日本キリスト教団 清瀬信愛教会 と わたし

わたしを永遠に見捨てない方・・・に出会いました。
「神は愛(アガペー)」(ヨハネによる福音書4:8)

多くの実を結ぶために 2018年4月1日

2018年04月29日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「多くの実を結ぶために」

イザヤ書53:11-12節

ヨハネによる福音書15:11~17節

         竹前 治牧師

愛する皆さん。受難週をそれぞれが祈りをもって過ごして来たと思います。今朝、主イエスの復活の喜びの日を迎えました。この喜びをイザヤの言葉より聴きましょう。

主の僕である主イエスは多くの人の過ちを担い、多くの背いた人の執り成しのために十字架にかかられました。その十字架の苦しみの実は多くの人が正しい者とされるためでした。正しい者とは義とされるということ。罪深い私たち、とうてい義とはいえない私たちを神は主の僕、神の独り子、主イエスの死を通してお赦しになられるのです。そして、神は私たちに赦しだけでなく、さらなる恵みを用意してくださるのです。それが復活であります。

人間にとって罪の報酬は死であります。死はすべてのものを、喜びも希望も奪い去るものでありました。ゆえに死は恐ろしいものであるのです。しかし、その死の苦しみを主自ら引き受け、死のただ中に行かれることを通して、死に一筋の光が差し込まれたのです。死は主イエスを苦しみのただ中へと呑み込んだはずなのです。しかし、呑み込んだはずが、逆に光りに呑み込まれることになるのです。つまり死という闇が光によって滅ぼされることになるのです。

コリント一15章で「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」とパウロが言います。

確かにこれだけでも多くの実を結ぶことになります。生も死も神が共にいてくださるという恵みの実であります。でもそれだけでは完全な解決にならないのです。もちろん今までのように死んだらすべてすべてが終わりではなく、死んでも主イエスがおられるのなら安心であるといえます。しかしそれだけでは本当の意味で死の解決にはならないのです。結局は死んで終わりだけとなります。

しかし、そこで、終わらないのがキリスト教なのです。苦しみの実、多くの実というのは死が終わりではないということ、主イエスが神のみ力によって復活されたことにより、初めて死を克服、解決するのです。つまり、死は終わりでなく、新しい命への導きなのです。主イエスが堅く重い石の中から、墓から復活されることは、墓が開き、墓から新しい命へと進みゆかれるということです。もし墓の石が閉まったままならば、それは主イエスの死は無意味になってしまいます。それは死の勝利としかいえません。しかし墓のふたが開いたところで死は敗北する、つまり復活によって死が敗北するのです。

死の敗北により、私たちも死が終わりではなく、その先に通じる道があるのです。多くの実りとは、私たちが死を迎えるけれども、なおもその先に新しい道がある希望の道なのです。

主イエスはこの愛を表すために十字架で苦しまれ、希望の実りを与えられるのです。

私たちはこの恵みの中に招かれる一人ひとりなのです。キリストは私たちに希望を、喜びを与えるために復活されたのです。