自由と平和のために
反骨心ブログ
バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会
前回、「死刑制度は、バーチャルな世界での殺人」てなことを書いた。
記事を水葉さんにご紹介いただきすっかり気分をよくしている私だが、それはさておき。
例によって前田雅英教授率いる「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」がこんなことを
コミックなどの過激描写 業界の自主規制提言 2006年12月26日 東京新聞
有識者でつくる警察庁の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」は二十五日、子どもを性行為の対象とするコミック本や、暴力的シーンのあるゲームに関し、各業界団体に対して自主規制などを求める最終報告書をまとめた。
警察庁は「報告書の内容を基に、業界団体などに働きかける。子どもたちへの弊害について、社会的議論が起きるよう取り組みたい」としている。
報告書は、問題のコミック本の影響が指摘されている性犯罪事件の事例を取り上げ、「条例で有害図書に指定されている本もインターネット上で公然と販売されているが、業界団体は何も対応していない」と指摘。
業界団体の自主審査を求め、描写されている行為が刑法などに触れる行為であることをコミックに明記する取り組みも検討すべきだ、とした。問題のある本は販売サイトから削除することも求めた。
一方、家庭用ゲーム機などについては「映像が高度化して現実感が高まり、暴力的なシーンで子どもの攻撃行動が促進されうる」と懸念。家庭でのルール作りなどを進めるよう関係省庁が啓発に取り組むことを求めた。
業界団体が取り組んでいる自主審査は評価する一方、ネットを介し複数の人が同じゲームを楽しむオンラインゲームに関しては不十分、とした。
このほか、子どもの携帯電話の利用のあり方について、他人に「うざい」と中傷するメールを送りつけるなどいじめの手段に用いられる現状を取り上げ、注意を促した。
研究会は、弁護士や社会心理学の専門家らで構成。ネットの普及など、バーチャル社会の進展が子どもたちにもたらす弊害について論議するため、今年四月に発足した。
当該団体の最終報告書というのを読んだみた。
要は携帯電話ケシカラン、ゲーム有害、エロ漫画発禁
ってな内容
興味のある方はどうぞ
ツッコミどころ満載です。
もっともらしいデータをあげてるところが余計に微笑ましいです。
ま、そういう結論を出すべく警視庁が発足させた団体なのだから当然の結果。
メンバーをみてもなるほどと言う感じ。(委員等名簿)
こういう結論の根底にあるのは「最近の子供・若者は…」「昔はそんなことはなかった」であるように思われ、私はそうは考えないのでこの方々や警視庁とは考えが異なる。
他方「子供を性行為等の対象とするコミック等について」も触れており、これは成人も含めた規制。
「描写されている行為が刑法などに触れる行為であることをコミックに明記する」って、「タバコは有害です」と同じでこんなの効果あんのかと言いたい。(※この問題は後日また検討する。たぶん。。。ちなみにコミックなので児童ポルノとは別問題。あしからず。)
それから、引っかかったのが「自主」の文言。
ただでさえ営業許可、業務停止行政処分等の権限をもつのはお上であり、そのうえ警察という捜査機関に「求め」られたら、円滑に商売をやっていきたいと考えるなら、それはもう従わざるを得ない。
そういう現実の中にあって「自主規制」を「求める」というのは胡散臭い。
どこが「自主」かは全くの不明なのである。
行政がその権限でもって勝手な価値判断で問題提起のレベルを超えて、民主的な議論の場を経ずに国民の行動を規制することには懐疑的であるべきだ。
だからそれを「自主」という言葉で粉飾されることには違和感をおぼえる。
さて今回この記事を取り上げたのは「バーチャル」つながりで死刑制度等について思うことがあったから。
「バーチャル」という言葉からもっともネガティブなイメージが連想しやすい暴力ゲームへの規制について思うことがあったから。
言うまでもないが暴力は決してバーチャル世界だけのものでなく、現実の世界にいやというほどあふれている
現実に世界で起き、そしてその多くは日本国も消極的にせよ積極的にせよ加担している戦争。(被害者の死に方の残酷さたるやゲームの比ではない。それも想像を絶する人数である。)
こども達を真っ先に餓死へと追い込む北朝鮮への経済制裁。(経済制裁は武力行使でないにもかかわらず人を殺すという意味で二重のバーチャル殺人だ。暴力ゲームなどかわいいものである。ちなみに私の母親は一時期北朝鮮への経済制裁を求める署名活動をしようとしてました。)
そして絞首刑。
これらは本来バーチャルであってはならないこと。
人を殺すということは本来トラウマになって一生心に傷を負うような苦しみを味わう行為であるにもかかわらず、それを一切感じないから、あるべき躊躇がそこにはない。つまり非常に不自然な判断をしてしまうのである。
都合の悪いところだけバーチャルを許容して、人を殺す痛み苦しみをオブラートにくるんでゴックンさせるのはけしからんです。はい。
よくよく考えてみれば
普段食する肉。
(とさつ)して食している方はほとんどおられない。
これも言うなればバーチャルな殺しである。
貨幣制度によって我々はすでにバーチャルな世界に住んでいる。
無論全てを自分で実行しなくてもよいことは便利である
もし全てを自分で実行しなければならないとしたら不便極まりないどころか我々の生活は破綻する。
しかし便利な道具の弊害はキチンと把握すべきであろう。
その弊害を克服するのは「想像力」
これしかない。
戦争の写真をみても活字をよんでも映像を見てもそれをどのように感じるかは我々の想像力にかかっている。
活字も写真も映像も、例え3Dであっても現実の体験以外は全て想像力を補助するものでしかない。
バーチャルなものの便利さにどっぷりつかって想像力を忘れることこそが問題だ。
私はバーチャルなものを否定しているのではない。
便利なものの出現によって痛みを感じなくなった分だけ養わなければならないはずの想像力が、逆に欠如してしまっていることを嘆いているのである。
問題はバーチャルなものそれ自体ではなく想像力の欠如である。
バーチャル社会のもたらす弊害はバーチャルなものそれ自体ではなく想像力の欠如によってもたらされる。
だから暴力ゲーム規制はホントはちょっと履き違えなわけである。
一回でも見学にいったらよろしい。
かわいがって育てた牛を殺して涙を流して「有難さ」と「旨さ」を同時にかみしめたらよろしい。
「いただきます」を言わないで食事などできなくなるから。
まして意味のない(人間を含めた)生物の殺傷など。
想像力の欠如という問題の本質を履き違えて、媒体を規制すりゃいいと思っているセンセイ方も大丈夫でしょうか。想像力。
どんなにもっともらしいデータをあげても痛々しいだけです。
前田先生。どうかリベラル刑法学者と呼ばれた昔を思い出してください。
想像力の欠如・人の死へ痛みを感じないと言う点では、ゲームで殺人を楽しんで人を殺すことの重みを忘れてしまった子供も、「年末だから」といって死刑執行を急いだ法務大臣はじめ法務省の役人も大して変わらない。
そんな人達の動かす日本国なんです。
やっぱり子供はオトナを写す鏡なんですなぁ。
記事を水葉さんにご紹介いただきすっかり気分をよくしている私だが、それはさておき。
例によって前田雅英教授率いる「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」がこんなことを
コミックなどの過激描写 業界の自主規制提言 2006年12月26日 東京新聞
有識者でつくる警察庁の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」は二十五日、子どもを性行為の対象とするコミック本や、暴力的シーンのあるゲームに関し、各業界団体に対して自主規制などを求める最終報告書をまとめた。
警察庁は「報告書の内容を基に、業界団体などに働きかける。子どもたちへの弊害について、社会的議論が起きるよう取り組みたい」としている。
報告書は、問題のコミック本の影響が指摘されている性犯罪事件の事例を取り上げ、「条例で有害図書に指定されている本もインターネット上で公然と販売されているが、業界団体は何も対応していない」と指摘。
業界団体の自主審査を求め、描写されている行為が刑法などに触れる行為であることをコミックに明記する取り組みも検討すべきだ、とした。問題のある本は販売サイトから削除することも求めた。
一方、家庭用ゲーム機などについては「映像が高度化して現実感が高まり、暴力的なシーンで子どもの攻撃行動が促進されうる」と懸念。家庭でのルール作りなどを進めるよう関係省庁が啓発に取り組むことを求めた。
業界団体が取り組んでいる自主審査は評価する一方、ネットを介し複数の人が同じゲームを楽しむオンラインゲームに関しては不十分、とした。
このほか、子どもの携帯電話の利用のあり方について、他人に「うざい」と中傷するメールを送りつけるなどいじめの手段に用いられる現状を取り上げ、注意を促した。
研究会は、弁護士や社会心理学の専門家らで構成。ネットの普及など、バーチャル社会の進展が子どもたちにもたらす弊害について論議するため、今年四月に発足した。
当該団体の最終報告書というのを読んだみた。
要は携帯電話ケシカラン、ゲーム有害、エロ漫画発禁
ってな内容
興味のある方はどうぞ
ツッコミどころ満載です。
もっともらしいデータをあげてるところが余計に微笑ましいです。
ま、そういう結論を出すべく警視庁が発足させた団体なのだから当然の結果。
メンバーをみてもなるほどと言う感じ。(委員等名簿)
こういう結論の根底にあるのは「最近の子供・若者は…」「昔はそんなことはなかった」であるように思われ、私はそうは考えないのでこの方々や警視庁とは考えが異なる。
他方「子供を性行為等の対象とするコミック等について」も触れており、これは成人も含めた規制。
「描写されている行為が刑法などに触れる行為であることをコミックに明記する」って、「タバコは有害です」と同じでこんなの効果あんのかと言いたい。(※この問題は後日また検討する。たぶん。。。ちなみにコミックなので児童ポルノとは別問題。あしからず。)
それから、引っかかったのが「自主」の文言。
ただでさえ営業許可、業務停止行政処分等の権限をもつのはお上であり、そのうえ警察という捜査機関に「求め」られたら、円滑に商売をやっていきたいと考えるなら、それはもう従わざるを得ない。
そういう現実の中にあって「自主規制」を「求める」というのは胡散臭い。
どこが「自主」かは全くの不明なのである。
行政がその権限でもって勝手な価値判断で問題提起のレベルを超えて、民主的な議論の場を経ずに国民の行動を規制することには懐疑的であるべきだ。
だからそれを「自主」という言葉で粉飾されることには違和感をおぼえる。
さて今回この記事を取り上げたのは「バーチャル」つながりで死刑制度等について思うことがあったから。
「バーチャル」という言葉からもっともネガティブなイメージが連想しやすい暴力ゲームへの規制について思うことがあったから。
言うまでもないが暴力は決してバーチャル世界だけのものでなく、現実の世界にいやというほどあふれている
現実に世界で起き、そしてその多くは日本国も消極的にせよ積極的にせよ加担している戦争。(被害者の死に方の残酷さたるやゲームの比ではない。それも想像を絶する人数である。)
こども達を真っ先に餓死へと追い込む北朝鮮への経済制裁。(経済制裁は武力行使でないにもかかわらず人を殺すという意味で二重のバーチャル殺人だ。暴力ゲームなどかわいいものである。ちなみに私の母親は一時期北朝鮮への経済制裁を求める署名活動をしようとしてました。)
そして絞首刑。
これらは本来バーチャルであってはならないこと。
人を殺すということは本来トラウマになって一生心に傷を負うような苦しみを味わう行為であるにもかかわらず、それを一切感じないから、あるべき躊躇がそこにはない。つまり非常に不自然な判断をしてしまうのである。
都合の悪いところだけバーチャルを許容して、人を殺す痛み苦しみをオブラートにくるんでゴックンさせるのはけしからんです。はい。
よくよく考えてみれば
普段食する肉。
(とさつ)して食している方はほとんどおられない。
これも言うなればバーチャルな殺しである。
貨幣制度によって我々はすでにバーチャルな世界に住んでいる。
無論全てを自分で実行しなくてもよいことは便利である
もし全てを自分で実行しなければならないとしたら不便極まりないどころか我々の生活は破綻する。
しかし便利な道具の弊害はキチンと把握すべきであろう。
その弊害を克服するのは「想像力」
これしかない。
戦争の写真をみても活字をよんでも映像を見てもそれをどのように感じるかは我々の想像力にかかっている。
活字も写真も映像も、例え3Dであっても現実の体験以外は全て想像力を補助するものでしかない。
バーチャルなものの便利さにどっぷりつかって想像力を忘れることこそが問題だ。
私はバーチャルなものを否定しているのではない。
便利なものの出現によって痛みを感じなくなった分だけ養わなければならないはずの想像力が、逆に欠如してしまっていることを嘆いているのである。
問題はバーチャルなものそれ自体ではなく想像力の欠如である。
バーチャル社会のもたらす弊害はバーチャルなものそれ自体ではなく想像力の欠如によってもたらされる。
だから暴力ゲーム規制はホントはちょっと履き違えなわけである。
一回でも見学にいったらよろしい。
かわいがって育てた牛を殺して涙を流して「有難さ」と「旨さ」を同時にかみしめたらよろしい。
「いただきます」を言わないで食事などできなくなるから。
まして意味のない(人間を含めた)生物の殺傷など。
想像力の欠如という問題の本質を履き違えて、媒体を規制すりゃいいと思っているセンセイ方も大丈夫でしょうか。想像力。
どんなにもっともらしいデータをあげても痛々しいだけです。
前田先生。どうかリベラル刑法学者と呼ばれた昔を思い出してください。
想像力の欠如・人の死へ痛みを感じないと言う点では、ゲームで殺人を楽しんで人を殺すことの重みを忘れてしまった子供も、「年末だから」といって死刑執行を急いだ法務大臣はじめ法務省の役人も大して変わらない。
そんな人達の動かす日本国なんです。
やっぱり子供はオトナを写す鏡なんですなぁ。
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改正教育基本法成立(怒)
2006年12月15日
改正教育基本法成立
私はこの日を忘れない。
この国が自由と平和を重んじる社会からまた一歩遠のいた日だ。
「最重要法案」などと言っていた安倍はやり遂げたような気になっているのだろうか
冗談じゃない。
これで私は自分の子供をこの国の学校に通わせることを躊躇せねばならなくなった。
やむを得ず通わせたとしても、そのことへの罪悪感を背負わなければならない。
私は彼を心より憎み、そして死ぬまでこの思いは消えることはないだろう。
世襲の好きな彼らの言葉を借りて言えば
「末代まで呪ってやる」
本気でそう思う。
ロクに審議もできない参院なんてホントいらねーよ
やめちまえ
タイムラグを生むだけの単なる政治の道具じゃねーか
公明党創価学会おぼえておけ
池田大作を崇めようが仏壇買おうがどうでもいい
しかし民主主義を無力ならしめることは許さない
これが私が君達に眉をひそめねばならない唯一かつ最大の理由だ
ある意味最も罪深いのは君達だ
などと私が、読む人間が気分を悪くするようなウラミツラミを綴っていても改正はされてしまったことには変わりがない。
ともあれ今日から私は教育基本法改正賛成派となる。(今度こそ本当に改「正」。改正というよりは復旧?修理?補修?)
今日から悪いことは何でも愛国心のせいにしよう。
こどものいじめも国民でなく国を愛する教育をしてるから。
消費者問題も、ゆがんだ、偏った個性を否定され、美しくみんなで国を愛することを教えられて、あるいは公共の精神ばっかり叩きこまれて、自己を自立した個人とすることができていないから。
服装が乱れるのも「国」がはぐくんだ文化だと教えられ「愛国心」と言わされて自発的に心の底から文化に愛着をもてないでいるから。
憲法改正の論点や旧教育基本法改正の時に改正派から聞かれたエキセントリックな論法をのしをつけてお返ししよう。
現在の教育やこどもの姿に問題があるとしてもそれは旧基本法のせいではないことは明らか。
にもかかわらずこれを変えることを「最重要」として問題を余計に混乱させた安倍のバカさ加減は最早犯罪的であるわけだが、変えちまったものはしょうがない。
結果責任を問いましょうや。
んで後悔してもらいましょうや。
安倍の一生をかけて。
参考までに
文科省HP内新旧教育基本法比較(但し法案として記載のPDF)
改正教育基本法成立
私はこの日を忘れない。
この国が自由と平和を重んじる社会からまた一歩遠のいた日だ。
「最重要法案」などと言っていた安倍はやり遂げたような気になっているのだろうか
冗談じゃない。
これで私は自分の子供をこの国の学校に通わせることを躊躇せねばならなくなった。
やむを得ず通わせたとしても、そのことへの罪悪感を背負わなければならない。
私は彼を心より憎み、そして死ぬまでこの思いは消えることはないだろう。
世襲の好きな彼らの言葉を借りて言えば
「末代まで呪ってやる」
本気でそう思う。
ロクに審議もできない参院なんてホントいらねーよ
やめちまえ
タイムラグを生むだけの単なる政治の道具じゃねーか
公明党創価学会おぼえておけ
池田大作を崇めようが仏壇買おうがどうでもいい
しかし民主主義を無力ならしめることは許さない
これが私が君達に眉をひそめねばならない唯一かつ最大の理由だ
ある意味最も罪深いのは君達だ
などと私が、読む人間が気分を悪くするようなウラミツラミを綴っていても改正はされてしまったことには変わりがない。
ともあれ今日から私は教育基本法改正賛成派となる。(今度こそ本当に改「正」。改正というよりは復旧?修理?補修?)
今日から悪いことは何でも愛国心のせいにしよう。
こどものいじめも国民でなく国を愛する教育をしてるから。
消費者問題も、ゆがんだ、偏った個性を否定され、美しくみんなで国を愛することを教えられて、あるいは公共の精神ばっかり叩きこまれて、自己を自立した個人とすることができていないから。
服装が乱れるのも「国」がはぐくんだ文化だと教えられ「愛国心」と言わされて自発的に心の底から文化に愛着をもてないでいるから。
憲法改正の論点や旧教育基本法改正の時に改正派から聞かれたエキセントリックな論法をのしをつけてお返ししよう。
現在の教育やこどもの姿に問題があるとしてもそれは旧基本法のせいではないことは明らか。
にもかかわらずこれを変えることを「最重要」として問題を余計に混乱させた安倍のバカさ加減は最早犯罪的であるわけだが、変えちまったものはしょうがない。
結果責任を問いましょうや。
んで後悔してもらいましょうや。
安倍の一生をかけて。
参考までに
文科省HP内新旧教育基本法比較(但し法案として記載のPDF)
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いじめ 「価値を教える」 個人主義 朝生
ビール片手に朝生。
何かのCMみたいですがテーマはいじめ。
「いじめは悪いことだという価値観をオトナが教えられなくなった。」
「地域社会崩壊による相互監視の欠如が問題だ。」
「昔は「世間の目」があった。」
「明憲下での天皇教のなくなった宗教のない日本でどうやって価値をこどもに語るか。」
なんてことが語られてました。
価値をオトナが教えられなくなったなんていいますけど、出演者は教えられるんですかねぇ
ダメなものはダメ。
悪いものは悪い。
そんな理屈もへったくれもない強権的な押し付けで子供が納得するとお思いなら、それは大きな間違い。
『
悪いものは悪いんだぁ。へぇ~。
じゃ、なんでオトナの世界にいじめが絶えないの?
「悪いこと」ってのは「みんなに悪いって言われてること、聞かれたら悪いって言わなきゃいけないこと」なんでしょ??
×→「悪いこと」=「してはいけないこと」
○→「悪いこと」=「聞かれたら「してはいけないこと」と言わなければならないこと」
それを「タテマエ」って言うんでしょ?
いじめ?
なくなるわけないじゃん。
いじめる方が悪い?
いじめられる方にも原因があるんじゃない??(って答えとくのが「正解」だと思う)
』
というニヒリステックな達観にどうやって答えるんでしょ。
みなさん子供ナメてませんか?
ちなみに私は教えられますよ。価値を。
(えらそうで申し訳ないが、酒のせいということで…)
価値ならあるじゃないすか。
60年前から。
個人主義。
憲法っすよ。
権利権利で義務がないなんて田原も言ってたけど、そりゃ違う。
我々は生まれながらにして最高の価値をもっている。
だから尊重されねばならない。
それを
権利=right=正しいこと
と言う。
権利を主張するのに条件なんてない
本来は制約すらない
そのものが正しいことなんだから
だけど権利は常に同じ価値を持ったものとぶつかり合う
同種同等の別の権利。
それを尊重し自己の権利との矛盾を回避しなければ秩序は壊れ、やがて自分の権利(生まれながらにして持った最高の価値)をも失う。
だから他人の権利を尊重することは大事なんだ。
他人のためでもタテマエでも何となくでもなく、自分自身のために他者の権利を尊重しなければならないんだ。
それが「個」なんだ。
それが個人主義なんだ。
それが日本国憲法の中核なんだ。
それが我々の理想とする社会の前提なんだ。
だからいじめと言う他人の権利を不当に侵害することは結局のところ損なことだし許されないことでもあるんだ。
ってな発言が福島氏からさえも聞かれなかったのはとても残念。
あの人もわかってんのかなとすら。
個人主義→いじめは許されないってことは周知の前提でその価値観を担保する手段が失われたっていう風にはどうしても聞こえなかった。
だって担保する手段よりも前にどうやって伝えるか納得させるかの方が大事だし、「個」を否定するような発言も多々聞かれたわけでそれに反論がなかったから。
「オンナらしさ=優しさ、オトコらしさ=(失念)という価値観のある社会では今のようないじめはなかった。」(by八木秀次)とか。
価値を押し付ける植え付けるってんなら個人主義以外にないと思うんですがね。
だって我々は60年前にそう決めちゃったし、その後形式的にせよそれで運用しちゃってきたわけだし、グローバル化の中それはますます重要性を増してきているわけだし…
もっと現実的に多様な価値観の存在を認める価値観を広めなきゃ。
今更集団で共通の価値観道徳を再生しようなんて非現実的。
お花畑夢想主義者には付き合いきれません。
再生ったってマスターテープすら聞いたことがない連中が言ってるんだから。
都合よく編集されるのがオチ。(おっと脱線)
個人主義の方はといえば60年間誤解されっぱなしで、ぜんっぜん理解されてない。
だから「個性の偏重は良くない」なんて冗談では笑いがとれないんでしょうけども。
え?
私ですか?
えぇそりゃもう酔っ払ってますよ。
タイトルみりゃわかるでしょ。
ハイ。もう寝ます。
何かのCMみたいですがテーマはいじめ。
「いじめは悪いことだという価値観をオトナが教えられなくなった。」
「地域社会崩壊による相互監視の欠如が問題だ。」
「昔は「世間の目」があった。」
「明憲下での天皇教のなくなった宗教のない日本でどうやって価値をこどもに語るか。」
なんてことが語られてました。
価値をオトナが教えられなくなったなんていいますけど、出演者は教えられるんですかねぇ
ダメなものはダメ。
悪いものは悪い。
そんな理屈もへったくれもない強権的な押し付けで子供が納得するとお思いなら、それは大きな間違い。
『
悪いものは悪いんだぁ。へぇ~。
じゃ、なんでオトナの世界にいじめが絶えないの?
「悪いこと」ってのは「みんなに悪いって言われてること、聞かれたら悪いって言わなきゃいけないこと」なんでしょ??
×→「悪いこと」=「してはいけないこと」
○→「悪いこと」=「聞かれたら「してはいけないこと」と言わなければならないこと」
それを「タテマエ」って言うんでしょ?
いじめ?
なくなるわけないじゃん。
いじめる方が悪い?
いじめられる方にも原因があるんじゃない??(って答えとくのが「正解」だと思う)
』
というニヒリステックな達観にどうやって答えるんでしょ。
みなさん子供ナメてませんか?
ちなみに私は教えられますよ。価値を。
(えらそうで申し訳ないが、酒のせいということで…)
価値ならあるじゃないすか。
60年前から。
個人主義。
憲法っすよ。
権利権利で義務がないなんて田原も言ってたけど、そりゃ違う。
我々は生まれながらにして最高の価値をもっている。
だから尊重されねばならない。
それを
権利=right=正しいこと
と言う。
権利を主張するのに条件なんてない
本来は制約すらない
そのものが正しいことなんだから
だけど権利は常に同じ価値を持ったものとぶつかり合う
同種同等の別の権利。
それを尊重し自己の権利との矛盾を回避しなければ秩序は壊れ、やがて自分の権利(生まれながらにして持った最高の価値)をも失う。
だから他人の権利を尊重することは大事なんだ。
他人のためでもタテマエでも何となくでもなく、自分自身のために他者の権利を尊重しなければならないんだ。
それが「個」なんだ。
それが個人主義なんだ。
それが日本国憲法の中核なんだ。
それが我々の理想とする社会の前提なんだ。
だからいじめと言う他人の権利を不当に侵害することは結局のところ損なことだし許されないことでもあるんだ。
ってな発言が福島氏からさえも聞かれなかったのはとても残念。
あの人もわかってんのかなとすら。
個人主義→いじめは許されないってことは周知の前提でその価値観を担保する手段が失われたっていう風にはどうしても聞こえなかった。
だって担保する手段よりも前にどうやって伝えるか納得させるかの方が大事だし、「個」を否定するような発言も多々聞かれたわけでそれに反論がなかったから。
「オンナらしさ=優しさ、オトコらしさ=(失念)という価値観のある社会では今のようないじめはなかった。」(by八木秀次)とか。
価値を押し付ける植え付けるってんなら個人主義以外にないと思うんですがね。
だって我々は60年前にそう決めちゃったし、その後形式的にせよそれで運用しちゃってきたわけだし、グローバル化の中それはますます重要性を増してきているわけだし…
もっと現実的に多様な価値観の存在を認める価値観を広めなきゃ。
今更集団で共通の価値観道徳を再生しようなんて非現実的。
お花畑夢想主義者には付き合いきれません。
再生ったってマスターテープすら聞いたことがない連中が言ってるんだから。
都合よく編集されるのがオチ。(おっと脱線)
個人主義の方はといえば60年間誤解されっぱなしで、ぜんっぜん理解されてない。
だから「個性の偏重は良くない」なんて冗談では笑いがとれないんでしょうけども。
え?
私ですか?
えぇそりゃもう酔っ払ってますよ。
タイトルみりゃわかるでしょ。
ハイ。もう寝ます。
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北星女子中への抗議文事件~ネットウヨクといじめの構造~
いじめは自分自身には見出せなかったアイデンティティを共通の敵をつくることで集団に見出すことである。
他者への攻撃により連帯を得、自己にアイデンティティを見出せない不幸の穴埋めをするわけである。
そしてこの構造は社会において普遍的ともいえるわけだが、現代日本社会においては特に顕著というわけ。
いじめ(をしてしまうこと)は社会全体に蔓延する病である。
こどもはオトナのまねをしているだけ。
だから、いじめはむしろオトナの問題である。
さて、最近私のお気に入りの某ブログで、このいじめの構造が顕著に表れる場面にお目にかかった。
いわゆるネットウヨクがゴミを大量に送りつけていたわけである。
別に管理人さんがいじめられていたというわけではない。(恐らくゴミが溜まった位でへこむ様な方でもない。)
ネットウヨクというパソコンをおぼえたサルの思考を分析するに、いじめをしてしまう人間の思考と酷似しているという話である。
いきさつを説明する。
17日北海道新聞が『教育基本法改正に反対 北星女子中3生、首相に意見書』なる報道。
記事によれば、
意見書はA4サイズで四枚。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げた改正案について、「国を愛する心は人それぞれが自分から思うものであって、おしつけられるものではない」と指摘。安倍首相に「本当に私たちの将来のことを考えてくれていますか? 返答をください」と求めた。
-中略-
意見書を送ったクラス担任の北野聡子教諭(32)は「子どもたちの行動力に驚いた。考える力が育っている証拠で、担任として誇りに思う」と話している。
この報道が担任の実名を挙げていたことから、「担任は共産党員であることが判明」というウワサが流れる。
このあたり喜んでいるいわゆる左派系ブログ等(実際喜ばしいのであるが)を疎ましく思うサルが一所懸命「ググって」ウワサを流したのは想像に難くない。ちなみにウワサの真相は不明。というかどうでもよろしい。
仮に過去に共産党員であった経歴があったり現に共産党員であったとしても、だから何?ということ。
エテ吉はこの記事を紹介していたそのブログにこのウワサをもってきて「こどもを政治活動に利用」とぬかす。
しかしこの主張は、
こども(中三)の自主性を全く無視している点
共産党員は教育に携わるに際してこどもに自らの政治思想を押し付ける蓋然性があるというムチャを前提としている点
で飛躍がある。
全くとるに足らない世迷言。だからゴミというわけ。
その後、札幌テレビ放送でこんな報道
"愛国心"とは、こんな卑劣な"心"なのでしょうか。「教育基本法」改正案について、札幌の中学生が安倍総理に、「反対の声明文」を送ったところ、「匿名の大人」から「抗議文」が届きました。15歳の"自由な意見"に"脅迫"ともとれる批判でした。
-中略-
(抗議のメール)「阿部首相の送った中学生の意見書は何だ?お前ら、学校で何を教えているんだ」
(教頭)「生徒が自分で関心を持って意見を表明したのは素晴らしい。いろいろな意見を封じ込める残念な反響だ」
この学校では、生徒それぞれが意見を書いたカードを送る準備もしています。生徒たちが自分で考えて「押し付けだ」と感じた教育基本法改正案。「愛国心の強制」どころか、「言論の自由」さえも封殺しようという大人の行為に、15歳の心は深く傷つきました。
この報道についても
「匿名なので大人とは限らない」
「意見書は教師あてであって子供の言論を封殺するものではない」
「教師にこどもを政治活動に利用するなと言うのは当然だ」
という意見(?)が。
ポイントをずらして「穴」をあけそこにねじ込むように自己の主張へと飛躍させるお得意のパターンである。
「穴あけ」に使われるのは「でっちあげ説」「取るに足らない小さな事実あるいは虚構」などなど。
いずれも本質部分には「穴」はあけられない。
この場合は「匿名の大人」に自分を重ねた同じく「匿名の大人」であるネットウヨクの逆ギレであろう。
ま、重ねたのはあながち間違いではないのだが、されてもいない批判を想定しての逆ギレ。
それはもうエアセックス。
そのブログに送りつけられたゴミの数はいくつだったか。
10・20でないのはたしか。
反論はそれ自体無意味だし刺激はゴミの数を増やすので閲覧者に過ぎない私は傍観していたわけだが、彼らがなぜ故おかしなことを言い、そしてなぜ彼らは自らを自身の飛躍やご都合主義を客観視できないサルへ退化させねばならなかったのかを考えた。
彼らの導きたい結論は結局のところ単純である。
愛国心万歳。教育基本法改正万歳。
その為の誹謗中傷・揚げ足取りである。
しかし彼らはその主張よりも手段であるはずの誹謗中傷の方にウエイトを置いていると思ってしまうのは私だけだろうか。
他者を攻撃すること自体を目的としていないだろうか。
思うに彼らをして、有限であるはずの時間をゴミの作成送付という無駄な行為に費やさせるものは、他者への攻撃により連帯を得、自己にアイデンティティを見出せない不幸の穴埋めをしたいという衝動である。
また、その他者不寛容なイデオロギーそのものによっても不幸の穴埋めはされるから、それを奪われる危機感というものもあるだろう。
むしろ彼らの他者不寛容なイデオロギーはそれ自体不幸の穴埋めから出発しているとも思っている。
いずれにせよ、こういう単純かつ下卑た感情・衝動を言論で粉飾しようと思うから、ポイントをずらして「穴」をあけそこにねじ込むように自己の主張へと飛躍させるというお得意のパターンとなる。
本質部分には「穴」はあけられないから噛み合った議論ができない。
噛み合った議論はすなわち彼らにとって「不幸」を意味する。
私が彼らとまともな議論をして負ける気がしないのは、どちらが議論に長けているとか彼らがバカだからとかそういう問題ではなく初めから決まっているからであろう。
「キモい、くさい、ウザイ」が「アカ、非国民、売国奴」+αに変わっただけ。
ゴミは3秒で削除が吉なわけであるが3秒といえども不幸の穴埋めに付き合わされる者にとっては迷惑千万。
マトモな反対意見(あるのか?)との振り分けは結構手間である。
アクセス増・検索順位上昇程度ではあまりに不十分な見返りだ。
さて、私が彼らを「サル」と称するもう一つの理由。
それは彼らの行為による彼らの主張することへの逆効果である。
彼らの下卑た行為が彼ら自身のマイナスイメージにつながることはもちろんのこと(それゆえ匿名)彼らの行為はその支持すると思われる政党・擁護する政治家、論客・イデオロギーそのものへのマイナスイメージにつながる。
当初から反対の意見を主張している我々はさておき、そうでない人間が「炎上」をみてどう思うか。
匿名の抗議文メール1通で自分達の意見の自主性を否定されアイデンティティを踏みにじられた中学生は、恐らく一生彼らと同様の意見には耳を貸さないだろう。
集団に依存していない分この中学生の方がはるかに成熟しており、恐らくこの中学生はそのことを悟っただろうから。
そういった自分の行為の及ぼす結果を考えられない知能の低さ。
サル以下である。
あ、不幸の穴埋めだから主張の効果なんてどうでもいいのか。
じゃサルにしてあげる。
他者への攻撃により連帯を得、自己にアイデンティティを見出せない不幸の穴埋めをするわけである。
そしてこの構造は社会において普遍的ともいえるわけだが、現代日本社会においては特に顕著というわけ。
いじめ(をしてしまうこと)は社会全体に蔓延する病である。
こどもはオトナのまねをしているだけ。
だから、いじめはむしろオトナの問題である。
さて、最近私のお気に入りの某ブログで、このいじめの構造が顕著に表れる場面にお目にかかった。
いわゆるネットウヨクがゴミを大量に送りつけていたわけである。
別に管理人さんがいじめられていたというわけではない。(恐らくゴミが溜まった位でへこむ様な方でもない。)
ネットウヨクというパソコンをおぼえたサルの思考を分析するに、いじめをしてしまう人間の思考と酷似しているという話である。
いきさつを説明する。
17日北海道新聞が『教育基本法改正に反対 北星女子中3生、首相に意見書』なる報道。
記事によれば、
意見書はA4サイズで四枚。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げた改正案について、「国を愛する心は人それぞれが自分から思うものであって、おしつけられるものではない」と指摘。安倍首相に「本当に私たちの将来のことを考えてくれていますか? 返答をください」と求めた。
-中略-
意見書を送ったクラス担任の北野聡子教諭(32)は「子どもたちの行動力に驚いた。考える力が育っている証拠で、担任として誇りに思う」と話している。
この報道が担任の実名を挙げていたことから、「担任は共産党員であることが判明」というウワサが流れる。
このあたり喜んでいるいわゆる左派系ブログ等(実際喜ばしいのであるが)を疎ましく思うサルが一所懸命「ググって」ウワサを流したのは想像に難くない。ちなみにウワサの真相は不明。というかどうでもよろしい。
仮に過去に共産党員であった経歴があったり現に共産党員であったとしても、だから何?ということ。
エテ吉はこの記事を紹介していたそのブログにこのウワサをもってきて「こどもを政治活動に利用」とぬかす。
しかしこの主張は、
こども(中三)の自主性を全く無視している点
共産党員は教育に携わるに際してこどもに自らの政治思想を押し付ける蓋然性があるというムチャを前提としている点
で飛躍がある。
全くとるに足らない世迷言。だからゴミというわけ。
その後、札幌テレビ放送でこんな報道
"愛国心"とは、こんな卑劣な"心"なのでしょうか。「教育基本法」改正案について、札幌の中学生が安倍総理に、「反対の声明文」を送ったところ、「匿名の大人」から「抗議文」が届きました。15歳の"自由な意見"に"脅迫"ともとれる批判でした。
-中略-
(抗議のメール)「阿部首相の送った中学生の意見書は何だ?お前ら、学校で何を教えているんだ」
(教頭)「生徒が自分で関心を持って意見を表明したのは素晴らしい。いろいろな意見を封じ込める残念な反響だ」
この学校では、生徒それぞれが意見を書いたカードを送る準備もしています。生徒たちが自分で考えて「押し付けだ」と感じた教育基本法改正案。「愛国心の強制」どころか、「言論の自由」さえも封殺しようという大人の行為に、15歳の心は深く傷つきました。
この報道についても
「匿名なので大人とは限らない」
「意見書は教師あてであって子供の言論を封殺するものではない」
「教師にこどもを政治活動に利用するなと言うのは当然だ」
という意見(?)が。
ポイントをずらして「穴」をあけそこにねじ込むように自己の主張へと飛躍させるお得意のパターンである。
「穴あけ」に使われるのは「でっちあげ説」「取るに足らない小さな事実あるいは虚構」などなど。
いずれも本質部分には「穴」はあけられない。
この場合は「匿名の大人」に自分を重ねた同じく「匿名の大人」であるネットウヨクの逆ギレであろう。
ま、重ねたのはあながち間違いではないのだが、されてもいない批判を想定しての逆ギレ。
それはもうエアセックス。
そのブログに送りつけられたゴミの数はいくつだったか。
10・20でないのはたしか。
反論はそれ自体無意味だし刺激はゴミの数を増やすので閲覧者に過ぎない私は傍観していたわけだが、彼らがなぜ故おかしなことを言い、そしてなぜ彼らは自らを自身の飛躍やご都合主義を客観視できないサルへ退化させねばならなかったのかを考えた。
彼らの導きたい結論は結局のところ単純である。
愛国心万歳。教育基本法改正万歳。
その為の誹謗中傷・揚げ足取りである。
しかし彼らはその主張よりも手段であるはずの誹謗中傷の方にウエイトを置いていると思ってしまうのは私だけだろうか。
他者を攻撃すること自体を目的としていないだろうか。
思うに彼らをして、有限であるはずの時間をゴミの作成送付という無駄な行為に費やさせるものは、他者への攻撃により連帯を得、自己にアイデンティティを見出せない不幸の穴埋めをしたいという衝動である。
また、その他者不寛容なイデオロギーそのものによっても不幸の穴埋めはされるから、それを奪われる危機感というものもあるだろう。
むしろ彼らの他者不寛容なイデオロギーはそれ自体不幸の穴埋めから出発しているとも思っている。
いずれにせよ、こういう単純かつ下卑た感情・衝動を言論で粉飾しようと思うから、ポイントをずらして「穴」をあけそこにねじ込むように自己の主張へと飛躍させるというお得意のパターンとなる。
本質部分には「穴」はあけられないから噛み合った議論ができない。
噛み合った議論はすなわち彼らにとって「不幸」を意味する。
私が彼らとまともな議論をして負ける気がしないのは、どちらが議論に長けているとか彼らがバカだからとかそういう問題ではなく初めから決まっているからであろう。
「キモい、くさい、ウザイ」が「アカ、非国民、売国奴」+αに変わっただけ。
ゴミは3秒で削除が吉なわけであるが3秒といえども不幸の穴埋めに付き合わされる者にとっては迷惑千万。
マトモな反対意見(あるのか?)との振り分けは結構手間である。
アクセス増・検索順位上昇程度ではあまりに不十分な見返りだ。
さて、私が彼らを「サル」と称するもう一つの理由。
それは彼らの行為による彼らの主張することへの逆効果である。
彼らの下卑た行為が彼ら自身のマイナスイメージにつながることはもちろんのこと(それゆえ匿名)彼らの行為はその支持すると思われる政党・擁護する政治家、論客・イデオロギーそのものへのマイナスイメージにつながる。
当初から反対の意見を主張している我々はさておき、そうでない人間が「炎上」をみてどう思うか。
匿名の抗議文メール1通で自分達の意見の自主性を否定されアイデンティティを踏みにじられた中学生は、恐らく一生彼らと同様の意見には耳を貸さないだろう。
集団に依存していない分この中学生の方がはるかに成熟しており、恐らくこの中学生はそのことを悟っただろうから。
そういった自分の行為の及ぼす結果を考えられない知能の低さ。
サル以下である。
あ、不幸の穴埋めだから主張の効果なんてどうでもいいのか。
じゃサルにしてあげる。
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いじめの背景 親の教育65% 読売調査
いじめの背景に親の教育不在あり65%…読売調査
読売新聞社が11、12日に実施した全国世論調査(面接方式)で、いじめが原因とみられる子供の自殺が相次ぎ、いじめが大きな問題となっている背景を八つの選択肢の中から選んでもらったところ(複数回答)、「親が社会のルールを教えていない」が65%で最も多かった。
次いで、「他人の痛みを思いやることができない」(55%)「親が子どもの悩みを把握できていない」(52%)の順で、家庭での教育の問題が大きいと考えている人が多かった。
4、5位は、「教師の指導力や資質に問題がある」(48%)「学校が責任逃れをして問題を隠す」(45%)だった。
全国の高校で起きた「必修逃れ」の問題で、文部科学省が決めた救済策について、「納得できる」と答えた人は、「どちらかといえば」を合わせて59%に上った。「納得できない」は計36%だった。文科省の救済策では、70時間を上限に本来受けるべき補習授業の時間数を減らすことにしている。
10月に発足した安倍首相の諮問機関「教育再生会議」(野依良治座長)については、「期待している」が計58%で、「期待していない」(計38%)を上回った。
男女別にみると、「期待している」は、女性(62%)が男性(54%)より多かった。年代別では、30、40歳代の「子育て世代」と70歳以上が、いずれも62%と高かった。
(2006年11月18日19時56分 読売新聞)
御用読売らしい調査でけっこうなことです。
「親が社会のルールを教えていない」には笑った。
子供は親を含めたオトナの実践してる「社会のルール」を反映してるだけなのにね。
真逆じゃないですか。
いじめがなくならないわけだ。
それで教育基本法改正なんつって教育を見直そうみたいなことを語るんだから…
もうなんというか。
痛々しいですな。
ま、こういう調査は選択肢のつくり方に大きく左右されるわけで、65パーセントの回答者の中には「親(を含めたオトナ)が社会の(あるべき姿や)ルールを(身をもって)教え(ることができ)ていない」という趣旨でこの肢を選んだ方もいるかもしれない。
でもそれも読売にかかったら「いじめは最近のダメ親のせい」ってな論調になっちゃいます。
んで、そのダメ親の62%や子育てもままならないダメなオンナの62%は安倍首相の諮問機関「教育再生会議」へ期待と。
ハイ。ヒーローのできあがりです。
それから
「他人の痛みを思いやることができない」
だって。
あぁいましたね。
「ファイティングスピリット(をもって)自分で戦ったらいい。」
とか言ってるオトナ。
こどもがまねしてますよ~
あれ?
もしかしてアイツが子供のまねしてたのかな??
読売新聞社が11、12日に実施した全国世論調査(面接方式)で、いじめが原因とみられる子供の自殺が相次ぎ、いじめが大きな問題となっている背景を八つの選択肢の中から選んでもらったところ(複数回答)、「親が社会のルールを教えていない」が65%で最も多かった。
次いで、「他人の痛みを思いやることができない」(55%)「親が子どもの悩みを把握できていない」(52%)の順で、家庭での教育の問題が大きいと考えている人が多かった。
4、5位は、「教師の指導力や資質に問題がある」(48%)「学校が責任逃れをして問題を隠す」(45%)だった。
全国の高校で起きた「必修逃れ」の問題で、文部科学省が決めた救済策について、「納得できる」と答えた人は、「どちらかといえば」を合わせて59%に上った。「納得できない」は計36%だった。文科省の救済策では、70時間を上限に本来受けるべき補習授業の時間数を減らすことにしている。
10月に発足した安倍首相の諮問機関「教育再生会議」(野依良治座長)については、「期待している」が計58%で、「期待していない」(計38%)を上回った。
男女別にみると、「期待している」は、女性(62%)が男性(54%)より多かった。年代別では、30、40歳代の「子育て世代」と70歳以上が、いずれも62%と高かった。
(2006年11月18日19時56分 読売新聞)
御用読売らしい調査でけっこうなことです。
「親が社会のルールを教えていない」には笑った。
子供は親を含めたオトナの実践してる「社会のルール」を反映してるだけなのにね。
真逆じゃないですか。
いじめがなくならないわけだ。
それで教育基本法改正なんつって教育を見直そうみたいなことを語るんだから…
もうなんというか。
痛々しいですな。
ま、こういう調査は選択肢のつくり方に大きく左右されるわけで、65パーセントの回答者の中には「親(を含めたオトナ)が社会の(あるべき姿や)ルールを(身をもって)教え(ることができ)ていない」という趣旨でこの肢を選んだ方もいるかもしれない。
でもそれも読売にかかったら「いじめは最近のダメ親のせい」ってな論調になっちゃいます。
んで、そのダメ親の62%や子育てもままならないダメなオンナの62%は安倍首相の諮問機関「教育再生会議」へ期待と。
ハイ。ヒーローのできあがりです。
それから
「他人の痛みを思いやることができない」
だって。
あぁいましたね。
「ファイティングスピリット(をもって)自分で戦ったらいい。」
とか言ってるオトナ。
こどもがまねしてますよ~
あれ?
もしかしてアイツが子供のまねしてたのかな??
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教育基本法改正案 衆院可決(怒)
ムカつく。
まじハラ立つ。
何が自民党だ。
非民主的なことこの上ないやり方で自由を奪いやがって。
言っておくが多数決は民主的などではない。断じて。
民意の「統合」がなされていない。
「統合」とはつまり多様な民意を、話し合うことで時には双方の妥協により「まとめること」だ。
加えて今回の改正案は民意を「反映」もしていない。
テレビの街頭インタビューでは「とりあえずは何か変えて様子みるべきだからいいんじゃないか」なんていう法案の内容とはおよそ無関係なスッとぼけた意見が聞かれるくらいなのだから。
こういう数の横暴を臆面もなく強行する輩をファシストという。
民主主義を都合よく勘違いしてもらっては困る。
強行採決しといてどこが「審議は尽くされた」(by中川幹事長)かは全くの不明。
というか…
①そもそもこどもはおかしいのか。おかしいとすればこどものどこがおかしいのか。
②教育はおかしいのか。おかしいとすれば教育のどこがおかしいのか。
③こどもがおかしいのは教育がおかしいことが原因であるのか?(因果関係その1)
④おかしい子供の原因たるおかしい教育の原因は「教育基本法」にあるのか。あるとすれば教育基本法の何条が①の原因なのか、あるいはどのような条項が足りないことが①の原因なのか。(因果関係その2)
と言うことに説得的なお答えを頂きたい。(教育基本法改正?参照)
だって「審議は尽くされた」んでしょ?
え?欠席した野党が悪いって??
誰が悪いかを問題にするってことは審議は尽くされていないってことを認めたことになりますが。
「乱闘の末」という文言がつかなくて一番ほっとしてるのは誰だっつうの。
それからついでに公明党。
自民と結託して悪法をバンバン通す「ブレーキ」ですか。
ブレーキとアクセル間違えるくらいなら公衆の安全を考えて運転はしないでいただきたい。
不「公」正なこと「明」白な「党」ですな。
オメーラ全員タンスの角に足の小指ぶっけておっ死ね。
…私がここまでお聞き苦しいであろう言葉を使って批判非難したのは、改正案がそこまで問題な、超重要どころか超重大問題ヤバすぎマジありえないんだけど~法案だから。
愛国心云々はもうほっといて(バカどもはぜんぜん理解しないから。あ、つい本音が。)、国家に教育への介入を広範に認めていること(あるいはそういう方向性を示唆していること)である。
そもそも国家には子供の学習権充足させるべく教育環境を整える義務とそのための「裁量」こそあれ、学習の内容を決する「権限」などない。
国家に主権者たる国民を教育する権限を認めることはすこぶる非民主的だ。
単なる秩序維持マシーン(社会契約論)である国家が主(あるじ)である民を教育しようなどおこがましいにもほどがある。
今回の教基法改正案は民主主義の根幹にかかわるものなのであり、はっきり言って民主主義をきちんと理解し実践しているかの「踏み絵」である。
したがって
今回の教基法改正案に消極的であれ積極的であれ「賛成」という人間は
民主主義って何?オイシイもの??というバカか
非民主的万歳、ファシズム万歳、国家万歳というアホ
いずれかである。
わかんない興味ない関係ないという人間も当然このいずれかであると擬制される。
民主主義とはそういうもの。
主権を担うとはそういうこと。
責任を負わされる。
これまで私はいわゆる権力者への批判こそすれ主権者側への批判は極力避けてきた。
しかしもう我慢ならない。
オメーラ「も」全員タンスの角に足の小指ぶっけておっ死ね。
…と怒っていてもしょうがない。
衆院の次は参院である。
もし「良識の府」たる参院で同じことが行われたのなら、参院なんてホントもういらない。
ここは大仁田や神取の「良識」に期待しよう。
郵政解散の時は「勝手に争点つくるなよ」と言ったけど、今回は「教基法改正案」に賛成か反対かの争点で十分だ。
ぜひ「良識」でもって参院で否決後、首相には衆院解散後総選挙で民意を問うていただきたい。
「超重要法案」なんだから。
以下朝日新聞記事
教育基本法改正案、衆院で可決 野党は採決を欠席(朝日新聞) goo ニュース2006年11月16日(木)13:33
安倍政権が今臨時国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案は16日午後の衆院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決した。同日中に参院へ送られる。民主、共産、社民、国民新の野党4党は15日の衆院教育基本法特別委員会で与党が単独で採決したことに抗議して16日の本会議を欠席した。一部の参考人質疑を除いてすべての国会審議を拒否しており、与野党が正面から激突したまま舞台は参院に移る。
国会の会期は12月15日までで、与党は会期延長も視野に入れている。ただ、年末の予算編成を控えて実質的には大幅延長は困難な情勢で、厳しい国会運営を強いられるのは間違いない。
民主党の高木義明国対委員長ら野党4党の国会対策責任者は16日午前、自民党の二階俊博国対委員長ら与党国対委員長と国会内で会談。高木氏は前日の衆院特別委で与党が単独採決に踏み切ったことについて「巨大与党の数の暴挙だ。教育タウンミーティングの『やらせ』の上に築かれた欠陥基本法で審議も不十分だ」と抗議、16日の衆院本会議開催を取りやめて審議を特別委に差し戻すことを求めた。
これに対して、二階氏は「そろそろ採決するのは当然だ」と述べ、要求には応じられないとの姿勢を示した。 河野氏は高木氏ら野党4党の国対責任者を国会内の議長室に招き、衆院本会議への出席を促したが、高木氏らは応じなかった。
野党は16日午前、国民投票法案を審議している衆院憲法調査特別委員会の小委員会と、いじめ問題を審議している衆院青少年問題特別委員会の2委員会だけ出席、参考人質疑を行った。だが、その他の衆参の各委員会では野党が審議を拒否。与党は、教育基本法改正案が衆院本会議で可決された後、防衛庁の省昇格法案を審議する衆院安全保障委員会など各委員会を単独で開く構えだ。
まじハラ立つ。
何が自民党だ。
非民主的なことこの上ないやり方で自由を奪いやがって。
言っておくが多数決は民主的などではない。断じて。
民意の「統合」がなされていない。
「統合」とはつまり多様な民意を、話し合うことで時には双方の妥協により「まとめること」だ。
加えて今回の改正案は民意を「反映」もしていない。
テレビの街頭インタビューでは「とりあえずは何か変えて様子みるべきだからいいんじゃないか」なんていう法案の内容とはおよそ無関係なスッとぼけた意見が聞かれるくらいなのだから。
こういう数の横暴を臆面もなく強行する輩をファシストという。
民主主義を都合よく勘違いしてもらっては困る。
強行採決しといてどこが「審議は尽くされた」(by中川幹事長)かは全くの不明。
というか…
①そもそもこどもはおかしいのか。おかしいとすればこどものどこがおかしいのか。
②教育はおかしいのか。おかしいとすれば教育のどこがおかしいのか。
③こどもがおかしいのは教育がおかしいことが原因であるのか?(因果関係その1)
④おかしい子供の原因たるおかしい教育の原因は「教育基本法」にあるのか。あるとすれば教育基本法の何条が①の原因なのか、あるいはどのような条項が足りないことが①の原因なのか。(因果関係その2)
と言うことに説得的なお答えを頂きたい。(教育基本法改正?参照)
だって「審議は尽くされた」んでしょ?
え?欠席した野党が悪いって??
誰が悪いかを問題にするってことは審議は尽くされていないってことを認めたことになりますが。
「乱闘の末」という文言がつかなくて一番ほっとしてるのは誰だっつうの。
それからついでに公明党。
自民と結託して悪法をバンバン通す「ブレーキ」ですか。
ブレーキとアクセル間違えるくらいなら公衆の安全を考えて運転はしないでいただきたい。
不「公」正なこと「明」白な「党」ですな。
オメーラ全員タンスの角に足の小指ぶっけておっ死ね。
…私がここまでお聞き苦しいであろう言葉を使って批判非難したのは、改正案がそこまで問題な、超重要どころか超重大問題ヤバすぎマジありえないんだけど~法案だから。
愛国心云々はもうほっといて(バカどもはぜんぜん理解しないから。あ、つい本音が。)、国家に教育への介入を広範に認めていること(あるいはそういう方向性を示唆していること)である。
そもそも国家には子供の学習権充足させるべく教育環境を整える義務とそのための「裁量」こそあれ、学習の内容を決する「権限」などない。
国家に主権者たる国民を教育する権限を認めることはすこぶる非民主的だ。
単なる秩序維持マシーン(社会契約論)である国家が主(あるじ)である民を教育しようなどおこがましいにもほどがある。
今回の教基法改正案は民主主義の根幹にかかわるものなのであり、はっきり言って民主主義をきちんと理解し実践しているかの「踏み絵」である。
したがって
今回の教基法改正案に消極的であれ積極的であれ「賛成」という人間は
民主主義って何?オイシイもの??というバカか
非民主的万歳、ファシズム万歳、国家万歳というアホ
いずれかである。
わかんない興味ない関係ないという人間も当然このいずれかであると擬制される。
民主主義とはそういうもの。
主権を担うとはそういうこと。
責任を負わされる。
これまで私はいわゆる権力者への批判こそすれ主権者側への批判は極力避けてきた。
しかしもう我慢ならない。
オメーラ「も」全員タンスの角に足の小指ぶっけておっ死ね。
…と怒っていてもしょうがない。
衆院の次は参院である。
もし「良識の府」たる参院で同じことが行われたのなら、参院なんてホントもういらない。
ここは大仁田や神取の「良識」に期待しよう。
郵政解散の時は「勝手に争点つくるなよ」と言ったけど、今回は「教基法改正案」に賛成か反対かの争点で十分だ。
ぜひ「良識」でもって参院で否決後、首相には衆院解散後総選挙で民意を問うていただきたい。
「超重要法案」なんだから。
以下朝日新聞記事
教育基本法改正案、衆院で可決 野党は採決を欠席(朝日新聞) goo ニュース2006年11月16日(木)13:33
安倍政権が今臨時国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案は16日午後の衆院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決した。同日中に参院へ送られる。民主、共産、社民、国民新の野党4党は15日の衆院教育基本法特別委員会で与党が単独で採決したことに抗議して16日の本会議を欠席した。一部の参考人質疑を除いてすべての国会審議を拒否しており、与野党が正面から激突したまま舞台は参院に移る。
国会の会期は12月15日までで、与党は会期延長も視野に入れている。ただ、年末の予算編成を控えて実質的には大幅延長は困難な情勢で、厳しい国会運営を強いられるのは間違いない。
民主党の高木義明国対委員長ら野党4党の国会対策責任者は16日午前、自民党の二階俊博国対委員長ら与党国対委員長と国会内で会談。高木氏は前日の衆院特別委で与党が単独採決に踏み切ったことについて「巨大与党の数の暴挙だ。教育タウンミーティングの『やらせ』の上に築かれた欠陥基本法で審議も不十分だ」と抗議、16日の衆院本会議開催を取りやめて審議を特別委に差し戻すことを求めた。
これに対して、二階氏は「そろそろ採決するのは当然だ」と述べ、要求には応じられないとの姿勢を示した。 河野氏は高木氏ら野党4党の国対責任者を国会内の議長室に招き、衆院本会議への出席を促したが、高木氏らは応じなかった。
野党は16日午前、国民投票法案を審議している衆院憲法調査特別委員会の小委員会と、いじめ問題を審議している衆院青少年問題特別委員会の2委員会だけ出席、参考人質疑を行った。だが、その他の衆参の各委員会では野党が審議を拒否。与党は、教育基本法改正案が衆院本会議で可決された後、防衛庁の省昇格法案を審議する衆院安全保障委員会など各委員会を単独で開く構えだ。
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いじめと教育
実は最近「いじめ」の問題について悩んでいた。
件の自殺予告手紙を読んで涙を流すほどのショックを受けたということもある。
無論「波こそあってもその存在は昔から変わらない」という私の立場は変わらない。
しかしこれは「いじめ」そのものを肯定することを意味しない。
「愛国心教育!!」などのヒステリックというか狂気じみた政策にとらわれることなく「いじめ」を可及的に防止するにはどうしたらよいか。
まず、「いじめ」の背景を明らかにしたいと思った。
つまり「いじめ」をする、ないし許容する心理である。
既に多くの方が考察されておられるが、私なりに考えてみたいと思った。
私は「いじめ」はいじめる方の共通意識が本質であると思う。
敵の敵は味方の論理だけで「みんな-1名」が一つになる。
いじめられる方を意識しているようで、その実はいじめる方(みんな-1名)を意識している。
だからいじめる方の発言は取るに足らないものしかない。
「キモい」「くさい」「ウザイ」・・・
つながることが目的でいじめられる方の素因などどうでもよいから。
だから彼らに「キモくない」「くさくない」「ウザくない」などと言っても全くのムダ。
意識しているのは「みんな-1名」という集団であるから、集団外から「やめなさい」と言ってもあまり効果はない。
そんなこと言っても集団の中での立場に利害関係があるのは、簡単に「やめなさい」と言える部外者たるオトナでなく自分なのだから。
子供は「やめなさい」というキレイ事が返ってくるなんてことは分かりきっているから、いじめの存在はひた隠しにする。
自分の立場を心配するあまり他者を犠牲にしているわけである。
「保身のため」という理由は子供の専売特許ではない。
その多くはもっともらしく別の理由で粉飾されているが、恐らくオトナを動かす理由のうちで最も多い。
「食っていくため」「家族を養うため」「金のため」「甘いこといってんじゃねぇ」…そして「国のため」
キモいくさいウザイという取るに足らない理由は成長とともにもっともらしい理由となる。
成長させるところが違うだろ!
つまりいじめの心理は子供もオトナも男も女も共通である。
もっといえば万国万人共通である。
だから恐らくこの世からいじめがなくなることはない。
人が3人以上いれば派閥が生まれるなんて言う言葉(これももっともらしい理由というか開き直り)もある。
ではいじめは放置するべきか。
いや、そうではない。
「可及的に防止」と言ったのはそういう意味である。
いじめの本質を突き詰めればそれを誘発する要因がわかる。
いじめそのものをなくすことが不可能であるとしても、この要因を無くしていくことでいじめは減少しないか。
そう思った。
前述のようにいじめの本質は自己保身にある。
自己を守る必要がでてくるのは自己がそれほど弱くなったということを意味する。
弱くなった…「自己」に自信がない
そう。
自分は何者であり、何をなすべきかということ(自己同一性・アイデンティティ)について、自分自身に答えを見出せなくなると、人はそれを自分の帰属する集団に求めようとする。
これが、子供だと『一人の人物を「キモい」「くさい」「ウザイ」と言う集団』になる。
オトナだと、『日本人』だったり『「最近の若者は」と言う集団』だったり『「売国奴」とか「非国民」とか「三国人」とか言う集団』だったり。
要は共通の敵が欲しくなるのである。
それによって自分自身には見出せなかった自己のアイデンティティが保たれるわけである。
よくよく考えてみれば、
何者であり、何をなすべきか?
そんなの決まってるだろ?
オレはオレ。
オレはこうこうこう考える。
だからこうしたい。
だからオレはこうする。
自分の幸せはこうだ。
だからこう生きる。
それがオレの人生だ。
と言える者が、自分の幸せを追求する時間と労力をムダにしてまで、本当は「キモくない」「くさくない」「ウザくない」と思っているのに集団に迎合してイジメに加担するとは思えない。
加えてこのように考えることのできる者が
自分の幸せはこうだ。
だからオレはこうする。
それは尊重してもらいたい。
他方あなたの幸せは自分で決めてくれ。
それは尊重するから。
それがもし一緒ならうれしい。
けど、一緒じゃないならしょうがない。
それぞれやっていこう。
と言うようになるのは時間の問題と思われる。
なぜなら、
自分の幸せはこうだ。
だからオレはこうする。
だからお前もこうしろ。
と言ったなら、途中まで一緒の道筋をたどった強い人物に拒絶され潰されるのは必至で、再考を余儀なくされるからだ。
最初からやりなおしである。
挫折とも言う。転向と言う場合もある。
だから
オレはオレ
で全て解決とはいかない。
他者からの評価を意識し、他者と自分の抵触を回避すること、抵触した場合に対処できる方法を考えることはむしろ健全だ。
他方、中核にある自分自身へのそれを諦め、必要以上に他者からの評価ないし集団にアイデンティティを求めること『だけ』に依存することはすこぶる不健全である。
増して集団にだけ求めたアイデンティティを他者に強制し、拒絶する者を攻撃するがごときは不健全通り越して完全に病気である。
ともあれ私にはこの不健全さが社会に蔓延しているように思える。
そして子供はこの不健全さを察知し真似ているように見える。
子は親を映す鏡なら
学校は社会を映す鏡。
子の不健全さを問題視するなら社会の不健全さを問題視し、それを解決せねばなるまい。
ミクロからマクロへ
マクロからミクロへ
である。
いささか抽象論に過ぎた。
ちょっと整理しよう。
健全な学校にするためには、健全な社会にしなければならない。
では健全さとは何か。
自分自身にアイデンティティを見出し、他者のそれにも寛容であること。
である。
これを日本社会は手に入れねばならない。
それも早急にである。
宮崎勤、オウム、北朝鮮etc…
世間を騒がせる者たちによって日本社会はこの寛容さを忘れつつある。
社会を変えるのは難しい
それならいっそ、ミクロから攻めてはどうか。
自分自身にアイデンティティを見出し、他者のそれにも寛容であるべきことを教える。
君達は何のためにここに存在し、これからの人生で何をすべきか。
答えがすぐ見つからないなら、それを放棄すべきか追い求めるべきか。
自分の考えと一致しない他者とどう向き合うべきか。
現実的に「カンケーねぇよ」で終われるか。
逆に自分の考えを拒絶する者を攻撃することが正しいか。
是非、子供に自身で考えてもらいたい。
それもかなり小さいうちから。
オトナにできていないことを子供ができるかというなかれ。
子供はオトナをコピーできるくらい、実はかなりオトナである。
それに私の尊敬する親達は口をそろえてこういう
「子供からはむしろ学ぶことの方が多い」と。
そして私は思うのである。
子供に考えるきっかけと環境を提供することこそ教育であると。
その意味では現状の教育は完全に失敗している。
むしろ鏡の方でなら健全さを取り戻せるかもしれない。
今回の私の考えるきっかけは
↓
・自殺予告手紙全文(毎日新聞)
・これを紹介している水瓶座さんのブログ(毎度お世話になってます。)
・また同様に参考になるご意見を書かれている水葉さんのブログ(同じく毎度お世話になってます。)
※『「最近の若者は」と言う集団』と言ったが、『「最近のこどもは」と言う集団』も一種の共通の敵によって自分自身には見出せなかった自己のアイデンティティが保つための集団である。
どうもこのところのいじめ問題ではこういう言葉が聞かれるので気になった。
いじめの構造を考えもせず、自殺予告をしたり実際に自殺した子供をみて「最近のこどもは命を大切にしない」という妄言を吐くオトナに囲まれた子供は実に不憫だ。
こどもは「オトナってのは言い訳がうまい子供のことなんだ」と思うだろう。
こども受難の時代だ。
件の自殺予告手紙を読んで涙を流すほどのショックを受けたということもある。
無論「波こそあってもその存在は昔から変わらない」という私の立場は変わらない。
しかしこれは「いじめ」そのものを肯定することを意味しない。
「愛国心教育!!」などのヒステリックというか狂気じみた政策にとらわれることなく「いじめ」を可及的に防止するにはどうしたらよいか。
まず、「いじめ」の背景を明らかにしたいと思った。
つまり「いじめ」をする、ないし許容する心理である。
既に多くの方が考察されておられるが、私なりに考えてみたいと思った。
私は「いじめ」はいじめる方の共通意識が本質であると思う。
敵の敵は味方の論理だけで「みんな-1名」が一つになる。
いじめられる方を意識しているようで、その実はいじめる方(みんな-1名)を意識している。
だからいじめる方の発言は取るに足らないものしかない。
「キモい」「くさい」「ウザイ」・・・
つながることが目的でいじめられる方の素因などどうでもよいから。
だから彼らに「キモくない」「くさくない」「ウザくない」などと言っても全くのムダ。
意識しているのは「みんな-1名」という集団であるから、集団外から「やめなさい」と言ってもあまり効果はない。
そんなこと言っても集団の中での立場に利害関係があるのは、簡単に「やめなさい」と言える部外者たるオトナでなく自分なのだから。
子供は「やめなさい」というキレイ事が返ってくるなんてことは分かりきっているから、いじめの存在はひた隠しにする。
自分の立場を心配するあまり他者を犠牲にしているわけである。
「保身のため」という理由は子供の専売特許ではない。
その多くはもっともらしく別の理由で粉飾されているが、恐らくオトナを動かす理由のうちで最も多い。
「食っていくため」「家族を養うため」「金のため」「甘いこといってんじゃねぇ」…そして「国のため」
キモいくさいウザイという取るに足らない理由は成長とともにもっともらしい理由となる。
成長させるところが違うだろ!
つまりいじめの心理は子供もオトナも男も女も共通である。
もっといえば万国万人共通である。
だから恐らくこの世からいじめがなくなることはない。
人が3人以上いれば派閥が生まれるなんて言う言葉(これももっともらしい理由というか開き直り)もある。
ではいじめは放置するべきか。
いや、そうではない。
「可及的に防止」と言ったのはそういう意味である。
いじめの本質を突き詰めればそれを誘発する要因がわかる。
いじめそのものをなくすことが不可能であるとしても、この要因を無くしていくことでいじめは減少しないか。
そう思った。
前述のようにいじめの本質は自己保身にある。
自己を守る必要がでてくるのは自己がそれほど弱くなったということを意味する。
弱くなった…「自己」に自信がない
そう。
自分は何者であり、何をなすべきかということ(自己同一性・アイデンティティ)について、自分自身に答えを見出せなくなると、人はそれを自分の帰属する集団に求めようとする。
これが、子供だと『一人の人物を「キモい」「くさい」「ウザイ」と言う集団』になる。
オトナだと、『日本人』だったり『「最近の若者は」と言う集団』だったり『「売国奴」とか「非国民」とか「三国人」とか言う集団』だったり。
要は共通の敵が欲しくなるのである。
それによって自分自身には見出せなかった自己のアイデンティティが保たれるわけである。
よくよく考えてみれば、
何者であり、何をなすべきか?
そんなの決まってるだろ?
オレはオレ。
オレはこうこうこう考える。
だからこうしたい。
だからオレはこうする。
自分の幸せはこうだ。
だからこう生きる。
それがオレの人生だ。
と言える者が、自分の幸せを追求する時間と労力をムダにしてまで、本当は「キモくない」「くさくない」「ウザくない」と思っているのに集団に迎合してイジメに加担するとは思えない。
加えてこのように考えることのできる者が
自分の幸せはこうだ。
だからオレはこうする。
それは尊重してもらいたい。
他方あなたの幸せは自分で決めてくれ。
それは尊重するから。
それがもし一緒ならうれしい。
けど、一緒じゃないならしょうがない。
それぞれやっていこう。
と言うようになるのは時間の問題と思われる。
なぜなら、
自分の幸せはこうだ。
だからオレはこうする。
だからお前もこうしろ。
と言ったなら、途中まで一緒の道筋をたどった強い人物に拒絶され潰されるのは必至で、再考を余儀なくされるからだ。
最初からやりなおしである。
挫折とも言う。転向と言う場合もある。
だから
オレはオレ
で全て解決とはいかない。
他者からの評価を意識し、他者と自分の抵触を回避すること、抵触した場合に対処できる方法を考えることはむしろ健全だ。
他方、中核にある自分自身へのそれを諦め、必要以上に他者からの評価ないし集団にアイデンティティを求めること『だけ』に依存することはすこぶる不健全である。
増して集団にだけ求めたアイデンティティを他者に強制し、拒絶する者を攻撃するがごときは不健全通り越して完全に病気である。
ともあれ私にはこの不健全さが社会に蔓延しているように思える。
そして子供はこの不健全さを察知し真似ているように見える。
子は親を映す鏡なら
学校は社会を映す鏡。
子の不健全さを問題視するなら社会の不健全さを問題視し、それを解決せねばなるまい。
ミクロからマクロへ
マクロからミクロへ
である。
いささか抽象論に過ぎた。
ちょっと整理しよう。
健全な学校にするためには、健全な社会にしなければならない。
では健全さとは何か。
自分自身にアイデンティティを見出し、他者のそれにも寛容であること。
である。
これを日本社会は手に入れねばならない。
それも早急にである。
宮崎勤、オウム、北朝鮮etc…
世間を騒がせる者たちによって日本社会はこの寛容さを忘れつつある。
社会を変えるのは難しい
それならいっそ、ミクロから攻めてはどうか。
自分自身にアイデンティティを見出し、他者のそれにも寛容であるべきことを教える。
君達は何のためにここに存在し、これからの人生で何をすべきか。
答えがすぐ見つからないなら、それを放棄すべきか追い求めるべきか。
自分の考えと一致しない他者とどう向き合うべきか。
現実的に「カンケーねぇよ」で終われるか。
逆に自分の考えを拒絶する者を攻撃することが正しいか。
是非、子供に自身で考えてもらいたい。
それもかなり小さいうちから。
オトナにできていないことを子供ができるかというなかれ。
子供はオトナをコピーできるくらい、実はかなりオトナである。
それに私の尊敬する親達は口をそろえてこういう
「子供からはむしろ学ぶことの方が多い」と。
そして私は思うのである。
子供に考えるきっかけと環境を提供することこそ教育であると。
その意味では現状の教育は完全に失敗している。
むしろ鏡の方でなら健全さを取り戻せるかもしれない。
今回の私の考えるきっかけは
↓
・自殺予告手紙全文(毎日新聞)
・これを紹介している水瓶座さんのブログ(毎度お世話になってます。)
・また同様に参考になるご意見を書かれている水葉さんのブログ(同じく毎度お世話になってます。)
※『「最近の若者は」と言う集団』と言ったが、『「最近のこどもは」と言う集団』も一種の共通の敵によって自分自身には見出せなかった自己のアイデンティティが保つための集団である。
どうもこのところのいじめ問題ではこういう言葉が聞かれるので気になった。
いじめの構造を考えもせず、自殺予告をしたり実際に自殺した子供をみて「最近のこどもは命を大切にしない」という妄言を吐くオトナに囲まれた子供は実に不憫だ。
こどもは「オトナってのは言い訳がうまい子供のことなんだ」と思うだろう。
こども受難の時代だ。
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教育基本法改正?
自民、公明両党は24日、犯罪を実行しなくても事前に合意しただけで罪に問える「共謀罪」の創設を柱とする組織犯罪処罰法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。安倍晋三首相が最優先で成立を目指す教育基本法改正案への審議に影響を与えないため。衆院教育基本法特別委員会は24日の理事懇談会で、25日に教育基本法改正案の趣旨説明を行い、30日に首相が出席して質疑を行うことを決めた。毎日新聞 2006年10月24日(記事全文は末尾)
共謀罪の次は教育基本法か…
ヤレヤレ
愛国心云々が絡む問題だが、これについては本ブログ「愛国心」を参照されたい。
今回は愛国心を除いて教育基本法改正について考えたい。
正直申し上げて、私には教育基本法の何が問題なのかわからない。
教育・子供に問題がないとは言わない。
しかし、問題が「増えた」とも思っていない。
一番わからないのが「情操・道徳」
そう。
(自民の)センセイが一番力をいれるところであり、また
今の時代の子供って何かおかしいじゃないですかぁ
それってやっぱり教育の問題じゃないですかぁ
だから教育基本法ていうの?を正しく変えなきゃいけないじゃないですかぁ
というなんとも怪しい三段論法が存在する所である。
正確には「情操・道徳」という問題において「教育基本法改正が必要」という結論を導くためには
①そもそもこどもはおかしいのか。おかしいとすればこどものどこがおかしいのか。
②教育はおかしいのか。おかしいとすれば教育のどこがおかしいのか。
③こどもがおかしいのは教育がおかしいことが原因であるのか?(因果関係その1)
という段階を全てクリアし「情操・道徳『教育』の改革」が必要であるということを導いたうえで
④おかしい子供の原因たるおかしい教育の原因は「教育基本法」にあるのか。あるとすれば教育基本法の何条が①の原因なのか、あるいはどのような条項が足りないことが①の原因なのか。(因果関係その2)
という道筋が必須である。
通常の法改正でモメるのは④因果関係その2である。(あるいは施行時に予想される弊害への懸念である)
つまり通常はそこまでは争いがないのである。
ところが教育基本法改正の問題はそうではない。
改正消極派の中でもどの段階で切るのかという点では温度差がある。
そして改正積極派の中にはこの段階をすっ飛ばしている者が多々見受けられる。
それが意図的なものか知能の限界を超えたためなのかはわからないが。
この辺は憲法改正の論点と実によく似ている。
例えば私などは①でコケる。
だって「おかしい」ってのは恐らく「昔と比べて」ってことで(だから今変えなきゃいけないんでしょ?)、私には全然そうは思えないから。
犯罪率の増加?
いやいや、昔の子供はワルかったっすよぉ
戦後は暴行、傷害、賭博、窃盗、恐喝、強盗日常茶飯事。ポン中もやたら多い。
60~80年代は少年のポン中は減ったかもしれないがシンナー大流行。
暴行傷害窃盗恐喝強盗はやっぱり日常茶飯事。(ちなみにカツアゲの多くは強盗)
島田紳助も暴れてました。
積木崩しなんてのもありました。
校内暴力大流行。
尾崎も夜の校舎窓ガラス壊してまわりました。
国民的アニメドラエモンでも暴行傷害脅迫恐喝は毎回無修正でした。
いじめられっ子の主人公の現実逃避的白昼夢がお話のネタでした。
葬式ごっこといういたましい事件もありました。
確かに少年の武器はチェーンや金属バットからナイフに代わり、
少年の乗り物は族車からビックスクーターに代わり、
少女の服装がロンスカからルーズに代わり、
シンナーがハッパや×に代わり、覚醒剤の呼び方がポン・ネタからSに代わりました。
オトナはビックリするんでしょうね
でも『質』が変わっても「おかしい」ってことには変わりないじゃん。
「昔はよかった」という幻想にとらわれず柔軟に考えましょうよ。
オトナなら単なる質の変化に過剰反応しない器のデカさをみせましょうよ。
それに犯罪率の増加は正確には少年犯罪『検挙』率の増加ってこと見逃してはならないと思うのですよ。
ま、犯罪率の増加は外国人犯罪の件も含めて学者間でも争いのあるところですが。
(私としては前田雅英教授に是非とも考え直してもらいたいところです。)
それから何ですか?「キレる」子供??
いやいや、だからこれも単なる新しい言葉であって昔から…ねぇ
プッツンなんて言葉ありましたよねぇ
子供じゃないですが「バカヤロー」なんて映画もありました。
「キレる」ってのを私なりに訳せば「突然怒る、或は突然怒ったようにみえること」でしょうか。
昔風に言えば「瞬間湯沸し器」
ほらね
全然変わってない。
私にはむしろオトナが子供を観察し心情を察する努力を怠るマジックワードに聞こえるのですが。(言いすぎかな?)
いずれにせよ前述の①で切れている私はその後の因果関係その1その2等を検討すらしていない。
こう言っちゃ何だが、はっきり言って全てをクリアする(つまり全ての論点に矛盾なく回答する)のは結構大変である。
教育基本法改正を訴えるセンセイってスッゲェんだなぁ
尊敬しちゃうわ
冒頭引用記事全文↓
共謀罪:自公両党、今国会成立を断念 毎日新聞 2006年10月24日 20時39分
自民、公明両党は24日、犯罪を実行しなくても事前に合意しただけで罪に問える「共謀罪」の創設を柱とする組織犯罪処罰法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。安倍晋三首相が最優先で成立を目指す教育基本法改正案への審議に影響を与えないため。衆院教育基本法特別委員会は24日の理事懇談会で、25日に教育基本法改正案の趣旨説明を行い、30日に首相が出席して質疑を行うことを決めた。
組織犯罪処罰法改正案をめぐり、民主党は先の通常国会で共謀罪創設の必要性は認めたうえで、適用対象となる罪や団体の範囲を絞る修正協議に応じてきた。しかし、日本弁護士連合会が「共謀罪を設けなくても(国際組織犯罪防止条約の)批准は可能」とする意見書をまとめたことなどを背景に、今国会では成立阻止に方針転換した。
与党内には「採決を強行すれば、1、2週間は国会が空転する」(自民党国対幹部)との危機感が強く、衆院法務委は同法案の審議を先送りし、信託制度を抜本的に改正する信託法改正案を25日から審議することを決めた。その後、組織犯罪処罰法改正案に着手しても審議日程が確保できず、今の臨時国会での成立を断念した。
教育基本法改正案をめぐっては、24日の衆院教育基本法特別委の理事懇談会で扱いを協議。25日に趣旨説明を行い、30日に質疑を始めることで与野党が折り合った。
共謀罪の次は教育基本法か…
ヤレヤレ
愛国心云々が絡む問題だが、これについては本ブログ「愛国心」を参照されたい。
今回は愛国心を除いて教育基本法改正について考えたい。
正直申し上げて、私には教育基本法の何が問題なのかわからない。
教育・子供に問題がないとは言わない。
しかし、問題が「増えた」とも思っていない。
一番わからないのが「情操・道徳」
そう。
(自民の)センセイが一番力をいれるところであり、また
今の時代の子供って何かおかしいじゃないですかぁ
それってやっぱり教育の問題じゃないですかぁ
だから教育基本法ていうの?を正しく変えなきゃいけないじゃないですかぁ
というなんとも怪しい三段論法が存在する所である。
正確には「情操・道徳」という問題において「教育基本法改正が必要」という結論を導くためには
①そもそもこどもはおかしいのか。おかしいとすればこどものどこがおかしいのか。
②教育はおかしいのか。おかしいとすれば教育のどこがおかしいのか。
③こどもがおかしいのは教育がおかしいことが原因であるのか?(因果関係その1)
という段階を全てクリアし「情操・道徳『教育』の改革」が必要であるということを導いたうえで
④おかしい子供の原因たるおかしい教育の原因は「教育基本法」にあるのか。あるとすれば教育基本法の何条が①の原因なのか、あるいはどのような条項が足りないことが①の原因なのか。(因果関係その2)
という道筋が必須である。
通常の法改正でモメるのは④因果関係その2である。(あるいは施行時に予想される弊害への懸念である)
つまり通常はそこまでは争いがないのである。
ところが教育基本法改正の問題はそうではない。
改正消極派の中でもどの段階で切るのかという点では温度差がある。
そして改正積極派の中にはこの段階をすっ飛ばしている者が多々見受けられる。
それが意図的なものか知能の限界を超えたためなのかはわからないが。
この辺は憲法改正の論点と実によく似ている。
例えば私などは①でコケる。
だって「おかしい」ってのは恐らく「昔と比べて」ってことで(だから今変えなきゃいけないんでしょ?)、私には全然そうは思えないから。
犯罪率の増加?
いやいや、昔の子供はワルかったっすよぉ
戦後は暴行、傷害、賭博、窃盗、恐喝、強盗日常茶飯事。ポン中もやたら多い。
60~80年代は少年のポン中は減ったかもしれないがシンナー大流行。
暴行傷害窃盗恐喝強盗はやっぱり日常茶飯事。(ちなみにカツアゲの多くは強盗)
島田紳助も暴れてました。

積木崩しなんてのもありました。
校内暴力大流行。
尾崎も夜の校舎窓ガラス壊してまわりました。
国民的アニメドラエモンでも暴行傷害脅迫恐喝は毎回無修正でした。
いじめられっ子の主人公の現実逃避的白昼夢がお話のネタでした。
葬式ごっこといういたましい事件もありました。
確かに少年の武器はチェーンや金属バットからナイフに代わり、
少年の乗り物は族車からビックスクーターに代わり、
少女の服装がロンスカからルーズに代わり、
シンナーがハッパや×に代わり、覚醒剤の呼び方がポン・ネタからSに代わりました。
オトナはビックリするんでしょうね
でも『質』が変わっても「おかしい」ってことには変わりないじゃん。
「昔はよかった」という幻想にとらわれず柔軟に考えましょうよ。
オトナなら単なる質の変化に過剰反応しない器のデカさをみせましょうよ。
それに犯罪率の増加は正確には少年犯罪『検挙』率の増加ってこと見逃してはならないと思うのですよ。
ま、犯罪率の増加は外国人犯罪の件も含めて学者間でも争いのあるところですが。
(私としては前田雅英教授に是非とも考え直してもらいたいところです。)
それから何ですか?「キレる」子供??
いやいや、だからこれも単なる新しい言葉であって昔から…ねぇ
プッツンなんて言葉ありましたよねぇ
子供じゃないですが「バカヤロー」なんて映画もありました。
「キレる」ってのを私なりに訳せば「突然怒る、或は突然怒ったようにみえること」でしょうか。
昔風に言えば「瞬間湯沸し器」
ほらね
全然変わってない。
私にはむしろオトナが子供を観察し心情を察する努力を怠るマジックワードに聞こえるのですが。(言いすぎかな?)
いずれにせよ前述の①で切れている私はその後の因果関係その1その2等を検討すらしていない。
こう言っちゃ何だが、はっきり言って全てをクリアする(つまり全ての論点に矛盾なく回答する)のは結構大変である。
教育基本法改正を訴えるセンセイってスッゲェんだなぁ
尊敬しちゃうわ
冒頭引用記事全文↓
共謀罪:自公両党、今国会成立を断念 毎日新聞 2006年10月24日 20時39分
自民、公明両党は24日、犯罪を実行しなくても事前に合意しただけで罪に問える「共謀罪」の創設を柱とする組織犯罪処罰法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。安倍晋三首相が最優先で成立を目指す教育基本法改正案への審議に影響を与えないため。衆院教育基本法特別委員会は24日の理事懇談会で、25日に教育基本法改正案の趣旨説明を行い、30日に首相が出席して質疑を行うことを決めた。
組織犯罪処罰法改正案をめぐり、民主党は先の通常国会で共謀罪創設の必要性は認めたうえで、適用対象となる罪や団体の範囲を絞る修正協議に応じてきた。しかし、日本弁護士連合会が「共謀罪を設けなくても(国際組織犯罪防止条約の)批准は可能」とする意見書をまとめたことなどを背景に、今国会では成立阻止に方針転換した。
与党内には「採決を強行すれば、1、2週間は国会が空転する」(自民党国対幹部)との危機感が強く、衆院法務委は同法案の審議を先送りし、信託制度を抜本的に改正する信託法改正案を25日から審議することを決めた。その後、組織犯罪処罰法改正案に着手しても審議日程が確保できず、今の臨時国会での成立を断念した。
教育基本法改正案をめぐっては、24日の衆院教育基本法特別委の理事懇談会で扱いを協議。25日に趣旨説明を行い、30日に質疑を始めることで与野党が折り合った。
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佐世保市 こども条例
「愛国心」盛った条例案可決 長崎・佐世保市議会 (朝日新聞) - goo ニュース
長崎県佐世保市議会は28日の本会議で、子どもが郷土や国を愛する心を養うことを基本理念にうたった市子ども育成条例案を賛成多数で可決した。市の当初案に「愛国心」の表現はなかったが、議員提案で修正された。
条例は、子ども育成の基本理念を「(子どもが)郷土や国を愛し、世界の平和を願い、自然を大切にする心(中略)を養うことができるよう支援されること」と規定し、地域社会による子育て支援を呼びかけている。
修正案を提出した市岡博道市議(自民党市民会議)は「生まれ育ったところを愛するのは自然な考えで、強制するつもりはない」と説明した。
いや、だから…
「生まれ育ったところ」と「国」は別なんですって。
「愛国心」盛った子ども条例、長崎・佐世保市で可決 (読売新聞) - goo ニュース
条例は、2004年6月に同市で起きた小6女児殺害事件などを受け、市が昨年12月議会で提案し、継続審議となっていた。市の当初案には「国を愛し」などの文言はなかったが、自民、民主、公明党系の各会派が共同提案した修正案で盛り込まれた。
らしいが小6女児殺害事件と愛国心の欠如との因果関係は不明…というか無い。
長崎県佐世保市議会は28日の本会議で、子どもが郷土や国を愛する心を養うことを基本理念にうたった市子ども育成条例案を賛成多数で可決した。市の当初案に「愛国心」の表現はなかったが、議員提案で修正された。
条例は、子ども育成の基本理念を「(子どもが)郷土や国を愛し、世界の平和を願い、自然を大切にする心(中略)を養うことができるよう支援されること」と規定し、地域社会による子育て支援を呼びかけている。
修正案を提出した市岡博道市議(自民党市民会議)は「生まれ育ったところを愛するのは自然な考えで、強制するつもりはない」と説明した。
いや、だから…
「生まれ育ったところ」と「国」は別なんですって。
「愛国心」盛った子ども条例、長崎・佐世保市で可決 (読売新聞) - goo ニュース
条例は、2004年6月に同市で起きた小6女児殺害事件などを受け、市が昨年12月議会で提案し、継続審議となっていた。市の当初案には「国を愛し」などの文言はなかったが、自民、民主、公明党系の各会派が共同提案した修正案で盛り込まれた。
らしいが小6女児殺害事件と愛国心の欠如との因果関係は不明…というか無い。
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教育基本法改正 愛国心
前回のエントリーでの予告通り、今回のテーマは愛国心。
今国会の会期延長がなくなったことから議論は下火になりつつあるけれども教育基本法改正について私の意見を述べておきたい。
教育基本法を改正しそこに愛国心やら国や郷土を愛する心(或は態度)やらを明記することが許されるか。
などと大上段に構えるまでもなくこの問題は「愛国心」の定義づけをはっきりさせれば、おのずと答えは明らかである。(言葉を変えてもそこに「国」という文言が入っていれば問題点は同じであるというのが私の立場。)
愛国心というと右翼チックなイメージがあるけど、ホントは大事なことなんじゃないの?今の若者ってなんか乱れてるし…という素朴な、しかし罪深い意見も一蹴できる。
ということで、愛国心とは何か。
たしかに、国土やそこに住む人々あるいはその文化に愛着をもつことは、自然なことであり理解できる。
しかし、愛する対象をそれだけに限定したものは愛国心とは呼ばない。
愛国心と言った場合の愛する対象は「国家権力」ないし「国家権力+α」である。
すなわち愛国心とは国家権力を愛する心である。
ちょっとこむずかしく定義すれば、愛国心とは、愛郷心とは峻別された市民を支配統治する権力を有する国家に対する忠誠心である、ということになろうか。
愛国心が「国土や国民、文化を愛する心」であるという誤解を解かなければ議論が紛糾するのは必至である。
この問題を議論するには、愛の対象として国家権力が含まれるか否かを峻別することが必須の前提となる。
国家権力というとその言葉自体に左派的なイメージがつきまとうが別にそんなことはない。
国家が国民を支配する権力をもっているのは紛れもない事実だし、国民自身がその権力を国家に与えたというのが民主主義なのである。
これは私見ではなく普遍的な民主主義の定義である。
そして「国民を、あなたを、あなたの愛する人を支配する力を愛せますか?」という問いであれば肯定派が多数を占めるというSMチックな事態は想定し難い。
むしろ支配する力は、常に、その力の正当性の根拠であり同時に矛先である国民から監視されなければならない。
それが民主主義である。
そのための報道である。
そのための表現の自由である。
そのための国会である。
そのための裁判所である。
そのための憲法である。
国土や文化というこぎれいな言葉で偽装した「あなたを支配する力を愛せますか?」という問いは、それ自体ナンセンスである。
個人的な意見を述べれば、私に愛国心が芽生える時は日本国そのものが自由の象徴と言える位まで成熟したときであろう。
この国がそうなっているかどうかは言わずもがな。
そんな状態で私や私の愛する人に国を愛することを強要しようとすることには、断固拒否しなければならないと思うのである。
統治は必要なことであるけれども、支配する側としては支配される側が支配する側を無条件で愛してくれるとしたらこんなに楽なことはない。やりたい放題である。
愛国心を養うという悲願を達したい支配する側からのエサとして「今の若者」が提示されているに過ぎないのである。
私は昔の若者に比べて今の若者が乱れているとは思わないが、(乱れていないとは言っていない。「比べて」ということ。)仮にそうだとしても、教育基本法を改正してどうなるものでもないし、愛国心を養ってマゾヒスティック大量生産をしたところでどうなるものでもないのだから。
2006年7月11日ちょこっとイジりました。
(「ちょっとこむずかしく定義~」の1文と「そのための裁判所である。」を付加)
今国会の会期延長がなくなったことから議論は下火になりつつあるけれども教育基本法改正について私の意見を述べておきたい。
教育基本法を改正しそこに愛国心やら国や郷土を愛する心(或は態度)やらを明記することが許されるか。
などと大上段に構えるまでもなくこの問題は「愛国心」の定義づけをはっきりさせれば、おのずと答えは明らかである。(言葉を変えてもそこに「国」という文言が入っていれば問題点は同じであるというのが私の立場。)
愛国心というと右翼チックなイメージがあるけど、ホントは大事なことなんじゃないの?今の若者ってなんか乱れてるし…という素朴な、しかし罪深い意見も一蹴できる。
ということで、愛国心とは何か。
たしかに、国土やそこに住む人々あるいはその文化に愛着をもつことは、自然なことであり理解できる。
しかし、愛する対象をそれだけに限定したものは愛国心とは呼ばない。
愛国心と言った場合の愛する対象は「国家権力」ないし「国家権力+α」である。
すなわち愛国心とは国家権力を愛する心である。
ちょっとこむずかしく定義すれば、愛国心とは、愛郷心とは峻別された市民を支配統治する権力を有する国家に対する忠誠心である、ということになろうか。
愛国心が「国土や国民、文化を愛する心」であるという誤解を解かなければ議論が紛糾するのは必至である。
この問題を議論するには、愛の対象として国家権力が含まれるか否かを峻別することが必須の前提となる。
国家権力というとその言葉自体に左派的なイメージがつきまとうが別にそんなことはない。
国家が国民を支配する権力をもっているのは紛れもない事実だし、国民自身がその権力を国家に与えたというのが民主主義なのである。
これは私見ではなく普遍的な民主主義の定義である。
そして「国民を、あなたを、あなたの愛する人を支配する力を愛せますか?」という問いであれば肯定派が多数を占めるというSMチックな事態は想定し難い。
むしろ支配する力は、常に、その力の正当性の根拠であり同時に矛先である国民から監視されなければならない。
それが民主主義である。
そのための報道である。
そのための表現の自由である。
そのための国会である。
そのための裁判所である。
そのための憲法である。
国土や文化というこぎれいな言葉で偽装した「あなたを支配する力を愛せますか?」という問いは、それ自体ナンセンスである。
個人的な意見を述べれば、私に愛国心が芽生える時は日本国そのものが自由の象徴と言える位まで成熟したときであろう。
この国がそうなっているかどうかは言わずもがな。
そんな状態で私や私の愛する人に国を愛することを強要しようとすることには、断固拒否しなければならないと思うのである。
統治は必要なことであるけれども、支配する側としては支配される側が支配する側を無条件で愛してくれるとしたらこんなに楽なことはない。やりたい放題である。
愛国心を養うという悲願を達したい支配する側からのエサとして「今の若者」が提示されているに過ぎないのである。
私は昔の若者に比べて今の若者が乱れているとは思わないが、(乱れていないとは言っていない。「比べて」ということ。)仮にそうだとしても、教育基本法を改正してどうなるものでもないし、愛国心を養ってマゾヒスティック大量生産をしたところでどうなるものでもないのだから。
2006年7月11日ちょこっとイジりました。
(「ちょっとこむずかしく定義~」の1文と「そのための裁判所である。」を付加)
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読売社説 教師処分
読売社説[教師処分]「尊敬できない先生が増えている」2004-12-12
教え子にいかがわしい行為をする教師が増えている。だが、それを根絶しようという教育関係者の強い姿勢が見られない。これでは安心してわが子を学校へ送り出せない。
昨年度、わいせつ行為で懲戒処分を受けた公立小中学校、高校などの教師は百五十五人で、過去最多だった。五年前の三倍という急増ぶりだ。
免職になったのは百七人、停職は四十人。免職のうち六十一人は、児童や生徒を対象としたわいせつ行為だった。
教師には、教育者としての高い使命感と倫理観が求められる。養成、採用、研修を通じ、資質の向上を図ることが急務だ。同時に、不適格な教師には、今以上に厳格な対応が必要となろう。
一方、卒業式などの国歌斉唱の際、校長の職務命令に従わず、起立しなかったなどとして懲戒処分を受けた教師も百九十四人いた。ほとんどが東京都の教師たちで、「命令は内心の自由の侵害だ」などと主張し、裁判に訴えている。
同様に、教師の政治活動は法律で禁じられているのに、政治的主張を載せたビラを配るなどして八人が処分された。山梨県教組の傘下の政治団体が、今夏の参院選で教師らから多額の選挙資金を集め、一部を民主党議員の政治団体に寄付した疑惑が表面化している。自民党が追及し、文科省も調査を始めた。
倫理観や法を守る意識に欠けた教師、公務員としての義務を怠り、権利ばかり主張する教師。子供たちは、そんな先生を尊敬するだろうか。
わいせつ行為と政治活動やビラ配りなどの表現の自由を同列に扱うとは…
すごい新聞。
こんな新聞に「尊敬」される教師になったらおしまいだ。
少なくとも私はそんな教師は「尊敬」できない。
思うに、政治活動の自由や表現の自由とわいせつ行為では、単に刑罰が科せられると言う点では共通するが、本来許されるのか否かという点で決定的に異なる。
一方、知る権利とは表現の受け手と送り手が分離固定化した現代社会において、表現の自由を実効あらしめるべく主権者たる国民の側から再構成されたものであるところ、読売新聞は報道の自由として表現の自由を享受し、これによりかかる国民の知る権利に奉仕する存在である。
そして、政治活動や表現など本来自由であるべきものが制約されているのであれば、その制約は公務の政治的公平性等の要請から必要最小限でなければならないことは言うまでもなく、上記知る権利に奉仕する存在として権力を監視する役割を担う報道機関の関心は、その制約が本当に必要最小限であるかに注がれるべきものである。
しかるに、これらの制約を当然の前提としてその主張を展開し、あまつさえその批判の対象を権力から国民へ逆転させた読売新聞は、その重要な役割を放棄したものであり、報道機関としてはすこぶる妥当性を欠くと評価できよう。
のみならず、自らも表現の自由を享受しながら、政治活動や表現の自由と本来的に許されない行為であるわいせつ行為や暴力行為を同列に扱う点でこれらの自由に対する正確な理解すらおぼつかないと思われる読売新聞は、その重要な役割に鑑みて報道の自由として表現の自由を厚く擁護されるべき存在である報道機関としての資格さえ疑わしいと言わざるを得ない。
前言を翻すようではあるが、読売は本当に理解していないのだろうか。
恐らく違うだろう。
理解した上で、そのイデオロギーからあえて同列に扱っているのだろう。
それこそ読売の御用新聞たるゆえんである。
ヤクザの「かけあい」よろしくヤバイ例を二つ三つ挙げて、最後に一番言いたいことを持ってくるあたりなどさすがである。
読んでる方は「うん。うん。うん。…!?」となってしまう。
心理学にも精通しているのか。
いやはや、なんとも恐ろしい。
こんな新聞が日本人に一番多く読まれているとは。
本当に恐ろしい。
教え子にいかがわしい行為をする教師が増えている。だが、それを根絶しようという教育関係者の強い姿勢が見られない。これでは安心してわが子を学校へ送り出せない。
昨年度、わいせつ行為で懲戒処分を受けた公立小中学校、高校などの教師は百五十五人で、過去最多だった。五年前の三倍という急増ぶりだ。
免職になったのは百七人、停職は四十人。免職のうち六十一人は、児童や生徒を対象としたわいせつ行為だった。
教師には、教育者としての高い使命感と倫理観が求められる。養成、採用、研修を通じ、資質の向上を図ることが急務だ。同時に、不適格な教師には、今以上に厳格な対応が必要となろう。
一方、卒業式などの国歌斉唱の際、校長の職務命令に従わず、起立しなかったなどとして懲戒処分を受けた教師も百九十四人いた。ほとんどが東京都の教師たちで、「命令は内心の自由の侵害だ」などと主張し、裁判に訴えている。
同様に、教師の政治活動は法律で禁じられているのに、政治的主張を載せたビラを配るなどして八人が処分された。山梨県教組の傘下の政治団体が、今夏の参院選で教師らから多額の選挙資金を集め、一部を民主党議員の政治団体に寄付した疑惑が表面化している。自民党が追及し、文科省も調査を始めた。
倫理観や法を守る意識に欠けた教師、公務員としての義務を怠り、権利ばかり主張する教師。子供たちは、そんな先生を尊敬するだろうか。
わいせつ行為と政治活動やビラ配りなどの表現の自由を同列に扱うとは…
すごい新聞。
こんな新聞に「尊敬」される教師になったらおしまいだ。
少なくとも私はそんな教師は「尊敬」できない。
思うに、政治活動の自由や表現の自由とわいせつ行為では、単に刑罰が科せられると言う点では共通するが、本来許されるのか否かという点で決定的に異なる。
一方、知る権利とは表現の受け手と送り手が分離固定化した現代社会において、表現の自由を実効あらしめるべく主権者たる国民の側から再構成されたものであるところ、読売新聞は報道の自由として表現の自由を享受し、これによりかかる国民の知る権利に奉仕する存在である。
そして、政治活動や表現など本来自由であるべきものが制約されているのであれば、その制約は公務の政治的公平性等の要請から必要最小限でなければならないことは言うまでもなく、上記知る権利に奉仕する存在として権力を監視する役割を担う報道機関の関心は、その制約が本当に必要最小限であるかに注がれるべきものである。
しかるに、これらの制約を当然の前提としてその主張を展開し、あまつさえその批判の対象を権力から国民へ逆転させた読売新聞は、その重要な役割を放棄したものであり、報道機関としてはすこぶる妥当性を欠くと評価できよう。
のみならず、自らも表現の自由を享受しながら、政治活動や表現の自由と本来的に許されない行為であるわいせつ行為や暴力行為を同列に扱う点でこれらの自由に対する正確な理解すらおぼつかないと思われる読売新聞は、その重要な役割に鑑みて報道の自由として表現の自由を厚く擁護されるべき存在である報道機関としての資格さえ疑わしいと言わざるを得ない。
前言を翻すようではあるが、読売は本当に理解していないのだろうか。
恐らく違うだろう。
理解した上で、そのイデオロギーからあえて同列に扱っているのだろう。
それこそ読売の御用新聞たるゆえんである。
ヤクザの「かけあい」よろしくヤバイ例を二つ三つ挙げて、最後に一番言いたいことを持ってくるあたりなどさすがである。
読んでる方は「うん。うん。うん。…!?」となってしまう。
心理学にも精通しているのか。
いやはや、なんとも恐ろしい。
こんな新聞が日本人に一番多く読まれているとは。
本当に恐ろしい。
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