団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

パレスハイツ

2007年01月31日 | 昭和22年~31年
幼稚園の時、父と母と3人で東京に駐留していたおじさん(母の兄)

の所に遊びに行ったいね。おじさんは米陸軍情報部におって、家は皇

居前の半蔵門近くのパレスハイツっちゅう家族住宅に住んじょった。

今、最高裁判所、国立劇場がある所じゃねぇ。

 

住宅はかまぼこ兵舎と呼ばれ、見た目はかまぼこそのままの半円形で、

今でいうワンルームじゃった。ワンルームと言ぅても、25畳ぐらい

の大きさじゃったと思う。

 

入り口を入るとリビング兼ダイニング兼ベッドルーム。左奥がバスル

ーム、右奥がキッチンだったいね。初めて入った様式の風呂で、五右

衛門風呂同様にバスタブの外で体を流して、父に怒られたいね。

 

キッチンには見たこともないような大きな冷蔵庫もあったけど、何に

使うのか知らんかった。あの頃(S28年)一般家庭で、電気の冷蔵

庫なんかあるとこはなかったもん。

 

おじさんが勤務から帰って来ると、毎日パレスハイツ内にあるドライ

ブインに連れて行ってくれて、アイスクリーム(コーンにのっている

もの)を買ってくれた。それまで食べたことのない味で、うまかった

なぁ。基地外には、まだソフトクリ―ムのコーン(東京は知らないけ

ど、防府では)なんてなかった。

 

ドライブインは歩いて5分ほどの所で、座って食べるレストランもあ

った。

車で行った時はパーキングに止めると、日本人のウェートレスさんが

おって、オーダーすると車の窓んとこにハンバーガーなどを乗せたお

盆を固定して、車の中で飲み食いできるサービスもあった。

昔のアメリカ映画の一シーンみたいじゃった。

そんな時代だった。


往診

2007年01月30日 | 昭和22年~31年
誰かが(主に私です)往診を頼むと、夜中じゃろうといつでもO先生

は自転車で、黒い大きな皮カバンを持って来てくれた。カバンの中に

は、聴診器(胸にあてるとこが象牙だったと思う)、注射器、消毒液

を含ませたガーゼを入れる金属製の小さな箱などが、ごちゃごちゃと

入っちょった。

 

冬にあの聴診器を胸にあてられると、ひやいんだよねぇ。

 

診察が終ると洗面器とタオルを出すと、O先生はチャプチャプと手を

洗った。それが終るといつもコーヒーとビスケットを出しちょった。

コーヒーを飲みおわるとO先生は、ビスケットを紙に包んで皮カバン

に入れて帰られよった。

 

おばぁちゃんは、出された物は持って帰るのが礼儀だって言ぅちょっ

たけど。

 

夜の往診も大変だったと思うなぁ。寝ているのを起こされた上、街路

灯もない暗い夜道を自転車で患者の家に行くんじゃもんねぇ。

お陰で今は立派に、歳だけは取りました。

そんな時代だった。

 

ふろく:

プチ山口弁

ひやい=冷たい


駅前ロータリー

2007年01月29日 | 昭和22年~31年
山陽本線三田尻駅(現防府駅)は、木造の平屋で天神様側だけに出札

口があった。出札口を入ったとこは1番線で上り、下り線は渡線橋を

渡った2、3番線じゃった。現在は高架駅で、天神様側と反対の南口

もあり便利になっちょるねぇ。

 

S28年(幼稚園)頃の三田尻駅前はロータリーになっちょって、中

央部は大きな石組の池みたいじゃった。駅舎を背にして右側にタクシ

ー乗り場があって、ほんの数台のタクシーが並んじょった。タクシー

なんか、よっぽどのことがないと乗ることはなかった。覚えちょるん

は、旅行に出かける時に乗ったことがあるだけじゃねぇ。

 

バス(防長バス)は、ロータリー中央で乗り降りしよった。ボンネッ

トバスで、車体も小さかった。家に帰るには中の関行きに乗り、降り

るのは新田停留所。停留所から歩いて帰る進駐軍道路の両側は、一面

の田んぼじゃった。

途中にあるのは岩風呂(石風呂だったかなぁ)と建設会社の小さな倉

庫しかなかったいね。

そんな時代だった。

 


耳学問

2007年01月28日 | 昭和22年~31年
子供っちゅうんもんは、聞いちょらんようで人の話しを聞いちょって、

耳学問が発達しちょるんじゃよねぇ。

 

S28年頃、防府市に米第五空軍の中関キャンプがあり、当然ながら

米軍兵士が駐留しちょった。街に買い物に行った時など、その米兵の

腕にぶら下がるようにしちょる女性達がおったいね。

 

派手なドレスを着て、ハイヒールの靴を履き、ネッカチーフをかぶり、

赤い口紅が定番のイメージのそんな女性達をパンパンと呼びよった。

 

私も誰の話しから、そんな言葉を覚えた(意味も知らず)んじゃろう

か。

 

ある日、駅前通りの反対側を歩いちょるそねぇな二人を見て、あっパ

ンパンだぁ~って叫んだんじゃあ。母に怒られてしもたいね、ハイ!

そんな時代だった。


サクマのドロップ

2007年01月27日 | 昭和22年~31年
S29年頃の娯楽といえば家庭ではラジオ、外に出ると映画、パチン

コ、競輪(当時の防府市では)ぐらいじゃろう。っていっても大人の

話じゃけど。

 

父はキャンプから帰って来て、食事をすますと自転車に乗って、新天

地の市内唯一のパチンコ屋に、たまに行きよった。

 

あの頃のパチンコ台は、手で1発づつ玉を入れてレバーをはじいて打

つという、化石みたいな機械だった。台の後ろには人がおって、台の

玉がのうなると補充したりという代物。また当時は座る椅子なんかも

のうて、立って打つパチンコ台だった。

 

たまに父について行き、私は通路に落ちている人が落とした玉を拾ぅ

て、あいている台で1発打って、また玉が落ちてないかキョロキョロ

下を見ながら、通路をウロチョロしちょったねぇ。

 

家で待っちょる時は、父が帰ってくるのが楽しみじゃったいね。めっ

たにないんじゃけど、たまに大きな袋にサクマのドロップとか、森永

のビスケットの土産があったからねぇ。今のパチンコと比べれば、さ

さやかな娯楽の一つだったパチンコ。

そんな時代だった。

 

 


香具師

2007年01月26日 | 昭和22年~31年
天神様に行った時、鳥居の近くで人だかりがあるので母と見に行った。

香具師(やし)が薬の販売をしよった。寅さんの世界じゃねぇ。

 

防府の子供達は、インチキとか誤魔化すことを「やしじゃぁ」って言ぅ

ちょった。

 

その香具師は袋を皆に見せながら、この中には毒蛇がいて噛まれると

死ぬなんて言っちょった。小さなビンに入ったこの薬は切り傷も、毒

蛇も大丈夫。

 

今、毒蛇に噛ませてから薬を塗ってみるからと。待てどくらせど、蛇

を見せんのいね。母も私も待ちくたびれて、その場を去ったけど。

 

ある時は傷痍軍人が、白い着物で首から箱を提げて参拝する人達から

の寄付金を集めていたこともある。まだ戦後5、6年頃のことじゃか

ら。

その頃は傷痍軍人の意味もわからんと、かわいそうな人というイメー

ジしかなかったんじゃけど、いつも親に10円もらって箱に入れちょ

った。

そんな時代だった。

 


寝間着

2007年01月25日 | 昭和22年~31年
寝間着はおばぁちゃんが縫ってくれちょった。夏はゆかたで、野球の

グローブ、バット、ベースの絵柄を覚えちょる。冬はネルの寝間着で、

寝るまでは毛糸のちゃんちゃんこを着ちょったいね。

 

ゆかたもネルの寝間着も、腰のところで帯が縫い付けてあった。また、

子供だからすぐ大きゅうなるんで、肩や腰のとこで余裕をもたせてあ

り、小さくなったら糸をほぐして大きゅうなるようにしてあったねぇ。

ン十年前に成長は止まってしまったんじゃけど。

 

冬になると湯たんぽの登場。ブリキ製の湯たんぽで、ネルの袋に入れ

て布団の足元に入れて寝た。湯たんぽの栓をしたまま熱すると、爆発

すると聞いていて、爆発するってどうなるんじゃろうと怖かった。黒

い土で作ったアンカもあったように思うけど、はっきり覚えちょらん。

そんな時代だった。


飯台

2007年01月24日 | 昭和22年~31年
食事は4畳半の部屋で食べちょった。大きめな窓を開けると、8軒の

家の真ん中を通る道路が見え、窓の下はおばぁちゃんの花壇があった。

 

その部屋には茶箪笥があり、その上には小さな仏壇もあった。足がた

ためる丸い飯台(ちゃぶ台)があって、食事以外の時は壁にたてかけ

ちょった。

 

鴨居のとこに棚が作ってあって、富山の薬の赤い小さな箱や菓子が入

った缶などが並べてあった。

 

壁には山陽線の三田尻駅の時刻表も貼ってあったなぁ。壁掛けカレン

ダーぐらいの大きさで、下の方には百貨店かなにかの広告が入っちょ

った。

 

その頃はまだ正座して、お行儀よく食べちょったねぇ。

 

その部屋には母の鏡台もあって、鏡のとこにはお手製の布カバーがか

けてあった。いつも母が化粧するのを見ちょった私は、母の真似をし

て口紅を口のまわりに塗りたくって真っ赤にして、後で家族に大笑い

されたこともあった。元祖ミスターレディーじゃでぇ。

そんな時代だった。


2007年01月23日 | 昭和22年~31年
お正月には毎年、県内の下松から親類付き合いの家族が遊びに来ちょ

った。私より2歳年上のK子ちゃんと両親で、いつも1泊しよった。

おじさんはお酒を飲むと必ずノーエ節を歌っていて、自然に覚えちゃ

ったねぇ。

 

K子ちゃんとは、すごろく、いろはカルタ、福笑い、トランプの神経

衰弱なんかで遊んじょった。すごろく、福笑いなどは少年雑誌の正月

特大号の付録についちょった。

 

コマまわしとか凧上げもしたなぁ。奴凧は新田の停留所のお菓子屋さ

んで売ちょった。5円と10円の2種類だったけど、どねぇな違いが

あったんか記憶にない。

 

お雑煮は丸餅で醤油味。私はお餅が大好きで、焼いて砂糖醤油で食べ

たり、きな粉餅にしたり。受験もすぐという中三の時、餅の食い過ぎ

で胃痙攣でダウンしたこともある私です。山口では餡ころ餅というの

があって、ようするに餡が餅に包まれているもの(大福の餅バージョ

ン)。これを焼いて食べるんじゃけど、うまいんだよねぇ。

そんな時代だった。

 


警察署

2007年01月22日 | 昭和22年~31年

車塚というとこに、警察署があった。S28年頃に三田尻にパトカー

があったんだろうか。と言っても毎日、田んぼで遊んでいたんで町中

のことは余りわかんないんだけど。多分、米軍のジープを警察車両と

して、使いよったのではと想像する。都会はさておき、真相は如何に。

 

防府警察署はロの字型の建物で、中庭があってそこに畳を敷き、警官

による柔道大会があって父と見に行ったこともある。当時の警官の階

級章は1本、2本と山型のもので、その下に桜のマークがあって腕に

ついちょった。

 

母の話しによるとS21年頃、ニュージーランド軍が市内に駐屯し、

英語のできる人を探しちょって、どこで調べたのか母に勤めてほしい

と要請があったとか。

 

その時、母は県内の下松におって防府に引っ越すことになったら、ニ

ュージーランド軍の司令官の鶴の一声で、防府警察署のトラックが荷

物を運びに来たとか。母もビックリしたらしいけど。

 

そのお礼に署長さんに、ハスを5本ばかり持って行ったら、大喜びだ

ったらしい。まだ物が不足していた時代なんだよねぇ。

そんな時代だった。