右とか左とか

<注>今回はいつものニュース(貼り付け)ブログではなく、私の雑感を述べる。しかも長い。
題をみてなんとなく何が言いたいかお分かりになる方や、「講釈」はごめんだという方は今回はスルーして下さい。

先日、「山本さんは左派ですか?」と問われることがあった。
返答に困った。
とりあえず「ウーン、オレ気難しいよ?右とか左とかそういう一元的なカテゴライズがそもそもおかしいと思ってる人間だから。」と答えた。(ハハ。本当に気難しそうな答えだ。その後も私と話し続け、たぶん理解してくれたと思われる彼に感謝せねばならない。)
まあ率直に申し上げて上記の私の言葉の通りなのだが、今思えば「左派って何?」と聞き返してその定義づけから議論した方がより正確に私を理解してもらえたんじゃないかと思う。

そもそも左翼、サヨク、左派ってなんだろう。
1792年フランスの国民議会~という百科事典で調べたウンチクから語るのは数少ない読者を失うのでやめる。
ひと言で言えば革新的な考えの持ち主ということになろうか。(右翼は保守的)
しかし、この定義ではハショりすぎていて何が何だかさっぱりわからない。
一番ハショってはいけないところがハショられているからだ。
つまり何の論点についてかがわからない。
というより実のところこの言葉はあまりにも違う論点に使われすぎていて、従ってすこぶる多義的でありそれらを網羅した定義づけはもはや不可能と思われるのである。平たく言えば「スッゲー色んな意味あっから、もーオレもなんて言っていいかわかんねぇよ」と言うことである。

一般的に、共産主義者は左翼ないし左派とされる。
共産主義というのもまた多義的ではあるが、主に用いられるのは経済的イデオロギーとしてであり、資本主義と対峙する。(共産主義にも本当は色々あるし、話が労働者階級の政治的支配とかプロレタリアート独裁とかに発展すると最早、経済的といえるか疑問だが資本主義の矛盾から出発しているという意味で。)ちなみに今の日本共産党の政策軸は共産主義ではなく社会民主主義である。(もっとびっくりして下さい。)
他方、今の日本社会で右翼とされるのは国粋主義、民族主義、帝国主義などでありこれは必ずしも経済的イデオロギーというわけではない。概念としての対立ではなく歴史として対立してきたのである。次元の違う概念なのである。次元が違うから民族主義と共産主義は概念上は矛盾しない。民族主義的共産主義者だっている。歴史上それも日本の近代においては対立してきたというだけの話である。

もっとも右も左もこれらに限って付される称号(?)ではなく、小さな政府を目指す政党は右派と呼ばれるし、資本主義を前提とする社会民主主義など大きな政府を目指す政党も左派と呼ばれる。
コワモテ国粋主義は極右でコテコテ共産主義の革命マルクスは極左。それらはむしろよくわかんない少数派の例外として、小さな政府大きな政府で右派左派と分けることも一応可能ではある。というか今の日本社会ではどうもそうなっているようだ。
だがちょっと待ってほしい。
確かに極のつく右とか左は日本社会においてはあまり思想に幅がないから単なる言い換え的カテゴライズとして使うことができる。
しかしそれらとて言葉そのものから連想される一元的な思想の対立の関係にはないことは先に述べた。
さらに問題なのは極のつかない右左である。
政策の論点は何も「小さな政府か大きな政府か」というものだけではない。
ここで他の論点の足をひっぱるのが左右の称号のイメージである。
左右の対立には歴史がある。
イメージはそれが正しい認識であろうとなかろうと、歴史を経て積み重ねられてしまったその存在は事実である。
ごく最近のものだけでもその事実を崩すのは容易ではない。
戦後当時新憲法によってその発言を解禁され保障されたのは当時まだ共産主義であった共産党であった。(ええいややこしい!)
当時勢いはあったもののやはり与党ではなかった共産党はレッドパージなどの影響もあって自らの発言を守るべく、財産権を保障した憲法を擁護する政策軸をとることになる。(憲法上は私有財産制を否定できずその意味で私有財産制を否定する一部の共産主義とは相容れない。生産手段のみで私有財産制を否定しないから憲法には抵触しないとの考えもあるが、労働者階級の革命も容認していない憲法と共産主義はやはり『本来は』親和性はない。)
また、資本主義国アメリカの影響下で再軍備を進めたことは政治的にみても野党としての共産党には格好の批判材料となった。
もちろん他にも様々な要因があるし野党は共産党だけではないが、まあそんなこんなで護憲、平和は左派の専売特許の様相を呈する。
現憲法は個人主義(=自由主義ということにする)を基調にしており平和主義も本当はその延長上にある。従って「自由」と名のつく政党ほど平和を強調してもよさそうだが、そうでないことはご周知の通り。
そして左派の専売特許となってしまった護憲、平和に追い討ちをかけたのが皮肉なことに労働者運動や安保闘争である(これらに日本共産党の政策軸が親和性を有したことは言うまでもない)。この国では権利(=right=正しいこと)を行使してお上にたてつく行為をすると世間からは冷ややかな目で見られるらしく、その風潮が災いした。(まあ、その風潮自体右派的だが。)
労働者運動や安保闘争の熱が下火になると護憲、平和に対するマイナスイメージだけが残った。
護憲、平和=左派左翼=共産党=アヤシイ(或いは危険)と言うイメージが定着した。(ちょっといいすぎかもだけど。共産党員の方、党の政策は一応支持してますし、たまに小選挙区とかでは投票してますんで怒らないで下さい。)
共産主義者あるいは日本共産党(イメージなのでほぼ区別されていない)に対するマイナスイメージは彼らに非があるわけではないことが多い。しかしここではそれは問題ではない。彼らへのマイナスイメージが、彼らの政策そのものへと波及した事実が問題である。
このイメージというものは侮れない。「小さな政府か大きな政府か」というそれ自体あいまいな論点は政治にさほど関心のない一般的な選挙民には、はっきり言ってあまり理解されない印象を受ける。
従って、イメージの占めるウエイトはますます高まる。
(東京都民は知事が右翼とはあまり考えない。肩書きにはマイナスイメージを一蹴する力がある。しかし彼の言動はどう考えても極のつく右翼である。)

さて、~主義などと連発したし、話は手前味噌な方向へずれたし、ここまで読んでいただいている方がはたしていらっしゃるのか大変心もとないが、言いたいのは政治思想は一元的に語れるほどには単純なものでないということで、にもかかわらず「小さな政府か大きな政府か」というそれ自体あいまいな論点に付された右とか左という言葉には、常にこのイメージがつきまとい、それが他の政策の正確な理解を阻害するということである。
他の政策の正確な理解を阻害するというデメリットを甘受してまで、「小さな政府か大きな政府か」という論点に左右のレッテルを貼ることにはたしてどれだけ意味があるのか。

政治思想が一元的に語れるほどには単純なものでないというのも、考えてみれば当たり前のことではある。共産主義ないし社会主義を標榜する中国、北朝鮮が果たして平和主義、人権尊重を貫徹しているかといえばそうではない。他方資本主義国にも平和主義、人権尊重を貫徹していない国はゴマンとある。(日本もそうだと思う。)
自由主義といってみたところでそれが少数者や社会的弱者の自由を尊重する趣旨であれば左派的になるし、金持ちの自由、リバタリアニズム的自由あるいは自由放任主義的自由ととらえるなら右派的となる。
当たり前のこととはいってもやはり複雑ではある。

この複雑かつ多義的な言葉がこうも頻繁に使われ、しかもその内容について最早常識としてはほぼ語られず、間違った認識というかその言葉のイメージに振り回されるのはどうしたことか。(東西問題に振り回されているだけといえばそれまでだが。)
答えは簡単。簡単だから。(シャレではない)
だが、ことばは一見簡単で単純でもその意味するもの、というか使う者が表そうとする事象はそんなに単純なものではないいうことは先程嫌がらせのように長く述べた通りである。
複雑なものを単純なことばを用いることによってかえってわかりにくくしてしまっている。(どこかの首相の発言のように。)
例えば上記のような複雑な事象を全て理解した者同士が、私的な会話で用いるのであればその心配はない。
相手がどのような意味において用いているかを暗黙のうちに理解しあえるからである。
しかし私にはそういう場面だけで用いられているとは思えない。
そして、表そうとする事象が、ときには表現者にさえも理解されないまま、例えば右翼とか左翼とか言う言葉のもつイメージだけがひとり歩きをして、しかも一見簡単であるが故、人に理解しているという勘違いをさせるというワルサを働いているように思われる。

もっとも、この複雑かつ多義的なワルガキ的言葉にもいいところがある。それはやはり簡単だということ。
簡単ということは言葉としてかなり魅力的である。
例えばそう、このブログのようにただでさえ長ったらし~い文章を読まされるときに、本旨の前置きとしてクドクドと述べられたのでは、ただでさえ無い読む気が全く失せるというものである。それは書き手としても不本意極まる。というか是非とも避けたい(汗)。
だから私は右とか左とか、この複雑かつ多義的なワルガキ的な言葉を使うのを止めようなどとナンセンスかつ実現不可能なことをいうつもりはない。
もちろん、使ってもいいが複雑かつ多義的な背景を全て理解してからにしろなどと、自分の首を絞めるようなことも言いたくない。ここはひとつ、そんなことは大学教授に任せておけと開き直りたい。

ただ、せめてこの言葉が何だかよくわからんがとにかく複雑かつ多義的な背景を有しているということだけは、それを用いる側も受け手も理解しておきたい。(てか実は私もその程度しかわかっていない。)ワルガキの生い立ちなど知る必要はない。そいつがオイタするヤツなんだということだけを把握しておけばよい。オイタをしたところで用いた人間に「え?どういう意味で?」と聞き返せば問題はないのだから。
他の政策の正確な理解を阻害するというデメリットを甘受してまで、「小さな政府か大きな政府か」という論点に左右のレッテルを貼ることはないが、デメリットを意識的に回避すればむしろ理解を助けることができるのである。

とはいえ、しつこいようだがこのワルガキの「簡単」という笑顔にだまされそいつの性癖を知らないでいると、とんでもないことになる。
目隠しをされ、事の本質を見失い、それこそ右も左もわからなくされてしまう。
一番犯しがちな過ちは、なんとなく自分の政策軸が決まり、それが自分の属する社会において右(左)と呼ばれることを知り、同志を得たようでなんとなく気持ちよくなって自分が右(左)であることに根拠のないプライド(=単なる意地)を持つようになり、排他的になって自分の考えと違う人間を左(右)と呼び弾圧いうか蔑視するパターンである。
こういう人間に「私は左(右)ではない」などと言っても無駄である。
もはや右も左もわからないのだから。

と、最後まで書いてふと疑問に思ったことがある。「左派って何?」と聞き返してその定義づけから議論したところで本当に私を理解してもらえるかということである。
だって、そもそも「左派ですか?」って問いには答える気が全然ないじゃん。
ちょっと聞いたら延々と講釈(というか下手したら説教)されて相手としては気難しいどころか「嫌なやつ」で終わりそう。
せめて問いには答えねばなるまい。
経済的には社会民主主義であるから、中道左派ってとこ。
だけど憲法は「保守」するから右派?
自由を重んじるけどその内容は憲法解釈を基準にしていて、社会的な位置づけはその時々で右派だったり左派だったり…
でもなぜか右翼に言わせると左翼。(ホント意味不明…)
こんなんでいいのかな?
やっぱり複雑ですよね。
右とか左とかってやっぱりちょっと無理ある気がしません??


2005-11-22 14:46:59
↑本当の作成日時
これがトップだと人が集まらなそぉなのでしばらく日付を詐称する。

2006-01-20
上記本当の作成日時に戻す。
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マンション耐震強度偽造

マンション耐震強度偽造 揺れる関係住民・自治体 (朝日新聞) - goo ニュース
 強度が基準を満たさず、地震で大きな揺れがあったら不測のことが起きるかもしれない。そんな恐れがあるマンションやホテルが、首都圏で計21棟あることが明らかになった。原因は、請け負った建築士による「構造計算書の偽造」。前代未聞の事態に関係者は揺れた。朝日2005年11月18日

私はこの事件で、4月の兵庫尼崎JR脱線事故を思い出した。
効率のために我々の安全が脅かされる。
まさに同質ではないか。
何が一番大切なことか。何が目的で何が手段か。
その価値序列を履き違えるととんでもない間違いが起きる。
尼崎でも今回の事件でも、命よりも効率が優先された。
少し手前味噌な飛躍ととられるかも知れないが、この価値序列の倒錯による間違いの最たるものが戦争であると私は思っている。
国家は我々の生命財産を守るための手段である。我々が幸せに生きるために社会契約した、我々が我々自身を統治するための道具である。
しかるに戦争は国家という道具のために我々の幸せを犠牲にする。国と言うたかが道具のために死んでこいという無茶を強要される。
話を元に戻そう。
価値序列の倒錯についてである。
どうも原因は建築確認を民間に開放したこと(指定確認検査機関制度)にあるようだ。
つまりこの指定確認検査機関ってものは別に建築構造のプロというわけではないらしい。構造計算のプロでもない機関が「確認」をしてお墨付きを与えるという制度に問題があると指摘されれている。
効率を高める「民営化」は大いに結構である。
しかし民営化しさえすればよいというものではない。
民営化によるデメリットを把握した上でその危険を担保する制度が不可欠だ。
効率の上位にある価値を忘れてはならない。
価値序列を倒錯しバランスを失した欠陥制度で民営化を見切り発進したのは本来的に我々の安全について責任を負う国家の怠慢に他ならない。
いわば道具の故障である。
そもそも小泉改革は道具である国家の財政赤字という故障をなおす道具であったわけだが、その道具じたいもそろそろメンテナンスの時期であろう。リコールならなおいいが。

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最も幸せな日本人像

最も幸せな日本人像は 30代、都会暮らし、専業主婦
2005年11月18日 (金) 03:31 産経
 高齢者ほど「不幸」 阪大教授ら概念数値化
 男性よりも女性、高齢層よりも若年層のほうが幸せを感じているが、所得の高さと幸せは必ずしも比例しない-。大阪大学社会経済学研究所が全国の六千人を対象に行ったアンケートで、日本人の考えるこんな「幸福感」が浮かび上がった。「幸せ」というあいまいな概念を経済学的、社会学的な観点から数値化した極めて珍しい研究結果。調査データをもとに「日本で最も幸せな人物像」も浮かび上がらせており、同研究所では「一部のデータは国民の幸福を追求する政策にも生かせるのでは」としている。さて、あなたは今、幸せですか?
 調査は、同研究所の筒井義郎教授(経済学)らが昨年二月から、無作為に選んだ全国の二十-六十五歳までの六千人を対象に実施。訪問してアンケートを配布、回収する方法で約四千二百人(70・4%)から回答があった。
 アンケートでは、幸福感について、「非常に幸福」を十点、「非常に不幸」を〇点として、「あなたは何点になると思うか」という「幸福度」をたずねた。この結果、五点が最も多く25%。続いて七点が20%、八点が18%、十点も5・5%おり、全体としては幸福と考えている人が多いことが分かった。一方で、四点以下は13%にとどまった。
 この結果を約三十項目にわたって分析したところ、性別では、女性の「幸福度」の平均値が六・五一点に対し、男性は六・二七点で、女性の方がより幸せと考えている人が多かった。
 年齢別では三十代(平均値六・六点)が最も高く、次に二十代(六・四)が続いたが、四十代以降は加齢とともに不幸になり、六十代では六・二点に落ち込んだ。この結果は、海外の大学が行った調査と比べると逆の現象。アメリカやイギリス、ドイツでは三十歳代が最低で加齢とともに幸福度が増しており、若者に甘く高齢者に厳しい日本社会の傾向を表したともいえる。
 職業別では学生(六・九)▽管理職(六・八)▽専門技術職(六・七)▽事務職(六・五)-などの順。主婦も高かったが、専業主婦(六・七)とパート主婦(六・一)で差が開いた。
 学歴では、高学歴になるほど数値が上がっていたが、大学文系卒(六・九)に比べ、大学理系卒(六・八)はやや低く、短大卒とほぼ同じ。サンプル数は少なかったが、小中学校卒(五・七)と大学院修了(七・一)では一・四点の差が出た。一方で、所得(世帯全体)をめぐっては年収千五百万円までは所得が上がるにつれて幸福度も上昇したが、千七百万円以上になると逆に低下するという皮肉な結果も出た。
 居住地域では、政令都市などの大規模都市になるほど上がり、特に近畿と関東が高かった。これは、都市部のほうが高所得者が多いことに加え、利便性なども背景にあるとみられる。ノルウェーでは都市部と田舎での幸福度は変わらないという報告もあるという。
 また、非喫煙者と喫煙者では非喫煙者、ギャンブルをする人としない人では、しない人のほうが幸福度が高かったが、飲酒習慣で比べると大差はなかった。宗教心のある人とない人では、ある人のほうが、他人の生活水準が気になる人と気にならない人では、気にならない人のほうが高いという結果も出た。
 筒井教授は「何をもって『幸せ』と考えるかは人それぞれ。ただ、そうした主観的な幸福感を調べ、経済学に取り入れることで、机上の経済理論が現実社会により近づけるのではないか」と話している。
最も幸せな日本人像は 30代、都会暮らし、専業主婦 (産経新聞) - goo ニュース

へぇ。
個人的には、これが産経の記事であることや「専業主婦」って言葉から条件反射的に、このデータのアナウンス効果が気になってしまう。
つまりオンナは結婚して家庭に入って家事だけやってるのが一番幸せっていうステレオタイプのアナウンス効果。
他にも「若者に甘く高齢者に厳しい日本社会の傾向」とかね。
別に高齢者に厳しいのは若者に甘くしてるからじゃなくて、失政→財政赤字→小さな政府という短絡的な政策によるところが大きい。んで、それを産経さんは支持してるんじゃなかったけ?
そうすると、所得の話も他人の生活水準の話も全部ウサン臭く見えちゃう。(間接税意識してんのかなとか。)
ま、考えすぎっちゃー考えすぎなんだけど。
こういうデータって採取した人間の意図とはかけ離れて使われることが多いからちょっと気になっただけですぅ。。。
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靖国問題 「韓国への挑戦」

靖国参拝は「韓国への挑戦」 日韓首脳会談、溝埋まらず  (朝日新聞) - goo ニュース朝日新聞2005年11月18日 (金) 23:10
小泉首相は18日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)出席のため訪れた釜山で韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と会談した。大統領は、首相が10月に靖国神社に参拝したことに「韓国に対する挑戦でもある」と反発。首相は「戦争の美化、正当化では決してなく誤解だ」と持論を説いたが、双方の溝は埋まらなかった。慣例化している半年に1度の相互訪問について首相は大統領に年末の訪日要請はできず、会談開催も合意できなかった。

「韓国への挑戦」。いかにもネット右翼が喜びそうなフレーズ。。。
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日韓首脳会談 靖国 

首脳会談 日韓「靖国」譲歩せず 大統領の年内来日困難(西日本新聞)
2005年11月19日 (土) 02:13
【釜山18日原田正隆】小泉純一郎首相は十八日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれている韓国・釜山市の会場で盧武鉉大統領と約三十分間会談した。
 盧大統領は、小泉首相や日本の政治家による靖国神社参拝を「韓国に対する挑戦で、日本が過去に戻ろうとしている懸念がある。決して受け入れられない」として、参拝中止を要求。「靖国神社参拝、歴史教科書、独島(トクド)(竹島の韓国名)の三つの問題をぜひ解決する必要がある」と述べた。
 これに対し小泉首相は参拝について「戦争の美化や正当化とするのは誤解だ。過去の戦争への反省、二度と戦争をしない決意、戦没者への哀悼の念から、日本の国民、政治家が参拝している」と持論を展開し、歴史認識をめぐる話し合いは六月の首脳会談に続き平行線に終わった。
 大統領は「日本にこれ以上の謝罪や、国としての賠償を求めるものではない」との立場を首相に直接表明し、「三つの問題」への対応を求めた。
 会談時間の半分が歴史認識問題に費やされ、首相は日韓両国で合意していた大統領の十二月訪日を要請しなかった。このため実現は困難になったとの見方が強まっており、両首脳間で続いてきた年二回の相互訪問「日韓シャトル首脳外交」が途絶える可能性もある。会談後に首相は「(会談終了の)時間が来たので(要請できなかった)」と述べる一方で、訪日について「あとは大統領が判断することで、私はいつもオープンだ」と語った。
 一方、核問題など北朝鮮への対応で両首脳は、日韓と日米韓三カ国の緊密な協調の持続と、拉致問題の解決が重要との考えで一致。大統領は「日韓関係は最も重要な関係」と指摘し、首相も「友好関係の重要性を認識しており、現実にそうなっている」と述べた。
 両首脳の会談は、首相が十月十七日に参拝して以降初めてで、通算八回目。
首脳会談 日韓「靖国」譲歩せず 大統領の年内来日困難 (西日本新聞) - goo ニュース

 「決意」ねぇ。
 なんで被害者が嫌がる決意表明をしなきゃならんのかの答えがいつまでたってもみつからんのですよ。被害者と思ってない、加害者ではないって答え以外はね。
 「会談時間の半分」。。。
 なにやってんだか。 
 「友好関係の重要性を認識」しておられるなら麻生太郎にも教えてやってほしいもんです。

 麻生太郎外相は4日、新旧外相の交代式であいさつし「町村(信孝前外相)、麻生と続けて右翼かとお思いでしょうが、最近はもっと激しい人が出てきて、いつの間にかわれわれは中道穏健派」と世の「右傾化」に引っ掛けて穏健派宣言をした。
 一方で、小泉純一郎首相の靖国神社参拝により一層冷え込んだ日中、日韓関係に関しては「外交は北東アジアだけではない」と強気を表明。
 「問題はそこに集中しているかのような印象を与えるが、世界190カ国以上と国交を結び、多くの国民と付き合っているのが現状だ」と中韓の反発はものともせずと言わんばかりだった。
(11月4日ニッカンスポーツ)
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カテゴリー靖国

この問題はしばらくホットな状態が続きそうなので、検索で入ってこられた方を意識してカテゴリーを独立させてみることにした。
http://blog.goo.ne.jp/yamamoto_co/c/68908983b22692c5aaa3c6319018d21d
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紀宮結婚 

11月15日、紀宮さんと黒田さんの結婚式と披露宴が行われたらしい。
毎度のことだが、他にやることないのかよ的なワイドショーに辟易。
で、この人がこんなことを。。。
「フランスの哲学者・ベルクソンが『信仰と結婚は本質的に似ている。その本質の原理は一種の賭けだ』と書いています。何百万、何千万いるかも分からない男の中で一人、女の中で一人、これぞという方を選んで生涯の伴侶とする選択は『賭け』だと思います。やがてお子さまも生まれ、また慶樹さんは都の幹部として奥さんの支えの下に大きな業績を重ねていく、そういう素晴らしいお二人の賭けの『配当』に、わたしたちだけでなく都民、国民が相伴させていただくことを心から期待し、祈念します」
おめでとうございます。乾杯!」(石原慎太郎 都知事)
ベルクソン云々の説教臭いオヤジ的ウンチクはシカトして、ツッコミどころは『配当』以下。『配当』なんていらない。勝手に国民を巻き込むなっての。
ところでお台場カジノ構想はどうなったの?
まさか、それをアピール!?
さすが。やることがえげつないですな。

こんなハプニングも。。。
NHKが15日、黒田慶樹さんと清子さんの結婚式の中継をめぐり、宮内庁から猛抗議を受けた。清子さんが皇居・御所から車で出る様子などを上空からヘリコプターを使って中継。同庁が報道の自粛要請を呼びかけていたが、これを“無視”した格好で、その後の会見から同局の記者が締め出しを食らった。列島の祝福ムードに水を差す失態にNHKは「関係者の方々にご迷惑をおかけしました」とコメントした。
 不祥事続きのNHKが今度は、国民挙げての祝賀イベントに“ミソ”をつけた。この日、同局は清子さんが御所を出て式場の帝国ホテルに向けて出発する姿や、宮内庁職員らが見送る様子を皇居周辺の上空からヘリコプターで撮影した。
 式の報道については、報道各局に同庁から事前に「報道自粛の要請」が出ていた。一方、警視庁からもヘリの飛行について自粛要請区域が示されていた。はっきりと飛行禁止区域などが示されなかった宮内庁との間に“ズレ”が生じた。
 このため、同局は「はっきりと飛行自粛の範囲が示されなかったから」と宮内庁の要請を“無視”。警察庁の要請区域の外からは撮影ができると“勘違い”し強行した。だが、放送を見た宮内庁は激怒。「事前の報道取材要領で御所の取材は各社に自粛を求め、了解を得ていた。撮影が行われたことは大変遺憾」と午後2時からの夫婦の記者会見で同局記者2人を会場から“締め出し”する報復措置に出た。
 NHK広報局は「警視庁が設定した飛行自粛要請区域の外側から取材は可能だと判断していましたが、宮内庁の自粛要請に沿わない形になり、関係者の方々にご迷惑をおかけしました」と謝罪コメントを発表。熱心すぎる取材が慶びの日に波乱を巻き起こしていた。
(デイリースポーツ)

ははは。バッカでーい。

で、笑えないこんな記事。
挙式から一夜明けた黒田慶樹さんと清子(さやこ)さん夫妻は16日午前、天皇、皇后両陛下に結婚式出席などのお礼のため、宮内庁差し回しの車で皇居・御所を訪ねた。
 午前11時前、夫妻は窓越しに会釈しながら乾門から皇居に入った。慶樹さんはスーツ、清子さんは薄いピンクの服に同じ色の帽子姿。午後は皇太子ご夫妻や各宮家にあいさつする。
 宮内庁は同日夕、皇族の戸籍である皇統譜に、紀宮清子内親王が結婚によって皇族の身分を離れたことを記入する。皇籍離脱に伴って国から支給される一時金の1億5250万円は、同日中に清子さんの銀行口座に振り込まれる。
(2005年11月16日12時45分 読売新聞)

1億5250万円は、安いんでしょうか高いんでしょうか。ってかそもそも必要なんでしょうか。
176億の宮内庁予算はどうでしょう?
http://www.kunaicho.go.jp/15/d15-03-02.html
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酒販中央会元事務局長

東京新聞 2005年11月17日
逮捕の酒販中央会元事務局長 『汚れ役』
 「おれは汚れ役をやらされた」-。酒店主でつくる全国小売酒販組合中央会(酒販中央会)の年金共済資金不正支出事件で十六日、業務上横領容疑で警視庁捜査二課に逮捕された元同会事務局長の関秀雄容疑者(49)は、これまでの本紙の取材に自らが担った政界工作の一端を漏らしてきた。大臣経験者、元政務次官…。複数の政治家の名を挙げながら、“証言”はヤミ献金の要求から夜の接待にまで及んだ。同課は酒販免許の規制緩和に反対してきた業界側のキーマンが関容疑者だったとみており、裏付け捜査を進め、政界に流れたとされる不透明な資金の全容解明を目指す。
 「議員立法はわれわれが動いたからできた。組織の要請に沿ってやったことだ」。酒の小売りに関する一定地域での規制緩和を先延ばしにする緊急措置法が二〇〇三年に成立した背景を、関容疑者はこう語った。
 関容疑者は一九九九年、酒販中央会の事務局長に就くとともに、同会の政治団体である全国小売酒販政治連盟(酒政連)の事務局長として、規制緩和に反対する自民党の議員連盟メンバーに陳情を繰り返した。関係者によると関容疑者は当時、陳情の先頭に立ち、国会議員らから冷やかし含みで「関先生」と呼ばれていたという。
 酒政連の使途不明金は、〇一年と〇二年の二年間で計八千百万円に上った。関容疑者は「やましいことはある。中央会の政治活動のあり方に間違いもある」と不正をほのめかす一方、「厚生族議員の紹介で国立病院に入り、トップクラスの医師に診察してもらった」と政界との関係を誇示した。
 「中堅議員の接待を終えて家に帰ったら、夜中の二時ごろにその議員が電話をかけてきた。『明日、法制局の人たちと勉強会がある。お金がないんだ』と言われた」などと、ヤミ献金の要求について証言。
 別のベテラン議員については「うち(酒政連)から多額の金をもらっておきながら、規制緩和を推進する業界からも同じように金を受け取り、中途半端な法律を通した」と非難した。
 逮捕直前には「自分がスケープゴート(身代わり)になっている」とポツリ。「事務局長になってから辞めるまでの間のことは、全部手帳に書いてある。逮捕されたらやる時はやるぞ。こんな汚れ役をさせられたんだから」と吐き捨てるように言った。


酒類販売の免許制の趣旨は酒税の適正な確保。
で、その国家の財政目的のために我々の経済的自由は制約されつづけてきた。
そこに、こういうこと言われちゃうとねぇ。
むしろ酒が嗜好品であることとか依存性危険性であることを理由(消極目的)に事実上の届出制と同視できる制度に変えちゃったらどうなんでしょ。
そもそも本当はそういう目的でもあったのに財政目的なんてものにしちゃうから政界にフリーハンドを認めることになっちゃう。(最判1992.12.15参照)
まさか利権が目的の立法というわけではありますまい。
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携帯使用の事故半減

東京新聞 11月17日
改正道交法から1年 警察庁まとめ
携帯使用の事故が半減
 運転中の携帯電話使用への罰則適用が盛り込まれた昨年十一月の改正道交法施行から十一カ月間で、携帯電話使用中の交通事故は九百二十八件と前年の半数以下に減ったことが十七日、警察庁のまとめで分かった。
 施行後十一カ月間の事故は前年同期の47・9%にとどまり、死者も十人(32・3%)減の二十一人、負傷者も半数以下の千二百六十三人だった。
 一方で、施行後一年間に運転中の携帯電話使用で摘発したのは四十四万千六百二十一件。最初の半年間は約十五万四百件だったが、下半期がその倍近くに増えている。
 同庁では「取り締まり手法が向上したこともあるが、携帯電話の使用は減っていない。事故抑止への効果ははっきり表れており、今後も厳格な取り締まりを続けたい」と話している。


以前、運転中の携帯電話の使用の可否についてクドクドと述べたが
運転中の携帯電話
あれから1年、私もマルくなった。
交通事故による被害の甚大さは言うまでもないことだし、他方自動車は現代社会に不可欠のものであり、原則禁止(免許制)の名目のもとで自動車の運転を広く許容してしまうなら、少しでも安全性に疑問のある行為についての規制は許容しなければならない様な気がしてきた。
もっとも、1年前の私もそんなことはわかっていた。あまりにもヒステリックな社会の携帯電話への拒絶反応に拒絶反応を示していたにすぎない。
そして、今回のような記事をみかけるとその拒絶反応がフラッシュバックのようによみがえる。
まず違和感を感じたのが「事故が半減」についた「携帯使用の」という留保。
だって法改正して取り締まりしてりゃ携帯使用自体減るわけで、「携帯使用」っていう分母が減ればそのうちの携帯使用の事故も減るのは当然。
で、次に思ったのが「携帯電話の使用は減っていない。」ってこと。
減ってないのに「効果」??
てか、「効果」ってのは運転中の携帯電話使用と因果関係の認められる交通事故の減少と、それに伴う交通事故全体の絶対数の減少を意味するんだが、それが「はっきり」?
と、書いてはみたものの正直イマイチのらない。
なので、とりあえず私も「現状追認」してしまうことにした。
そのほかにも論点はいっぱいあるし。
ま、本当はこういう細かいことも全部繋がってる気がするんですけどね。



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禁煙

道徳的に悪いとされることを見つけるとそれによってたかって石をなげつける。
携帯電話と同様にそんな臭いがする。
禁煙ファシズムという言葉もあるらしい。
確かに受動喫煙の問題はゆゆしき問題だ。
望みもしない紫煙で自らの健康を害されることなどあってはならない。
しかし、喫煙する人間の自由を無視してよいわけではない。
煙草の愛好者にとって喫煙の禁止は相当な苦痛を伴うからだ。
そこで問題となるのは望みもしない紫煙で自らの健康を害されないことの利益と、相当な苦痛を伴う喫煙の禁止を強要されないことのバランスである。
例えば煙で健康を害されないことの利益のため路上喫煙を禁止するとしても、受動喫煙の危険のない人通りの少ない路上での喫煙は規制から除外されねばならない。
喫煙所を相当多数設けるなどの代替措置も必要だ。
その意味で「路上」禁煙は行き過ぎたヒステリックな制約といえる。
やるべきことは「分煙」であり「禁煙の強要」ではないのである。

なお、一部で問題視される「煙草の火」も路上喫煙を禁止することの理由とはならない。
「路上」というところに問題があるのは上記受動喫煙防止という理由と同じである。
こむずかしく言えば、「路上」は必ずしも「火」が他者に触れる高度の危険が予測されるほどの雑踏とは限らないのであって、かかる危険が全く無いといえる場合も多く、「路上」がかかる危険の認められる場合に限定されているとは読めないから、「煙草の火」を理由にあらゆる路上での喫煙を禁止するとすればその規制は規制の目的との合理的な関連性を欠いているといわざるを得ないからということになる。
ひらたくいえば、路上といっても人通りの少ないところもあるわけで、火の危険はそこでの喫煙まで禁止する理由にならないということ。
「ポイ捨て」もダメ。ポイ捨てそのものを規制すればよいのだから。

繰り返しになるが、確かに煙で自らの健康を害されないことの利益や煙草の火を押し当てられない利益、街の美観という利益は無視できない。
しかし、それらの利益を守るために許される規制は、それを達しうる必要最小限度の規制であるはずだ。
それを超えた必要以上の規制はヒステリックと言われても致し方あるまい。
そしてそのヒステリーの背景には、「喫煙は喫煙者の健康を害するのであるから禁煙は正しいこと。正しいのであるから喫煙者に対するどんな規制でも許される。」という、これまたヒステリックかつ身勝手というか横暴な発想があるように思われる。
禁煙ファシズムと揶揄される所以であろう。
身勝手な喫煙者も多いしそれがまたこのヒステリーを加熱させているとも思われるが、それがヒステリックな規制を正当化させる理由とならないことは言うまでもないだろう。

ただ、私には「理由なき禁煙の強要」よりも問題だと思うことがある。
それはこの国に多く存在するであろう喫煙者がそのことに対して何も言わないことである。
この国には、道徳的に悪いとされることを見つけるとそれによってたかって石をなげつけ、見つけられた方は何も反駁することなくただただ逃げ惑う、そんな煙が充満している気がする。
結局それは他者の自由にも自らの自由にも無理解であるからであろう。
だから、その人の健康を害するからという理由で平気で規制ができる。
本来、自由を制約し得るのは他者の自由だけであるはずなのに。
ましてそれが「若い女」などという理由であれば論外。
(なぜ『女性』喫煙率が問題となるのか私には理解しかねる)
この国の自由主義が有名無実であることは、あの自民党が「自由民主党」という名であることからみてもわかる。

かく言う私は何を隠そう愛煙家である。
しかし、このエントリーが私が愛煙家である故のものであるとみられたら、それは悲しいことだ。それこそ私にとっての「望みもしない紫煙」である。

※2005年11月29日本文を一部変更

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中韓、靖国参拝反対で一致 外相会談

中韓、靖国参拝反対で一致 外相会談
2005年11月15日 産経
【釜山=久保田るり子】アジア太平洋経済協力会議(APEC)閣僚会議出席のため当地を訪れている中国の李肇星外相と韓国の潘基文外交通商相は十五日朝、会談し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に反対する立場で一致した。双方は北朝鮮の核問題をめぐる六カ国協議をさらに進展させることでも合意した。
会談で、李外相は「(小泉首相の靖国参拝は)アジアの人たちの感情を傷つけている。繰り返してはならないことだ」と参拝を批判。潘外相は「町村(前)外相、麻生外相に、日本の責任ある政治指導者が靖国神社を参拝することは認められないとの立場を伝えた」と述べた。
六カ国協議については潘外相が胡錦濤・中国国家主席の十月末の訪朝が協議進展に貢献したと評価。李外相は「われわれも朝鮮半島の恒久平和が前進するように役割を果たす」と応じた。
中韓、靖国参拝反対で一致 外相会談 (産経新聞) - goo ニュース
靖国参拝は「韓国への挑戦」 日韓首脳会談、溝埋まらず  (朝日新聞) - goo ニュース

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靖国参拝

靖国参拝について

1、靖国参拝についてといってもそもそも靖国が神社なのかというところから始めると大変な分量になるので、首相の靖国参拝の可否という点に論点を絞ることにする。
まずは結論。
断じて否である。
理由は3つ
①「国益」に反する
②恒久の平和を念願し再び戦争の惨禍が起こることのないようにするとの決意に反する
③政教分離原則に反する
である。
③政教分離は憲法上の論点である。
また、理由①②も広義での憲法上の論点であるといえる。(「国益」とは?から論ぜねばならないし、②の決意は言うまでもなく憲法前文から引用している。)
かくしてこの論点は靖国参拝肯定派からの反論を受けて憲法改正の論点へとつながることになる。
もっとも靖国参拝肯定派からの反論が憲法改正へとつながるということは、靖国参拝の論点については現憲法を前提とすれば肯定派に勝ち目はないということである。
実際、靖国参拝肯定派で憲法改正否定派という方はごく少数にとどまると思われる。
本稿では、憲法改正の論点は他稿に譲り現憲法を前提に靖国肯定派を完膚なきまでに叩き潰す論証を展開したい。
以下、上記①~③の理由ごとに論ずる。

2、(1)①「国益」との関係について
 靖国問題は国内問題であるとの意見があるが、「国益」という言葉に示したように確かに国内問題ともいえる。しかしこれは諸外国の批判を無視してもよいと言う意味ではない。諸外国の批判すら国内の問題に還元できるという意味に過ぎない。(なお、「」つきにしたのは、私がそもそも「国益」というものに懐疑的な立場に立つからである。)
 「国益」に反するとは言うまでもなく諸外国の批判を意味する。
 国を挙げて北朝鮮の核問題だ、六カ国協議だ、拉致問題だ、竹島だ、尖閣諸島だ、などと言っているさなかにせっせと相手方に交渉材料を提供している非国民は誰なのだろう。
 個人的には諸外国の批判は理解できるし、もっともだとも思う。
 しかしこれを国内問題に還元するなら、最早その批判の正当性など関係ない。
 対外交渉を有利に進めることを第一に考えるなら突っ込まれる隙を与えている方に問題があるということになる。
 皮肉なことに「国益、国益」と叫ぶ輩ほど靖国問題には異常な執着をみせる。
 誠実な説明で相手に理解を求める前に、まず交渉のセオリー(というかこれはもうカードの足し算引き算の問題だが)とご自身の知能のレベルをご理解していただきたい。
 また、中国をはじめとするアジア諸国への経済的な依存を考えても靖国によって「国益」は失われ続ける。
 そんなわけで首相の靖国参拝は(あまり好きな言葉ではないが)「国益」に反する。

(2)②恒久の平和を念願し再び戦争の惨禍が起こることのないようにするとの決意との関係について
 恒久の平和を念願し再び戦争の惨禍が起こることのないようにするとの決意は、前述の通り憲法前文から引用した。
 「再び戦争の惨禍」とあるのであるから「決意」は反省と言い換えることもできよう。
 首相はその決意というか反省を、兵士をむごたらしい戦場に向かわせるための精神的支柱であった靖国に向かってしているらしいが、何とも理解しがたい。というか滑稽である。
 その決意を表明する相手の順序が違う。
 戦争でもっともとばっちりを喰って死んだ人間は民間人(人種国籍問わず)であろう。
 しかるに靖国にまつられている人間は公務死した人間である。
 A級戦犯が合祀されているということがよく言われるが、仮にそれへの反論としての「死者を差別しない」という言葉そのものに正当性があったとしても、この順序の逆転は説明できない。というより、逆に公務死でない人間を差別している。
 死者を差別しないなら、治安維持法などにより公務員に暴行陵虐され死亡した人間の墓参りもせねばなるまい。
 公務死した人間を同じく戦争により死亡した他の人間より厚く弔うということは、誤解を恐れずに言えば加害者に肩入れしているようなもので、不本意であるにせよ不可抗力であったにせよ戦争を開始、或いは維持した人間を、そうでない人間より重要視するということを意味する。
 この順序の逆転が、前述の決意、反省と相容れないのである。
 A級戦犯合祀の話は、この論理がA級戦犯については「より」強く言うことができるということにすぎない。
 一部には東京裁判を戦勝国による裁判だとしてその正当性を疑問視し、「戦犯」ではないとしてA級戦犯合祀という参拝否定派の論理を覆そうという動きもみられる。
 しかし「戦犯」か否かはこの論点とは何の関係もないのであり反論になっていない。話にならない。
 戦犯という言葉が嫌なら指導者でもいい。
 『戦争は間違っていたか。』という問いに『否』と答えられないなら、その戦争を開始或いは維持した責任者指導者を非難しなければならない。ただそれだけだ。
責任者指導者を非難するということは、『すなわち』戦争は間違っていた
ということであり
責任者指導者を非難しないということは、『すなわち』戦争は間違っていなかった
ということである。
責任者指導者を非難する『けれども』戦争は間違っていなかった
や、
責任者指導者を非難しない『けれども』戦争は間違っていた
は成立しない。
戦争を開始維持した責任者指導者を非難しないけれども戦争は間違っていた
では一体何が原因となって戦争という事態を招いたのかはっきりせず、それは反省とも決意とも呼べない。
「死者を差別しない」などというのは、
「戦争は間違っていなかった。正しかった。次こそは負けない。またやるぞ。」という輩の詭弁に過ぎない。
 というか、この2つは同義であると思って差支えあるまい。
 
 断っておくが戦争は間違っていたか否かという問いは、どこの国が間違っていたとかいうことを問題にしていない。だから戦勝国側の戦犯はどうだ、などという話は一切関係ない。
 当該戦争に関わった者としての当該戦争に対する認識、それだけが問題である。
 にもかかわらず、それ以外の様々な無関係な問題、または事実或いは虚構は、戦争への認識をわかりにくくするだけである。それをわざわざ提示する輩には害意しか読み取ることができない。
 精神的な弱さゆえにアイデンティティを自分自身に見出せず民族に見出そうとするからそれを邪魔する歴史を認めたくないのか、本当は「次こそは負けない。またやるぞ。」と思っているのにストレートに言うと賛同を得られないもんだから、からめ手でくる。そういう輩が実に多い。
 はっきり言って、大和魂だか何だか知らないが、自国民に限定しても200万人以上も殺した戦争に対して、間違っていなかった日本万歳と開き直ることしかできない頭の悪さと精神的な弱さは、許しがたいのは当然として、この上なくダサく、あまりに醜い。

 さて、靖国参拝肯定派の害意を想定したため多少話が横道にそれたが、結局、戦争が間違っていたと認識するならその指導者責任者を非難する他なく、また公務死した人間に対しては少なくとも首相の立場でそうでない人間よりも厚く弔うことは許されない。
 戦争に対する認識との関係において唯一首相の靖国参拝を肯定しうるのは、首相が戦争は間違っていなかったという認識を有すると認めることである。裏を返せば彼がどんな言い訳をしようとも、参拝という行為をした以上、彼は戦争は間違っていなかったという認識を有するとみなされる。
 首相の靖国参拝は彼個人としての戦争に対する認識に疑問を生じさせる、対外的な代表としての立場に極めて相応しくない行為であり、代表される国民の恒久の平和を念願し再び戦争の惨禍が起こることのないようにするとの決意に矛盾する。

(3)③政教分離との関係について
ア、「国益」に反するとか、首相の戦争についての認識とか決意だの反省だのと言ったところで、それはある意味価値判断に過ぎないとも言える。具体的な条文に打ち立てられた法理論ほどの有無を言わさぬ説得力を持つものではない。
 そこで日本国の最高法規である憲法20条1項後段、同条3項、89条により保障された政教分離原則との関係を論じて本稿をしめたい。
イ、 まずなぜ政教分離なのかということから論ずる。
 政教分離の趣旨としては以下の2つがよくあげられる。
 一つは政教の一致は政治を腐敗せしめ宗教を堕落せしめるということ。そしてもう一つは少数者の信教の自由の保障を貫徹するということである。より重要かつほとんど理解されていないと感じるのは後者であるので、後者について論じたい。
つまり、なぜ政教の一致が少数者の信教の自由への侵害につながるのかということである。
 確かに政教の一致は必ずしも個人の信仰を弾圧したり否定したりするものではない。
 しかしインフォーマルな形でのその信仰の否定は十分考え得る。
政教が一致しある宗教が事実上の国教となった場合、それ以外の宗教は社会全体から正規外の宗教という扱いを受け、そういう間接的な圧迫によって社会全体から信仰を否定されるのである。
もっともこういったことが、あらゆる社会において必然的に起こるというわけではない。
 しかし、日本国憲法は戦前の日本において起きたまさに前述したような事態に対応して政教分離原則を定めた。
 嵐が来たから垣根を作ったのである。
 政教分離を軽んじればこの国に、信教の自由をはじめとする人権を軽んじる社会、国家が誕生する。
ウ、 そこで次に、この大事な大事な政教分離に反するかどうかの判断はいかにすべきかと言うことが問題となるのだが、実はその前に政教分離には二つの意味があることをはっきりさせておく必要がある。
 つまり政教分離原則は何を禁止しているのかということをはっきりさせなければならない。
 禁止している事項によって政教分離原則に反するか否かの判断もまた異なって然るべきだからである。
 政教分離原則が禁止している事。それは国による宗教への特権付与の禁止、そしてもう一つは国の宗教的活動の禁止である。
 前者についてはいわゆる目的効果基準が妥当であろう。
 しかしこの基準は後者には妥当しない。
 国から宗教団体への特権付与の場面では、厳格に考えすぎると例えば補助金を否定しなければならないなどかえって宗教弾圧につながってしまうが、国の宗教行為の場面では、これと異なって許容しなければならない理由はなく、習俗化したとみられるもの以外は禁止されるべきで、行為が習俗的か否かの判断は目的や効果を問題にするまでもなく行為の外形によってできるからである。
 具体的には行為の主宰者が宗教家でなく、行為の作法が宗教界で定められたものとは言えず、行為が一般人に受け入れられるほどの普遍性を有する場合に限って、習俗化したものと認められ政教分離に反しない行為と言える。
エ、 首相の靖国参拝は言うまでもなく国の宗教的活動に抵触するか否かの場面である。
したがって、行為の外形によって判断すべきであり後者の基準によって判断される。
では、はたして首相が宗教界で定められていない風変わりな作法で参拝しているか。靖国という特殊な神社への参拝が一般人へ受け入れられる普遍性を有するか。少なくとも私は靖国を参拝したことはないしするつもりもない。というより、普遍性があるならこんな論点も生まれないだろう。
 そんなわけで、首相の靖国参拝は習俗化した行為とは言えず、政教分離を定める憲法に反する。
 「なぜ違憲なのかわからない。」などと自分の勉強不足を恥ずかしげもなく披露する人間には首相の資格はない。

3、以上のように首相の靖国参拝は到底是認できるものではない。この論点に対する私の意見を述べるとともに、靖国を参拝する首相、国会議員、それを支持する全ての人間に強く抗議する次第である。


2009年1月15日一部改訂
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次期経団連会長

昔の自民党なら引き受けず 次期経団連会長の御手洗氏
共同通信2005年11月10日
来年5月に日本経団連会長に就任することが内定しているキヤノンの御手洗冨士夫社長は10日、都内で記者団に対し、「自民党が昔のような利益配分型の政治をしていたら(経団連)会長は絶対引き受けなかった。私は改革派ですから」と語った。
御手洗氏は、小泉純一郎首相と歩調を合わせ構造改革を推進してきた奥田碩・現経団連会長の姿勢を念頭に「政治と経済は車の両輪。官から民への流れを進めるべきだ」と指摘、「奥田改革路線」を継承し政治に影響力を行使していく考えを表明した。
政治献金については「経済の活性化のために大いに政治に働き掛けていく。政治には資金が必要なので社会貢献としてオープンに献金する」と必要性を強調した。


そうそう、この人憲法についても「改革派」でしたね。
そちらも奥田氏の路線を引き継ぐと。
ま、憲法の「改革派」なんて珍しくもないご時世なわけですけど、経団連会長というお立場でそういうこと言われると困っちゃうんですよねぇ。
政治と経済で暴走車の両輪。。。
ちなみに奥田氏は皇室典範改正の問題では「有識者」ってなことになってます。

昔の自民党なら引き受けず 次期経団連会長の御手洗氏 (共同通信) - goo ニュース
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ブログデビュー

自己紹介欄が100文字以内なので、ここでひと言。

            
名前:山本

年齢:76年生まれ

出身:東京都下生まれ神奈川育ち神奈川在住

職業:自営業

好きなもの:自由,平和,議論,海,犬,クルマ。

嫌いなもの:戦争,民族主義,国粋主義。あと、えばりんぼも嫌い。(自分がそうだから。)

このブログの目的:
   ①自己実現
    (山本の自己満足あるいは自己顕示欲の発露)
   ②議論による独善化の可及的防止
    (但しコメントは極めて少ないので効果はほとんど期待できない)
   ③啓蒙
    (これも効果はほとんど期待してないというかできない)
   ④第4の権力であるマスメディアの監視
    (要は見て文句言ってるだけなんだけどそれは残しておいた方がよい気がした)

更新は気が向いたとき。
暇な時というよりもむしろ忙しい時の現実逃避が多いです。
多くの人に見られてナンボではありますが、これでメシが食えるわけでもないので。

そんなわけで、よろしくおねがいしますです。


<注>このブログには以前書いたものものっけており、その記事の日付はそれを書いた日付になっている。また、新聞記事の日付にあわせてブログの日時を変更してしまったものもある。その関係でこのブログの存在する前の日付の記事が存在するという事態になっている。
何を隠そう、このブログは2005年11月13日~15日の深夜(だったと思う)に誕生している。(13~15と言うあたりで山本の性格を推測していただけるとありがたい)
で、そのときに「はじめにお読み下さい」を書いたのだけれど、それがトップになっているのもバツがわるいからいちばん古い日付にテキトーに変更しちゃった。
気付いたときには正確な日時はわからなくなってました(笑)。
だから2005年11月14日ということにします。
そしてこの記事も実は2005年11月22日0時55分に、突如思いつきで書いている。
10日も経っていないのに正確な日付を失念しちゃうから、不正確ながらもおぼえている限りでこのブログをかきはじめた日を残しておこうかと。。。
日付に疑義を持つほどこのブログを注意深く読んでくださっておられる方がいらっしゃるかは疑問だが、もしいらっしゃたらそんなわけですのでごめんなさいです。
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