団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

林家三平

2007年12月31日 | 昭和31年~昭和34年

当時の寄席中継では、大人気の林家三平。最近、林家正蔵を襲名した元こぶ平のお父

さんなんだけど。

 

縮れっ毛の頭をオールバックにし、袴姿の三平は子供から大人までに好かれていた。

いつも高座で、♪ヨォ~シィ~コォ~サァ~ン♪とか、ドォ~モスイマセェ~ンとか、カラダダ

ケワダイジニシテクダサイって言うのが常套句だった。

 

三平がテレビのインタビューの中で、これらの言葉は次の言葉がとっさに出てこない時の、

時間かせぎだと言っていたねぇ。

 

寄席の高座でも、座布団に座っているのは最初のうちだけで、身振り手振りでいつの間

にか座布団はどっかへというのが、三平だった。当時の落語界の大御所達には、あんな

のは落語じゃねぇって言われていたらしいけど。

 

でも三平がテレビに出るというと、かじりついて見ていた私。どこの商品だったか忘れて

しまったが、おしるこのCMで「お餅も入ってベタベタと」と言うのも、流行ったなぁ。

そんな時代だった。


特急こだま号

2007年12月30日 | 昭和31年~昭和34年

S33年頃の特急といえば、電気機関車、ディーゼル機関車、地方に行けばまだ蒸気機

関車が引っ張っていた。特急列車なんか乗った事がないので、乗りたくてしょうがなか

った。

 

そんな頃、ビジネス特急と呼ばれた特急こだまが東京ー大阪間の運転を開始した。特急

こだまは電車特急で、そのスタイルもそれまでなかったような斬新なもので、あこがれ

たもんだねぇ。

 

特急こだまの停車駅は横浜、名古屋、京都、大阪で、日帰り出張ができるというもので、

運転席が高いとこにあり、カッコよかったなぁ。近所の仲良しのSちゃんと、歩いて30

分ぐらいの東神奈川駅まで、見に行った事もある。

 

来たぁって言ったら、もう通り過ぎちゃったという、あっけないもんだったけど満足、

満足で家路についたねぇ。

 

あの頃だったんじゃないかぁ、流線形と言う言葉が流行ったのは。

そんな時代だった。


生放送

2007年12月29日 | 昭和31年~昭和34年

S33年頃のテレビドラマは、生放送でやってたんだよねぇ。

 

なんのドラマだったか忘れてしまったけど、細い路地で立ち話をしているシーンで、

側に立っている電柱がグラァ~っと倒れたり、遠い所にいるハズの人が横丁を横切っ

たり(シーンの移動で、通ってはいけないとこだったんだろうなぁ)と、あっれぇっ

て思ったりする事もあった。

 

白黒テレビを家族4人で、毎晩テレビを見ていたねぇ。ホントに楽しみだった。

「事件記者」「パパはなんでも知っている」「バス通り裏」とか、家族揃って楽しめ

る番組が多かったと思う。

 

「事件記者」は警視庁記者クラブが舞台で、4,5社が特ダネを争うストーリーで、

子供が見ていてもおもしろかった。「パパはなんでも知っている」は、アメリカ製の

ドラマで両親と姉、弟2人のホームドラマだねぇ。あの頃は、アメリカ製のドラマも

多かったなぁ。「バス通り裏」は、まだ十朱幸代が高校生でデビューした、これもホ

ームドラマだった。

 

歌はあまり興味はなかったんだけど、日曜日の昼だったと思うけど、「ロッテ歌のア

ルバム」というのを覚えてるけどなぁ。

そんな時代だった。


ロカビリー

2007年12月28日 | 昭和31年~昭和34年

♪ホシィ~ワナンデモシッテイィル~って歌は、覚えるつもりもないのに歌えるよう

になってしまった。それだけあの頃、流行ったんだろうなぁ。テレビで、ラジオでい

つも流れていたんだろうと思う。

 

ある晩、家族でテレビを見ていたら、ウェスタンカーニバルの場面(ニュースかなん

かだったんだろうか)が出てきた。

 

舞台上の歌手には、五色のテープが投げられ、それが頭、肩、腕にからみつき、舞台

のかぶりつきの女性ファンが、歌手の足首を引っ張ってひきづり降ろそうとしてんだ

よねぇ。

 

平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎なんかは、名前はしっていたけどロカビ

リーの熱狂的なファンを見たのは初めてで、こりゃあなんなんだぁって思って、テレ

ビ画面に釘付けになってしまった。

 

日劇でキャアキャア大騒ぎしていたお姉さん達も、もう70歳近いんだよなぁ。

 

そう言えば、山下敬二郎は当時テレビのジェスチャーゲームで人気の、柳家金語楼の

息子だったよねぇ。

そんな時代だった。


給食当番

2007年12月27日 | 昭和31年~昭和34年

夏休みが終わった頃、やっと念願の給食室が完成した。それまでは、弁当持参か、家

が近い人は食べに帰っていた。私の家は、超近距離だったので当然家に帰って、優雅

な昼食を食べていた。

給食が始まると1週間単位で給食当番をやったねぇ。

白い三角巾、割烹着、マスクが、給食当番の正装だった。給食室から運ぶのは、バケ

ツの親方みたいな容器に入った脱脂粉乳、おなじく主食、アルミの長方形の箱に入っ

たコッペパンそして食器入れ。

私が給食当番になると、仲良しと組んで4時間目の授業の終わりのベルが鳴ると同時

に正装をわしづかみにして、仲良しと給食室に飛んで行って、パンの容器を運んでい

た。っと言うのも、他の主食、ミルク、食器入れは重たくて運びづらかったんだよね

ぇ。配膳するのも簡単だし。

なんと沈着冷静、用意周到な私。

5年生でも最上級生なので、低学年のクラスの給食当番もやった。怖い顔をした上級

生が配膳するんで、みんな緊張してたなぁ。

そんな時代だった。


東京タワー

2007年12月26日 | 昭和31年~昭和34年

毎週土曜日に、東京に住んでいたおじさんちへ泊まりに行っていた。

 

たまに、おじさんの車に乗っている時に、本や映画で話題になったあの東京田タワーが

空に向かって伸びていくのを見ていた。

 

最初の頃は、グィ~ンと湾曲した4本の足が段々と伸びていき、少年雑誌のグラビアの

予想完成図の絵と比べて見ていた。

 

S32年(小4)の時に工事が始まり、翌年完成して12月から一般公開された。私が

初めて上ったのが、S35年の1月9日だった。展望台で記念メダルを買い、それに日

付が刻印されている。

 

その時はエレベーターに乗らず、階段で上ったんだよねぇ。階段で上ると、記念のプラ

スティックの物差しをくれた。風が強く、寒かったのを覚えてるなぁ。

そんな時代だった。


先生方

2007年12月25日 | 昭和31年~昭和34年

新設校に移り、突然5年生で最上級生になってしまったS小学校のクラスは4組だった。

 

私は1組で担任は女で、O先生だった。専門は音楽なんだろと思う。他の3クラスの先

生は男で、そのクラスが音楽の時間はO先生が教え、かわりに男の先生が私たちに理科

や算数を教えていた。O先生は卒業式のクラスの茶話会で、得意の歌をソプラノでうた

ってくれた。頭がキンキンしたっけなぁ。

 

2組はNA先生で理科系が専門だったと思う。一度、校庭で捕まえたヘビをNA先生と解

剖した事もある。3組はY先生で体育系で、頭は慎太郎刈りみたいに短髪だった。4組

NI先生で、やはり理科系なんだろうなぁ。

 

NI先生は時々、戦争中の話を授業の合間にしてくれた。戦後まだ、13年ぐらいしかた

ってない頃だもんねぇ。

 

海軍航空隊の偵察機乗りのパイロットだったそうだ。敵艦を索敵に向かい、もし見つけ

たら友軍機を敵艦まで誘導し、帰りの燃料が無くなるとわかっていても、そうしただろ

うと話していた。っと言う事は、自分が帰るべき航空母艦まで帰れないと言う事で、な

んか、印象的な内容だったなぁ。

そんな時代だった。


カンシャク玉

2007年12月24日 | 昭和31年~昭和34年

近所の駄菓子屋さんが、悪ガキ達の溜り場だった。

その駄菓子屋さんに行くと誰かがいたんで、遊ぶ相手を探す必要はなかったんだよね

ぇ。いつものように駄菓子を頬ばりながら、世界情勢の分析をしている内に悪だくみ

の相談になっちゃった。

駄菓子屋さんの前の通りは、幅3mぐらいで買い物に行くおばさんや神奈川大学の学

生が通るようなとこだった。

そこに薄いスレートの破片の下に、カンシャク玉を隠して誰かをビックリさせようと

いう、実になんですなぁアホな事を考えたもんだなぁ。

駄菓子屋さんの奥で、杏かなんかを食べながら今か、今かと息をころして待っている

と、赤ちゃんを抱っこして洗面道具を持った若いお父さんが運悪く、そのスレートを

踏んじゃったよぉ~。大学生か子供でも踏むかと思ってたんだけど。

バッチィ~ン。

「誰だぁ~、こんな悪いことをする奴はぁ~」って。若いお父さんは、周りを見回し

たけど、店の奥でシィ~ンと押し黙ってた悪ガキ達。ゴメンナサァ~イ。

あの若かったお父さんも、いいおじいちゃんになってるんだろうねぇ。

そんな時代だった。


紙芝居

2007年12月23日 | 昭和31年~昭和34年

紙芝居

新設校のS小学校でも同じクラスになったO君ちへ、遊びに行った時の話。

O君の家は学校から20分ぐらいのとこで、東横線の線路脇にあった。一度、泊まり

に行ったら電車が通るたびに、ガタゴトと家が震えるんで、ビックリしたなぁ。彼は

平気で寝ていたけど、私は家が震えるたびに目が覚めた。

O君ちの近くの公園で遊んでいると、登山帽みたいな帽子をかぶったオジサンが、自

転車の横で拍子木を叩くと、小さな子から小学生ぐらいの子供たちが、集まってくる

んだよねぇ。

何が始まるのかと思っていると、子供たちが5円、10円を出して水アメなんかを買

って、ペロペロ舐めながらそこから動かないんで、へぇ~っと思っていると、オジサ

ンが今度は太鼓をドォ~ン。

始まったのは紙芝居の黄金バットだった。

するとそのオジサンが、何も買わない子はあっちへ行けぇ~って言うんだよねぇ。私

の事だった。田舎にいた時は、紙芝居なんて学校以外では見た事がなかった。だから、

まず駄菓子を買って(映画館の入場券みたいなもんだなぁ)から、紙芝居を見る権利

があるなんて、知らなかった私。

そんな時代だった。


ゴロベース

2007年12月22日 | 昭和31年~昭和34年

毎朝学校に行くと、クラスの男の子達とやっていたのが、ゴロベース(三角ベース)

で、校庭の端にある変則的な小さな運動場が私たち5年1組の指定席だった。

 

1塁と3塁だけのもので、ゴムボールを使い、ピッチャーはゴロを投げ、打つ方は

親指を人差し指の上に折り曲げて、そこで打つというものだった。夏でも、冬でも

なんか1年中やってたなぁ。

 

みんな野球帽をかぶり(やっぱりGマークが多かった)、形を整える為に帽子の前の

方に、新聞紙をたたんで入れていた。Y君が最初にお兄さんに教えてもらい、全員が

その真似をしたんだけど。

 

そしてなぜか、みんなのバンドは長かったねぇ。長いバンドの先は、腰あたりの脇で

バンドの下にねじ込んでいた。お兄さんのお下がりだったのかもなぁ。

他には馬乗り、Sの字、ピンポンテニス、軍艦ゲームなんかをしていたねぇ。

そんな時代だった。