日本キリスト教団 清瀬信愛教会 と わたし

わたしを永遠に見捨てない方・・・に出会いました。
「神は愛(アガペー)」(ヨハネによる福音書4:8)

十字架の言葉は、神の力(手話通訳)

2022年09月04日 | 清瀬信愛教会 創立記念日礼拝

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」新約聖書Ⅰコリントの信徒への手紙 1:18)  

愛する皆さん。今朝は清瀬信愛教会の創立記念日を憶え礼拝を献げております。

当教会は、信仰の先達者がこの清瀬の地に福音を宣べ伝え、祈りをもって設立された教会であります。

創立した時も、また、現在もそして未来も決して変ることのない主の恵みに耳を傾けてまいりましょう。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主(神 Lord)の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペトロの手紙1:24~25)

 

使徒パウロは言います。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」、十字架の言葉には、神の力が秘められている、と。

十字架の言葉には、教会の信仰が明確に語られています。十字架の言葉は、教会の信仰の土台の土台です。

十字架の言葉、それは一言でいえば神の愛です。十字架とは、イエス・キリストの父である神が愛する独り子イエス・キリストをわたしたちの罪のために、わたしたちの身代わりとして十字架にお架けになられた出来事です。ここに、わたしたちに示す神の愛があるということです。

神はわたしたちを愛し、罪の奴隷、つまり死の奴隷になっているわたしたちを救い出そうと、愛するご自分の独り子イエス・キリストの命をわたしたちのために献げられた出来事です。

十字架刑はもっとも残酷な処刑の仕方であると言われています。それゆえ、「神の子なら、立派なはず。そんな残酷な道具で死刑にされた者を、救い主(メシア)だと信じるのは愚かだ」と言う方もおられます。あの凄惨な呪わしい姿は怖くて真正面から目を向けられないので、そう言うのかもしれません。あるいは、「神の子なら十字架から降りて、自分を救えたはずだ」と思うのが、本能的感覚かもしれません。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイによる福音書27:39~40)

しかし、イエス・キリストは、敢えて十字架から降りませんでした。そして、痛み苦しみを嘗め尽くされて死んだのでした。降りたら、わたしたちの救いが成就されないからです。それゆえに、神によって、三日目に復活させてくださいました。

「神は、主(キリスト)を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」 (Ⅱコリントの信徒への手紙 6:14)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになり(復活させ、天の神の右に上げ)ました。(フィリピの信徒への手紙2:6~9)

この十字架は神に背き、律法(神の掟)が守れず、神と隣人を純粋に愛すことの出来なくなったわたしたちが、本来は十字架で神に裁かれなければならなかった刑なのです。それなのに、全く罪のないイエス・キリストがわたしたちの身代わりに父である神に呪われ裁かれて十字架で処せられた出来事なのです。それゆえに、神は、イエス・キリストを復活させました。そのことによって、私たちは罪が赦され、死から救われ復活させていただけることになったです

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテヤの信徒への手紙3:10)

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(ガラテヤの信徒への手紙)

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの(十字架の)血によって義とされた(正しい者とみなされた)のですから、キリストによって神の怒り(処罰)から救われるのは、なおさらのことです。(ローマの信徒への手紙5:7~9)

ですから、十字架の言葉は、信じる者にとって永遠の命へと導く神の力になるのです。死(罪)から救われる希望へと導かれ、喜びと感謝に満ち溢れた神の力となるのです。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6:23

「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ人への手紙2:15)

多くの教会には十字架があります。十字架は、罪の赦し、死からの救いを指し示しています。

教会は罪人の集まりです。しかし、罪人の真ん中に十字架のキリストが立っておられる。ここで、— —教会で罪の赦しと永遠の命の希望を、わたしたちに与え続けているのです。

清瀬信愛教会も、この十字架の言葉に立って救いを伝えるところとして設立されました。

「キリストが御父(神)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6:4)

                

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