飯塚事件 その3
1.当時のMCT118型123塩基ラダーマーカーによる検査は犯罪行為である。
飯塚事件と同時期に、足利事件が起きている。国民のほとんどが知る所の
この事件は、1990年(平成2年)5月12日 栃木県で女児が殺害され、
無関係である菅家利和(すがやとしかず)氏が翌年逮捕された。
日本大学医学部(研究所)押田茂實教授による菅家さんの毛根からのDNA検査結果により、
科警研の鑑定結果は明らかに間違いがあるとの検査報告書を、
岡部保男弁護士が最高裁判所へ提出し、鑑定のやり直しを申請したが、
これを一切受け付けず、2000年(平成12年)7月17日最高裁判所(亀山継夫裁判長)は、
「DNA型鑑定の証拠能力を認める」として、無期懲役の判決を下した。
菅家さんのDNAは16-26型であるとされ、被害者の被服に付着していた精液も
16-26型であるとされていたが、再審に於いて押田茂實教授の再鑑定報告書により、
高等裁判所に於いて、証拠能力の再鑑定をすることが決まった。
筑波大学の本田克也教授らの再鑑定の結果、菅家さんと被害者の被服に
付着していた精液のDNAは違う事が判明した。
2009年6月4日 菅家利和氏は釈放される。
2010年(平成22年)3月26日 再審に於いて、無罪判決の言い渡しが出た。
この間、菅家利和氏は、17年間と半年もの間、監獄に幽閉されていたのである。
飯塚事件(久間三千年氏)も足利事件(菅家利和氏)も、
DNA鑑定は警察庁科学研究所(科警研)の坂井活子、笠井賢太郎技官が、
MCT118型123塩基ラダーマーカーという、まだ試験段階の検査機を使い
鑑定したものである。
久間三千年氏のDNAも16-26型であり、被害者2名の体内外に付着した血痕も
16-26型であると判定し、2006年10月8日 久間三千年氏に死刑判決が確定した。
「2008年10月17日足利事件でDNA再鑑定が行われる見通しであることが
広く報道された、わずかその1週間後の同月24日麻生太郎内閣の
森英介法相(千葉県)の命令により、同月28日死刑執行がなされた。
死刑執行の時期が、極めて異例の早い時期であることから、本件の問題点、
(真実)を覆い隠すがための死刑執行ではないかとの疑問が指摘されている。
(日本弁護士連合会)」
死刑確定から執行まで、通常は6年間から8年間とされており、
今回の「2年間」は異常に早急な執行であったと言われている。
科警研の坂井活子、笠井賢太郎技官が行った、MCT118型123塩基
ラダーマーカーという検査は、「既に1991年 本田克也教授が
信州大学医学教室の助手時代にDNA鑑定「MCT118」鑑定法の
欠陥を発見し、その指摘は世界が驚くような衝撃的な内容だった。
といわれている。その内容の一つは、PCR条件が適正でなく、
もう一つは、検出方法が誤った方法だったことである。
足利事件の一審の公判が始まった直後から、この鑑定を行った科警研や
宇都宮地方裁判所に対し、本田助手は「冤罪」を警告していたのだ。
しかし、それを無視してこの鑑定を押し切り、その後もやり続けたのが
科警研と検察で、それを裁判所も認めてきたのだ。
欧米では、実際鑑定でほとんど使われた事は無いという。
(梶山天 著)」
2.事件本人(久間三千年氏)は事件とは無関係である。
(1)幼女の陰部にいたずらをして殺害した死体を山中に投棄するという
本件事案の陰湿さに照らしてみると、一般的な経験則からいって犯人は
一人(それも男)である可能性が高い。
しかし、右のような一般的な経験則だけで犯人が1人であると
判断することは無理がある。(一審判決 七の5の(四))
資料(2)A田の膣内容物である血液は、MCT118型は16型、23型、
及び27型である、とされ、3本のバンドが検出されている。
(一審判決 七の5の(二))
(B山のDNA 18型、25型は検出されていない。)
よって、A田(23-27型)と犯人の、2人分のものであると、
裁判官は判示している。
(但し、16型は犯人の分とされているが、資料(6)(A田の心臓血)と資料(7)
(B山の心臓血)からもバンドが検出されている。
心臓血からは本人以外のDNAのバンドは検出されることはない。
裁判官らは、犯人はB山にいたずらをしてからA田にもいたずらをしたと判示した。
(一審 七の5の(一))
しかし、資料(2)A田の膣内容物の血液には、B山と事件本人(久間三千年氏)の
HLADQαのDNA型1.3―3型(α2-α3型)、(一審判決 七の2の(六))
ミトコンドリアmt333DNA、B山のKpnI―/RsaI+、
事件本人のKpnI+/RsaI+(一審判決 七の4の(二)の(1)と(2)と(3))
及び、上記2名のHLA―DQβDNA(一審判決 七の4の(四))は
一切検出されていない。
(B山と事件本人の3種類のDNAが、A田の膣内容物には存在しない。)
A田の膣内容物の血液型(ABO式)型はO型とA型とB型であり
(一審判決 七の2の(四))、A田はO型であるので、
犯人はAB型である。
事件本人(久間三千年氏)はB型であり、犯人ではない。
(2)A田の膣内容物から試料(血液)を取り出したその一部を
赤血球と白血球に分離し、 赤血球からは(ABO式)型の血液型、
白血球からDNA型を検査したものである。
その際に、赤血球のみに他の血液が混ざったり、
白血球のみのDNA型が消えたり 壊れたりしてしまったり
することがある等と裁判官らは判示しているが、
その様な事象が起こるはずが無い。
又、一審判決 七の2の(五)において、資料(1)ないし(7)からは
その一部を精製したDNAを試料として、PCR増幅後、
ドット・ハイブリダイゼーション法により、
HLADQα型検査を行ったとある。
要するに、試料(血液)の一部を使ったものであり、
HLADQα型検査の為の血液は豊富に存在していたことを
物語っている(100回以上もの鑑定ができる量があった)。
(3)帝京大学医学部法医学教室 石山 昱夫教授の
ミトコンドリアmt333DNA鑑定
(B山の心臓血) KpnI-・RsaI+
(A田の心臓血) KpnI+・RsaI-
(事件本人(久間三千年氏))KpnI+・RsaI+ である。
資料(3)A田の膣周辺からA田でもB山でも事件本人でもない、
KpnI-・RsaI-のクローンが検出されている。
よって、これが犯人のDNAである。
(一審判決 七の4の(二)の(1)と(2)と(3)と(4))
(4)科警研の坂井活子、笠井賢太郎による、
HLADQαのDNA型鑑定
HLADQαのDNA型
A田 1.1-3型(最高裁再審 α1-α3型)
B山 1.3-3型(最高裁再審 α2-α3型)
事件本人 1.3-3型(最高裁再審 α2-α3型)
(久間三千年氏)
①資料(4)B山の膣内容物に1.3-3型(α2-α3型)で
ある血液と、.3-1.3型、3-3型(α3-α3型)、
又は1.3-3型(α2-α3型)である血液との混合がある。
(一審判決 七の2の(六))
②B山の腹部付近の木の枝に付着の血痕から、
犯人の型の可能性を1.3-1.3型、
1.3-3型(α2-α3型)、3-3型(α3-α3型)の3通りに限定した。
(一審判決 七の5の(三))
③資料(2)A他の膣内容物と資料(3)のA他の膣周辺付着物は
ともに1.1-3型(α1-α3)のみ、資料(5)B山の膣周辺付着物には
1.3-3型(α2-α3型)のみである。(一審判決 七の3の(二))
上記①ないし③の資料の全てに犯人由来の血液が混入していると
認定しているのであるから、共通する型は、3型であり、
犯人の型は3-3型(α3-α3型)である。
④血液型(ABO方式) A田はO型、B山はA型、
事件本人(久間三千年氏)はB型(上記(1))
(5)上記(1)ないし(4)より犯人のDNA型は、
ミトコンドリアmt333DNA型は、KpnI-・RsaI-
HLADQαのDNA型は、3-3型(α3-α3型)、
血液型(ABO式)型はAB型である。
事件本人(久間三千年氏)は、犯人ではない。
3.事件本人(久間三千年氏)の車の後部座席の血痕について
事件本人(久間三千年氏)が平成4年9月26日に下取り車として出した車を、
捜査機関が押収し、この車の後部座席のシート生地裏側から出た大血痕を
科警研の坂井活子他1名は、平成6年5月23日から同年12月8日迄の間、
鑑定した。その結果、大血痕は、血液型がA田と同じO型、
DNA型のうちGc型もA田と同じC型であることが判明したと
裁判官は判示している。(一審判決 六の1の(五))
この判明は、この事件が起きてから2年間以上も経ってからである。
この事件から4年前(1988年(昭和63年)12月4日)飯塚市に於いて、
小学校1年生の愛子ちゃんが公園で遊んだ後、行方不明となる事件が発生し、
その時の最後の目撃者として、事件本人(久間三千年氏)であったという事で、
それ以来久間さんをマークしてきたと、
NHK BS1にて「正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮」にて、
福岡県警捜査一課 元特捜班 飯野和明刑事はしたり顔で語っている。
又、福岡県警元捜査一課長 山方泰輔は、
「私は庭に埋めてると思ったんですよ、愛子ちゃんを「毎日ですよ」
(久間が)朝起きてから庭をうろうろするんですよ」
(捜査員が)私はそれを(庭に)埋めているから心配になったんだと思った。
私はもう前の日(逮捕日の平成6年6月23日の1日前)から、
重機まで準備して ほじくり返してしまった庭を、
そういう腹つもりが最初からあった。
「庭からは何も発見されなかった。」
今回の事件の平成4年2月20日後の2月25日には、森永刑事が、
3月7日には大坪警察官が、3月18日には福田係長(警察官)と井上刑事が、
3月20日にはポリグラフ検査を受けたところ、翌21日には
福田係長が自宅に来て、事件本人の車を見ている。
(A田は事件本人(久間三千年氏)の所有の車において、
扼頸による窒息死に伴う失禁の事実を裏付けるものということができ、
車内での殺害を裏付けるとともに、被告車が犯行に使用され、
その犯人が被告人である。(高裁判決 第1の二の2))
(A田は鼻孔からかなりの量の出血をしており、ジャンパーの両袖及び
前面の表面全域にわたって、多数の血痕が付着していた。
(一審判決 六の7))
前記の通り、愛子ちゃんが行方不明になった時から
毎日のように、警察関係者が久間さんをマークしており、
平成4年2月20日の2名の殺害された後も頻繁に久間さん宅を訪ね、
車を見ており、車の中の多量の出血した後が判らない訳が無い。
この事実は検事、裁判官らの自作自演による作為であり、
捏造による証拠であるとしか思えない。
いずれにしても久間さんの血液型はB型であり、
犯人の血液型はAB型である。
よって、久間さんは犯人ではない。
4,A田とB山の死亡時刻について
(1)A田の死体解剖は、九州大学医学部法医学教室に於いて、
永田武明教授の執刀により行われた。(甲12)
死後経過時間として、
「検屍開始時(2月21日午後10時)でに死後約1日から
1日半を経過しているのではなかろうかと推測される。
胆汁がほぼ充満状態にあり、胃の米飯粒の多くが
未消化であることなどの所見から、
食後間もない時期の死亡と推定される。」
(地裁判決一の8の(一)の(3)と(4))
要するに、死亡時刻は、平成4年2月20日午前10時から
午後10時の間という事である。
(2)(甲15)B山は死後経過時間として、
「検屍開始時(2月21日午後10時30分)までに
死後1日から1日判を経過しているのではなかろうかと
推測される。」(地審判決 一の8の(二)の(2))
要するに、死亡時刻は、平成4年2月20日午前10時半から
午後10時半の間という事である。
(3)上記(1)と(2)の以後、永田武明教授は、
A田とB山の死体検案書甲680,甲679)において、
死亡時刻を平成4年2月20日午後6時から9時ごろと定めた。
(地裁判決 一の8の(一)の(7)と一の8の(二)の(5))
(4)裁判官らは、上記永田武明教授の鑑定を無視し、
平成4年2月20日午前8時30分頃から午前8時50分頃までの間、
略取または誘拐し、同日午前8時30分頃から午前9時頃までの間、
殺意をもって、A田A子とB山B子を頚部を手で締め付け圧迫し、
よって同女らを窒息により死亡させて殺害した。と、
主観的に判決したものである。(一審 犯罪事実 第一と第二)
福岡地裁 平6(わ)第1050号、平6(わ)第1157号、
福岡高裁 平11(う)第429号、
最高裁 平13(あ)第2010号の判決文の内容を熟読すると、
まるで、検事と裁判官らの合作文であるとしか
思えない判決文である。
又、裁判所が警察、検察とグルになり、久間三千年さんを殺人犯に仕立て上げ、
絞首刑にしたとしか思えない。
(5)事件当日(平成4年2月20日)午前11時頃、
Kさんは八木山バイパスを通り過ぎ、
登坂車線で2車線になったので、前をのろのろ走っていた車を追い抜いた時、
その車の中に今にも泣きだしそうな子がいるのに気付いた。
その子が寂しそうな恨めしそうな、今にも泣きだしそうな表情で
Kさんの方を見つめていた。
その子は赤いランドセルを背負っていました。
また後部座席には、もう一人の女の子が横になっていました。
その子の横にもランドセルが見えました。
Kさんは翌朝、110番通報して、警察に報告しました。
1週間後、刑事がやってきて、目撃の一部始終を報告しました。
刑事は手帳にメモしていましたが、以後何の連絡も
ありませんでした。その後、警察は久間さんに事件当日の
アリバイを聞いたり、平成4年3月20日には久間さんの頭髪5本を
提出させたり、久間さんにアリバイが無い時間及び血液型がB型、
DNA型が16-26型であることを確認して、
久間さんを逮捕できる状況を作り出すことに
専念していたかのように思えます。
まるで、犯人はすでに久間さん以外の人物である事を承知しており、
身代わりを仕立てる為に奔走していたともとれる行動であると考えられます。
Kさんの供述は、次の通りです。
Yahoo ニュースより
第2次再審請求の新証拠 岩田務(主任弁護人)
福岡県弁護士会の岩田と申します。飯塚事件の再審請求の主任弁護人をしています。
これから、飯塚事件の第2次再審請求の新証拠についてお話しします。
第2次再審の新証拠は、事件当日、被害者2名と犯人らしき人物を目撃したとする
K供述書です。ただ26年前の記憶に基づいてされていますから、そのような古い記憶が
どうしてKさんに残っていたかという説明が必要になります。
心理学によると、人の記憶の過程として、第一に記銘、第二に保持、第三に想起という
3つの過程があるとされています。第一の記銘というのは、情報を取り込んで覚えるまでの
過程です。強い印象を受けた事柄ほど記銘されやすいとされています。
Kさんは、福岡市の近くで電気工事店の経営をされている方です。
事件当日の早朝、飯塚市の隣の田川市に車で集金に行って、会社に帰る途中、
午前11時ごろ、飯塚市と福岡市を結ぶ八木山バイパスを通りました。
八木山バイパスは片側一車線です。そこで、時速40キロくらいでのろのろと運転をしている、
軽自動車のワンボックスカーがあり、Kさんはその後ろを走ることになりました。
Kさんがイライラして走っていると、インターチェンジを過ぎてから登坂車線があって、
2車線になったので、やっとその車を追い抜きました。Kさんは追い抜きながら、
どんな人間がこんなはた迷惑な運転をしているんだろうと、車の中を見ました。
運転していたのは、坊主頭で、細い体で、当時45歳だったKさんより
少し若いくらいの男性でした。Kさんは追い抜きながら、後部座席におかっぱ頭をした
小学校低学年の女の子がいるのに気が付きました。その子が寂しそうな恨めしそうな、
今にも泣きだしそうな表情でKさんのほうを見つめていました。
その子は、赤いランドセルを背負っていました。
また、後部座席には、もう一人の女の子が横になっていました。
その子の横にもランドセルが見えました。
平日の午前中でした。家族でドライブしているようにはとても見えませんし、
何よりも女の子の表情が異常だったので、異様な光景でした。
一瞬、誘拐じゃないかと頭をよぎりましたが、2人も誘拐するなんてないだろうと
思い返して、そのまま運転を続けました。
ところが、その日の夜、飯塚市で女の子2人が行方不明になったというニュースが
流れました。Kさんは昼間の目撃を生々しく思い出しました。あの時、
自分は犯人と被害者を見たんだと、強く確信して、翌朝110番通報をして、
警察に報告しました。このようにKさんは、八木山バイパスで見た光景から、
非常に強烈な印象を受けたので、その体験は強く記銘されました。
次に、記憶の第二の過程である保持についてお話しします。
保持というのは、取り込まれた情報を脳が貯蔵し続けることです。
何度も繰り返して思い出すことによって、記銘された内容は忘れられることなく、
脳の中に貯蔵され続けることになります。Kさんの場合の保持については具体的に、
目撃した日の夜、女の子2人が行方不明になったというニュースを聞いて
昼間の目撃を思い出して、自分が犯人と被害者を見たと確信しました。
翌朝110番をして警察に通報しました。1週間後、刑事がやってきて、
目撃の一部始終を報告しました。
その際、Kさんは八木山バイパスの料金所の監視カメラのビデオテープを
保存することを提案しました。刑事は手帳にメモをしていましたが、
以後なんの連絡もありませんでした。Kさんは、自分が犯人と被害者を目撃したと
確信していたので、目撃から3年経って始まった裁判の第1回公判を傍聴しました。
目撃者Kさんが法廷で見たのは全くの別人
Kさんは前の方で傍聴していましたが、Kさんの目撃した男と、
被告人席にいる久間さんは、年齢、体格も違い、坊主頭でもなく、
全くの別人でした。また、検察官の話を聞いていたら、
久間さんと犯人のDNAが一致したという話がありました。
Kさんは、当時、DNAは万能だと思っていましたので、自分の目撃した男は
犯人ではなかったのか、と思いました。しかし、なによりも、恨めしそうに
自分のほうを見ていた女の子の表情は忘れられませんでした。
そのため、あの女の子は被害者だったのではないか、
という思いから抜け出すことはできませんでした。
その後、福岡県では、25年以上、飯塚事件について、
逮捕、裁判、死刑執行、再審請求と、ことあるごとに新聞やテレビで
大きな報道が続きました。そのためKさんは、その報道に接するたびに、
強く心を揺さぶられて、Kさんの記憶は保持され続けました。
最後に、記憶の3番目の過程である想起についてお話しします。
想起という過程は、脳の中にある情報を引き出すこと、
つまり、思い出すことです。Kさんは、長年の間、飯塚事件の報道に
強い関心を持っていました。そして、再審請求が始まって、
DNAが証拠として崩れたという報道がありました。
Kさんはそれを知って、やはりあの時自分が見たのは犯人と被害者だった、
自分は誘拐の犯行の一部を目撃したんだという確信が蘇るようになりました。
そこで、そのころ、飯塚事件の特集を連載していた西日本新聞に、
自分の目撃状況を電話しました。その内容が、平成30年11月に新聞記事になり、
弁護団の徳田弁護士に会うようになって、目撃情報を説明し、
今回の新証拠である供述書作成に至りました。
供述書作成当時、既に26年近く経過していましたが、
あの日の出来事はKさんの記憶にはっきり残っていました。
Kさんはあの日の女の子の表情を、26年間忘れることができなかったわけです、
あの日見た光景をはっきりと思い出すことができました。
次に、K供述が第2次再審において果たす役割についてお話しします。
まず、Kさんが目撃した男が真犯人であれば、本件は急転直下、
劇的に解決します。今後の展開次第です。
また、Kさんの目撃と、後で述べるT証人の目撃は、
事件当日の午前11時という、同じ時刻に、15キロ以上離れた場所で
起きていますので、お互いに相反する関係にあります。
すなわちKさんの目撃した男が犯人なら、T証人の目撃した男は
本件とは関係ないということになります。その反対も成り立ちます。
したがって、K供述の信用性が高まると、T供述の信用性が弱まると
いうことになります。
以上が、K供述が第2次再審において果たす役割ですが、
これらの問題とは別に、K供述によって見えてくるものがあります。
久間さんを有罪としてきた重要な柱であるT供述は、
犯行そのものを目撃した供述ではなく、いわゆる間接証拠です。
これに対して、K供述は、誘拐事件の犯行そのものを目撃したという
直接証拠です。このことからKさんの目撃は本件にとって
極めて重要な意味を持っていることが分かります。
ところが、ここで重大な疑問が生じます。Kさんは2月21日に110番して、
刑事がKさんの会社にやってきたのは、1週間も過ぎた2月28日頃でした。
しかも、刑事はメモをしただけで、調書すら作成しませんでした。
先ほど、Kさんの目撃は本件にとって極めて重大な意味を持っていると
申し上げましたが、警察のこの対応は、一体どういうことなのでしょうか。
それは、本件では警察が事件発生直後から、
久間さんが犯人という見立てをして、
久間さんを犯人とする証拠ばかり集めたことを意味しています。
というのも、刑事がやって来た28日の2日後の3月2日に、
遺体や遺留品が発見された八丁峠で、青いワゴン車を見たという、
T証人の供述が出てきました。それから2日後の3月4日に、
詳しい目撃情報を聞き出すために、警察官がT証人に会いに行きました。
ところが、その警察官は、T証人に会う前から、なんと久間さんが
乗っていたウエストコーストという車の型式の情報を持っていたんです。
警察官は、話を聞く前から、久間さんを犯人とみて、久間さんの
乗っていたウエストコーストという車の型式を情報として持っていたのです。
これは極めて異常なことです。
これでは、本件の証拠を集めに行ったというよりも、
久間さんを犯人とするための証拠を集めに行ったと
言われても仕方のないことです。
K供述をまともに取り上げて、まともに捜査が行われた場合を想像して、
その場合と本件を比較してみますと、本件で警察がはじめから
久間さんを犯人と見込んで、久間さんを犯人とする証拠ばかり
集めてきたといういびつな実態が、一層はっきりと見えてきます。
その上で本件では、科警研の技官も、繊維メーカーの技術者も、
久間さんを犯人とする証拠ばかりを集めていた警察に協力して、
警察の望む方向、久間さんを犯人とする方向での鑑定書を作ります。
そして、検察官も裁判官も、このからくりを見破れませんでした。
こうして、みんなが寄ってたかって久間さんを犯人に仕立て上げて
いったという実情を、飯塚事件のいろんな証拠が物語っています。
次回は、裁判官の犯罪について 続く
1.当時のMCT118型123塩基ラダーマーカーによる検査は犯罪行為である。
飯塚事件と同時期に、足利事件が起きている。国民のほとんどが知る所の
この事件は、1990年(平成2年)5月12日 栃木県で女児が殺害され、
無関係である菅家利和(すがやとしかず)氏が翌年逮捕された。
日本大学医学部(研究所)押田茂實教授による菅家さんの毛根からのDNA検査結果により、
科警研の鑑定結果は明らかに間違いがあるとの検査報告書を、
岡部保男弁護士が最高裁判所へ提出し、鑑定のやり直しを申請したが、
これを一切受け付けず、2000年(平成12年)7月17日最高裁判所(亀山継夫裁判長)は、
「DNA型鑑定の証拠能力を認める」として、無期懲役の判決を下した。
菅家さんのDNAは16-26型であるとされ、被害者の被服に付着していた精液も
16-26型であるとされていたが、再審に於いて押田茂實教授の再鑑定報告書により、
高等裁判所に於いて、証拠能力の再鑑定をすることが決まった。
筑波大学の本田克也教授らの再鑑定の結果、菅家さんと被害者の被服に
付着していた精液のDNAは違う事が判明した。
2009年6月4日 菅家利和氏は釈放される。
2010年(平成22年)3月26日 再審に於いて、無罪判決の言い渡しが出た。
この間、菅家利和氏は、17年間と半年もの間、監獄に幽閉されていたのである。
飯塚事件(久間三千年氏)も足利事件(菅家利和氏)も、
DNA鑑定は警察庁科学研究所(科警研)の坂井活子、笠井賢太郎技官が、
MCT118型123塩基ラダーマーカーという、まだ試験段階の検査機を使い
鑑定したものである。
久間三千年氏のDNAも16-26型であり、被害者2名の体内外に付着した血痕も
16-26型であると判定し、2006年10月8日 久間三千年氏に死刑判決が確定した。
「2008年10月17日足利事件でDNA再鑑定が行われる見通しであることが
広く報道された、わずかその1週間後の同月24日麻生太郎内閣の
森英介法相(千葉県)の命令により、同月28日死刑執行がなされた。
死刑執行の時期が、極めて異例の早い時期であることから、本件の問題点、
(真実)を覆い隠すがための死刑執行ではないかとの疑問が指摘されている。
(日本弁護士連合会)」
死刑確定から執行まで、通常は6年間から8年間とされており、
今回の「2年間」は異常に早急な執行であったと言われている。
科警研の坂井活子、笠井賢太郎技官が行った、MCT118型123塩基
ラダーマーカーという検査は、「既に1991年 本田克也教授が
信州大学医学教室の助手時代にDNA鑑定「MCT118」鑑定法の
欠陥を発見し、その指摘は世界が驚くような衝撃的な内容だった。
といわれている。その内容の一つは、PCR条件が適正でなく、
もう一つは、検出方法が誤った方法だったことである。
足利事件の一審の公判が始まった直後から、この鑑定を行った科警研や
宇都宮地方裁判所に対し、本田助手は「冤罪」を警告していたのだ。
しかし、それを無視してこの鑑定を押し切り、その後もやり続けたのが
科警研と検察で、それを裁判所も認めてきたのだ。
欧米では、実際鑑定でほとんど使われた事は無いという。
(梶山天 著)」
2.事件本人(久間三千年氏)は事件とは無関係である。
(1)幼女の陰部にいたずらをして殺害した死体を山中に投棄するという
本件事案の陰湿さに照らしてみると、一般的な経験則からいって犯人は
一人(それも男)である可能性が高い。
しかし、右のような一般的な経験則だけで犯人が1人であると
判断することは無理がある。(一審判決 七の5の(四))
資料(2)A田の膣内容物である血液は、MCT118型は16型、23型、
及び27型である、とされ、3本のバンドが検出されている。
(一審判決 七の5の(二))
(B山のDNA 18型、25型は検出されていない。)
よって、A田(23-27型)と犯人の、2人分のものであると、
裁判官は判示している。
(但し、16型は犯人の分とされているが、資料(6)(A田の心臓血)と資料(7)
(B山の心臓血)からもバンドが検出されている。
心臓血からは本人以外のDNAのバンドは検出されることはない。
裁判官らは、犯人はB山にいたずらをしてからA田にもいたずらをしたと判示した。
(一審 七の5の(一))
しかし、資料(2)A田の膣内容物の血液には、B山と事件本人(久間三千年氏)の
HLADQαのDNA型1.3―3型(α2-α3型)、(一審判決 七の2の(六))
ミトコンドリアmt333DNA、B山のKpnI―/RsaI+、
事件本人のKpnI+/RsaI+(一審判決 七の4の(二)の(1)と(2)と(3))
及び、上記2名のHLA―DQβDNA(一審判決 七の4の(四))は
一切検出されていない。
(B山と事件本人の3種類のDNAが、A田の膣内容物には存在しない。)
A田の膣内容物の血液型(ABO式)型はO型とA型とB型であり
(一審判決 七の2の(四))、A田はO型であるので、
犯人はAB型である。
事件本人(久間三千年氏)はB型であり、犯人ではない。
(2)A田の膣内容物から試料(血液)を取り出したその一部を
赤血球と白血球に分離し、 赤血球からは(ABO式)型の血液型、
白血球からDNA型を検査したものである。
その際に、赤血球のみに他の血液が混ざったり、
白血球のみのDNA型が消えたり 壊れたりしてしまったり
することがある等と裁判官らは判示しているが、
その様な事象が起こるはずが無い。
又、一審判決 七の2の(五)において、資料(1)ないし(7)からは
その一部を精製したDNAを試料として、PCR増幅後、
ドット・ハイブリダイゼーション法により、
HLADQα型検査を行ったとある。
要するに、試料(血液)の一部を使ったものであり、
HLADQα型検査の為の血液は豊富に存在していたことを
物語っている(100回以上もの鑑定ができる量があった)。
(3)帝京大学医学部法医学教室 石山 昱夫教授の
ミトコンドリアmt333DNA鑑定
(B山の心臓血) KpnI-・RsaI+
(A田の心臓血) KpnI+・RsaI-
(事件本人(久間三千年氏))KpnI+・RsaI+ である。
資料(3)A田の膣周辺からA田でもB山でも事件本人でもない、
KpnI-・RsaI-のクローンが検出されている。
よって、これが犯人のDNAである。
(一審判決 七の4の(二)の(1)と(2)と(3)と(4))
(4)科警研の坂井活子、笠井賢太郎による、
HLADQαのDNA型鑑定
HLADQαのDNA型
A田 1.1-3型(最高裁再審 α1-α3型)
B山 1.3-3型(最高裁再審 α2-α3型)
事件本人 1.3-3型(最高裁再審 α2-α3型)
(久間三千年氏)
①資料(4)B山の膣内容物に1.3-3型(α2-α3型)で
ある血液と、.3-1.3型、3-3型(α3-α3型)、
又は1.3-3型(α2-α3型)である血液との混合がある。
(一審判決 七の2の(六))
②B山の腹部付近の木の枝に付着の血痕から、
犯人の型の可能性を1.3-1.3型、
1.3-3型(α2-α3型)、3-3型(α3-α3型)の3通りに限定した。
(一審判決 七の5の(三))
③資料(2)A他の膣内容物と資料(3)のA他の膣周辺付着物は
ともに1.1-3型(α1-α3)のみ、資料(5)B山の膣周辺付着物には
1.3-3型(α2-α3型)のみである。(一審判決 七の3の(二))
上記①ないし③の資料の全てに犯人由来の血液が混入していると
認定しているのであるから、共通する型は、3型であり、
犯人の型は3-3型(α3-α3型)である。
④血液型(ABO方式) A田はO型、B山はA型、
事件本人(久間三千年氏)はB型(上記(1))
(5)上記(1)ないし(4)より犯人のDNA型は、
ミトコンドリアmt333DNA型は、KpnI-・RsaI-
HLADQαのDNA型は、3-3型(α3-α3型)、
血液型(ABO式)型はAB型である。
事件本人(久間三千年氏)は、犯人ではない。
3.事件本人(久間三千年氏)の車の後部座席の血痕について
事件本人(久間三千年氏)が平成4年9月26日に下取り車として出した車を、
捜査機関が押収し、この車の後部座席のシート生地裏側から出た大血痕を
科警研の坂井活子他1名は、平成6年5月23日から同年12月8日迄の間、
鑑定した。その結果、大血痕は、血液型がA田と同じO型、
DNA型のうちGc型もA田と同じC型であることが判明したと
裁判官は判示している。(一審判決 六の1の(五))
この判明は、この事件が起きてから2年間以上も経ってからである。
この事件から4年前(1988年(昭和63年)12月4日)飯塚市に於いて、
小学校1年生の愛子ちゃんが公園で遊んだ後、行方不明となる事件が発生し、
その時の最後の目撃者として、事件本人(久間三千年氏)であったという事で、
それ以来久間さんをマークしてきたと、
NHK BS1にて「正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮」にて、
福岡県警捜査一課 元特捜班 飯野和明刑事はしたり顔で語っている。
又、福岡県警元捜査一課長 山方泰輔は、
「私は庭に埋めてると思ったんですよ、愛子ちゃんを「毎日ですよ」
(久間が)朝起きてから庭をうろうろするんですよ」
(捜査員が)私はそれを(庭に)埋めているから心配になったんだと思った。
私はもう前の日(逮捕日の平成6年6月23日の1日前)から、
重機まで準備して ほじくり返してしまった庭を、
そういう腹つもりが最初からあった。
「庭からは何も発見されなかった。」
今回の事件の平成4年2月20日後の2月25日には、森永刑事が、
3月7日には大坪警察官が、3月18日には福田係長(警察官)と井上刑事が、
3月20日にはポリグラフ検査を受けたところ、翌21日には
福田係長が自宅に来て、事件本人の車を見ている。
(A田は事件本人(久間三千年氏)の所有の車において、
扼頸による窒息死に伴う失禁の事実を裏付けるものということができ、
車内での殺害を裏付けるとともに、被告車が犯行に使用され、
その犯人が被告人である。(高裁判決 第1の二の2))
(A田は鼻孔からかなりの量の出血をしており、ジャンパーの両袖及び
前面の表面全域にわたって、多数の血痕が付着していた。
(一審判決 六の7))
前記の通り、愛子ちゃんが行方不明になった時から
毎日のように、警察関係者が久間さんをマークしており、
平成4年2月20日の2名の殺害された後も頻繁に久間さん宅を訪ね、
車を見ており、車の中の多量の出血した後が判らない訳が無い。
この事実は検事、裁判官らの自作自演による作為であり、
捏造による証拠であるとしか思えない。
いずれにしても久間さんの血液型はB型であり、
犯人の血液型はAB型である。
よって、久間さんは犯人ではない。
4,A田とB山の死亡時刻について
(1)A田の死体解剖は、九州大学医学部法医学教室に於いて、
永田武明教授の執刀により行われた。(甲12)
死後経過時間として、
「検屍開始時(2月21日午後10時)でに死後約1日から
1日半を経過しているのではなかろうかと推測される。
胆汁がほぼ充満状態にあり、胃の米飯粒の多くが
未消化であることなどの所見から、
食後間もない時期の死亡と推定される。」
(地裁判決一の8の(一)の(3)と(4))
要するに、死亡時刻は、平成4年2月20日午前10時から
午後10時の間という事である。
(2)(甲15)B山は死後経過時間として、
「検屍開始時(2月21日午後10時30分)までに
死後1日から1日判を経過しているのではなかろうかと
推測される。」(地審判決 一の8の(二)の(2))
要するに、死亡時刻は、平成4年2月20日午前10時半から
午後10時半の間という事である。
(3)上記(1)と(2)の以後、永田武明教授は、
A田とB山の死体検案書甲680,甲679)において、
死亡時刻を平成4年2月20日午後6時から9時ごろと定めた。
(地裁判決 一の8の(一)の(7)と一の8の(二)の(5))
(4)裁判官らは、上記永田武明教授の鑑定を無視し、
平成4年2月20日午前8時30分頃から午前8時50分頃までの間、
略取または誘拐し、同日午前8時30分頃から午前9時頃までの間、
殺意をもって、A田A子とB山B子を頚部を手で締め付け圧迫し、
よって同女らを窒息により死亡させて殺害した。と、
主観的に判決したものである。(一審 犯罪事実 第一と第二)
福岡地裁 平6(わ)第1050号、平6(わ)第1157号、
福岡高裁 平11(う)第429号、
最高裁 平13(あ)第2010号の判決文の内容を熟読すると、
まるで、検事と裁判官らの合作文であるとしか
思えない判決文である。
又、裁判所が警察、検察とグルになり、久間三千年さんを殺人犯に仕立て上げ、
絞首刑にしたとしか思えない。
(5)事件当日(平成4年2月20日)午前11時頃、
Kさんは八木山バイパスを通り過ぎ、
登坂車線で2車線になったので、前をのろのろ走っていた車を追い抜いた時、
その車の中に今にも泣きだしそうな子がいるのに気付いた。
その子が寂しそうな恨めしそうな、今にも泣きだしそうな表情で
Kさんの方を見つめていた。
その子は赤いランドセルを背負っていました。
また後部座席には、もう一人の女の子が横になっていました。
その子の横にもランドセルが見えました。
Kさんは翌朝、110番通報して、警察に報告しました。
1週間後、刑事がやってきて、目撃の一部始終を報告しました。
刑事は手帳にメモしていましたが、以後何の連絡も
ありませんでした。その後、警察は久間さんに事件当日の
アリバイを聞いたり、平成4年3月20日には久間さんの頭髪5本を
提出させたり、久間さんにアリバイが無い時間及び血液型がB型、
DNA型が16-26型であることを確認して、
久間さんを逮捕できる状況を作り出すことに
専念していたかのように思えます。
まるで、犯人はすでに久間さん以外の人物である事を承知しており、
身代わりを仕立てる為に奔走していたともとれる行動であると考えられます。
Kさんの供述は、次の通りです。
Yahoo ニュースより
第2次再審請求の新証拠 岩田務(主任弁護人)
福岡県弁護士会の岩田と申します。飯塚事件の再審請求の主任弁護人をしています。
これから、飯塚事件の第2次再審請求の新証拠についてお話しします。
第2次再審の新証拠は、事件当日、被害者2名と犯人らしき人物を目撃したとする
K供述書です。ただ26年前の記憶に基づいてされていますから、そのような古い記憶が
どうしてKさんに残っていたかという説明が必要になります。
心理学によると、人の記憶の過程として、第一に記銘、第二に保持、第三に想起という
3つの過程があるとされています。第一の記銘というのは、情報を取り込んで覚えるまでの
過程です。強い印象を受けた事柄ほど記銘されやすいとされています。
Kさんは、福岡市の近くで電気工事店の経営をされている方です。
事件当日の早朝、飯塚市の隣の田川市に車で集金に行って、会社に帰る途中、
午前11時ごろ、飯塚市と福岡市を結ぶ八木山バイパスを通りました。
八木山バイパスは片側一車線です。そこで、時速40キロくらいでのろのろと運転をしている、
軽自動車のワンボックスカーがあり、Kさんはその後ろを走ることになりました。
Kさんがイライラして走っていると、インターチェンジを過ぎてから登坂車線があって、
2車線になったので、やっとその車を追い抜きました。Kさんは追い抜きながら、
どんな人間がこんなはた迷惑な運転をしているんだろうと、車の中を見ました。
運転していたのは、坊主頭で、細い体で、当時45歳だったKさんより
少し若いくらいの男性でした。Kさんは追い抜きながら、後部座席におかっぱ頭をした
小学校低学年の女の子がいるのに気が付きました。その子が寂しそうな恨めしそうな、
今にも泣きだしそうな表情でKさんのほうを見つめていました。
その子は、赤いランドセルを背負っていました。
また、後部座席には、もう一人の女の子が横になっていました。
その子の横にもランドセルが見えました。
平日の午前中でした。家族でドライブしているようにはとても見えませんし、
何よりも女の子の表情が異常だったので、異様な光景でした。
一瞬、誘拐じゃないかと頭をよぎりましたが、2人も誘拐するなんてないだろうと
思い返して、そのまま運転を続けました。
ところが、その日の夜、飯塚市で女の子2人が行方不明になったというニュースが
流れました。Kさんは昼間の目撃を生々しく思い出しました。あの時、
自分は犯人と被害者を見たんだと、強く確信して、翌朝110番通報をして、
警察に報告しました。このようにKさんは、八木山バイパスで見た光景から、
非常に強烈な印象を受けたので、その体験は強く記銘されました。
次に、記憶の第二の過程である保持についてお話しします。
保持というのは、取り込まれた情報を脳が貯蔵し続けることです。
何度も繰り返して思い出すことによって、記銘された内容は忘れられることなく、
脳の中に貯蔵され続けることになります。Kさんの場合の保持については具体的に、
目撃した日の夜、女の子2人が行方不明になったというニュースを聞いて
昼間の目撃を思い出して、自分が犯人と被害者を見たと確信しました。
翌朝110番をして警察に通報しました。1週間後、刑事がやってきて、
目撃の一部始終を報告しました。
その際、Kさんは八木山バイパスの料金所の監視カメラのビデオテープを
保存することを提案しました。刑事は手帳にメモをしていましたが、
以後なんの連絡もありませんでした。Kさんは、自分が犯人と被害者を目撃したと
確信していたので、目撃から3年経って始まった裁判の第1回公判を傍聴しました。
目撃者Kさんが法廷で見たのは全くの別人
Kさんは前の方で傍聴していましたが、Kさんの目撃した男と、
被告人席にいる久間さんは、年齢、体格も違い、坊主頭でもなく、
全くの別人でした。また、検察官の話を聞いていたら、
久間さんと犯人のDNAが一致したという話がありました。
Kさんは、当時、DNAは万能だと思っていましたので、自分の目撃した男は
犯人ではなかったのか、と思いました。しかし、なによりも、恨めしそうに
自分のほうを見ていた女の子の表情は忘れられませんでした。
そのため、あの女の子は被害者だったのではないか、
という思いから抜け出すことはできませんでした。
その後、福岡県では、25年以上、飯塚事件について、
逮捕、裁判、死刑執行、再審請求と、ことあるごとに新聞やテレビで
大きな報道が続きました。そのためKさんは、その報道に接するたびに、
強く心を揺さぶられて、Kさんの記憶は保持され続けました。
最後に、記憶の3番目の過程である想起についてお話しします。
想起という過程は、脳の中にある情報を引き出すこと、
つまり、思い出すことです。Kさんは、長年の間、飯塚事件の報道に
強い関心を持っていました。そして、再審請求が始まって、
DNAが証拠として崩れたという報道がありました。
Kさんはそれを知って、やはりあの時自分が見たのは犯人と被害者だった、
自分は誘拐の犯行の一部を目撃したんだという確信が蘇るようになりました。
そこで、そのころ、飯塚事件の特集を連載していた西日本新聞に、
自分の目撃状況を電話しました。その内容が、平成30年11月に新聞記事になり、
弁護団の徳田弁護士に会うようになって、目撃情報を説明し、
今回の新証拠である供述書作成に至りました。
供述書作成当時、既に26年近く経過していましたが、
あの日の出来事はKさんの記憶にはっきり残っていました。
Kさんはあの日の女の子の表情を、26年間忘れることができなかったわけです、
あの日見た光景をはっきりと思い出すことができました。
次に、K供述が第2次再審において果たす役割についてお話しします。
まず、Kさんが目撃した男が真犯人であれば、本件は急転直下、
劇的に解決します。今後の展開次第です。
また、Kさんの目撃と、後で述べるT証人の目撃は、
事件当日の午前11時という、同じ時刻に、15キロ以上離れた場所で
起きていますので、お互いに相反する関係にあります。
すなわちKさんの目撃した男が犯人なら、T証人の目撃した男は
本件とは関係ないということになります。その反対も成り立ちます。
したがって、K供述の信用性が高まると、T供述の信用性が弱まると
いうことになります。
以上が、K供述が第2次再審において果たす役割ですが、
これらの問題とは別に、K供述によって見えてくるものがあります。
久間さんを有罪としてきた重要な柱であるT供述は、
犯行そのものを目撃した供述ではなく、いわゆる間接証拠です。
これに対して、K供述は、誘拐事件の犯行そのものを目撃したという
直接証拠です。このことからKさんの目撃は本件にとって
極めて重要な意味を持っていることが分かります。
ところが、ここで重大な疑問が生じます。Kさんは2月21日に110番して、
刑事がKさんの会社にやってきたのは、1週間も過ぎた2月28日頃でした。
しかも、刑事はメモをしただけで、調書すら作成しませんでした。
先ほど、Kさんの目撃は本件にとって極めて重大な意味を持っていると
申し上げましたが、警察のこの対応は、一体どういうことなのでしょうか。
それは、本件では警察が事件発生直後から、
久間さんが犯人という見立てをして、
久間さんを犯人とする証拠ばかり集めたことを意味しています。
というのも、刑事がやって来た28日の2日後の3月2日に、
遺体や遺留品が発見された八丁峠で、青いワゴン車を見たという、
T証人の供述が出てきました。それから2日後の3月4日に、
詳しい目撃情報を聞き出すために、警察官がT証人に会いに行きました。
ところが、その警察官は、T証人に会う前から、なんと久間さんが
乗っていたウエストコーストという車の型式の情報を持っていたんです。
警察官は、話を聞く前から、久間さんを犯人とみて、久間さんの
乗っていたウエストコーストという車の型式を情報として持っていたのです。
これは極めて異常なことです。
これでは、本件の証拠を集めに行ったというよりも、
久間さんを犯人とするための証拠を集めに行ったと
言われても仕方のないことです。
K供述をまともに取り上げて、まともに捜査が行われた場合を想像して、
その場合と本件を比較してみますと、本件で警察がはじめから
久間さんを犯人と見込んで、久間さんを犯人とする証拠ばかり
集めてきたといういびつな実態が、一層はっきりと見えてきます。
その上で本件では、科警研の技官も、繊維メーカーの技術者も、
久間さんを犯人とする証拠ばかりを集めていた警察に協力して、
警察の望む方向、久間さんを犯人とする方向での鑑定書を作ります。
そして、検察官も裁判官も、このからくりを見破れませんでした。
こうして、みんなが寄ってたかって久間さんを犯人に仕立て上げて
いったという実情を、飯塚事件のいろんな証拠が物語っています。
次回は、裁判官の犯罪について 続く
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