台湾大好き

2016/02/01から90日滞在予定。

縄文語5

2020年04月16日 | 健康増進
峰(みね)とは「ロシア語でミネラール(鉱物)英語でもmineralと同じであり、富士の高嶺 (たかね)、筑波嶺(つくばね)、駒ケ嶺(こまがね)のようにネー語だけになったものもある。海とは「ロシア 語でウミバーチ(海が海岸の岩を洗うなどの《洗う》の意)」、波とは「ロシア語でナミヴァーチ(流れが土 砂とか枯れ木などを運んでくること)、磯とは 「ロシア語でイッソフヌーチ (干上がる)」、 砂とは 「ロ シア語でスナミヴァーニエ(摩滅、侵食)」、島とは「ロシア語のシマト(一片とか《から》)」、雨とは「ロシ ア語でアミヴァーチ(水、雨などで濡らす)」、浦とは「ロシア語でヴラヂェヂ(支配する、君臨する)」、こ のようなことから、日本の「浦」とつくトコロはロシア語のウラージのウラが残ったもので、古代の「水国 時代」に権力者が漁業とか交易のための支配権をもっていた重要な場所ではなかったかと思う。

いく らとは「ロシア語でイクラー(魚、両棲類、軟体動物その他の卵)」、いのちとは「ロシア語で似た言葉ユ ーノスチ(若さ)」、からだとは「ロシア語でカローダ(短く太い丸太)」、箱根とは「ロシア語でアグネ(火 を意味する接頭語)」、登呂とは「ロシア語でトロピーチェスキー(トロピカルのトロ)」、昂(すばる)とは「 ロシア語でズボール(集合)」、素晴らしいとは「ロシア語でスパローヒ(オーロラのこと《オーロラを見て 、おおスパローヒと言ったに違いない》)」、雲仙岳は「ロシア語のウニジェンヌィー(しいたげられたに 由来する)」、諏訪湖は「ロシア語でスバァリーツアー(落ちる、ころげ落ちる、災難などがふりかかる、 襲う)」、安曇(あど)川は「ロシア語でアド(地獄)」、尾瀬は「ロシア語でオーゼラ(湖)」、鯛は「ロシア語でタイナヤルィバ (神秘な魚)」、鰊(にしん)は「ロシア語でニーシチエンスカヤルィバ (乞食魚)」、鯖(さば)は「ロシア語でサバーチャルィバ (犬魚)河豚(ふぐ)は「ロシア語で フクースナヤルィバ(美味な魚)。」

縄文語4

2020年04月15日 | 健康増進
空は印欧語sola(太陽)のある所だからソラといった。霞(かすみ)とは「スラブ 語космйческийカスミーチェスキー(宇宙の)の意の前半」。宇宙の果ては霞んではっきり見えないことから「もうろうとしたこと」自体を「霞む、霞」というようになったものと思う。英語ではスペルが同じだがKosmicコズミック「宇宙の」と、同源の単語Kosmosコズモスがある。ドイツ語でKosmosコスモス。ギリシャ語でKosmo。
星は「ロシア語のфосфорフォスフォール(燐光体、蛍光体)」と同源と思う。夜空に瞬く星の光は色にたとえればたしかに「蛍の光」のようではないか。このфосфорの頭の部分фосフォスがホシになまったと考えられないだろうか。東北弁ではよくスとシが混同されているが、これはむしろ東北にはおそくまでスラブ語が残っていたのでホシはホスというのだと思う。このことは、「青い目の日本人」がいまだに東北に残っていることと関係があるように思うし、またこれは「石」についても言えることで、イスと発音する(東北弁)の方がむしろ古代音に忠実ということになろう。
、蛍とは「光る虫」である。ロシア語で「光学」のことをфотологияフォタタローギヤというが、この語頭のфотолフォタルはホタルと同源の言葉と思う。

墓場

2020年04月12日 | 健康増進
некрбполь(ネクローポリ<ロシア語>)「墓場」。
又、《風土記》には「好字を宛てよ」とも記されているので、出来るだけ良い意味をもつ漢字を宛てているのである。富士山のフジにしても「不二」とか「福慈」その他幾通りもの好い字を宛ててあることは周知の通りである。良い字を一生懸命宛てている。琵琶湖にしても当時最高の楽器だったと思われる「琵琶」の字を宛てた。このようなわけで、地名の多くは奈良町朝の人々には意味の分からない長たらしい先住民族の言葉の語頭の部分とかアクセントの部分だったわけである。
宮城県の潟沼のカタは英語にもある印欧語の「悲劇的結末」とか「天地異変」を意味するカタストロフィー(英語でcatastrophe、ロシア語でкатастрофаカタストローファ)、あるいは「自然界の大変動」を意味する英語ならcataclysmカタクリズム、ロシア語でもкатаклйзмの頭の部分を残したものである。

宇宙の大型コンピューターを作動させよう

2020年04月10日 | 健康増進
宇宙の大型コンピューターを作動させよう
思いがかなうということは、この大宇宙の中の端末機たる自分にあるスイッチが入って、何かはかりしれない力が宇宙から流れ込んでくることではないか。それが思いを実現させる大きな力となってはたらくのではないか。自分だけの力ではなく、この大きな力がはたらかなかったら思いはかなわない、と私は信じている。だから何度も言うが、スイッチが入るか入らないかは、本当に思って、念じて心に描いたかどうかでほとんどが決まり、少しの運と継続した努力があればいいということになる。できないのは完全に描ききれていないからで、本当にきちっと描けたものは最後にこのスイッチ・オンを得るのだ。不思議といえば不思議である。よく「詰めの甘さ」という。この大いなる力のはたらきこそ「詰め」であり、「詰め」こそ思いの達成に必要不可欠なのだと、私は思っている。偉大な発明というものは、結構、他でもできかっていることが多いものだという。

一方で考えていることは、他のところでも同じように考えているどちらかがタッチの差で先になる。その先になった人が発明家としての名声を得る。私が思うのに、そ差こそ、大いなる力のはたらきではないか。偶然ということでなく、自分自身で大きな力を引き寄せている。だから、ちょっとした時間差も、実は大きな差だともいえる。大いなる力が通ずるスイッチが入るか入らないかの差だからだ。それは暗号解読のようなもので、初めてキーの中の暗号キーがつながった瞬間にコンピューターが使えるようになるのに似ている。には、そんな気がする。このキーの中には、その途中に暗証番号があったり、コツがあったり、運があったりする。それらがすべて開かれた瞬間に宇宙の大型コンピューターがダイナミックに動き始め、夢は現実へと姿を変えはじめるのではないか。大いなる意志である力が動きはじめたそのときから、すべてが可能になってくる。その証拠が、成就のそのときの電撃にも似た心身の震動、そう、「やった」という、あの感動だ。それは大いなる力の通電時震動なのではあるまいか。

人間は宇宙の端末機

2020年04月09日 | 健康増進
人間は宇宙の端末機
私の感覚を宗教的なものに思われると困る。私は企業家であって宗教家ではない。私は特別に哲学に造詣が深いわけではないので、むしろ我流の哲学といわれるほうが当たっているだろう。その私にあるとき、ふとひらめいた思いが、「人間は宇宙の端末機ではないか」ということであった。実にひらめきに過ぎないのであるが、少し考えてみれば地球は宇宙の一存在である。人間はその地球の中から生まれてきた。動物も植物もいろいろあるが、私はたまたま人間という形をとった。そして、確実に地球の一部である。地球は私を含めていろいろなものを生み出し、育てる力をもっている。その地球は太陽系の一部であり、太陽系は銀河系の一部であり、銀河系は宇宙の一部である。そして、地球に人を生み育てる力があるように、目には見えないけれども宇宙というものとの関連の中で、この地球もまた生み育てられたと考えられないだろうか。そのシステムもからくりも、私たち人類はまだ何も知らないでいるに等しい。ただ月にだけは足跡をつけた。

火星や土星など、ほんの一部の惑星に観察衛星だけは飛ばした。地球を少しはなれて無重力空間へ宇宙船を打ち上げ、宇宙ステーションを造りはじめた。しかし、まだまだ大宇宙に対してはほんの微小な手触りと知識を得たに過ぎない。実に限られた範囲内である。疑いのないことは、人間はどんなに大きなことを言っていても、この広大な宇宙の中に浮かぶ小さな地球のほんの一部分に過ぎないということである。そう考えると、身が引き締まる思いがする。私たちは地球に、たとえば植物が育つのは太陽の光と地球上の水、炭酸同化作用の法則などと割り切り、さもわかった風な顔をして暮らしているが、太陽とて宇宙の中の太陽系の一つの火の玉にすぎない。広大無限な大宇宙の中の単なる一点なのであって、私たちの目や頭はともすれば、それ以上の無限の大きな見えざる力や法則にまで考えを及ぼすことがなかなか。超微小なものが見えないように、超無限大なるものをも、人には見えない。それを忘れてはいけないと思うのである。