自由と平和のために
反骨心ブログ
死刑執行
東京、大阪、広島の各拘置所で25日午前、殺人罪などで死刑が確定した4人に刑が執行された。死刑執行は2005年9月に1人が執行されて以来。
(2006年12月25日14時17分 読売新聞)
らしい。
死刑制度についての私の見解は既にこのブログで述べているので繰り返さないが、クリスマスに死刑執行とはなんとも悪趣味。
とんだ法務大臣である。
などと思っていたら、朝日でこんな記事。
死刑確定囚100人超え懸念 4人執行の背景 朝日新聞2006年12月26日01時29分
法務省は25日、9年ぶりとなる「一度に4人の死刑執行」に踏み切った。就任3カ月足らずの長勢法相が執行命令書に署名した背景には、執行されていない死刑確定囚の「100人超え」が目前に迫っていた現状と、署名を拒否した杉浦正健前法相の存在があった。
死刑判決は近年多く出ており、死刑確定者は03年ごろまで毎年2~7人程度だったが、06年は20人を超えた。
一方、実際に死刑囚の命を奪うことになる命令書への署名には消極的な法相が多い。最近10人の法相は、約30カ月の在任期間中に5人分の署名をした森山真弓元法相を除けば、最多で3人しか署名していない。結果、03年まで50人台で推移してきた未執行者は24日現在で98人。年明けに100人を超える勢いだった。
「100人超えを許したら制度としておかしくなる。終身刑の議論はあっていいが、段階を踏まないと」。法務省幹部は危機感を募らせていた。
昨年10月から今年9月まで法相だった杉浦氏は命令書への署名を拒否した。死刑執行者数の統計は、年締め。執行ゼロになれば92年以来14年ぶりだった。幹部は「今年をゼロにするのは絶対に避けたいという気持ちはある」と「年内執行」への執着を認める。
別の幹部は「一度に4人というが、(杉浦前法相が拒否した)前回との2回分だから」と話す。
執行は、国会審議に影響を与えにくい閉会中に行うのが通例。19日の閉会後、天皇誕生日の前は避けたいとの配慮も働いたとみられ、限られた選択肢の中から、クリスマスの朝の執行となった。
長勢法相は25日午後、記者団に「法の規定にのっとって適正に、慎重に判断した」と話した。
なぜ天皇誕生日の前は避けなければならず、キリスト教徒の間ではキリストの生誕を祝う日であるクリスマスに執行するのか。
日本はキリスト教の国ではないが、天皇教の国でもないのだが。
「100人超えを許したら制度としておかしくなる。」というのは、果たしてそうかと思う。
制度としておかしいというなら未執行が10件で既におかしい。
考えるべきはなぜ未執行かということ。
なぜ法務大臣はなかなか署名しないのか。
廃止論者からの無用な批判を避けるためという理由はあるとして、法務大臣に死刑執行への立会い義務があったらどうだろう。
なぜ裁判官は特に否認事件で「私はやってない!!」と叫ぶ被告人に死刑を言い渡す時手が震えるのか。(これは自白という証拠の裁判官の心証に与える大きさを表すものとして言われる話。)
なぜ死刑執行人は苦しむのか。
社会の構成員たる我々は実際に生身の人を殺すという苦しみを負わずに死刑囚を殺し続けている。
バーチャルな世界での殺人である。
それは死刑廃止論者も死刑存置論者も裁判官も法務大臣も。
被害者遺族であっても同じである。
裏を返せば死刑制度によって我々はバーチャルな世界での殺人を強要されている。
それを楽しんでいる変態ヤローが「悪人は殺せばいいんだ」的なことを言う人間なわけだが、「年内執行」への執着もそれに近い。
死刑執行は大掃除とは違う。
ゼロの年があったってよいではないか。
統計に残ると一般予防の効果がなどと言うのであろうか。
死刑の「死」ということだけによる一般予防の効果はかなり疑わしいとされているのだが。
さてそんなおり、こんなニュース。
再審開始決定取り消す 名張毒ブドウ酒事件で名古屋高裁 2006年12月26日13時09分朝日新聞
三重県名張市で1961年、ブドウ酒に入れられた農薬で女性5人が死亡した「名張毒ブドウ酒事件」で、名古屋高裁刑事2部(門野博裁判長)は26日、第7次再審請求審(同高裁刑事1部)が認めた奥西勝死刑囚(80)の再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、再審開始決定を取り消す決定をした。決定は、奥西死刑囚の死刑執行の停止を取り消し、第7次再審請求も棄却した。弁護団は1月4日に特別抗告する方針で、結論は最高裁に持ち越される。
異議審は、再審開始の理由とされた、凶器の農薬は奥西死刑囚が自白した「ニッカリンT」ではない▽物証の王冠(四つ足替栓)は形状からして、事件のブドウ酒瓶の王冠ではない▽2度開栓により奥西死刑囚以外の犯行が可能――などとする弁護団の三つの新証拠や、奥西死刑囚の自白の信用性などを検討。
その結果、三つの新証拠については、ニッカリンTが使用された可能性も十分ある▽王冠の形状は、事件のブドウ酒に装着されていたかの判断に影響しない▽2度開栓が行われたことを疑わせるまでの証拠はない――などとして、再審を開始するほどの明白性を否定した。そのうえで「奥西死刑囚以外にブドウ酒に農薬を混入する機会がない」とした。
自白についても「当初から詳細で具体性に富み、信用性が高い」と認定。「妻と愛人を殺害する動機となる状況もあり、事実を総合すると(奥西死刑囚が)犯行を行ったのは明らかだ」とし、「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠があるとして再審を開始し、刑の執行を停止した決定は失当」と結論付けた。
最大の争点は事件で使われた農薬が、奥西死刑囚が自白し、確定判決が凶器と認定したニッカリンTだったかどうか。ブドウ酒の飲み残りからニッカリンTに必ず含まれる成分が検出されなかった理由などが争われた。異議審は今年9月、この問題で弁護団の鑑定をした2教授を証人尋問。そして「ニッカリンTが混入されてもこの成分が検出されないことはあり得る」などとして、検察側の主張を認めた。
昨年4月の再審開始決定は、弁護団の新証拠を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」としたうえで、「(奥西死刑囚の)自白の信用性には重大な疑問がある」と認定していた。異議審で、弁護団は「新証拠が有罪認定を動揺させる証明力、影響力を有することは明白」などと検察側に反論していた。
死刑が確定後、再審が認められたのは、免田、財田川、松山、島田の4事件。いずれも再審を経て無罪が確定している。名張毒ブドウ酒事件は一審の無罪が、二審で死刑に逆転し、最高裁で確定した唯一の事件で、5件目の再審開始決定だったが、名古屋高検の申し立てにより異議審が約1年9カ月にわたって同高裁で続いていた。
冤罪の場合に取り返しがつかないというのは死刑廃止のもっとも大きな理由の一つと思う。
特にこんなニュースを見るとそれを強く感じる。
この事件の被告人が死刑執行されてしまった場合、それは正に真相は闇の中となる。
検察と弁護人という両当事者の主張という「異なる方向からの光」によって「影」のない真実を発見する刑事法廷は二度と開かれることはないのだから。
今回処刑された秋山死刑囚は再審請求中だったそうだ。(←水葉さん情報)
(2006年12月25日14時17分 読売新聞)
らしい。
死刑制度についての私の見解は既にこのブログで述べているので繰り返さないが、クリスマスに死刑執行とはなんとも悪趣味。
とんだ法務大臣である。
などと思っていたら、朝日でこんな記事。
死刑確定囚100人超え懸念 4人執行の背景 朝日新聞2006年12月26日01時29分
法務省は25日、9年ぶりとなる「一度に4人の死刑執行」に踏み切った。就任3カ月足らずの長勢法相が執行命令書に署名した背景には、執行されていない死刑確定囚の「100人超え」が目前に迫っていた現状と、署名を拒否した杉浦正健前法相の存在があった。
死刑判決は近年多く出ており、死刑確定者は03年ごろまで毎年2~7人程度だったが、06年は20人を超えた。
一方、実際に死刑囚の命を奪うことになる命令書への署名には消極的な法相が多い。最近10人の法相は、約30カ月の在任期間中に5人分の署名をした森山真弓元法相を除けば、最多で3人しか署名していない。結果、03年まで50人台で推移してきた未執行者は24日現在で98人。年明けに100人を超える勢いだった。
「100人超えを許したら制度としておかしくなる。終身刑の議論はあっていいが、段階を踏まないと」。法務省幹部は危機感を募らせていた。
昨年10月から今年9月まで法相だった杉浦氏は命令書への署名を拒否した。死刑執行者数の統計は、年締め。執行ゼロになれば92年以来14年ぶりだった。幹部は「今年をゼロにするのは絶対に避けたいという気持ちはある」と「年内執行」への執着を認める。
別の幹部は「一度に4人というが、(杉浦前法相が拒否した)前回との2回分だから」と話す。
執行は、国会審議に影響を与えにくい閉会中に行うのが通例。19日の閉会後、天皇誕生日の前は避けたいとの配慮も働いたとみられ、限られた選択肢の中から、クリスマスの朝の執行となった。
長勢法相は25日午後、記者団に「法の規定にのっとって適正に、慎重に判断した」と話した。
なぜ天皇誕生日の前は避けなければならず、キリスト教徒の間ではキリストの生誕を祝う日であるクリスマスに執行するのか。
日本はキリスト教の国ではないが、天皇教の国でもないのだが。
「100人超えを許したら制度としておかしくなる。」というのは、果たしてそうかと思う。
制度としておかしいというなら未執行が10件で既におかしい。
考えるべきはなぜ未執行かということ。
なぜ法務大臣はなかなか署名しないのか。
廃止論者からの無用な批判を避けるためという理由はあるとして、法務大臣に死刑執行への立会い義務があったらどうだろう。
なぜ裁判官は特に否認事件で「私はやってない!!」と叫ぶ被告人に死刑を言い渡す時手が震えるのか。(これは自白という証拠の裁判官の心証に与える大きさを表すものとして言われる話。)
なぜ死刑執行人は苦しむのか。
社会の構成員たる我々は実際に生身の人を殺すという苦しみを負わずに死刑囚を殺し続けている。
バーチャルな世界での殺人である。
それは死刑廃止論者も死刑存置論者も裁判官も法務大臣も。
被害者遺族であっても同じである。
裏を返せば死刑制度によって我々はバーチャルな世界での殺人を強要されている。
それを楽しんでいる変態ヤローが「悪人は殺せばいいんだ」的なことを言う人間なわけだが、「年内執行」への執着もそれに近い。
死刑執行は大掃除とは違う。
ゼロの年があったってよいではないか。
統計に残ると一般予防の効果がなどと言うのであろうか。
死刑の「死」ということだけによる一般予防の効果はかなり疑わしいとされているのだが。
さてそんなおり、こんなニュース。
再審開始決定取り消す 名張毒ブドウ酒事件で名古屋高裁 2006年12月26日13時09分朝日新聞
三重県名張市で1961年、ブドウ酒に入れられた農薬で女性5人が死亡した「名張毒ブドウ酒事件」で、名古屋高裁刑事2部(門野博裁判長)は26日、第7次再審請求審(同高裁刑事1部)が認めた奥西勝死刑囚(80)の再審開始決定に対する検察側の異議申し立てを認め、再審開始決定を取り消す決定をした。決定は、奥西死刑囚の死刑執行の停止を取り消し、第7次再審請求も棄却した。弁護団は1月4日に特別抗告する方針で、結論は最高裁に持ち越される。
異議審は、再審開始の理由とされた、凶器の農薬は奥西死刑囚が自白した「ニッカリンT」ではない▽物証の王冠(四つ足替栓)は形状からして、事件のブドウ酒瓶の王冠ではない▽2度開栓により奥西死刑囚以外の犯行が可能――などとする弁護団の三つの新証拠や、奥西死刑囚の自白の信用性などを検討。
その結果、三つの新証拠については、ニッカリンTが使用された可能性も十分ある▽王冠の形状は、事件のブドウ酒に装着されていたかの判断に影響しない▽2度開栓が行われたことを疑わせるまでの証拠はない――などとして、再審を開始するほどの明白性を否定した。そのうえで「奥西死刑囚以外にブドウ酒に農薬を混入する機会がない」とした。
自白についても「当初から詳細で具体性に富み、信用性が高い」と認定。「妻と愛人を殺害する動機となる状況もあり、事実を総合すると(奥西死刑囚が)犯行を行ったのは明らかだ」とし、「無罪を言い渡すべき明らかな新証拠があるとして再審を開始し、刑の執行を停止した決定は失当」と結論付けた。
最大の争点は事件で使われた農薬が、奥西死刑囚が自白し、確定判決が凶器と認定したニッカリンTだったかどうか。ブドウ酒の飲み残りからニッカリンTに必ず含まれる成分が検出されなかった理由などが争われた。異議審は今年9月、この問題で弁護団の鑑定をした2教授を証人尋問。そして「ニッカリンTが混入されてもこの成分が検出されないことはあり得る」などとして、検察側の主張を認めた。
昨年4月の再審開始決定は、弁護団の新証拠を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」としたうえで、「(奥西死刑囚の)自白の信用性には重大な疑問がある」と認定していた。異議審で、弁護団は「新証拠が有罪認定を動揺させる証明力、影響力を有することは明白」などと検察側に反論していた。
死刑が確定後、再審が認められたのは、免田、財田川、松山、島田の4事件。いずれも再審を経て無罪が確定している。名張毒ブドウ酒事件は一審の無罪が、二審で死刑に逆転し、最高裁で確定した唯一の事件で、5件目の再審開始決定だったが、名古屋高検の申し立てにより異議審が約1年9カ月にわたって同高裁で続いていた。
冤罪の場合に取り返しがつかないというのは死刑廃止のもっとも大きな理由の一つと思う。
特にこんなニュースを見るとそれを強く感じる。
この事件の被告人が死刑執行されてしまった場合、それは正に真相は闇の中となる。
検察と弁護人という両当事者の主張という「異なる方向からの光」によって「影」のない真実を発見する刑事法廷は二度と開かれることはないのだから。
今回処刑された秋山死刑囚は再審請求中だったそうだ。(←水葉さん情報)
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仮釈放と無期懲役の再評価
水葉さんからTBを頂戴した。
「死刑執行人の苦悩」という本を紹介されている。
エントリーを読むうちに鳥肌が立つ。
と同時に生命と自由とどちらを重んじるかは一義的でないという考えが一瞬ゆらぐ。
もっとも「自由を永遠に奪い続ける」ということがどれほど恐ろしいことかわからないくらい恐ろしいということを想像する位の力はかろうじてあったようで、それゆえやはり「一義的でない」とは思う。
しかしこんな衝撃をうけたエントリーに何も書かない手はないと考えるうち、何かすっきりできた気がした。
そこで水葉さんのところへの私のコメントを本ブログのエントリーとして残すことにする。(ちょっとだけ変えました)
我々は活字ですべてをわかったような気になって己が想像力を過大評価しています。
死刑存置論者うちのどれだけの人が執行の現場を「理解」でなくわかっているでしょう。
無論、中には「オレがぶっ殺したる」という人もいるでしょう。
その方が存置者の中のごく少数であることを望むばかりです。
刑罰は社会が罰したいと思うから存在します。(「遺族感情に配慮して死刑」という意見は明らかに責任転嫁であるし刑罰の意義を無視している)
とするならば、「立派な人間に生まれ変わった死刑囚」のように、社会が罰しなくともよいと考える(と評価できる)場合に、罰を停止ないし中断できる途を残しておくことは、刑罰の存在意義から言っても、むしろ必要と言えるかもしれません。
すなわち刑罰の存在意義からも死刑は否定されます。
他方同じ意味で、仮釈放と無期懲役という現在の制度は、犯罪者が教育改善されたか否かということに対応できる点で再評価すべきでしょう。
水瓶座氏のブログにあるように世論は無期懲役を誤った認識により過小評価しているきらいがあります。
これは無期懲役という刑罰に期待された一般予防という機能の点でも憂慮すべき事態です。
「死刑執行人の苦悩」という本を紹介されている。
エントリーを読むうちに鳥肌が立つ。
と同時に生命と自由とどちらを重んじるかは一義的でないという考えが一瞬ゆらぐ。
もっとも「自由を永遠に奪い続ける」ということがどれほど恐ろしいことかわからないくらい恐ろしいということを想像する位の力はかろうじてあったようで、それゆえやはり「一義的でない」とは思う。
しかしこんな衝撃をうけたエントリーに何も書かない手はないと考えるうち、何かすっきりできた気がした。
そこで水葉さんのところへの私のコメントを本ブログのエントリーとして残すことにする。(ちょっとだけ変えました)
我々は活字ですべてをわかったような気になって己が想像力を過大評価しています。
死刑存置論者うちのどれだけの人が執行の現場を「理解」でなくわかっているでしょう。
無論、中には「オレがぶっ殺したる」という人もいるでしょう。
その方が存置者の中のごく少数であることを望むばかりです。
刑罰は社会が罰したいと思うから存在します。(「遺族感情に配慮して死刑」という意見は明らかに責任転嫁であるし刑罰の意義を無視している)
とするならば、「立派な人間に生まれ変わった死刑囚」のように、社会が罰しなくともよいと考える(と評価できる)場合に、罰を停止ないし中断できる途を残しておくことは、刑罰の存在意義から言っても、むしろ必要と言えるかもしれません。
すなわち刑罰の存在意義からも死刑は否定されます。
他方同じ意味で、仮釈放と無期懲役という現在の制度は、犯罪者が教育改善されたか否かということに対応できる点で再評価すべきでしょう。
水瓶座氏のブログにあるように世論は無期懲役を誤った認識により過小評価しているきらいがあります。
これは無期懲役という刑罰に期待された一般予防という機能の点でも憂慮すべき事態です。
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死刑廃止論
私は死刑廃止論者なのですが、その理由付けがどうもしっくりこなくて困ってます。
価値判断の背景には早く吊るせ的な風潮への違和感があるわけですが、それでは説得性皆無。
ちょっと一緒に考えてもらえません?
私は国家が国民の人権を制約することに懐疑的です。
ゆえに、戦争以外では国家が国民の人権を制約する最たる場面である刑罰権行使も、できるだけ抑制的に考えようとします。
しかし国家の人権制約に懐疑的な立場であっても、論理必然に死刑廃止が導かれるわけではない。
つまり国家に人の生命を奪うことまでは認めるべきでないとの考えには弱点があるのです。
廃止論者からの理由付け(許容性)として、死刑に変わる代替措置である終身刑の導入があります。
確かに懲役3年と死刑では明らかに前者が軽い。
宅間守のような人間の考えはさておき(彼の存在は死刑を含めた刑罰の犯罪抑止力への疑義で検討すべき。この点は後述)シャバに戻れる可能性の有無がメルクマールとなります。
シャバに戻るということは国家の人権制約が中断されるわけだから。
その意味で
仮出獄の可能性のある無期懲役<死刑
という序列は認め得る。
しかし終身刑と死刑においてはこの判断基準で結論は出ない。
終身刑は生命こそ奪わないが自由を永遠に奪い続けるのだから。
そう。
生命と自由とどちらを重んじるかは一義的でない。
私は輸血を拒否して自己の信仰を貫く自由を尊重する。
手術に際して輸血をする旨を医師が秘匿し無理やり輸血を伴う手術を行うことは自己決定権の侵害となる。
わが国の裁判所も同じ立場である。
つまり「人それぞれ」ということ。(信仰や自由が常に生命を上回るとは言わない。)
にもかかわらず画一的な処理が必要だと言って価値序列を無理矢理つけようとするのは適切でない。(それこそ国家主義的)
終身刑が死刑よりも国家の刑罰権を抑制的に考えているとは言えないのである。
したがって終身刑の導入は死刑廃止論の理由付けには使えない。
また、死刑廃止の許容性として代替措置を挙げるとき、有効なのは国家の人権制約が中断され得る刑罰でなければならず、そうすると無期懲役刑の存在するわが国で死刑廃止を訴えるとき、「その代わり…だからいいじゃん」という言葉は使えなくなる。
もっとも、死刑執行の場合には再審による無罪釈放の可能性が奪われるから、誤審の可能性がゼロでない以上、死刑は廃止すべきとの主張は尚説得的である。
しかし冤罪の可能性だけで死刑廃止までもっていくのはかなり大変である。
だって、「わが国の刑事司法システムはかな~りテキトーで、間違いもままあって後で訂正することもあるから殺さないでおいてね」なんて法案通ります?
ま、事実でないわけではないのですが、それがめでたく民意の支持を得られたとしても、それはむしろ直接刑事司法システムの見直しへ働いていくはずです。
それに、「めでたく」と皮肉ったようにこの国では刑事司法システムへの懐疑的な姿勢が極めて弱い。
憲法刑事訴訟法をはじめとする制度は懐疑的な姿勢に基づくものになっているが、運用で骨抜きになっている。
それどころか報道は被疑者となった瞬間呼び捨て、犯人扱いの内容の報道を繰り返すなどこれを助長している。
そしてそのことへの国民の不満が聞こえない。
思うに、死刑の存置は日本社会の象徴であって、死刑の廃止は様々な論点における自由主義的な観点からの見直しというか国民の考え方のシフトの結果得られるものであって、そうはなっていない状況で死刑廃止を主張しても支持は得られないのではないでしょうか。
国家への懐疑的な姿勢が犯罪を憎む気持ちを上回らないかぎり恐らく死刑廃止はあり得ません。
死刑廃止には社会の成熟が必須の要件となると考えます。
被害者救済制度の欠如もこの視点から説明がつきます。
沿革的にも人権は国家からの自由を本質とします。
したがって人権の尊重と自由主義は極めて親和性が高いわけです。
そして本当に人権を尊重する社会であれば、被疑者・被告人・在監者・受刑者のみならず被害者等の人権を無視するわけがありません。(逆に言えば国家主義的な立場からは人権が軽んじられるわけですが)
被害者の保護支援がないがしろにされている社会で死刑廃止を叫ぶのは先走りであったと思います。
かえって死刑存置論を刺激助長するというしっぺ返しをくらった可能性もあります。
…途中から「死刑廃止論の理由は?」が「日本社会はどうなんだ」にすりかわってしまったので本題に戻します。
えーっと。
今のところ使える理由は再審の可能性を奪うことくらいです。
まず、死刑の犯罪抑止力(一般予防と言います)の欠如ということが死刑廃止論者から主張されますが、これは死刑存置論者が犯罪抑止力があるからと主張した場合にはじめて再反論として有効となるにすぎず、いわば消極的・受身の理由にはなりえますが、積極的に廃止を主張する場合には使えません。
それから、ちょっと難しい話ですが死刑廃止論者から主張される理由としてもうひとつ。
受刑者の更正の機会を奪うということ(特別予防と言います)が言われます。
しかしこの理由は特別予防を刑罰の目的として認めない立場の人間には説得力がありません。
どういうことかと言うと、刑罰にどういう目的があるかという問題があります。
この問題において考え方は大きく分けて3つあります。
1つ目は「そもそも目的なんかない」と言う立場。
刑罰はただ罪を犯したからそれへの報復として科せられる。というもの(絶対的応報刑論)。
2つ目は「あらかじめ不利益を予告しておくことで犯罪を予防することが目的である」という一般予防。さっきでてきたやつです。相対的応報刑論の中から唱えられます。
3つ目は「その犯罪者の教育によって社会を防衛することが目的である」という立場。この考えは行為でなくその犯罪者に着目し、教育の目的から刑罰を個別化して威嚇・改善・隔離という刑罰を科します。犯罪者の危険性に着目するので犯罪者には一定の身体的特徴があるとするなど結構過激なことをいいます。今では絶滅寸前です。
ということで、ほとんどの刑法理論は特別予防を刑罰の目的としては認めていません。
保安処分は刑罰とは別次元の問題であるということです。
刑罰の目的としては認めていないだけなので、受刑者の更正に全く価値がないということにはなりませんが、一般予防という刑罰の目的あるいは応報そのものの前に消え去る運命にあります。
はい。
ここでお気づきになられましたね。
一般予防を認める相対的応報刑論者の「刑罰の目的」に対して、死刑の犯罪抑止力の欠如という主張が生きてきます。
しかし、絶対的応報刑論者には一蹴されることに変わりはありません。
それに一般予防を認める相対的応報刑論者に対しても「じゃあ死刑やめてどうすんの?」と再々反論された場合、こちらは「うーん終身刑?」と答えがちですがこれはワナです。
ニヤリと笑って「じゃぁ終身刑の犯罪抑止力証明してよ」「仮釈放の可能性がゼロではないというだけの無期懲役とどんだけ違うの?」と突っ込まれます。
追い討ちで「法改正しようってのにそれかよ?」とか言われます。
多分…(全部私の想像ですがありえそうでしょ?)
ま、仮釈放の可能性ある無期懲役で一般予防は十分だというのなら一応説得的ですけど、世間を見渡すと随分過激な主張のような気がしてきます。
それに
日本における死刑の一般予防効果≦無期懲役の一般予防の効果
をどうやって証明すりゃいいんでしょ
大変だ。
再審の可能性奪うこと位しか言えなくなった。
そして前述の通り再審の可能性奪うことの憂慮の背景には「刑事司法への懐疑的姿勢の欠如は国家への過度の信頼の表れでありこれは問題である」というイデオロギーがあります。
だから、いわゆる左派は死刑廃止を主張するに傾向にあるわけですが。
問題なのは今のところ唯一の理由にもイデオロギーが絡むということ。
これは痛い。
犯罪を憎む気持ち自体を否定することはできないから強く犯罪を憎む気持ちによってイデオロギーごとひっくり返される危険性がある。
それに死刑が声高に叫ばれる事案ほど「再審なんか必要ない。冤罪なわけないじゃん。あほか」という声も比例して大きいわけです。
困ったわぁ
被害者救済と刑罰は別問題で、被害者感情を刑罰で癒そうとすべきでない。
とか
そもそも犯罪は相対的なものなんだからそんなに熱くなんなよ。
…なんて言っても逆効果だろうなぁ
刑罰権の行使は国家の専権であり、近代市民社会において国家と国民は対峙して考えるべきであるから、刑罰権の行使も抑制的に考えるべきである。
しかるに死刑は人権の制約が中断ないし終了され得る他の刑罰に比して明らかにその度合いが大きい。
また冤罪により国家が不当に人権を制約する可能性が皆無でない以上、再審による救済の可能性を失わしめるという点でも問題である。
したがって死刑を廃止し無期懲役を頂点とする刑罰法規に改め、刑罰とは峻別された教育改善を厳格に見直すことで特別予防を図るべきである。
…なんて言っても怒っちゃってる人はわかってくれないだろうなぁ
他の理由が消えちゃったもんだからいかんせん弱い。
死刑廃止論がここまでイデオロギーむき出しの丸裸だったなんて。
結局、死刑廃止論の本質はイデオロギーであるという結論に至ってしましました。
どなたかイデオロギーに左右されない強固な理由付けがあったら教えてください。
私は
日本における死刑の一般予防効果≦無期懲役の一般予防の効果
ということについてちょっと考えておきます。
もし
死刑の一般予防効果>無期懲役の一般予防の効果
であるなら、社会は死刑の廃止に伴って犯罪の発生増加を甘受しなければならないということになり、我々にとっては向かい風となります。
価値判断の背景には早く吊るせ的な風潮への違和感があるわけですが、それでは説得性皆無。
ちょっと一緒に考えてもらえません?
私は国家が国民の人権を制約することに懐疑的です。
ゆえに、戦争以外では国家が国民の人権を制約する最たる場面である刑罰権行使も、できるだけ抑制的に考えようとします。
しかし国家の人権制約に懐疑的な立場であっても、論理必然に死刑廃止が導かれるわけではない。
つまり国家に人の生命を奪うことまでは認めるべきでないとの考えには弱点があるのです。
廃止論者からの理由付け(許容性)として、死刑に変わる代替措置である終身刑の導入があります。
確かに懲役3年と死刑では明らかに前者が軽い。
宅間守のような人間の考えはさておき(彼の存在は死刑を含めた刑罰の犯罪抑止力への疑義で検討すべき。この点は後述)シャバに戻れる可能性の有無がメルクマールとなります。
シャバに戻るということは国家の人権制約が中断されるわけだから。
その意味で
仮出獄の可能性のある無期懲役<死刑
という序列は認め得る。
しかし終身刑と死刑においてはこの判断基準で結論は出ない。
終身刑は生命こそ奪わないが自由を永遠に奪い続けるのだから。
そう。
生命と自由とどちらを重んじるかは一義的でない。
私は輸血を拒否して自己の信仰を貫く自由を尊重する。
手術に際して輸血をする旨を医師が秘匿し無理やり輸血を伴う手術を行うことは自己決定権の侵害となる。
わが国の裁判所も同じ立場である。
つまり「人それぞれ」ということ。(信仰や自由が常に生命を上回るとは言わない。)
にもかかわらず画一的な処理が必要だと言って価値序列を無理矢理つけようとするのは適切でない。(それこそ国家主義的)
終身刑が死刑よりも国家の刑罰権を抑制的に考えているとは言えないのである。
したがって終身刑の導入は死刑廃止論の理由付けには使えない。
また、死刑廃止の許容性として代替措置を挙げるとき、有効なのは国家の人権制約が中断され得る刑罰でなければならず、そうすると無期懲役刑の存在するわが国で死刑廃止を訴えるとき、「その代わり…だからいいじゃん」という言葉は使えなくなる。
もっとも、死刑執行の場合には再審による無罪釈放の可能性が奪われるから、誤審の可能性がゼロでない以上、死刑は廃止すべきとの主張は尚説得的である。
しかし冤罪の可能性だけで死刑廃止までもっていくのはかなり大変である。
だって、「わが国の刑事司法システムはかな~りテキトーで、間違いもままあって後で訂正することもあるから殺さないでおいてね」なんて法案通ります?
ま、事実でないわけではないのですが、それがめでたく民意の支持を得られたとしても、それはむしろ直接刑事司法システムの見直しへ働いていくはずです。
それに、「めでたく」と皮肉ったようにこの国では刑事司法システムへの懐疑的な姿勢が極めて弱い。
憲法刑事訴訟法をはじめとする制度は懐疑的な姿勢に基づくものになっているが、運用で骨抜きになっている。
それどころか報道は被疑者となった瞬間呼び捨て、犯人扱いの内容の報道を繰り返すなどこれを助長している。
そしてそのことへの国民の不満が聞こえない。
思うに、死刑の存置は日本社会の象徴であって、死刑の廃止は様々な論点における自由主義的な観点からの見直しというか国民の考え方のシフトの結果得られるものであって、そうはなっていない状況で死刑廃止を主張しても支持は得られないのではないでしょうか。
国家への懐疑的な姿勢が犯罪を憎む気持ちを上回らないかぎり恐らく死刑廃止はあり得ません。
死刑廃止には社会の成熟が必須の要件となると考えます。
被害者救済制度の欠如もこの視点から説明がつきます。
沿革的にも人権は国家からの自由を本質とします。
したがって人権の尊重と自由主義は極めて親和性が高いわけです。
そして本当に人権を尊重する社会であれば、被疑者・被告人・在監者・受刑者のみならず被害者等の人権を無視するわけがありません。(逆に言えば国家主義的な立場からは人権が軽んじられるわけですが)
被害者の保護支援がないがしろにされている社会で死刑廃止を叫ぶのは先走りであったと思います。
かえって死刑存置論を刺激助長するというしっぺ返しをくらった可能性もあります。
…途中から「死刑廃止論の理由は?」が「日本社会はどうなんだ」にすりかわってしまったので本題に戻します。
えーっと。
今のところ使える理由は再審の可能性を奪うことくらいです。
まず、死刑の犯罪抑止力(一般予防と言います)の欠如ということが死刑廃止論者から主張されますが、これは死刑存置論者が犯罪抑止力があるからと主張した場合にはじめて再反論として有効となるにすぎず、いわば消極的・受身の理由にはなりえますが、積極的に廃止を主張する場合には使えません。
それから、ちょっと難しい話ですが死刑廃止論者から主張される理由としてもうひとつ。
受刑者の更正の機会を奪うということ(特別予防と言います)が言われます。
しかしこの理由は特別予防を刑罰の目的として認めない立場の人間には説得力がありません。
どういうことかと言うと、刑罰にどういう目的があるかという問題があります。
この問題において考え方は大きく分けて3つあります。
1つ目は「そもそも目的なんかない」と言う立場。
刑罰はただ罪を犯したからそれへの報復として科せられる。というもの(絶対的応報刑論)。
2つ目は「あらかじめ不利益を予告しておくことで犯罪を予防することが目的である」という一般予防。さっきでてきたやつです。相対的応報刑論の中から唱えられます。
3つ目は「その犯罪者の教育によって社会を防衛することが目的である」という立場。この考えは行為でなくその犯罪者に着目し、教育の目的から刑罰を個別化して威嚇・改善・隔離という刑罰を科します。犯罪者の危険性に着目するので犯罪者には一定の身体的特徴があるとするなど結構過激なことをいいます。今では絶滅寸前です。
ということで、ほとんどの刑法理論は特別予防を刑罰の目的としては認めていません。
保安処分は刑罰とは別次元の問題であるということです。
刑罰の目的としては認めていないだけなので、受刑者の更正に全く価値がないということにはなりませんが、一般予防という刑罰の目的あるいは応報そのものの前に消え去る運命にあります。
はい。
ここでお気づきになられましたね。
一般予防を認める相対的応報刑論者の「刑罰の目的」に対して、死刑の犯罪抑止力の欠如という主張が生きてきます。
しかし、絶対的応報刑論者には一蹴されることに変わりはありません。
それに一般予防を認める相対的応報刑論者に対しても「じゃあ死刑やめてどうすんの?」と再々反論された場合、こちらは「うーん終身刑?」と答えがちですがこれはワナです。
ニヤリと笑って「じゃぁ終身刑の犯罪抑止力証明してよ」「仮釈放の可能性がゼロではないというだけの無期懲役とどんだけ違うの?」と突っ込まれます。
追い討ちで「法改正しようってのにそれかよ?」とか言われます。
多分…(全部私の想像ですがありえそうでしょ?)
ま、仮釈放の可能性ある無期懲役で一般予防は十分だというのなら一応説得的ですけど、世間を見渡すと随分過激な主張のような気がしてきます。
それに
日本における死刑の一般予防効果≦無期懲役の一般予防の効果
をどうやって証明すりゃいいんでしょ
大変だ。
再審の可能性奪うこと位しか言えなくなった。
そして前述の通り再審の可能性奪うことの憂慮の背景には「刑事司法への懐疑的姿勢の欠如は国家への過度の信頼の表れでありこれは問題である」というイデオロギーがあります。
だから、いわゆる左派は死刑廃止を主張するに傾向にあるわけですが。
問題なのは今のところ唯一の理由にもイデオロギーが絡むということ。
これは痛い。
犯罪を憎む気持ち自体を否定することはできないから強く犯罪を憎む気持ちによってイデオロギーごとひっくり返される危険性がある。
それに死刑が声高に叫ばれる事案ほど「再審なんか必要ない。冤罪なわけないじゃん。あほか」という声も比例して大きいわけです。
困ったわぁ
被害者救済と刑罰は別問題で、被害者感情を刑罰で癒そうとすべきでない。
とか
そもそも犯罪は相対的なものなんだからそんなに熱くなんなよ。
…なんて言っても逆効果だろうなぁ
刑罰権の行使は国家の専権であり、近代市民社会において国家と国民は対峙して考えるべきであるから、刑罰権の行使も抑制的に考えるべきである。
しかるに死刑は人権の制約が中断ないし終了され得る他の刑罰に比して明らかにその度合いが大きい。
また冤罪により国家が不当に人権を制約する可能性が皆無でない以上、再審による救済の可能性を失わしめるという点でも問題である。
したがって死刑を廃止し無期懲役を頂点とする刑罰法規に改め、刑罰とは峻別された教育改善を厳格に見直すことで特別予防を図るべきである。
…なんて言っても怒っちゃってる人はわかってくれないだろうなぁ
他の理由が消えちゃったもんだからいかんせん弱い。
死刑廃止論がここまでイデオロギーむき出しの丸裸だったなんて。
結局、死刑廃止論の本質はイデオロギーであるという結論に至ってしましました。
どなたかイデオロギーに左右されない強固な理由付けがあったら教えてください。
私は
日本における死刑の一般予防効果≦無期懲役の一般予防の効果
ということについてちょっと考えておきます。
もし
死刑の一般予防効果>無期懲役の一般予防の効果
であるなら、社会は死刑の廃止に伴って犯罪の発生増加を甘受しなければならないということになり、我々にとっては向かい風となります。
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