神様は天地を創造し諸々の物を備え、私に命を与え多くの方を通して愛し育んでくださっていました。それなのに私は、神様の愛を裏切り、神ならざるものを神(何よりも自己の幸福優先、宇宙をも引き寄せるほどの強力利己心)として、神様に敵対する生き方をしていました。私は神様の懲らしめに触れ、死ぬほどの思いを、厭世、生ける屍状態に・・・。自業自得です。しかしこの試練を通し、私は十字架の愛(敵への愛)を知らされました。
自分に罪を犯して来る赦しがたい敵の命を助けるために、かわいい我が子の命を身代わりに差し出す犠牲を払う愚かな親がどこにいるでしょうか。しかし、父なる神様はその愚かことをされたのです(「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」コリントの信徒への手紙1:18)。全く罪のない神様の独り子イエス・キリストを十字架に架けて死なせたのです、神様の敵対者の罪を、キリストの命をもって償うために。
神様の敵とは、神様を無視し自分が神となって生きようとするこの原罪を背負う私。
神様の子主イエス・キリストに私の罪を十字架で負わせ、私を罪なしと見做して「生ける屍牢状態」から解放し、永遠の命に移してくださったのです。罪の報酬は死(ローマの信徒への手紙6:23)、罪の重みは死の重みです。・・・十字架の残酷さは、私の罪の重さ。
「十字架は残酷だからキリスト教は嫌い」と言う方がおられましたが、しかし、十字架はその方の命と無関係ではないのです。十字架は、悲しみも嘆きも労苦もない永遠の命に生かす神様の愛(ヨハネの黙示録21:4)。その方の命を救うための神様の内に起こった痛みなのです。
キリストが内に宿るなら(聖化)、罪によって死ぬはずの人が死ぬことのない新しい命に変えられる。
この頃、永遠の命と聖化との関連を考えることが多いです(ヤコブの手紙)。
十字架の愛に応えキリストに倣って神様と隣人を、嫌いな人も、敵をも愛し聖化されつつ(清められつつ)歩む人生――この世における人間本来の在り方ではないだろうか――そんな生き方に、少しでも近づけますように・・・。
救われている喜びに押し出され、教会の肢として生きることが出来ますように。
謙虚な思いで仕えて行けますように。
聖霊(復活のイエス・キリストの霊)が内に宿りますように。
*礼拝を守り整え、聖礼典に与る
*み言葉を熱心に聴く
*純粋に福音を語れるよう、牧師のために祈る(教理の擁護 正し
★い福音が語られているか否かは、教会の存亡に関わります)
*伝道・牧会に励む