寿』を願う歌です。

これのどこが軍国主義の象徴なのか?
日教組の石頭に説明して欲しいですね。

◆蛍の光


◆日本神話よ復活してくれ!

 イギリスの高名な歴史学者「アーノルド・J・トゥインビー」は「12・13歳までに自国の神話を学ばなかった民族は例外無く滅ぶ」と述べている。
 誰が「日本神話を奪ったか知ってますか?」それは「連合国総司令部GHQ」です。日本人の凄まじいばかりの精神性の高さに恐れを成したGHQは「神道指令」を発令し「宗教、神話としての神道」を奪い去りました。「古事記」「日本書紀」を「史実ではなく非科学的だ」と教えさせる事を止めさせた。「アレ〜ッ」実に変だ。GHQの中心的国家米国は大統領の即位式に、今でも聖書に手を置き宣誓する。その聖書は史実で科学的なのか?ノアの箱船、マリア処女生誕と奇跡のオンパレード、とても史実、科学的とは思えない。ダブルスタンダードも甚だしい。
 かと言ってGHQ、米国が悪いとは思っていない。負けた国を貶めるのは当たり前。ましてや高貴なる日本民族の精神破壊は徹底せざるを得なかっただろう。敗戦後70年近くも「邪悪な破壊工作」を、そのまま受け入れる現在の日本人の問題だと個人的に思う。

Facebookよりシェア 池間 哲郎氏