日本キリスト教団 清瀬信愛教会 と わたし

わたしを永遠に見捨てない方・・・に出会いました。
「神は愛(アガペー)」(ヨハネによる福音書4:8)

わたしはあなたを贖う

2024年01月31日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

わたしはあなたを贖う」

イザヤ書43:1

ルカによる福音書 2:8-20

              竹前  治 牧師

 

預言者イザヤは、43章1節で

「ヤコブよ、あなたを創造された主は

イスラエルよ、あなたを造られた主は

今、こう言われる。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。」と言います。

 

ヤコブは神からイスラエルと名乗れと命じられました。そしてヤコブから、イスラエルの基礎となる十二部族が生まれたのであります。

しかし、このイスラエルはイザヤの時代には崩壊しているのです。イスラエルは自分たちの身勝手によって国を二つに分け、争い、そしてこの二つの国は隣国によって滅ぼされてしまったのです。

43章のイザヤは42章のイザヤと同じで、第二イザヤと言われ、バビロン捕囚末期に活躍した預言者です。イスラエルの民は自分たちの罪によって神を見失い、離れて行ってしまったのです。神の裁きは恐ろしいものであったにちがいありません。しかし、「恐れるな」と神は言われます。「あなたを創造し、あなたを造られた神は、あなたを見捨てない、あなたを贖う」と言われるのです。

贖うとは「金品を代償として出して、罪をまぬかれる。転じてつぐないをする。罪ほろぼしをする」と、広辞苑に書かれてあります。しかし、神は金品を差し出すのではなく、神の僕、主イエスを代償として、あなたを罪から逃れさせるというのです。神は、そこまでして私たちを救い贖うというのです。それは、私たちは神に創造された者、神のものだからです。

あのクリスマスの出来事に出会わされた羊飼いたちも同じ神に創造された者、神のものであります。彼らは住民登録さえ許されないほど身分の低い者、自分たちの生活のことで精一杯でした。そのような彼らに神は主イエスの誕生の喜びを伝えたのです。神は、創造さ                                            れたすべての人を救いへと導くために、人として見られていない羊飼いに、先ほどのイザヤの言葉が告げられたのです。

「羊飼いよ、あなたを創造された主は、

 新しいイスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。

あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と。

主の僕主イエスを通して告げられたこの主の言葉、この出来事がクリスマスであります。

羊飼いも例外なく神に創造され、贖われ神に愛されている一人ひとりなのです。主の僕を信じた羊飼いは、新しいイスラエルです

 

私たちは一人でありません。私たちの名を知り、呼び続けてくださる真実の主が来られた、――罪の暗闇の私たちの世界にお生まれになられた、これがクリスマスなのです。


「全世界の救い主」竹前 治 牧師 〔手話通訳〕

2022年02月02日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

「全世界の救い主」

マタイによる福音書2:1-12

竹前 治 牧師

 

 愛する皆さん。今朝はマタイによる福音書からみ言葉を聴きたいと願います。

 

 マタイ2章に東方の博士の物語が記されています。東方の博士たちは聖書によれば占星術の学者であることが示されています。占星術の学者とはペルシアのゾロアスター教の祭司である考えられており、天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈をよく行い、人の運命やこの世の動きについて神意を伝える人たちであったのです。ですからイスラエルの民にしてみれば異教の神々を信じる異邦人、神の救いからもれた人であります。その彼らが光り輝く星を見つけ、天文学、占星術の知識をもって調べ、その星が救い主を指し示すものであることを確信し、星に導かれてユダヤのエルサレムに旅してくるのです。エルサレムはイスラエルの中心で神殿があり、王がいる。救い主はまさしく王の子として生まれると考えたのです。しかし、ユダヤの王ヘロデに会ってもそこには救い主はいない。そこで、祭司長、律法学者を呼び調べさせると、旧約の預言者が「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」と預言していることを告げるのです。博士たちはベツレヘムへと向かうのです。ヘロデは自分の知らないところで、救い主、王が生まれることを知り、不安になり、博士たちに分かったら知らせてくれと頼むのです。これは幼子の場所が分かれば殺すことができるからです。

 

 博士たちはベツレヘムの馬小屋にいるヨセフとマリア、そして幼子主イエスに対面することができたのです。彼らは黄金、乳香、没役を贈り物として捧げるのです。これらは彼らの仕事の道具であったと言われています。しかし、この贈り物には大きな意味があるのです。黄金は光輝くものであります。まさしく王を表すものです。神の御子であり、真実の王、自分の権力だけを求めるような王ではなく、人間の生も死も導く光輝く王としての姿が映し出されているのです。乳香は神聖を表すものだと言われています。没役はおもに死体の防腐剤などに用いられていました。つまり没役は主イエスの十字架の死を意味しているものだといえるのです。ですから博士が贈り物として捧げたものは主イエスの歩みだけでなく主イエスがどのようなお方なのか指し示す贈り物であったのです。主イエスは王、神の御子、十字架の死をもって神の救いを成し遂げるお方であることを示唆しているのです。

 

 主イエスを礼拝した博士たち、彼らは先ほど言いましたけれども異邦人であります。神の選びの民ではなかったのです。しかし、神はこの博士を通して異邦人もまた神に創造された大切な一人ひとりであること、主イエスが神の民イスラエルのためだけの救い主ではないこと、全世界の人々が救われるべき者であることを公に明らかにされたのです。

 

 博士たちはわたしたちであるのです。博士は黄金、乳香、没役を贈り物として捧げ礼拝しました。私たちはパウロがローマに宛てた手紙の中で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」といっています。私たちは主イエスと出会い、この体を礼拝で捧げる、賛美、祈り、御言葉を聴くという仕方で礼拝を捧げるのです。そして主イエスの救いの恵みに与り続けるのです。


泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌(手話通訳)

2020年05月24日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年5月24日(日)

「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌」

                        牧師 竹前 治

旧約聖書  詩編 302-6

 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました。主の慈しみに生きる人々よ主に賛美の歌をうたい聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

 愛する皆さん。先週から「主の祈り」より御言葉を聴き始めました。最初の祈りは「天にまします我らの父よ」であります。神の国におられる神様の名前を呼ぶことから始まりました。

今日は「み名があがめられますように」という祈りであります。「み名」とは神様の名前のことであります。神様が名前を持っておられるということは、神様は物を言わない神様ではなく人格を持ち生きて働かれ、私たちと関わりも持ち続けるお方であるということです。神様は旧約聖書で「わたしはある。あるというものだ」、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と神様が存在し続け人々と関わり続けてくださっていることを明らかにされました。新約聖書では先週も触れましたが、主イエスが神様のことを「父よ」と呼びかけ、十字架でご自身の命をかけてまで、私たちに神の名を示され、私たちにも「父よ」と呼ぶことをお赦しになられたのです。その「父」と言う名を正しく知り、正しく呼びかけ信じ、賛美出来ますようにと祈るのです。

さて、上記の旧約聖書は詩編の30編であります。「主の慈しみに生きる人々よ主に賛美の歌をうたい聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」と歌います。詩人は「聖なる御名を唱え」と歌います。これこそ「み名をあがめる」ということです。詩人が信じてやまない神様は、この私に命を得させる。これは生も死も超える命であります。神様は、この世に生きる生だけでなく、死の先にある新しい命へと、キリストにあって導かれる。そして神様は共におられ生きて働かられ、どんな苦難をも守り導かれるお方である、そのような神様の御名をたたえ、感謝の祈りを献げよと歌うのです。

今、コロナ渦の中に置かれている私たちであります。だからこそ神様が必ず私たちと共におられ、救いへと導かれるお方であると信じて、聖なる御名を唱え、感謝の祈りを捧げる者でありたいと願うのです。


2020年5月17日(日)「アッバ、父よ」〔手話通訳〕  牧師 竹前 治

2020年05月15日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年5月17日(日) 「アッバ、父よ」  牧師 竹前 治

 聖書 ルカによる福音書 23章34節

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

愛する皆さま。主のみ名を賛美します。

昨今のコロナ渦において不安や恐れを抱き、希望を失いかけています。また、様々な言葉が飛び交い自分がどこに立てばよいのか分からないような状態にあります。だからこそ、今、自分が立ち続けなければならないところがどこにあるのか「主の祈り」を通して思い巡らしていきたいと願います。

「主の祈り」は4月26日(日)のショート・メッセージで大まかなことは触れました。今回から少し丁寧に聴いて行きたいと思います。

主の祈りは「天にましますわれらの父よ」という祈りから始まります。「天」とは決して空のことではありません。別の言い方をすれば「天の国」であります。でも、どこかにそのような国があるわけではありません。「天の国」とは、神様の愛で支配されているところをいいます。

主イエスは宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「神の国」これこそ神の愛の支配、「天の国」であります。主イエスが来られたことにより神の支配、「天の国」が近づいた、と言われたのです。

主イエスは十字架におかかりになる直前、ひどく恐れもだえて「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。「アッバ」とは、子どもが親しく、信頼をこめて「おとうちゃん」と呼ぶ言葉です。主イエスは、さらに十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、―――「お父ちゃん、あなたに背いている人間を赦して、あなたの子としてください」と血を流しつつ苦しいさ中で祈られました。この執り成しの祈りが、私たちが「父よ」と祈ることが出来る原型です。だからこそ私たちは全幅の信頼をこめて、命の創造主であられ生も死も貫いて守り続けてくださる神様に「父よ」と呼ぶことができるのです。

私たちが立ち続け呼び続けなければならないのは、この「天におられる父」なのです。神様は、いつも神様の名である「父よ」と呼び求めることを、私たちに求めておられます。 今このような状況で、私たちは本当に「天におられる父よ」と呼び続けていますでしょうか。

私たちの生も死も貫く神様は、主イエス・キリストにあってこの名を呼び続ける私たちを必ず良き道へと導いてくださる。このことを信じて共に神様の名「父」を呼び続けていきたいと願います。


2020年5月10日(日)「慈愛に満ちた神」〔手話通訳〕  竹前 治 牧師

2020年05月10日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年5月10日(日)「慈愛に満ちた神」  竹前 治 牧師

聖 書  コリントの信徒への手紙二 1章3-6節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

 

主にあって愛する皆さん。

新型コロナウイルスの影響により、会堂で共に礼拝を献げられないのはとても残念であります。5月の第二日曜日からの礼拝再開をと願っておりましたが、それもかなわないのでとても残念であります。しかし、それぞれの皆さまが各ご家庭で共に思いを一つにしてみ言葉を聴き、祈り会うことによって、私たちは主のみもとで一つにされているのです。

さて、今朝のみ言葉は第二コリントであります。使徒パウロは言います。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」と。

まず神様は、慈愛に満ちたお方、慰め主であられると言われています。皆さまも家で過ごされる方が多いと思います。たとえ外に出ても様々な制限があり、不安や苦しみの中で過ごされているのではないかと思います。神様は私たちの全ての不安や苦しみを、十字架で愛する独り子主イエス・キリストに背負わせることによって、私たちに慰めを与えて下さいました。神様は、私たちがどんな不安、苦しみの中にあっても、主イエスを通して私たちを見捨てず、共におられ慰めてくださるのです。私たちのために苦しみを受けてくださった主イエス・キリストが、私たちのために祈り続けて下さっているのです。ですから、私たちは希望を持つことができるのです。

神様からこの慰めを受けているからこそ、私たちはその慰めを伝えていくのです。

私たちも不安の中にありますが、医療従事者たちはもっと不安と闘っていることと思います。また、コロナにかかってしまったことで、中傷誹謗を受ける方々もおられ苦しみと不安を抱えています。私たち一人ひとり、このことを憶え、神様の慰めが豊かにあるように常に祈り続ける者でありたいと思います


2020年4月26日(日)凝縮された祈り〔手話通訳〕

2020年04月26日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年4月26日(日)凝縮された祈り  

             竹前 治 牧師

 

聖 書 マタイによる福音書6章5-15節

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。

 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

 主イエスは私たちに何を祈るべきかを教えてくださいました。それが「主の祈り」なのです。

 祈るときまず、祈るべきお方の名を呼ぶことが求められます。祈りは神様との対話であります。

 私たちが何かを伝えたいと思う時、その相手が必ずいます。誰に対して、誰に向かって言っているのか分からないと変になります。祈ることも同じです。必ず祈るべき相手がいるのです。その相手とは人間ではなく主なる神なのです。

 そこで、主イエスは「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ、祈りを始めます。次に神様の名を正しく私たちが知ることができるようにして欲しいと願います。なぜ、神様の名なのでしょうか。神様の名は人間が勝手に考えて造り出すものではありません。それは人間が造る神、偶像になります。旧約の時代より神様はご自身を現されるとき必ずご自身の名を明らかにされているのです。それは神様が私たちと人格的交わりを持とうとされるからです。「私はある。あると言う者だ」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主なる神である」など神様はご自身の名を私たちに明らかにされ、その名を正しく呼ぶことを求められたのです。だからこそ、私たちは主イエスを通して神様の名を正しく知ることが求められるのです。

 主イエスは私たちに神様を「父」と呼ぶことをお赦しになられました。

 続いて御国(神の国)の到来を祈ります。神の国、人間が支配するのではく神様の支配、すなわち神様の愛が私たちを包む時を待ち望むのです。

 そして神様の御心が私たちのところで実現して欲しい、神様の救いの出来事がこの地上で明らかになるようにと祈るのです。ここまでは神様への祈りであります。

 次に必要な糧を求めます。糧とは食べ物を意味しますが、私たちが生きて行く上で必要なものすべては神様がお与えくださいます。宗教改革者ルターは主の祈りの糧について「それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。食べ物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産……平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人なのです。」といいます。

 隣人への罪の赦し。人を赦すことは大変なことです。憎しみからは憎しみしか生まれません。キリストは私たちの負い目を一切背負い十字架でお赦しになられたのです。キリストの赦しを誰しもが受けているのです。それゆえにキリストの赦しを受け、自分に負い目を与える人を赦せますようにと祈ります。キリストは、その人のためにも十字架にかかってくださっているのですから。

 誘惑から助けていただく祈り。キリストから引き離す力は働きます。これに打ち勝つ力をくださいと祈るのです。すべての祈りは神様との関係が第一にあって成り立つのです。

 私たちが常に祈るべきことが、この「主の祈り」の中に凝縮されているのです。主イエスは「主の祈り」を祈ることを通して、私たちが何を祈るべきかを、また祈りの必要性を教えているのです。


2020年4月19日(日)祈りの家

2020年04月19日 | 礼拝メッセージ〔手話通訳〕 牧師 竹前 治

2020年4月19日(日)「祈りの家」 

           竹前 治 牧師

聖 書 マタイによる福音書21章12-17節

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。 

 

 ある日、主イエスは祈るために神殿に行かれました。神殿とは現在の教会であるといえます。主イエスが神殿の境内に入られると、両替人や鳩を売る人たちが商売をしていたのです。神殿で用いるための犠牲の動物が売られており、神殿の当局もこれらの収益を得ていたのです。

 主イエスはこの光景をご覧になられ、商人たちを追い出し、彼らの店をひっくりかえしたのです。商人たちは、神殿当局の承認を得て商売をしていたので憤慨します。主イエスは言われます。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と。主イエスの言葉は、神殿(教会)がどのような場所であるかをはっきりと示しています。それは祈りの家と呼ばれるべきであると。だれがだれに向かって祈るのか。それは人が神様に向かって祈る場所、それが神殿であり教会なのです。

 またこの物語にはとても大切な意味が隠されています。商人たちは、神殿に来る人たちに犠牲の動物を売っていた。旧約では罪を犯した時、償いの献げものとして動物が用いられていたのです。犠牲の動物を焼き尽くし神様になだめの供え物をするのです。つまり罪を犯すごとに、繰り返し動物の犠牲を献げていたのです。

 しかし主イエスは罪の赦しをお与えになるために、たった一度の完全な犠牲として、ご自身を神の小羊として献げられるのです。この時は、まだ主イエスの十字架、犠牲の時ではないのですが、やがて来たるべきその時には、人間の側からではなく神様の側から一方的に完全な犠牲が献げられるのです。それゆえ、もはや人間からの償いの献げものは必要なくなるのです。

 境内での商売を容認し神殿を人間の思い中心としていた神殿当局。しかし主イエスは神殿を、神様中心とするものへと変えようとされたのです。

 教会は人間の思いが支配する場所ではなく、主なる神様が支配される場所です。私たちはこの場所(教会)に集められ、神様から恵みの奉仕を受け、私たちは祈りをもってそれに応答していくのです。

 礼拝で、教会に招いてくださった神様のみ言葉を聴き、罪の赦しの宣言に感謝の祈りを献げる。そして新たに創造されて新しい歩みへと出発する祈りをします。

 礼拝のすべては、祈りによって構成されているのです。