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"跡" を 辿って。

黒川氏(陸奥黒川氏) | 清和源氏 義国流 斯波氏庶流 の 氏族

2015-08-05 15:00:40 | 氏族 考察
城         御所館、鶴巣館(鶴楯城)
所領変遷      黒川郡(宮城県黒川郡、国人領主)→ 宮城郡 西田中(仙台市泉区西田中、伊達一家)
知行        最小 150石( 宮城郡 西田中)


時代        鎌倉後期(1300年代)~江戸初期(1626年、寛永3)
家祖        斯波氏直
代々        初代 : 氏直 ~ 11代 : 季氏( 無嗣断絶 )


出自(本姓)    清和源氏 義国流 足利氏庶流 斯波氏庶流
家紋        ニつ引両 および 五三の桐( 足利氏と同様 )
通字        氏



著名な人物     9代 : 晴氏( 月舟斎 )
内訌        不明
入嗣        飯坂氏、伊達氏


水系        鳴瀬川水系 吉田川 → 七北田川水系 萱場川
隣接領主      大崎氏/留守氏



登場文献      『 報恩寺旧蔵黒川氏系図 』、『 水沢大衡氏系図 』、他
研究文献(系図等) 不詳
棟札等記録     不詳




通説では黒川氏は、最上氏から分かれた 3説が有力視されているが、それは全く違うのではないかと異論を呈したい。ここでは斯波氏庶流か、足利氏庶流と仮定しよう。何故ならまず、黒川氏の通字が(尊氏以後の足利氏とも同じ)『 氏 』だと思うのだが、最上氏に『 氏 』はないと言う率直な理由だ。


最初の居を構えた 御所館 の 位置関係もよく考えると微妙だ。


留守氏と大崎氏の間の空白地帯、黒川氏が収めたのはその盆地的な域だが、豊かな穀倉地帯で奈良時代には 吉岡官衙 まで置かれた朝廷支配地域、古道( 東山道?奧大道?)の大崎氏域へ通じる入口間近の地域だ。そんな立地の小高い丘に、広大な居城を構えているのだ。とても大崎氏や最上氏から遣わされたとは考えられないような雰囲気がある。


小さい田舎だが実り豊かな地域だけに、人々の往来も多かろう、不可思議な伝説も残っている。


源頼朝 配下の 和田義盛 の 三男 朝比奈三郎 が、治山治水の神のように崇め奉られた伝説が残っているのだ。何故か、町のキャラクターにまでなっているほどなのだ。


伝説の概要を話そう。


この地域で暮らしていた 朝比奈三郎 はある日、この地域の人々を苦しめる 鳴瀬川水系吉田川流域の中で一番氾濫の酷い(現在で言う)品井沼 地域を掘ったら良いのではないかと思いつき、それを実行に移す。 品井沼を掘った土を 7回、船形山前のそこに溢した。そしてまさにそれが 七つ森 となり、人々は米の安定収穫が出来て豊かに暮らせるようになったと言うことだ(絵本にもなっている)。




地質学的に見れば『 七つ森 』は、船形山などの奥羽山脈より、かなりかなり古く出来ている山地らしい。 なので、伝説は全くの作り話なのだが、豊穣 の象徴と 坂東武者 との間にどんな関連があるのか。 鎌倉幕府から投げ出された 和田氏 と、鎌倉幕府を結果倒した 足利氏、黒川氏 との関わりもなんとなく考えざるを得ない。 興味深い話である。




そして黒川氏にはまだ逸話がある。


9代、月舟斉と号した 晴氏 の時だ。 一応、親戚であるはずの 大崎氏 と、伊達氏 との間で駆け引きしなければならない場面、晴氏 月舟斎 は、多勢であるはずの 伊達氏 をまさかの窮地に陥れてしまうのだ( 大崎合戦・1588年( 天正16 ))。


晴氏の采配は間違っていないと思うが結果、黒川氏西田中( 仙台市泉区西田中、今の泉ビレジや住吉台地区 )へ移封(隠居)となってしまう。


それも分かっていてやったような気配も、晴氏 にはある。 自分たちはサブでなくメインの氏族としてこの地にやって来たのだと言う意識を黒川氏代々ずっと伝承して来た気概が強く残っていたからと思えてならない。




菩提寺       報恩寺?( 宮城県黒川郡大和町落合報恩寺 )
戒名        洞雲院殿仙岩孚翁大居士(9代 : 晴氏 )


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