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原産地から離れた加工遺跡

2020年04月20日 | ナンバ歩き研究会
原産地から離れた加工遺跡
一般に、硬玉加工の遺跡は硬玉の原産地に近い新潟県西部や富山県東部に集中して営まれ、目前の海岸や河口でヒスイの採取ができる。一方、それからいくらか離れた地域で、原石が運ばれて加工されている遺跡がいくらかある。富山県上新川郡大山町の大川寺遺跡では、中期の硬玉製大珠の原石や未完成品が出土している。これなどは、原石が持ち込まれて加工されたことがうかがえる。ほかに富山県や長野県などの遺跡では、硬玉製大珠等の未成品の出土がときおり見られる。原石を伴っていない場合は、未成品のままで交易された可能性がある。縄文中期段階の遺跡では、加工遺跡は姫川とその周辺の地域にとどまっている。しかし、後期~晩期になると飛び石的に拡散し、一種のコロニーを思わせる遺跡が営まれることがある。姫川河口から約54キロ上流に位置する長野県大町市湖畔にある一律(いつつ)遺跡では、後期~晩期の硬玉製丸玉の製作が行われている。

そこでは海岸漂石や打ち割り面を有する原石などが数多く出土している。縄文時代の生活領域は、ホームベースを中心にして半径10キロ(歩行時間にして2時間)が目安であるとされる(赤沢威『採集狩猟民の考古学』海鳴社 1983年)。その研究成果からすれば、はるかに外れている。一津遺跡の人々は、原石を産する姫川河口周辺へ直接行って硬玉を採取してきたのだろうか。あるいは交易によって原石が運ばれてきたのだろうか。興味あるところである。いずれにしろ、姫川河口周辺の硬玉技術が伝播しなければ、内陸での加工は成立しないはずである。一津遺跡は、河口周辺から移動してきた集団が残した可能性が浮かび上がる。また、富山県滑川市・中新川郡上市町の本江広野新(ほんこうひろのしん)遺跡(後期~晩期)、糸魚川市の細池遺跡(晩期)などでも硬玉製丸玉の製作が行われている。前者は、産地の一つである宮崎海岸から30余キロ、後者は糸魚川文化圏に含まれているものの、姫川河口から直線距離で10キロの山地帯にある。極端なところでは、山形県羽黒町の玉川遺跡(縄文後期~晩期)がある。そこでは、硬玉製丸玉の未成品が多数出土していて、ここで加工されたことが確実である。そのヒスイは科学的な分析で、糸魚川産であることが判明している。

原産地からはるばると270キロも運ばれているのである。硬玉加工は、根気がいり、高い技術が必要なので、それを有する人々の移動が前提となる。たぶん、それは日本海をルートとした交流によって海路伝播したものであろう。青森県木造町の亀ケ岡遺跡では、縄文晩期の硬玉製丸玉の未成品が二点ほど出土している。これも糸魚川産とされている。当地に加工遺跡が存在するという考えもあるが、福田友之氏は、「(青森)県内の出土総数の99%は完成品であり未成品は例外的と言ってよい、したがって、現段階ではこれらの未成品も前述べの地域(糸魚川原産地)から交易品としてもたらされたと考えるべきであろう」としている。玉川遺跡では、原石の存在が明らかでない。丸玉の未成品を中心として発見されており、加工のための筋砥石の出土もある。福田氏の発想を借用すれば、玉川遺跡の丸玉未成品もまた、糸魚川産地から一括して交易でもたらされたのかもしれない。遠路の運搬を容易にするため不要な部分を削除し、整形過程の終了した未成品を運び込み、作業も比較的容易な仕上研磨と穿孔の工程を実施して完成品とする。玉川遺跡は、硬玉の中間加工所としての性格をもつとともに、東北諸地域への硬玉製品流通の中継センターの役割を担っていたのではないだろうか。

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