日本キリスト教団 清瀬信愛教会 と わたし

わたしを永遠に見捨てない方・・・に出会いました。
「神は愛(アガペー)」(ヨハネによる福音書4:8)

「わたしは世の光である」

2024年05月20日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

2024年度、教会の年題は「光の中を歩み続けよう」であり、年間聖句はヨハネによる福音書8:12の「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」であります。この聖句から主のみ言葉を共に聞いてまいりましょう。

世界を見渡すとウクライナとロシア、イスラエルとハマスと争いごとが絶えません。また日本では能登半島や四国などで大きな地震が起こり、常に不安の中にあります。もう少し規模を小さくしてみてもわたしたちの生活の中にも暗く、不安はあります。家族、友人との関係においても全く不安がないとは言えません。こうして見てみますと私たちを取り巻く環境事態が不安を抱え、まるで闇のように思えてくるのです。

しかし、わたしたちが思うような暗いことは今に始まったのではありません。どの時代においても様々な闇と思えることが人々を覆ってきていたといえるのです。

主イエスが生きておられた時も同じです。イスラエルはローマ帝国に支配されているという闇、また、律法が神と人との関係性を示し、どのように神と向き合い、関わりを持つべきかを示すものであったのが、人が自分たちの正義を示す道具にしてしまうことを通して、律法が人を裁く道具になってしまったことによって人々を苦しめる闇となってしまっていたと言えるのです。

そのような中で主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と語られるのです。主イエスはご自身を「世の光である」さらに「命の光を持つ」と語られるのです。これらの言葉を紐解くためにヨハネによる福音書1:4「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」そして9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」が示されます。言は神と共におられ、そして言は光でもあり、しかもすべて人間の命を照らす光としての主イエスがこの世に来られたことを示しているのです。

主イエスという真の光は何を照らすのか。それは人間であります。この世が与える不安や恐れということを通して人間の心は光を失い、闇に取り込まれていきます。ヨハネによる福音書1:5「暗闇は光を理解しなかった。」と記されているように闇は決して光りを遠ざけて受け入れないのです。闇はわたしたちを覆い不安や恐れを与え、さらに光から遠ざけるのです。そこでわたしたちはもがき苦しんでいるのです。

神は命を創造し与え守り続けようとした人間がそのような闇に覆われてしまうことを決して望まれていないのです。むしろ何とかしてそこから救い出したいと。そこで独り子主イエスを闇の中へと送られたのです。それはまことの光として。そして言われるのです「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と。これは主の招きの言葉であります。私に従え、この光を信じて光が指す道を歩めと。そうすればいかにこの世が闇に覆われていても道を見誤ることはないと。

最初に触れましたが、世界は不安や恐れに覆われています。しかし、そのような中にあっても真の光として主イエスは共におられ、あなたに「どんなに強力な闇があっても、わたしが十字架と復活によって闇を滅ぼしている。恐れるな。わたしは世の光であり、あなたを照らし続けていることを信じなさい」と言われているのです。

新しい年度も真の光を信じて歩んでいきたい。

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神の偉大なみ業

2023年07月17日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

 

「神の偉大なみ業」 

             使徒言行録 2:1-13                  

             竹前 治 牧師

 

 愛する皆さん、

 本日はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を献げています。

 私たちも聖書が伝える聖霊が降った出来事に耳を傾けていきましょう。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると(使徒言行録2:1)

五旬祭とはユダヤの三大祭りの一つ。麦の収穫を祝う祭りですが、同時にモーセがシナイ山で神から律法を授けられた記念の祝祭でもあります。過越祭の安息日の翌日から数えて50日目にあたるのでこの名で呼ばれたのです。ギリシア語でペンテコステ(50という意味)と呼ばれているのです。

 

その日、弟子たちは「一つになって集まっていと聖書は伝えます。弟子たちは祈っていました。主イエスが約束してくださった聖霊を受けるために皆が思いを一つにしていたのです。その時、激しい風と共に炎のような舌が分かれ分かれに現れて弟子たちに留まるのです。炎は神を現わし、舌は神の言葉を示します。つまり霊なる神が、神の言葉を携えて弟子たちの上に降ったのです。弟子たちは聖霊を受けると霊が語らせるままにいろいろな国の言葉で語り出したのです。

この五旬祭を祝うために集まっていた人たち――ユダヤ教に改宗した外国の人たち、捕囚期以後に離散していたあらゆる国から帰って来たユダヤ人たち――の耳に、弟子たちの語る言葉が入ってくるのです。「そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』(使徒言行録2:7-11)と言い出したのです。

 

弟子たちが語り伝えていたのは、福音でした。主イエスの十字架と復活を通して成し遂げられた神のご計画――罪の赦し、死からの救い、希望の命へと導く神の偉大なみ業――を語っていたのです。このことを耳にした者たちの中から、主イエスを信じる群れが生まれました。これが教会であります。教会は、建物ではなく主イエスを信じる群れです。主イエスのみ言葉を聞き、赦しと救いを確認し、確信して礼拝する群れのことです。ゆえにペンテコステは聖霊が降った日であると同時に、聖霊の力を受けた弟子たちが語った神の偉大なみ業を、主イエスの福音を心から受け入れた人たちの誕生の日、つまり教会の誕生日なのです。

 

主イエスは神のみ言葉が肉をまとったお方であります。聖霊は私たちに、その主イエスというみ言葉を解き明かし、救いの恵みに出会わせ導きます。さらに、聖霊は私たちを主イエスによって一つにし、礼拝する群れを作り上げます。聖霊は教会を生み出す力なのです。

 

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「わたしたちを担い、救われる神」

2022年05月24日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「わたしたちを担い、救われる神」

                     詩編68編20-21節

                              竹前 治 牧師

愛する皆さん。

2022年度の歩みも始まりました。

清瀬信愛教会では4月24日(日)に教会総会が行われました。

そこで、今年度の教会の年度聖句と年題主題が決まりました。

年度聖句は詩編68編20-21節「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。〔セラ この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神。」であります。

そして年題は「わたしたちを担い、救われる神」となりました。

今朝はこの年度聖句よりみ言葉を聴きたいと願います。

 

 詩編68編は全体として旧約に記されてきている様々な出来事を思い起こしながら、常に神が先立ち勝利されていることを感謝する詩であります。

 詩人は「主をたたえよ」と賛美の声をあげ、歌えと言います。なぜか、それは神がわたしたちの苦しみ、悲しみなどを担い、その苦しみ、悲しみと戦い、私たちのために救いの勝利の御業を与えられるからであります。しかも最大の敵といわれている死からも解き放つと約束をしてくださっているのです。だからその神の恵みの救いを憶え感謝せよと言うのです。

 さらに、この20-21節のみ言葉はまさしく主イエスのことを指し示している詩であるといえるのです。神の救いの御業、それは死と罪の奴隷になっており苦しんでいるわたしたちをその苦しみから解き放つために十字架と復活という出来事を通して、救いを成し遂げてくださった御業です。この救いの出来事を通してわたしたちは神に担われ、救われたのです。だからどんな苦難が起ころうとも、神は今もわたしたちを担い、救い続けてくださっているのです。

 新型コロナの影響、国と国の戦争。先が暗く見通すことが困難であり、不安や恐れを抱きます。しかし、神は必ず、主イエスの贖いを通してわたしたちを担い、すべての苦難から解き放ち救い続けてくださる。その神の恵みをたたえ続けていく者でありたい。

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信仰に生きる〔手話通訳〕

2022年03月31日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

創立記念礼拝説教

「信仰に生きる」

 竹前 治牧師

ヘブライ人への手紙 1章1-3節

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです

愛する皆さん、私たちは清瀬信愛教会の創立記念礼拝を共に献げております。信仰の先達者がこの清瀬の地に福音を宣べ伝え、祈りをもって設立された教会であります。今朝は創立した時も、また、現在も、そして未来も決して変ることのない主の恵みに耳を傾けてまいりましょう。

 

ヘブライ書の著者は信仰について語り伝えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と。信仰は「望んでいる事柄を確認」することだと言います。では、まず「望んでいる事柄」とはなにかと言うことです。それは神が望んでおられる事柄と言い換えることができます。ですから神が望んでおられる事柄を確信することであります。では、神が私たちに望んでおられる事柄とはなにか。それは神が成し遂げた救いのみ業、み恵みを受け入れ感謝し、神との関係を回復することだと言えます。さらにヘブライ書の著者は信仰について「見えない事実を確認」することでもあると言います。見えない事実、それは神が主イエスを通して明らかにされた神の恵み、赦しと救いを確認することであるというのです。つまり信仰とは自分の意志、力で造りだすものではなく、神が主イエスを通して示される神の恵み、そしてみ業を受け入れることであるといえるのです。

信愛教会は、もともとは信愛病院の中から産声をあげた教会です。この地に結核病棟を建て、そして信仰者はここに神の望んでおられる事柄、それはここに主イエスを信じる群れ、教会をつくるということでした。病院の中に教会の群れをつくることが神の望んでおられる事柄と信じ、祈りをもって神の恵みによって生まれたのです。そしてつねに神が望んでおられること、それはこの地、そして信愛報恩会に神の救いの恵みが現れ続けること、そしてその恵みの事実を信じて確信する者たちが神によって立たされることを信じ、信仰の先達者は祈り続けてきたのです。

これからも私たちはこの地で神の望まれる事柄を礼拝を通して確認し、まず、私たちがその恵みによって救われている事実を確認し、確信へと導かれ、その恵みに生きていく者でありたい。

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「霊に満たされて」 2021年5月23日 ペンテコステ礼拝(手話通訳)

2021年05月25日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「霊に満たされて」 使徒言行録2:1-13  

                  前 治 牧師 

 五旬祭の日、弟子たちは一つになって、つまり一つ心になって主に祈り続けていると突然、激しい風が吹き始め、炎のような舌が分かれ、分かれに現われて弟子たちの上に留まったのです。風、炎で現われるこれらの言葉は旧約聖書においては神顕現を意味します。舌は人間の舌ではなくて言葉、神の言葉を意味するのです。風は霊を意味し、炎は主なる神と言えます。出エジプトをしたイスラエルの民を神が昼は雲の柱、夜は火の柱で守り導いておられます。舌が神の言葉で、炎は主なる神を現すゆえに弟子たちの上に主なる神の言葉が降ったことになるのです。

 ペンテコステ(聖霊降臨日)はただ聖霊が降っただけでなく、そこには父なる神、子なる神が共におられ働かれているということ、つまり三位一体の神の救いの出来事であるのです。父なる神の創造、子なる神の救い、霊なる神の完成、導きの出来事なのです。聖霊はもちろんそこに父なる神、子なる神、霊なる神の三位一体の神が弟子たちの上にとどまり弟子たちを新しい人へと創造(愛)し、神との和解(恵み)という主なる交わりを与えられたのです。

 聖霊を受けた弟子たちは、いろいろな国の言葉で福音(良き知らせ)、主イエスの十字架と復活によって現された神の創造、和解、交わりを語り始めたのです。それを見ていた人たちの中に「新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言う人もいれば、「彼らがわたしたちの言葉で、神の偉大な御業を語っているのを聞こうとは」と受け入れる人もいたのです。こうして神の恵みの福音を語り、福音を聴き、信じる群れ、すなわち教会が誕生したのです。このことは預言者ヨエルの「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2)という預言の成就であるのです。

 ペンテコステの出来事、それは教会の誕生日です。神は聖霊を約束通り降しましたが、そこには父も子も参与している。つまり三位一体の神として降ってこられたのです。教会はこの三位一体の神を礼拝する群れなのです。

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「定められた約束」

2019年10月25日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「定められた約束」               

 エレミヤ書10:1-8

 ガラテヤの信徒への手紙3:15-20

  竹前 治牧師

 パウロはアブラハムが義とされたことは神のみ言葉を信じたからだと言い、さらにこの義はすべての人に向けられていると言います。パウロは信仰によって生きる者と律法に生きる者の違いをはっきりと言いました。律法に生きる者はその定めに生きる。

つまり律法の奴隷として律法の呪縛から逃れられない、律法によって義とされるならば、キリストの救いは無になると言います。さらに律法を自分の解釈の中でとらえるために、自らが神になり自分の正義を律法の中に探し出し、律法を守れない者、知らない者を裁くことをしてしまうという呪縛であります。ですからパウロは、律法は信仰をよりどころとしていないというのです。

 では信仰によって生きるとは何か。その者たちは律法を守りますが、律法の呪縛から解き放たれた形で律法と向き合うのです。ただ律法の呪縛からの解放は自分の力ではどうにもなりません。この呪縛から解き放つ方との出会いが大切なのです。

 それがキリストなのです。キリストは十字架と復活を通して、罪を赦し、さらに律法の呪縛から私たちを解放するのです。それは律法のあるべき姿の回復であります。

 パウロはさらに信仰による義について語ります。そこでパウロは法律の例えを用います。それは当時の人々にわかりやすく理解させるためです。

そこでパウロは遺言状のことを持ち出します。遺言状は自分が死んだ後のことについて書き残すものであります。それが有効となるのは書いた人が死を迎えた後になります。法律的に有効とされた遺言状を本人以外には、勝手に書き直したり無効にしたりはできなのです。

ではパウロはこの遺言状を例にして、何を言おうとしているのでしょうか。それは約束と契約の議論をするためです。約束も契約も同じ意味ではないかと思われます。広辞苑には、約束は「くくりたばねること」、「取り決めること」と書かれています。契約は「神が救いの業を成し遂げるために人間と結ぶ恵みの関係」、神の側から私たちに向けられたものであるということです。

遺言は遺言者の意志に基づくという本質からすれば、神の契約の性質をよく現すことができる例であるのです。神が執行される契約を人間の側で勝手に書き直したり、無効にすることができないと。

アブラハムの義が何であったかを示し、行為義認ではなく、神と人の間に立ち、契約の仲保者となられた方を信じることによってのみ義とされることを語るのです。

救いへと導くのは人間の側の力ではなく、あくまでも契約を全うされる神の一方的な恵みによるものなのです。

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多くの実を結ぶために 2018年4月1日

2018年04月29日 | 礼拝説教〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

「多くの実を結ぶために」

イザヤ書53:11-12節

ヨハネによる福音書15:11~17節

         竹前 治牧師

愛する皆さん。受難週をそれぞれが祈りをもって過ごして来たと思います。今朝、主イエスの復活の喜びの日を迎えました。この喜びをイザヤの言葉より聴きましょう。

主の僕である主イエスは多くの人の過ちを担い、多くの背いた人の執り成しのために十字架にかかられました。その十字架の苦しみの実は多くの人が正しい者とされるためでした。正しい者とは義とされるということ。罪深い私たち、とうてい義とはいえない私たちを神は主の僕、神の独り子、主イエスの死を通してお赦しになられるのです。そして、神は私たちに赦しだけでなく、さらなる恵みを用意してくださるのです。それが復活であります。

人間にとって罪の報酬は死であります。死はすべてのものを、喜びも希望も奪い去るものでありました。ゆえに死は恐ろしいものであるのです。しかし、その死の苦しみを主自ら引き受け、死のただ中に行かれることを通して、死に一筋の光が差し込まれたのです。死は主イエスを苦しみのただ中へと呑み込んだはずなのです。しかし、呑み込んだはずが、逆に光りに呑み込まれることになるのです。つまり死という闇が光によって滅ぼされることになるのです。

コリント一15章で「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」とパウロが言います。

確かにこれだけでも多くの実を結ぶことになります。生も死も神が共にいてくださるという恵みの実であります。でもそれだけでは完全な解決にならないのです。もちろん今までのように死んだらすべてすべてが終わりではなく、死んでも主イエスがおられるのなら安心であるといえます。しかしそれだけでは本当の意味で死の解決にはならないのです。結局は死んで終わりだけとなります。

しかし、そこで、終わらないのがキリスト教なのです。苦しみの実、多くの実というのは死が終わりではないということ、主イエスが神のみ力によって復活されたことにより、初めて死を克服、解決するのです。つまり、死は終わりでなく、新しい命への導きなのです。主イエスが堅く重い石の中から、墓から復活されることは、墓が開き、墓から新しい命へと進みゆかれるということです。もし墓の石が閉まったままならば、それは主イエスの死は無意味になってしまいます。それは死の勝利としかいえません。しかし墓のふたが開いたところで死は敗北する、つまり復活によって死が敗北するのです。

死の敗北により、私たちも死が終わりではなく、その先に通じる道があるのです。多くの実りとは、私たちが死を迎えるけれども、なおもその先に新しい道がある希望の道なのです。

主イエスはこの愛を表すために十字架で苦しまれ、希望の実りを与えられるのです。

私たちはこの恵みの中に招かれる一人ひとりなのです。キリストは私たちに希望を、喜びを与えるために復活されたのです。

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