団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

修繕

2007年09月13日 | 昭和31年~昭和34年
 

S31年頃はまだ豊かな時代ではなく、前に書いたようにストッキン

グでも伝線すると、直してもらっていた。

 

たまに鍋の修繕のおじさんが、町内を廻って来ていた。

 

大きな声で鍋の修繕っと呼びかけると、鍋の底に穴があいたようなの

をおばさんが持って出てきて、おじさんはその玄関先に座り込んで修

繕を始めるんだよねぇ。

 

何が始まるのか、興味津々だった。

 

まず鍋を空に向けて見て、その穴の大きさなどをチェ~ック。そして、

5mm四方ぐらいの金属片を取り出し、修繕にとりかかっていた。あ

れをどうやって、鍋に貼り付けていたのか覚えていないんだけど。

 

傘の修繕のおじさんも来ていたなぁ。

 

傘の骨が曲がったり、折れたりしたものを、アラヨッという間に直し

ていた。

そんな時代だった。


駄菓子屋

2007年09月12日 | 昭和31年~昭和34年
 

家のすぐそばに駄菓子屋が2軒あった。いつも行っていたのは、Kさ

んの駄菓子屋で近所の子供達を集めて、子供会もあった。

 

店先には、子供心をくすぐるような物が所狭しと置いてあったなぁ。

 

麩菓子、煎餅、あんず、水飴、ラムネ菓子、新聞紙の袋入りのバッジ、

5円と10円のラムネなど。店の奥ではおじさんが横約1.2m、縦約

1mの鉄板に水で溶いた(中身は米粉だったんだろうか、よくわっか

んない)ものを、ジュッとたらし同じ大きさの鉄板を上から押し当て

たら、直径8cmぐらいの薄い煎餅の出来上がり。あれ、なんて言っ

たっけなぁ。

 

それを2枚買い、間にあんずや水飴を挟んで食べていた。

 

夏になるとおじさんがどこかで酒の樽を貰って来て、担ぎ棒をつけ、

折り紙で飾りをつけて、御神輿をつくり近所を練り歩いたりしたもん

だねぇ。警察で許可を貰って、お店の前の通り(道幅3mぐらいだっ

たか)で運動会もやった。お昼になると、それぞれが家から皿とスプ

ーンを持って来て、おばさんのカレーを食べたんだけど、ワイワイガ

ヤガヤ美味かったねぇ。

そんな時代だった

プリン

2007年09月11日 | 昭和31年~昭和34年
 

東京のおじさんと友人のNさん達と、東京駅八重洲口のレストランに

行った時のこと。

 

何を食べたのか全然記憶にないのだが、食事が終わった頃に蝶ネクタ

イの人がテーブルに来た。どうやらNさんの知合いらしく、そのレス

トランのマネージャーだった。

 

マネージャーは子供の私にサービスとして、プリンを出してくれたん

だよねぇ。

 

生まれて初めて見るプリンは、なにか得体が知れぬ、フニャフニャし

ていて気持ち悪かった。でも、そのマネージャーさんが側で見ている

ので、食べない訳にもゆかずプリンを口に運んだんだけどさぁ。

 

最初から気持ち悪そうな食べ物という先入観があって、味も何もわか

らなかった。とにかく、必至の思いで食べたもんだねぇ。三田尻(防

府市)では、見たこともない食べ物だったんだから。

 

今はうまいと思うプリンなんだけど。

そんな時代だった。


麹町

2007年09月10日 | 昭和31年~昭和34年
 

半蔵門会館の近くに、伯父さん(母の兄)が家を借りていた。米陸軍

の軍人だった伯父さんは、軍の家族住宅が一杯で民間の家を借りてい

た訳だが。

 

半蔵門のすぐそばで、桜の季節はよくお堀端に花見に行ったねぇ。

 

毎週土曜日になると、家族4人で伯父さんの家に泊まりに行っていた。

京浜東北線の有楽町で降り、そばの都電の停留場から乗るか、伯父さ

んが車で迎えに来てくれた。

 

まだ車も少なく、どこにでも駐車できた。

 

今の有楽町マリオンあたりに日劇があって、その中には日劇ミュージ

ックホールもあったんだけど、純真無垢の私はそこがなんだったのか、

知らなかった。

 

西銀座デパートあたりはまだ川(外堀)で、ダルマ船が係留してあっ

たねぇ。映画”君の名は”で有名な数寄屋橋もまだ健在だった。

 

都電に乗って行くと、左側に旧警視庁の建物があり、お掘りに沿って

右にカーブし、しばらくすると三宅坂。そこを左に曲がる都電は赤坂、

渋谷方面行き。曲がらず直進すると半蔵門になり、左折すると新宿通

りだった。

 

伯父さんのフォードは、いつも借家の近くに路上駐車してあった。ナ

ンバープレートが米軍人用のAで始まるものなので、おまわりさんも

黙認だったんかなぁ。

そんな時代だった。


ふり売り

2007年09月09日 | 昭和31年~昭和34年
 

買い物といえば六角橋に行くんだけど、いろんな物を売りに来るおじ

さん達もいたねぇ。

 

サオダケェ~ヤァ~サオダケェ~(っかな)って、物干し用のさお竹

を売りに来てた。長いさお竹を肩にかつぎ、大きな声で売り歩いてた。

だいぶ後になって、青いビニールをさお竹にかぶせ、お湯をかけて縮

ませるものが流行った事があるねぇ。

 

夏になるとキンギョ~エ~キンギョ~って、天秤棒の前後に桶をかつ

ぎ、金魚鉢も一緒に売っていた。夏の風物詩だなぁ。たまに軽やかな

音を響かせながら、風鈴を売りに来る事もあったねぇ。

 

夕方になるとプゥプゥ~っとラッパを吹きながら、お豆腐屋さんが自

転車を押しながら町内を廻っていた。四角い箱には、油揚げ、厚揚げ

豆腐、そして水の中にはもめんに絹ごし豆腐が入っていた。横浜に引

っ越したばかりの頃、おばぁちゃんが「こりゃあ、新しいんかね」っ

て聞いたら、おじさんは怒ったねぇ。

 

来て欲しくないものに、押し売りっていうのもいた。風呂敷き包みに

石鹸、ゴムなんかを入れて来て、無理矢理押し売りするってやつ。そ

の内、押し売りお断りっていう、ラベルみたいなのを玄関先に貼る家

が増えたなぁ。

そんな時代だった。


大食堂

2007年09月08日 | 昭和31年~昭和34年
 

ザキ(伊勢佐木町)のデパートへ行くのは、もうとぉ~ってもうれし

い事だった。

 

市電に乗り、馬車道で下りて吉田橋を渡ると伊勢佐木町の入り口。中

華の博雅があり、大きな有隣堂という本屋があり、その前には松屋と

野沢屋というデパートが。

 

あの頃のデパートと言えば、最上階に必ずと行っていいほど、大食堂

があった。

 

ショーウィンドーには、うまそうなラーメンからカレー、ハヤシライ

ス、ハンバーグ、クリームソーダなんかが色どり美しく並んでんだよ

ねぇ。あれもうまそう、これもうまそうと、もう思考回路はめっちゃ

くちゃ。

 

入り口で楕円形の食券を貰い、空いているテーブルに座ると、ピンク

かなんかのウェイトレスの制服に白いエプロン姿のオネエサンがプラ

スティックの食券を見ながら、カツ丼とカレーライスですねって確認

してから食券を持って行っちゃうんだよね。

 

果たしてなんの証拠もないテーブルに、カツ丼とカレーライスが来る

のかどうか心配だった私。

 

来ましたですよぅ~、うまそうなカツ丼とカレーライスが。

そんな時代だった。


トンカツ

2007年09月07日 | 昭和31年~昭和34年
 

11月某日と言えば、忘れてはいけない偉人の誕生日。そう、私の御

生誕日なんです。

 

この聖なる日を祝い、朝からおばぁちゃんは忙しいのです。私の大好

物の、具が厚焼き玉子だけの太巻き寿司を作ったりとか。

 

そして家族4人が揃う夕食となると、私の誕生日の特別食のトンカツ

が食卓の上にデェ~ン。小学生の頃の誕生日の恒例となったトンカツ

は、何があっても忘れてはいけないものなのです。あっそうだ、もう

一つこの日になくてはならないものに、バヤリースオレンジがあった。

そして高貴な血筋がそうさせるのか、私はワイングラスでちびちび飲

んだもんだ。

 

でもって、アァ~タはトンカツは何をかけるんだろうか。普通はトン

カツソースだよねぇ。名古屋の人は味噌カツにって事もあるだろうけ

ど。

 

私の場合はシティーボーイだから、ケチャップなんすよ。どうだ、参

ったか。

 

今は改心してトンカツはソースで食べるんだけど、子供の頃は家族の

中で私だけがケチャップで、うまい、うまいって食べていた。不思議

な子だったんかなぁ。

 

S31年頃はケチャップと言えば、食堂で食べるチキンライスぐらい

しかなかったろうと思う。まだハンバーガーもホットドックもなかっ

た頃だから。そんな頃、ケチャップでトンカツなんて、信じらんない

くらいシティーボーイの私。

そんな時代だった。


ラジオ

2007年09月06日 | 昭和31年~昭和34年
 

まだテレビが普及していない頃の娯楽といえば、家庭ではラジオだっ

た。

 

夕食をすますと、家族4人で八畳の部屋で真空管ラジオを聞くのが日

課だった。話の泉、二十の扉、とんち教室、即興劇場、宮田輝の三つ

の歌などを聞いていた。日曜日の昼頃だったと思うけど、ミヤコ蝶々

と南都雄二の夫婦善哉も聞いてたねぇ。

 

相撲の中継も、よく聞いていた。番付上位の力士の取り組みが始まり、

館内の歓声で誰が花道から出てきたのかがわかったのは、栃錦、若の

花だった。二人が出てくると大歓声がわき、聞く方も手に力が入った

もんだ。

 

大晦日は当然ながら紅白歌合戦を聞くんだけど、私は最後まで聞いた

覚えがない。眠たいのと、歌に余り興味がなかった事もあるけど。

 

1台のラジオを家族みんなで楽しむっていうのは、一家団欒の原形み

たいなものかもしれない。

そんな時代だった。


日本シリーズ

2007年09月05日 | 昭和31年~昭和34年
 

S31年頃は、まだテレビが普及していなかった。近所でも、テレビ

があるのはちょっと裕福な家だった。私の家は当然ながら裕福なんだ

けど、余裕がなかったんだねぇ。

 

父と二人で六角橋から市電に乗り、桜木町まで行ったんですよぅ。何

しに行ったかってぇと~、テレビを見に。アァ~タねぇ、なんと言っ

ても日本シリーズがあったんです。それもパリーグの西鉄ライオンズ

とセリーグの巨人戦なんすから。

 

桜木町駅前の食堂には、日本シリーズ観戦目的のおじさん、お兄さん

達で店内は一杯だった。

 

父はビールを、私は好物のうどんを食べながら、西鉄―巨人戦を試合

終了までテレビ観戦。結局、この年の西鉄―巨人の日本シリーズは西

鉄がチャンピオンになった。西鉄には怪童中西、豊田、神様、仏様、

稲尾様がいた。巨人には打撃の神様川上、ピッチャーの別所などがい

たなぁ。

そんな時代だった。


横浜中華街

2007年09月04日 | 昭和31年~昭和34年
 

約250店舗あるという、横浜中華街。

 

家族で中華街に行く時は、六角橋から市電に乗り横浜市役所の前で降

り、横浜平和球場(現横浜スタジアム)がある横浜公園を突っ切り、

中華街まで歩いて行った。つまり加賀町警察署の方から中華街に入っ

て行ったもんだねぇ。

 

その途中の小さなパン屋さんには、ヤキソバパンやシューマイパンな

どが陳列ケースに並んでいて、それを見るとわぁ~もうすぐ中華街だ

ぁっと小躍りしたくなった私。

 

あの頃の中華街は日曜日に行っても、今の人の大洪水と違い、ゆっく

りと散策できた。

 

家族で行く店はいつも、老正香というテーブル10卓ぐらいのこじん

まりとしたとこで、支払いをするカウンターに小太りの中国のおばち

ゃんが座っていた。

そんな時代だった。