団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

手作りカバン

2006年12月25日 | 昭和22年~31年
幼稚園まで家から子供の足で歩いて、25分ぐらいかかったんじゃろ

うか。母のお手製の布のカバンを二つ両肩からかけ、出征兵士みたい

な格好でテクテクテクテク。

 

一つのカバンには弁当箱と箸箱、もう一つには帰る時に先生から出席

したというハンコを押してもらう手帳とちり紙。私の弁当箱はなぜか、

赤っぽい小判型でバラの絵が書いちゃった。なんでじゃろう。

 

お弁当の時間に、お茶とか水でも飲んじょったんじゃろうか。そこん

とこの記憶がエデンの東に飛んで行っちょる。

 

行きも帰りも一人で、進駐軍道路を歩いて通った。車もほとんど走っ

ちょらん頃だから、安全じゃった。スキップでも踏みながら鼻歌でも

うたいながら、田んぼのレンゲや菜の花でも見ながら、通っちょった

んじゃろうなぁ。

そんな時代だった。

 


煙管

2006年12月24日 | 昭和22年~31年
進駐軍が入ってくると横流しのラッキーストライク、キャメルなどの

洋モクを金持ちが吸っちょったんじゃろうなぁ。

 

フィルター付きのタバコはのうて、両切りたばこだったいね。そして、

まだ煙管(キセル)で吸う人もおった。おばぁちゃんの実家に行くと、

そこのおじぃさんはキセルに刻みタバコを詰め、一服して次の刻みタ

バコをキセルに詰める間、今まで吸うよったタバコの火の玉を、手の

平の上でコロコロと転がしちょった。片手でキセルに刻みタバコを詰

めると、その火の玉でタバコに火をつけちょったねぇ。

 

子供心に、手品師みたいに思えたなぁ。

 

男の人はタバコケースに入れちょる人も多かった。タバコの箱と同じ

ような形の皮ケースと平らで本のように左右に開くもんがあった。マ

ッチでシュパッと火をつけるんが、なんだかカッコよぅ見えたいね。

そんな時代だった。 


煙突から

2006年12月23日 | 昭和22年~31年
アァ~タ知っちょるぅ~。サンタさんはプレゼントを良い子に配る時、

煙突から入ってくるんですいね。

 

でもって不思議だったのが、家の煙突といったら風呂場にしかないん

ですよぉ。うちの風呂場は炊事場から一度出て、また風呂場の扉って

寸法なわけ。

 

いくら神童、天才少年といわれちょっても、たかだか6歳ぐらいの頭

じゃあ、この難問は解決せんにぃね。

 

だいたい、あの風呂場の細い煙突を皮下脂肪満載のサンタさんがどね

ぇして、通り抜けてくるんか。はたまた、風呂場と炊事場の扉の隙間

を、どねぇして入ってくるんか、悩んだもんじゃ。

 

聖夜の夜中過ぎに、ふとサンタさんがもう来たんじゃなかろうかと思

って、枕元を手で探してみると、指先に何やらあるんじゃあ。

もう大変、グァバ~ッと飛び起きて電気をつけると、そこにはどこを

どうやって入ってきたかわからん、サンタさんのプレゼントが。

 

狂喜乱舞、阿波踊りの世界じゃったねぇ。子供だから学校の友達に言

うんですよぉ、サンタさんが来たって。「そねぇなもんは、おらんにぃ

ね」って一言のもとに撥ね付けられるのでした。

でも、うちには来てたもん。

今年も良い子の私です。どうか、サンタさんが来ますように。

そんな時代だった。


七輪

2006年12月22日 | 昭和22年~31年
S28年頃はかまどと七輪で料理して、その炊事場から一番近い4畳

半で食事をしよった。

 

丸い飯台で、食事以外の時は足をたたんで壁に立てかけちょった。家

族それぞれが木製(竹製のものもあった)の箸箱を持っちょったねぇ。

味噌汁の椀は瀬戸物で、茶色にクリーム色の図柄じゃったんを覚えち

ょる。

 

茶碗や皿などは茶箪笥の下の棚に入れてあって、醤油や佃煮昆布、箸

箱などは上の棚じゃった。上の棚は網戸になっちょって、夏場に食べ

物の腐敗を防ぐ為だったんじゃろうと思ういね。

 

七輪に火をおこすにゃあ、まず新聞紙を丸めて火をつけ、そこに小さ

な木片を入れ、炎が出てきたら炭や練炭を入れる。幼稚園の頃、新聞

紙に火をつけたいんじゃけど火が恐ろしゅうて、マッチの軸を雑巾で

持ってマッチをすっちょった、おそれの私。

 

そういえば、どこの家の炊事場にも火の用心のステッカーが貼っちょ

ったねぇ。

そんな時代だった。

 

ふろく:

プチ山口弁辞典

おそれ=怖がり


学芸会

2006年12月21日 | 昭和22年~31年
M幼稚園の学芸会は、園長先生のお寺でやった。

お寺の入り口の池には、たくさんの亀が岩の上にへばりついちょった。

これが本当の甲羅干しなんじゃろうねぇ。

 

本堂の仮設舞台で演じたのは、”あわて床屋”じゃったなぁ。床屋の

カニさんがお客さんのうさぎさんの耳をチョッキンとやっちゃうお話。

うさぎさんの耳は鉢巻きに差しちょって、慌て者のカニさんが大きな

ハサミでチョッキンと切ると同時に引っこ抜くって寸法。

 

私は演技力抜群で主役をやると目立ち過ぎるので辞退し、つばめかな

んかの床屋のお客の一人じゃった。なんか一言しゃべって、座ってい

る重要な役回りなんですいね、ハイ。あの頃から名バイプレーヤーだ

ったんじゃねぇ。

 

今もその後遺症で、目立たないようにひっそりと暮らしちょる私です。

そんな時代だった。

 


一家団欒

2006年12月20日 | 昭和22年~31年
今やテレビも1人に1台の時代。テレビのない時代の家庭での団欒と

いやぁラジオじゃった。我が家では、食事がすむと8畳の間で家族4

人でラジオに耳をかたむけちょった。

 

幼稚園の頃(S28年)だったんじゃろうか。夕方になると、箪笥の

上に置いちゃるラジオをスイッチオ~ン。すると♪ピ~ヒャア~ラヒ

ャラリィ~コォ~♪ってテーマソングが始まり、さぁ今日はどねぇな

話しになるんじゃろうかとワックワクしたもんだ。

 

そぉなんすよぉ~、笛吹童子。楽しみじゃったなぁ。ラジオじゃけぇ

想像の世界で、今でも笛吹童子が谷の吊り橋を渡るシーンを、想像し

ながら聞いちょったんを覚えちょる。

 

他には紅孔雀、花菱アチャコと浪花千栄子のお父さんはお人好し、と

んち教室、二十の扉などを聞きよった。お父さんはお人好しは、野菜

屋さんのドラマじゃったと思うんじゃけど、他のドラマの内容は覚え

ちょらん。

自慢じゃないけど、半世紀以上前の話しじゃからねぇ。

 

箪笥の上のラジオをつけるのは大変じゃった。下の引き出し(ってい

うんじゃろうか)を出して、それに乗らないと手がたわんかった。真

空管式の茶色のラジオで、ダイヤルが2個あって左がオン・オフとボ

リューム、右がチューナーだったいね。

 

時計の見方も知らんかったんで、おばぁちゃんにでも何時かって聞い

ちょったんじゃろうか。

そんな時代だった。

 

ふろく:

プチ山口弁辞典

たう=届く

たわん=届かない


月夜

2006年12月19日 | 昭和22年~31年
私が住んじょったあたりには、街路灯はなかった。私の人生いや、夜

道は暗かったいね。

 

生れた家から引越してからも、よぉ夜になるとおばぁちゃんとTさん

宅へ遊びに行き、おばぁちゃんはおばさん達とおしゃべり。私はTち

ゃん、Kちゃん達と遊んで(もらって)いた。

 

懐中電灯で両側が田んぼの道を薄ぼんやりと照らしながら、月明かり、

星明かりの暗い中をトボトボ歩いて。

 

ある晩T家に行った帰り、おばぁちゃんが月を見ながら「見てみぃ、

お月さんでウサギが餅つきをしちょる」と言ったので、丸い月を見て

みると本当にウサギさんが杵で餅つきをしちょる影が見え、ウッワァ

~すごいなぁっと見とれてしまった。

 

たぶん、空には星が一杯またたいていたんじゃろうねぇ。。

そんな時代だった。

 

ふろく:

プチ山口弁辞典

よぉ=よく    よぉ食べる=よく食べる

 


ボンネットバス

2006年12月18日 | 昭和22年~31年
街中に行く時はバスに乗るか自転車じゃった。家族皆で出かける時は、

バスを利用しちょったいね。

 

ボンネットバスで、運転手さんも車掌さんも紺の制服であこがれじゃ

ったなぁ。運転手さんがあの長いギヤをグッググルルンと入れるのが

カッコえぇし、車掌さんのあの皮カバン(切符とハサミが入っている)

もカッコえぇんじゃあ。

 

バスの床は板張りじゃった記憶があるんじゃけど、どうだったんじゃ

ろうか。

 

三田尻駅前のロータリーでバスの後進などの時にゃあ、車掌さんがバ

スの後ろで笛をピィーピィーって吹いて、最後にピィーって長く吹い

て停車させよった。よぉ真似をして、遊んじょったなぁ。

 

当然ながら暖房も冷房ものうて、夏なんかは窓は全開で頭の毛なんか

雀の巣状態。運転席のフロントガラスの(センターピラーがあって、

左右にガラス)下に小さなクランクがあって、それをグルグルっとま

わすとフロントガラスの下部が5cmぐらい開いて風を入れちょった

記憶があるんじゃけど、記憶違いいかも知れんねぇ。

誰か覚えちょらんかいね。

そんな時代だった。

 

ふろく:

プチ山口弁辞典

のうて=なくて

のうなる=なくなる


朝のお勤め

2006年12月17日 | 昭和22年~31年
仏教系(何宗だか知らんのじゃ)の幼稚園だったので、毎日か週一か

覚えちょらんけど、朝全員が講堂に集まり、園児は正座して先生が後

ろに立って朝のお勤めみたいな事をしちょった。

 

毎回違うクラスから園児の名前が呼ばれ、正面(階段2、3段高い)

の壇上に行き、扉をギッギィ~って左右に開けると仏像(何か書いて

ある掛け軸かも)が安置されちょった。その後何をやったんかは、全

然記憶がのぅなっちょる。M幼稚園に通うて、覚えちょる人はおらん

 じゃろうか。

 

私も一度やっんじゃけど、人がやるのを見ちょるんで、教わりもせん

のに淡々とやったのは覚えちょるねぇ。えらい、えらい、賢いKちゃ

ん。

そんな時代だった。


クリスマスツリー

2006年12月16日 | 昭和22年~31年
S28年頃、防府市の中で何軒ぐらいの家にサンタクロースが来たん

じゃろうか。そしてクリスマスツリーを飾っていた家があったんじゃ

ろう。

 

これからの話しは、もう時効なんで他言は無用ですぞ。頼むいね。

 

12月の中旬になると父が自転車に乗り、ノコギリを持って出かける

のです、ハイ!そうこうする内に、自転車の荷台に1mぐらいの木を

乗せて帰ってきよった。

 

なっなぬぁ~んと、クリスマスツリー用の木じゃった。たぶん向島に

でも木を切りに行ったんじゃろうねぇ(これアァ~タと私の内緒の話

しよ)。

山主さん、ゴメンナサイネェ。時効の話しじゃけぇ、許してつかぁさ

いや。

 

早速台座に打ち付けて、飾り物をつけるんですいね。ボール紙ででき

た銀色の紙が貼ってあるベル、星、サンタさんの長靴なんかを枝にぶ

ら下げ、そして雪にみたてて綿を枝にのせよった。

 

♪キィ~ッイヨォ~シィ~コンノヨォ~ルゥ~♪っと。

 

あの頃の電飾は、輸出用に作っちょったらしい。後になって、なんか

で見たか、聞いたか、読んだのか。

まぁどっちにしても、うれしかったねぇ。サンタさんも、もうすぐご

来宅と思うと。

そんな時代だった。