団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

手裏剣

2008年03月31日 | 昭和31年~昭和34年

東白楽駅のすぐそばの小高い山の上に、K教団という宗教団体があった。

 

よく、そのあたりへ遊びに行っていた。ある時、山の斜面の芝生の上に座って友人

と話していたら、手の先に何かがあるんだよねぇ。

 

でもって、何だろうと思って掘ってみたら、手裏剣みたいな竹が出てきた。友人達と

その手裏剣欲しさに、あちこち捜してみたら、出るは出るは。もう、おもしろくて時間

も忘れて、手裏剣堀り。

 

ワーワーいいながら手裏剣を掘っていたら、その教団の信者さんみたいな人が通り

かり、「なんで、そんな事をするんだ」って突然怒られてしまった。「その竹は、芝

生を張る為に指してあるさしてあるんだ」って。

 

手裏剣掘りに夢中だった私達は、飛んで逃げましたよぉ。あの時は、本当にスンマ

ンでしたぁ。

そんな時代だった。


パチンコ戦争

2008年03月30日 | 昭和31年~昭和34年

子供のケンカって、どうでもいいような事が原因で起こるのが多いんだよなぁ。

 

仲良しのY君と給食の後の掃除の時間に、何が原因だったのかケンカを始めた。っ

いっても、胸ぐらをつかんで押したり、引いたりのもんだけど。それも3分ばかりで

チョン。

 

ある日の放課後、2人組みと私達7人組みぐらいに別れて、パチンコで戦争する事

なったんだよねぇ。パチンコと言っても、Y字型のものにゴムがついていて、小石

どを撃つアレだよ。

 

東白楽駅近くの小高い山の畑で、両方に分かれて撃ち方始めぇ~。

 

2人組みの方は形勢不利な斜面の下、人数の多い私達が上。パチンコ戦争が始ま

って5分ぐらいしたら、下の方から「タンマ~」って声が。上の方から「なんだよぉ~」

って言ったら、「下からじゃあ撃った石が届かないよぉ~」ってさ。

 

じゃあ止めよぉかぁって事になり、今度は半々づつぐらいになって、松林でパチンコ

戦争開始。なんのこっちゃあ~。

そんな時代だった。


化石

2008年03月29日 | 昭和31年~昭和34年

東横線の白楽駅から乗ると、妙蓮寺の次が菊名駅。

 

S34年頃はまだ田んぼが駅近くにあったようなとこで、なんと駅の近くで化石がと

れると、S小学校6年1組の諜報員の情報をもとに、近所のHちゃんと電車賃の大

5円也を払って行きましたよぉ。

 

菊名駅を降りて妙蓮寺寄りに少し戻り、長屋風の家並みを抜けると、そこに低い土

の崖みたいなのがあり、そこらへんで化石が出るというのでHちゃんと泥だらけにな

りながら、一生懸命考古学者みたいに掘りましたねぇ。

 

そしたらアァ~タねぇ、出てきましたですよぉ、貝の化石が。

 

そう言やあヒデとロザンナの「愛の奇跡」って、ヒット曲があったなぁ。って、関係な

いか。

 

出てきた化石は、小指の先ぐらいの小さな物で、セメント製のようなねずみ色だっ

たなぁ。新米考古学者としては上出来の、2,3個採集できたんだよねぇ。当然、

翌日は学校に持って行き、見せびらかしたのは予定の行動。

そんな時代だった。


習字

2008年03月28日 | 昭和31年~昭和34年

小学校の習字の時間て、何年生から始まったのかなぁ。全然、記憶にないんだわ

さぁ。

 

まぁそれはともかく、最初の頃はすずり、筆、墨などをチョコレートが入っていた箱

に入れて持って行っていた私。

 

すずりも墨も家にあったもので、墨なんかはするとこが斜めになってたなぁ。

 

6年生になってから、習字用具を入れる習字箱(って呼ぶんだろうか、それともす

ずり箱)が流行ったんだよねぇ。

 

それはアルミか何かの金属製の箱で、青とか赤い色がついていた。学校で流行

るとすぐに欲しくなる、ミーハーちゃんな私。早速、六角橋交差点角のT文房具店

に買いに行きましたぁ。

 

ガックリ。その金属製の習字箱は売り切れで、ないって言われてうなだれる眉目

秀麗な私。

 

でもって、欲しくなると手が震えてくる私は、金属製の物は諦めて(入荷するのを

待てばいいのに)ビニール製の習字箱を買ってしまったアホな私。紺色だったなぁ。

 

そう言えば、一緒に買った墨の頭に小さな丸が刻んであって、先生が丸の数が多

いほど(最高5個だったっけ)いい墨だって言ってたけど、どの墨も全部5個の丸が

ついていた。

そんな時代だった。


石油缶のフタ

2008年03月27日 | 昭和31年~昭和34年

子供の頃って、そこらへんにある物が遊び道具になったよねぇ。棒切れがあればチ

ャンバラごっこができたし、縄があれば縄跳びや大きな輪を作って汽車ごっことか。

 

6年生になって、誰が学校に持って来たのか、石油缶のフタが流行った事がる。

 

どうやって遊ぶかっていうと、まぁ単純の極みというか、ただ単にフタの中央部をペ

コンとへこまし、そしてフタの両側から親指と人差し指で押すと、へこんだ中央部が

元に戻る時に、パッキンと音がするというだけのもの。

 

別におもしろくもなんともないけど、流行ってしまうと欲しくてしょうがないんだよねぇ。

 

っと言っても、石油缶のフタってどこにでもあるもんでもないし、おもちゃ屋さんに行っ

ても売ってないし。あると言えば、石油缶がる炭屋さんしかないんだよねぇ。

 

うちで炭や石油を頼んでいる(っという事は、S34年にはうちに石油ストーブがあっん

だろうか)炭屋さんに貰いに行きましたよぉ。おじさんは、フタがなくなると石油缶が

用を足さなくなるといって、裏の倉庫の方に探しに行ってくれて、とうとう1個見つけ

てくれたのであります。

 

うれしかったなぁ。勿論翌日はその石油缶のフタを持って、意気揚々と登校しました

とさ。

そんな時代だった。


4月10日

2008年03月26日 | 昭和31年~昭和34年

S34年の4月10日は、全国の人々がテレビの前で釘付けになった。その中継を見よ

うと、テレビの売り上げが急増したらしいねぇ。

 

今の天皇、皇后両陛下の結婚式があったんだよねぇ。何時頃からテレビ中継があっ

たのか、まったく覚えていないんだけど、私は中継が始まるまで庭でノコギリでギー

コギーコと木を切りながら、機関銃を作っていたのを覚えている。失敗作だったなぁ。

 

テレビ中継は宮中での式も中継し、皇太子の衣冠束帯、美智子妃の十二単を口をア

ングリ状態で見ていた。そぅそぅ、美智子妃が実家の正田邸を出発する時から、中継

していたよねぇ。

 

結婚式のパレードは皇居を出て(直後に男が投石したっけ)、警視庁前から半蔵門を

通り、東宮に向かうのを中継。馬車に乗った皇太子、美智子妃を一目見ようと、沿道

はすごい人並みだった。

 

当時、そのパレードをする道路には都電も走っていたので、レールも敷かれているの

で馬車の馬のひづめで滑らないようにと、砂がまかれているとアナウンサーが言って

いたのを、へぇ~っと妙に感心したのを覚えている。

そんな時代だった。


最上級生

2008年03月25日 | 昭和31年~昭和34年

S33年4月にF小学校とK小学校の約1/3づつが一緒になって、S小学校が開校した。

 

両校とも6年生は元の学校で卒業させるという事で、S小学校では私達5年生が最上

生という変則的な学校だった。F小学校の時は、団塊世代の児童で教室が足りず、

2部授業もしていたんだよねぇ。

 

6年生がいないという事は、S34年の3月になっても卒業式がなかったという事だね

ぇ。つまり、S小学校での最初の卒業式は、私達が卒業した開校2年目からだった。

 

S34年4月から本当の最上級生になった私達。担任は女のベテラン教師O先生はそ

のままで、教室だけ同じ2階だけど東側に移動した。

 

朝礼の時は相変わらず私達は1組なので、朝礼台に向かって一番右端だった。校長

先生のお話が終わると、放送部が流すマーチに合わせて、私達のクラスが一番先頭

になって校舎に入る事になる。

 

S小学校では2年続けて、お山の大将だったんだよなぁ。こんな経験をした人も、余り

いないだろうけど。でも、私は高校の時も経験している。まぁ、その内書く事になるだ

ろうけど。

そんな時代だった。


横浜バザー

2008年03月24日 | 昭和31年~昭和34年

今の横浜スタジアムが平和球場と呼ばれていた頃、横浜バザーが毎年開かれてい

て、会場は球場横というか、隣というか、まぁとにかく横浜公園という所だった。

 

会場には植木市、バナナの叩き売りなんかや、子供相手の露天もたくさん出ていた。

 

型抜きというのがあって、それは薄い砂糖菓子みたいなものに、絵が描いてあって、

その線の通りに余計な部分をキレイに取ると、賞品がもらえるのがあった。

 

バナナの叩き売りで買うと、露天のおじさんが新聞紙に包んでくれて、それを持って

市電に乗るのは、ちょっと恥ずかしかったなぁ。

 

型抜きは何回挑戦しても、うまく線通りにできずにいたら、露天のおじさんがこれや

るよって鉛筆をくれたんだけど、結局それは折れ芯だった。つまり、削っても芯がす

ぐ折れる(折れてる)鉛筆だったんだよねぇ。

 

見世物小屋もあって、ろくろっ首やインチキ皿回しをやっていた。中でも迫力があっ

たのは、オートバイの曲芸乗りだった。

木製の直径約7,8m、高さ5mぐらいだったと思う、大きな樽のような中でオートバ

イを遠心力を利用して、走りまわるもの。大爆音で疾走するオートバイが、その樽を

飛び出すように走りまわるのは、すごいなぁ~の一言だったねぇ。

 

走り回っていたオートバイは、アメリカ製のインディアンだった。

そんな時代だった。


少年サンデー

2008年03月23日 | 昭和31年~昭和34年

S34の春に週刊少年サンデーがが発売になった。それまでの少年雑誌は月刊で、

毎週発売の少年サンデーと少年マガジンが相次いで創刊された。

 

私が買い始めた(っと言っても、買ってもらってたんだけどさぁ)のは、少年サンデーで

価格は30円だった。創刊号の表紙は長嶋茂雄だったよねぇ。

 

何回も書いているけど、毎週土曜日は原宿の米軍家族住宅に住んでいたおじさんち

(母の長兄)へ行く時、電車を降りる原宿駅の売店で買ってもらっていた。その時、も

う一つ買うものがあった。それはグリコのチョコレートで、これは従妹のHちゃんへのお

土産だった。

 

恥ずかしながら、どんな漫画があったのか、まるで記憶がエデンの東。

 

創刊されてしばらくたってから、電気(バッテリー式だったと思う)豆自動車が当たるよ

うになった。葉巻形のレーシングタイプで、表紙に印刷されている番号が当っていると

貰えるもんだった。本当に当たった子供がいたのかなぁ。

 

一度だけ、当たり番号と一字違いがあったんだけど。ホンマにガッカリしましたでぇ。

そんな時代だった。


ジャンケンポン

2008年03月22日 | 昭和31年~昭和34年

子供の頃は、ジャンケンで遊ぶものが結構あったよねぇ。

 

学校の帰り(S小学校に移ってからは、超近場になってやる事はなくなったけど)に

は、ジャンケンをして勝った歩数だけ大股で飛ぶなんてもんをやっていた。例えば、

パーで勝ったらパ・イ・ナ・ツ・プ・ルで6歩前進、チョキはチ・ヨ・コ・レ・イ・トで6歩、

グーはグ・リ・コで3歩とか。時には、だいぶ距離が開く事もあったねぇ。

 

なんて呼び名だったか忘れてしまったけど、キャラメルなどの点数券(集めて賞品

をもらった)などを賭けて、ジャンケンで勝負していた。

 

グーはグンカン、チョキはチンボツ、パーはハワイとして、戦闘開始はまずジャン

ケンから。

 

もし私がグーで勝っていたら、そのまますぐに継続して、掛け声をかけながらグン

カンががチンボツと言ってチョキを出し、相手がチョキを出すと相手が負け。もし相

手がグーを出したら、グーの方が私のチョキに勝っているので、今度は相手がグ

ンカンがハワイと言ったりして、勝負を決めるもの。ようするに、掛け声を出す方の

言ったものを相手が出すと負けというもの。

 

これを始めると、結構熱くなって熱中したもんだなぁ。

そんな時代だった。