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憲法改正?

憲法改正というカテゴリーを作りながら(漫然と?)エントリーゼロを貫いてきた私の憲法改正についての初エントリー。
とはいえこのブログをお読みになったことのある方には私がどういう考えを持っているか言うまでもないと思うが…
今回は長いで。覚悟しいや(←岩下志麻風)

一般的には議論を重んじる私だが、この問題については最早議論の余地はない
この辺は核武装論の可否と同じ
人を殺してはいけないのと同じ
言語道断ということ
改憲の是非という論点については結論ありきである
頭ごなしでいい
(びっくりされた方もちょっとガマンして読んでいただけるとありがたい)
これは例えば、単純に憲法は制定から60年たったから古い・時代にそぐわないという「錯覚」、改憲は必ずしも徴兵制へ向かわないという「誤解」、自由ばっかりで義務がないという「悪意に満ちた勘違い」に、日常に追われて政治のことなんか考えられないよという方々が惑わされないために必要であると思う
議論はしたっていい、と私も言いたい
議論で狭義の改憲派(1条改正派等は含まないと言う意味)に負ける気などコレッぽっちもしない
しかし議論で勝つことと選挙で勝つことはイコールではない
私は議論においては必ず真実が勝つと信じ(たいと思っ)ているが、選挙においては全くその逆がめずらしくない
それは選挙民が必ずしも十分な情報と議論を経ていないからである
そして、その状況を今すぐつくることは恐らく不可能
議論すべきは改憲を議論すべきかどうかである。
予想されるのは
議論自体は許されるべきだ。ここは民主国家なんだから
議論を封殺するのは北朝鮮と同じだ
議論議論議論議論…
議論というマジックワードにだまされてはいけない
「議論」と問題提起によって聴衆を導いていくことはカンタンである
そして結論のわかりきったあったりまえのことを「議論」するのには何かワケがある
改憲の議論は改憲肯定を
核武装の議論は核武装肯定を導こうとしている
最近の子供って…という単純な感情へ訴えた教育問題や教育基本法改正の議論が教育基本法改正を導いたように

新憲法のナカミに踏み込んだ議論は「改正するんだ」との結論が決定された場合に『のみ』なされるべきであって、ひょっとしたら憲法を変えなくてもよいかもしれないと『少しでも』思うなら、まずなすべきは改憲の議論ではなく憲法の価値、憲法のもたらす利益、憲法の趣旨、憲法の存在意義の確認である
そしてその確認は、何も憲法という言葉をアタマ出ししなくとも、あらゆる社会問題に憲法の価値基準をあてはめることによって十分可能である
価値と趣旨を『しっかり把握』した上で問題点とされるものを本当に問題なのかどうか考えて、そこではじめてどう改正するべきかがでてくる

したがってその前提を飛躍した改憲の議論はその存在自体誤りであり、ただひたすらに憲法の破壊を目指す有害な行為である

前提をすっとばした「議論」を認めてしまうことの方こそ実は「結論ありきの頭ごなし」なのである
だから、少なくとも現状では憲法改正は議論の余地無く『否』である
でないと日本国は憲法を作っちゃ壊して作っちゃ壊してと極めて非生産的なことで時間と労力をムダに消費するおバカな民族の集団ということになる

以上の頭で改憲論の阻止を考えるとき、問題はどういう議論を展開するかではない
どういうふうに投票に向かわせ、比例に自公以外、選挙区に民主を書かせるかである(当然夏の参院選の話)
もはやイメージ戦略である
戦と言う字はあまり好きではないがこの際使わせていただく
これはもう議論による真実のあぶり出しという次元ではないから
我々の自由を守るためのケンカである
ケンカにルールなどない
勝った者が勝ちである
そのために何をしようと構わない…とすら思う
(もっともこれは我々の価値観からすれば自己矛盾であるし、逆効果リスクを考えれば自ずと否定せざるを得ない)
話を元に戻す

ケンカということは相手がいる
相手から見ればコッチも実は恐怖すべき存在である
そう実は相手はビビっている
ただでさえ総議員の3分の2という足かせ、その上国民投票の過半数という難問を抱えている
真っ向勝負では勝ち目はない
実際60年間全敗である
60年間辛酸ナメ子である。死ぬまでなめつづけろや…いや失礼。
「論憲だけは」「国民投票の法律だけは」「だけは」「だけは」…あの手この手でくることはそれを証明している
だからそう。
とりあえずはあせらない
あわてない
彼らの巧妙なトリックをバッサリやるためにはそれが大切
そしてハラをくくりましょう
もし何かのマチガイで憲法が破壊されたら…
でてけばいいじゃん
そんな日本
日本国が世界平和へ及ぼす影響?
しらねーよ。
こちとらやるだけやったサ…と。
実際そうするかできるかは別にして、死にゃぁしませんて
そうならないために必死になるのはわかりますが、カツカツでは勝てるケンカも負けます
我々は60年前、軍刀と一緒に日の丸と心中する考えを捨てました
最後までぜーったいあきらめない。だけど負けたらしょうがないですよ
そういう心構えで私はいたい
…って話を戻すんだってば!!

えっと。そう…イメージです汗
憲法といえば平和・平和と言えば憲法・憲法=平和 みたいな感じになってますが
うーん それだと…
80点。
憲法の中核は個人主義・個人の尊厳です
自由主義といってもいい。要は人権です。
条文で言うと後段に幸福追求権を定める13条の前段です。
これが中核
平和主義や民主主義はそれを脇から支えているもの
この自由(=個人主義・幸福追求権等)を中核とした平和・民主の3本柱で憲法は成り立っている
この柱のうちの一本、例えば平和主義を削ることは自由と民主の否定につながります
自由と平和と民主主義は三身一体。
平和だけではイカン?
そうですか。じゃあ皆さんの大好きな民主主義もお捨てになるのですね
となる
だって今ある議論の焦点は、誰が見ても結局のところ平和主義の書かれた前文と9条にあるんだから
自民やら読売やらの憲法草案みてくださいな
(注:ちょっとわかりにくいかもしれませんが、こういうことです。
個人の人権を守るために、一つは人権を制約する法律の制定は人権の主体である国民自身が作るんだというふうに、立法権をはじめあらゆる国家作用は人権の主体である国民の下に正当性を有すると言う意味で民主主義となり、もう一つは個人の人権を守るために、人権をもっとも強力に否定する戦争をしないことと、その原因たる武力をもたないことを定めた。
したがって平和主義の否定は本丸である自由主義・人権の否定へつながり、それは自由・人権を守ることを目的として存在する民主主義の否定につながる。)

話を整理すると
憲法への理解なき憲法改正の議論=憲法の改正=平和主義の否定=幸福追求の否定=民主主義の否定
ということ

端的に言って自由民主党は自由と民主主義の敵というわけですな

こんなカンタンな話でもイメージってけっこう変わると思う

それからイメージと言えば「憲法改『悪』」という言葉があります
そうそう。そういうこと。…といいたいところですが、この言葉手垢がつきすぎました
そろそろ「憲法破壊」とかに切り替えましょう
そっちの方が新鮮かつどぎついイメージじゃないですか?

・自由と民主主義を否定する自民党

・自民党にNOと言えるニッポン

・憲法破壊を食い止めよう

・守ろう 自由と平和と民主主義

・じゃまさせない 私の幸せ

・壊させない大事なもの

・議論の封殺じゃない 本当に自由な議論を守るための 憲法破壊の阻止

みたいなキャッチコピーでいかがでしょう(なんか警察署に貼ってありそうですけど笑)



で、前置きが長くなりましたが…(今まで前置きだったんかい!!)
今年の参院「戦」の話です
憲法改正の分水嶺となろうかと思われる戦挙
どこに投票すべきかという話はさっきチラッと言いました
比例は自公以外
選挙区は民主(理想は共闘)
これしかないです
もし共闘なき場合選挙区で共産社民に投票するのは両手で同時にパンチしてそれと同時にキックもするようなもの
ズッコケますって

民主は危険?
百も承知です
でもいいんです
仮に民主が圧勝しちゃったとします
それで彼らがいきなり「改憲」とか言えますか?
民主勝利=自公の敗退=少なくとも今は改憲不可との意思表示 と評価されるはず
少なくとも民主の獲得票の一部は改憲不可と考える票であるということは誰がみても明らかであるわけで、その状態で民主が改憲を叫ぶのは手術で一命をとりとめた人間が直後に自殺するようなもの
負けた自公にも潰されるでしょう(自公民連立なんていうあからさまな政治的詐欺も考えにくい)
とりあえずしばらくは安心です…たぶん
で、本性出して論憲とかほざいた時にまた潰せばよろしい

話を戻しましょう
比例は自公以外と申しました。
はっきり言ってこれは妥協です
私個人の政策軸は(「頑固に平和」とか言ってる割には妙に軟派)社民党か(硬派といえば聞こえはいいが分からず屋)共産党に近いかも知れません。
でも、完全に自公を叩きのめしたいなら比例も民主といきたいところです。
でもでも、その後の民主の暴走を考えても現実的にも社共を潰してしまうわけにはいかないし、比例の性格上社共に比例票が入っても実害は少ない。
したがって比例は自公以外

次に選挙区は民主と申しました
ここで問題となるのは硬派共産党ですね
前回の地方選でも叩かれてましたねぇ
確かに共産党の候補者擁立は断念させるべきだったと思います
特に小選挙区や補欠で1名しか選出しない場合は尚更。
しかし、それが共産党・党員・支持者タタキにつながるのは見るに耐えない
しかも左派(と思われる者)から「自民党の回し者」などと言われている。
一部では脅迫罪を構成する文言を用いているコメントも見かけました
これじゃあ本末転倒。
自民の回し者はどっちだと。
そうなる位ならほっといた方がよい
歯がゆいですけど、そこまで言うなら尊重しましょ
ただし、共産党への「太陽政策」は最後まで続けるべきです
ちなみに、参照記事として挙げた、るもむまんくさんが小選挙区についてですが大変興味深いことをいわれていましたのでご紹介させていただきます。


☆このエントリーは下記のブログに触発されて、当該エントリーへの返事を書き始めたら止まらなくなったので本ブログエントリーとしてアップしてしまったというものである。
途中から返事のワリには説教くさくなっているがそれは山本が暴走したからである
また結局のところ返事になっていないのは山本のアタマが弱ってきたからである

記:Tomorrow is Another Happy

参照記事:るもむまんく
      :秘書課、村野瀬 玲奈です。


☆つけたし
どこに書けばよいかわからなかったことを付け足しという形で書く

憲法尊重擁護義務と改憲論について

憲法改正の議論や新憲法制定の話を政府の人間がすることは99条の憲法尊重擁護義務に反するという意見がある
はっきり言ってその通りである
どういうことかというと…

まずこの考えについて天皇又は摂政及び裁判官その他の公務員についてはおそらく問題はないが、内閣総理大臣や過半数の国務大臣を含めた国会議員については、96条1項前段と矛盾するという反対意見が想定される。(前提として内閣に憲法改正の発案権を認めるか否かの論点はあまり意味がないので割愛。)

そしてこれには以下のように反駁する。
確かに憲法は99条を定めながら他方で96条1項前段で国会に憲法改正の発議を認めているけれども、これはあくまで「改正」の手続きを定めたものにすぎない。
すなわち細部の改正の発議は総議員の3分の2という憲法上最も厳格な要件の下に認めるけれども、それを超えた憲法の本質部分へ踏み込んだ「改正」は改正でなく「新憲法の制定」であるから、憲法の条文が自己を否定するための手続きを定めたと解することは不可能であって、したがって憲法の本質部分へ踏み込んだ例えば民主主義とならんで自由主義を担保する平和主義を否定する憲法草案・改正案等の議論などは96条1項前段に定めた国会の権限として認められたものではない。
よって憲法の本質部分へ踏み込んだ改正の議論や新憲法制定の話を国会議員を含めた政府の人間がすることは99条の憲法尊重擁護義務に反する。

ただ、こんな複雑な話ははっきり言ってほとんど理解されないし、この憲法尊重擁護義務も法的義務ではあるが宣誓(拒むと懲戒)くらいしか具体化されておらず現状では正直言って実益に乏しい。残念なことに。
しかし、宣誓したんだろ?オラ という意味で政治的に追求していくことは可能である。
憲法の本質を重視し、改正限界説から不毛な「議論」自体の封殺に持っていくという点で私の上記見解と似ている。
憲法改正の議論自体を根底から否定してしまうことは効果的だと思うのである。
ケンカでは相手がビックリするような戦法を使うことが効果的な気がする。
今後この義務をさらに広く強いものにしていきたいとも思う。
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