団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

越境入学

2008年07月24日 | 昭和31年~昭和34年

小学校6年生(S34年)の3学期頃になると、進学するK中学に行くのがいやだった

んだよねぇ。なんたって、不良が多いって聞いてたんだから。ホントに隣のR中学に

行く人が、うらやましかった。

 

でもって、こわごわ入ったK中学はというと、話しに聞いていた不良の先輩がいたけ

れど、別にお金をせびられた事はないし、脅かされた事もなかった。

 

そんなK中学に、越境入学して入った来た生徒も結構いたんだよねぇ。

 

入学した頃は知らなかったけど、時間がたつにつれてN君は電車を乗り継いで、小1

時間かけて通学してるし、M君は東横線で反町駅から3つ目の妙蓮寺から通ってい

し、Kさんは当時横浜でも一番の繁華街だった伊勢佐木町から(大きな靴屋さんの

だった)だし。

 

不良が多いといわれていたK中学だけど、こうやってみてみると良い学校に入れると

いう評判もあったのかもねぇ。

 

私なんぞはそんな事はしないでも、学区内の学校で十分だった。予習、復習の鬼だっ

たんだから。アァ~タ、信じてるぅ~。

そんな時代だった。


茶話会

2008年05月12日 | 昭和31年~昭和34年

校庭での卒業式が終わってから、卒業生はそれぞれの教室に向かい、茶話会が開

かれた。

 

我が6年1組の担任のO先生は袴姿で、我々の男子生徒はピッカピカの学生服、女

はその頃まだ制服がなくて私服だったなぁ。女の人の袴姿は初めてで、しばし唖

然。その頃はまだ宝塚歌劇団も知らないしぃ~、女子大生の卒業式も袴姿なんかな

かっしぃ~。

 

茶話会は読んで字の如しで、お茶になにがしかの菓子が半紙の上にちょこっとある

け。教室の後ろには、卒業式に参列した父兄の人達もいたっけ。

 

色々と話をした後、O先生が卒業式のはなむけとして独唱したんだよねぇ。それもソ

プラノで。何を歌ったのか覚えてないけど、かなりキンキラ声だったのだけは覚えて

るなぁ。

 

こうして横浜市立S小学校第一回卒業式は、無事終わったのであります。

そんな時代だった。


第一回卒業式

2008年05月11日 | 昭和31年~昭和34年

いよいよ2年間学んだS小学校での初の卒業式。つまり2年前にF小学校とK小学校

5年生以下1/3づつぐらいが集まってできた新設校だったからで、第一期生なんだ

よねぇ。

 

S34年当時のS小学校は以前R中学が使っていた、オンボロ校舎で講堂もなく、卒業

式は校庭で行われた。今、考えてみれば当日雨が降ったら、どうやったんだろうか。

 

S校長先生は、そんな事を考えたら夜も寝られなかったんじゃないのかなぁ。

 

式の事は全くと言っていいほど、なぁ~んも覚えていない。ただ校庭に椅子を持ち出

して座っていたのだけは、覚えてるんだけど。

 

確か、卒業証書は1人づつ校長先生から頂いたと思っているけど、捏造記憶かもしれ

ないなぁ。

 

みなさんの卒業証書には、卒業番号が書いてあると思う。最初の卒業生が100人と

すると、翌年の卒業番号は101番からになっている。

 

私のS小学校の卒業番号は10番なのであります。栄えある卒業番号1番は、近所の

び友達のAちゃんだった。この卒業番号をもらうのは、結構難度が高いと思うよう。

そんな時代だった。


肩掛けカバン

2008年05月10日 | 昭和31年~昭和34年

K中学に進学する事になり、学生服と学帽は伊勢佐木町の野沢屋で買った。

 

S小の6年生になった時、ボロボロになったランドセルにかえて、手提げカバンを買

ってもらったんだけど、中学になると肩掛けカバンになるんで、おばぁちゃんと六角

橋商店街に買いに行った。

 

肩掛けカバンは白い(っと言っても、くすんだ白だったけど)カンバス地で、新しい内

はなんかゴワゴワしてたねぇ。

 

でもって、学生服も、学帽も、肩掛けカバンも揃うと、内容は伴わないのに、気持ち

だけは知識も教養も小学生とは違う、大人に近づいたような気分になったもんだね

ぇ。

 

中学に入ってからわかったんだけど、普通の子は左肩から右側にカバンを掛け、カ

バンは右側の腰の後ろに。ちょっとだけ不良っぽいのは、左肩から右側にカバンを掛

け、カバンは右の腰の前に。つまり、へその右側前ってこと。ほんまもんの不良は、

右肩にカバンを掛け、カバンは垂直に下にが正統派。

 

私のカバンの掛け方はどうかってぇ。そりゃあアァ~タァ~、右側の腰の前に決まって

るでしょうがぁ。

そんな時代だった。


私立中学

2008年05月09日 | 昭和31年~昭和34年

6年生の生活も残り少なくなり、S小学校からは中学の学区が2つになり、私は当時

不良が多いと言われていたK中学に行く事になっていて、あぁ~R中に行きたいなぁ

~って、いつも友達に言っていたっけ。

 

まぁ不良が多いと言っても、今の荒れた中学とは違ってたなぁ。タバコをふかす、他

中学の生徒とケンカするぐらいのもんだった。

 

私なんかは公立中学のK中に行くのが当然と思っていたし、私立中学なんて知識も

なぁ~んもなかった。

 

そんなある日、担任のO先生がクラスのO君とK君がN大付属中に入学が決まったっ

話たんだよねぇ。私はただ、へぇ~っと思っただけだった。しばらくして、Mさんも

浜の山手にあるお嬢さん学校のF女学院中に受かったって報告。

 

O君はN大付属高からデザイン学校へ、K君は付属高の時に退校、MさんはF女学院

高からお茶大へ行ったのまでは、知っている。

 

6年1組の40数名の中から私立中学に進学したのは、この3人だけだった。

そんな時代だった。


新調学生服

2008年05月08日 | 昭和31年~昭和34年

S小学校での生活も後少しになり、卒業すると自動的に中学生になれる不思議さ。

 

小学校では私服で登校してたけど、中学生になると学生服を着る事になり、ある晩

族4人で、当時の横浜一の繁華街だった伊勢佐木町へ出かけましたよぉ~。

 

例のごとく、不二家の中華レストランで食事をして、いざデパートの野沢屋へ。学生

服売り場で試着して、当然ながら大きめの学生服を買ってもらったねぇ。3年間の間

に学生服が小さくならないように、大きめだから袖なんか長かったもんだ。

 

当然ながら、ズボンの裾も長いので、裾上げしてもらって。

 

私が行く事になっているK中学は公立校だけど、ちゃあんと校章入りの金ボタンがあ

って、それをつけてもらうことに。

 

学生服と一緒に、学生帽も買ってもらった。なんか、小学生諸君よ、君達は若いんだ

ぞって、言いたくなるような私だった。

そんな時代だった。


サイン帳

2008年05月07日 | 昭和31年~昭和34年

S小学校の卒業式も近づいた頃、誰が始めたのかサイン帳に何かを書いてもらうとい

うのが、流行ったんだよねぇ。

 

沈着冷静、眉目秀麗の私は、六角橋の文房具屋さんに飛んで買いに行きましたよう。

買ったサイン帳は、表紙がグレーのもので、縦10cm、横13cmぐらいだったかなぁ。

 

それを学校に持って行き、休み時間なんかになんか書いてよぉって、持って行くと一言

書いて名前をサインしたり、絵の上手な子はなんか書いてサインをしてくれた。

 

確か、最初のページは担任のO先生に、なにか書いてもらったと記憶してんだけど。

 

私もみんなのサイン帳に、頼まれてなにか書いたハズなんだけど、どんな事を書いたの

か、まったく覚えてないんだよねぇ。

 

勉強好きな私だから、きっと漢詩でも書いたのかなぁ。って、まだそんなの習ってないか

ぁ。それにしても、あのサイン帳はどこにあるんだろうか。

そんな時代だった。


初物

2008年05月06日 | 昭和31年~昭和34年

小学校3年生ぐらいまで、かたくなにサンタクロースさんの事を信じていた、純真無

垢な私。三田尻(防府市)にいた頃は、まわりの家にはどこにもサンタさんが来ない

のに、うちだけにはちゃあ~んと来てたなぁ。

 

5年生ぐらいになると、さすがにおっかしいなぁ~って思い始めたねぇ。だって、不思

議と私がトイレに行っている隙に、サンタさんが来るんだもん。

 

6年生(S34年)のクリスマスに、いつものように東京のおじさんちに泊り掛けで行っ

いた。原宿の米軍家族住宅のおじさんちのリビングルーム(あの頃、既にセントラ

ルヒーティングだった)には、大きなもみの木のクリスマスツリーが飾られ、その下に

は、従妹のHちゃんへのプレゼントが山のように積んであった。

 

なぁ~んとその山の中に、おじさんの友人のNさんから、私へのプレゼントもあった

だよねぇ。

 

翌年、中学生になる私に万年筆のプレゼントだった。あの頃の大学生は、学生服の

ポケットに1,2本の万年筆をさしていた。私もなんだか、大人になったような気が

したもんだ。

 

それと父からのプレゼントは、腕時計だった。それも文字盤にSWISSって書いてある

やつ。その頃の時計は、スイス製が一番と言われてたんだよねぇ。茶色の皮バンド

で、これもうれしかったなぁ。

万年筆も腕時計も、私用としては初めての物だった。

そんな時代だった。


ザ・ヒットパレード

2008年05月05日 | 昭和31年~昭和34年

♪ザ・ヒッパレー・ザ・ヒッパレー♪って、出だしだけだけど覚えてるという事は、余り

歌に興味がなかった私も、たまには家族で見てたんだろなぁ。

 

当時の人気歌手がバンバン歌っていた歌番組で、双子のザ・ピーナツ、坂本九、

森山加代子、伊藤ゆかり、園まり、中尾ミエなど。

 

ザ・ピーナツは確か左側のお姉さんの目の横にホクロがあって、妹が目の横にホ

クロを書いていたっけ。ヒット曲も、多い歌手だったねぇ。坂本九は、子供からお年

寄りまで人気があった。ソロになる前は、パラダイスキングっていうグループのボー

カルだったよねぇ。日航機事故で不慮の死をとげたけどなぁ。

 

森山加代子はメロンの気持ちなんていう、訳わっかんない歌でヒットしてた。伊藤、

園、中尾は3人娘で売り出していて、恥ずかながら園まりがテレビに出てくると、息

苦しくなってしまう私。

 

でも、こんな思い出は私が中学生になってからかも、知れないなぁ。記憶が、宇宙

遊泳。

そんな時代だった。


ローハイド

2008年05月04日 | 昭和31年~昭和34年

確かS34年の終わり頃から、ローハイドが始まったんだよねぇ。

 

牛の大群をテキサス州からミズーリー州まで移動をさせる物語で、隊長役はエリッ

ク・フレミングで、ほかにマカロニウエスタンで大ブレークしたクリント・イーストウッド。

 

時にインディアンの襲撃に会ったり、牛泥棒が出没したり、嵐にでくわしたりと、毎

回ハラハラしながら見てたなぁ。うちのおばぁちゃんも大好きで、身を乗り出してテ

レビを見てた。

 

その中でコックのウィッシュボーンがいつも作っている、ポーク&ビーンズがうまそ

で仕方なかったんだよねぇ。カウボーイ達が、たき火のまわりで金属製のプレート

のポーク&ビーンズを乗せて食べてる姿が、実にうまそうに見えたもんだ。

 

でもって、ハワイから送って来ていたポーク&ビーンズの缶詰があったんで、母に頼

で温めてもらい、うちにあった直径20cmちょっとぐらいの金属製のお盆に入れて、

カウボーイの気分を出して食べた私。思ったよりも、うまくなかったっけ。

 

食事を終えたカウボーイ達のプレートは、砂(土)でこすり、それを布で拭くというのを、

ローハイドで知った。水は貴重なもので、皿洗いなんかには使えなかったんだよねぇ。

主役のエリック・フレミングは、映画の撮影で河で溺れて亡くなったねぇ。

そんな時代だった。