「時」とは何か?「時間」は果たして存在するのか? 哲学的で非常に難しい問題ではあるが、筆者は以前のブログ、第18章⑱時の秘密でこの問題を取り上げている。興味の有る方は、そちらも是非ご参照願いたいが、今ここでその要旨を端的に言い表すと、この瞬間に過去と未来を含む全ての「時」が存在する、ということになる。 この問題をシャーリーは、四次元と超意識という視点から次のように論じている。
◇◇◇
瞑想をしていると、私は自分が宇宙とつながり、時間がなくなってしまうのを感じた。“現在”に私は完全に浸りきっていた。その結果、私は自分がすべてのものの一部であり、同時に、あらゆるところに存在していると感じることができた。・・・瞑想中の起こるさまざまな体験に浸っていると、過去も未来も、現在と同じように現実的なもののように感じられる。過去や未来に属する時と場所で体験した感情がはっきりと思い出され、しかも、それが今、起こっているように感じられる。
そのようなことが起こると、すべての時は今、同時にここに存在しているということに気が付く。
◇◇◇
参考までに、筆者が認識している自身の過去世(それなりにインパクトのある過去世を幾つか突き止めることができた)については、いずれこのブログで書いてみようと思っているが、それはシャーリーのように、瞑想中に独力で確認できたものではない。この点からも、筆者の瞑想の深さは、シャーリーには遠く及ばないと言わざるを得ない。
シャーリーは続ける。
◇◇◇
このように考えると、時系列的な輪廻転生は事実ではなく、私達が意識を向けることに決めた転生を、今、体験しているということなのだと思う。だから、現在私達が送っている転生は、自分の好きな転生の一つに焦点をあてているにすぎない。それは、他の進行中の転生と、同時にここに存在している。ただ、私達は“今”に焦点をあてているということなのだ。・・・
あるいは、つぎのように考えることもできる。もし、アインシュタインやアラン・アスペクトなどの物理学者の、すべての時は同時に生じているという考え方が正しければ、たましいの体験も、またその通りなのだ。
このような考え方に出会った時、私は大変なショックを受けた。もし、すべての時が同時に生じているとすれば、“今”この時に生じている問題は、それがその“前”に起こったことの結果であるという点を除けば、それほど重要ではないのだ。カルマの法則の意味もはっきりし始めた。・・・
◇◇◇
シャーリーは言葉を換えて、次のようにも言っているが、バシャールの主張と全くと言って良いほど同じなので、非常に興味深い。
◇◇◇
それゆえに、私達は自分自身の現実を選択し、創造しているという時、その意味は、巨大なありとあらゆるエネルギーの渦の中から、私達は自分が必要なことを学ぶために、最も役に立つ体験を選び出している、ということなのである。・・・だから、今生ここにいる私は、たくさんの転生を繰り返しているうちにため込んだカルマや、数々の体験の産物であるとの同じように、私はすべての転生と体験の産物なのだ。
◇◇◇
次にシャーリーは、ここで突然東洋と西洋の差、右脳と左脳の違いに話を変える。
◇◇◇
私達西欧文明の人間は、・・・論理的合理的な考え方や認識の方法を教えこまれている。これは左脳の領域である。左脳で考える人は、歩くときと同じように、一歩一歩、考えを前に進める。原因から結果まで非常に明確であるが、幅の狭い考え方である。左脳的思考は科学の演繹的な思考方法の基礎となっており、私達の科学技術の輝かしい進歩の特色であるが、自分の思考のプロセスに入らないもの、参考資料の中に入っていないものを無視してしまう傾向がある。
東洋の考え方はそれほど直線的ではなく、もっと幅が広く、脇道や横道の探検を受け入れている。彼らの考え方はあまり正確ではなく、散漫で抽象的である。したがって、相矛盾する概念を同時に包み込むことができる。その結果、西欧の左脳人間にはさっぱりわからない、矛盾だらけの謎のように見える物事の間に、東洋の思想家や科学者は大きなつがなりを見ることができるのだ。・・・
しかし、最近、つまり、この三十年ばかりの間に、西欧では神秘主義との接近としか言いようがない概念について、科学的な考え方や実験結果が続々と発表されている。量子論ひとつとってみても、宇宙の成り立ちについていろいろと興味深いテーマを提供している。・・・
◇◇◇
この具体的な事例として、シャーリーは「百匹目のサル」の現象を挙げる。これは、船井幸雄氏も良くその著書で紹介していたものであるし、同書(ゴーイング・ウィズィンのP90)にも載っているので敢えてその詳しい説明は省かせて頂く。
◇◇◇
生化学者のルパート・シェルドレイクの革命的な理論 ― 6章ですでに説明したMフィールド理論 ― は、同じ種に属するものは、遠く離れていたとしても、他の仲間から行動や成長パターンを学ぶ能力があるという事実に基づいている。Mフィールド理論は時空を超えて働く力である。
◇◇◇
ここでシャーリーは「大いなる自己」の話に入り、又素粒子の世界に言及する。
◇◇◇
東洋の思想では、輪廻転生は当然のこととして受け入れられている。たとえ、私達の表面意識は何ひとつ覚えていなくても、私達のたましい、つまり、大いなる自己は自分の転生の全てを記憶していると、東洋の人々は感じている。・・・
現在では、東洋的な考え方が西欧に著しい影響を与えている。・・・記憶、想像、直観的な幻想などを、“非現実的”と決めつけずに、拡大された現実である可能性もあると考えるようになっている。他の言葉で言えば、私達の目に見える物質世界の現実は、もしかしたら、いや、殆ど確実に、存在する唯一の現実ではないのである。
物理学者のデイビッド・ボームは、量子論のいわゆる“不確実性”をさらに推し進めて、他のレベルの現実に存在する“隠れたた変数”の理論を打ち立てた。・・・『全体性と内在的秩序』という本の中で、ボームは素粒子の世界は、何重ものレベルの存在する分割不能な全体の一部であると結論したばかりでなく、説明可能な世界 ― つまり、私達が認識している第三次元の世界 ― は、より高次の複数次元の現実の投影にすぎないと述べている。
◇◇◇
シャーリーは続いて、超能力と四次元の世界に言及する。
◇◇◇
大部分の子供は、小さい頃は右脳と左脳のバランスがとれていて、既成概念を教え込まれ、限界を受け入れ始めるまでは、誰でも基本的に超能力を持っている。・・・超能力を持つ子供は、左脳が発達した普通の人間には隠されている第四次元の世界、つまり、私達が認識している次元を超えた次元に存在するものを見ることができる。
第四次元とは、超意識の領域である。アインシュタインが時間も空間もないとした次元である。神秘主義者は、これをたましいの次元と言い、知識も知恵も時間も一つの全体として存在している宇宙を包含するものであると言っている。
古代の大師達も現代の超能力者も、人間の心がたましいの超意識とつながった時には、生命と宇宙のすべての神秘を知ることができると主張している。
東洋の人々は、人間は本質的には肉体に宿って物質界に転生しているたましいである、とみなしている。肉体を持って生まれるということは、たましいに制限を設けることであり、肉体の死とは、たましいが本来の領域への戻ることなのだ。つまり、死の意味でさえ、私達がどう考えるかで変わってくる。・・・
◇◇◇
最後に、シャーリーは次のように結論付ける。因みに、以下の出だしの部分は、バーバラ・アン・ブレナンが、彼女の代表的な著書、『光の手』で説明している趣旨と全く同一である。
◇◇◇
現在、量子物理学者は、観察中の対象物の性質は、観察者の意識によって動き、変化するということを実験室で目撃している。「宇宙はたぶん、ひとつの巨大な想念なのだろう」と、彼らは結論している。
では、こうした事実は、いったい何を示しているのだろうか? 私達の想念や認識がいかに大切か、思いださせようとしているのだと思う。私達は、あらゆるものに対する自分の観点に責任を持っている。人はそれぞれ、どう物事を認識するか、自分で選んでいる。自分の好きなように、自分の現実を認識することができるのだ。客観的な現実は、私達の主観的な見方によって変化する。現実に対する相反する二つの考え方がある時は、互いに相手と自分自身についてもっと学んで、その両方に合う中道と秩序を見つけ出す必要があるのだ。現実をこのように考えて人生を生き始めると、想念それ自体の持つ不思議な力や影響力を尊重するようになる。
フリッチョフ・カプラは、『タオ自然学』という本の中で、次のように言っている。
「あらゆる自然現象に関する理論は、その中の“法則”まで含めて、人間の頭脳の産物であり、現実そのものというよりは、私達がつくった現実の概念図であると、物理学者は考え始めている」
そこに参加している人間の心がどう認識しているかによって、多数の現実が存在するということを、私達は今は科学からも学んでいるのだ。
◇◇◇
尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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瞑想をしていると、私は自分が宇宙とつながり、時間がなくなってしまうのを感じた。“現在”に私は完全に浸りきっていた。その結果、私は自分がすべてのものの一部であり、同時に、あらゆるところに存在していると感じることができた。・・・瞑想中の起こるさまざまな体験に浸っていると、過去も未来も、現在と同じように現実的なもののように感じられる。過去や未来に属する時と場所で体験した感情がはっきりと思い出され、しかも、それが今、起こっているように感じられる。
そのようなことが起こると、すべての時は今、同時にここに存在しているということに気が付く。
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参考までに、筆者が認識している自身の過去世(それなりにインパクトのある過去世を幾つか突き止めることができた)については、いずれこのブログで書いてみようと思っているが、それはシャーリーのように、瞑想中に独力で確認できたものではない。この点からも、筆者の瞑想の深さは、シャーリーには遠く及ばないと言わざるを得ない。
シャーリーは続ける。
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このように考えると、時系列的な輪廻転生は事実ではなく、私達が意識を向けることに決めた転生を、今、体験しているということなのだと思う。だから、現在私達が送っている転生は、自分の好きな転生の一つに焦点をあてているにすぎない。それは、他の進行中の転生と、同時にここに存在している。ただ、私達は“今”に焦点をあてているということなのだ。・・・
あるいは、つぎのように考えることもできる。もし、アインシュタインやアラン・アスペクトなどの物理学者の、すべての時は同時に生じているという考え方が正しければ、たましいの体験も、またその通りなのだ。
このような考え方に出会った時、私は大変なショックを受けた。もし、すべての時が同時に生じているとすれば、“今”この時に生じている問題は、それがその“前”に起こったことの結果であるという点を除けば、それほど重要ではないのだ。カルマの法則の意味もはっきりし始めた。・・・
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シャーリーは言葉を換えて、次のようにも言っているが、バシャールの主張と全くと言って良いほど同じなので、非常に興味深い。
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それゆえに、私達は自分自身の現実を選択し、創造しているという時、その意味は、巨大なありとあらゆるエネルギーの渦の中から、私達は自分が必要なことを学ぶために、最も役に立つ体験を選び出している、ということなのである。・・・だから、今生ここにいる私は、たくさんの転生を繰り返しているうちにため込んだカルマや、数々の体験の産物であるとの同じように、私はすべての転生と体験の産物なのだ。
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次にシャーリーは、ここで突然東洋と西洋の差、右脳と左脳の違いに話を変える。
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私達西欧文明の人間は、・・・論理的合理的な考え方や認識の方法を教えこまれている。これは左脳の領域である。左脳で考える人は、歩くときと同じように、一歩一歩、考えを前に進める。原因から結果まで非常に明確であるが、幅の狭い考え方である。左脳的思考は科学の演繹的な思考方法の基礎となっており、私達の科学技術の輝かしい進歩の特色であるが、自分の思考のプロセスに入らないもの、参考資料の中に入っていないものを無視してしまう傾向がある。
東洋の考え方はそれほど直線的ではなく、もっと幅が広く、脇道や横道の探検を受け入れている。彼らの考え方はあまり正確ではなく、散漫で抽象的である。したがって、相矛盾する概念を同時に包み込むことができる。その結果、西欧の左脳人間にはさっぱりわからない、矛盾だらけの謎のように見える物事の間に、東洋の思想家や科学者は大きなつがなりを見ることができるのだ。・・・
しかし、最近、つまり、この三十年ばかりの間に、西欧では神秘主義との接近としか言いようがない概念について、科学的な考え方や実験結果が続々と発表されている。量子論ひとつとってみても、宇宙の成り立ちについていろいろと興味深いテーマを提供している。・・・
◇◇◇
この具体的な事例として、シャーリーは「百匹目のサル」の現象を挙げる。これは、船井幸雄氏も良くその著書で紹介していたものであるし、同書(ゴーイング・ウィズィンのP90)にも載っているので敢えてその詳しい説明は省かせて頂く。
◇◇◇
生化学者のルパート・シェルドレイクの革命的な理論 ― 6章ですでに説明したMフィールド理論 ― は、同じ種に属するものは、遠く離れていたとしても、他の仲間から行動や成長パターンを学ぶ能力があるという事実に基づいている。Mフィールド理論は時空を超えて働く力である。
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ここでシャーリーは「大いなる自己」の話に入り、又素粒子の世界に言及する。
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東洋の思想では、輪廻転生は当然のこととして受け入れられている。たとえ、私達の表面意識は何ひとつ覚えていなくても、私達のたましい、つまり、大いなる自己は自分の転生の全てを記憶していると、東洋の人々は感じている。・・・
現在では、東洋的な考え方が西欧に著しい影響を与えている。・・・記憶、想像、直観的な幻想などを、“非現実的”と決めつけずに、拡大された現実である可能性もあると考えるようになっている。他の言葉で言えば、私達の目に見える物質世界の現実は、もしかしたら、いや、殆ど確実に、存在する唯一の現実ではないのである。
物理学者のデイビッド・ボームは、量子論のいわゆる“不確実性”をさらに推し進めて、他のレベルの現実に存在する“隠れたた変数”の理論を打ち立てた。・・・『全体性と内在的秩序』という本の中で、ボームは素粒子の世界は、何重ものレベルの存在する分割不能な全体の一部であると結論したばかりでなく、説明可能な世界 ― つまり、私達が認識している第三次元の世界 ― は、より高次の複数次元の現実の投影にすぎないと述べている。
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シャーリーは続いて、超能力と四次元の世界に言及する。
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大部分の子供は、小さい頃は右脳と左脳のバランスがとれていて、既成概念を教え込まれ、限界を受け入れ始めるまでは、誰でも基本的に超能力を持っている。・・・超能力を持つ子供は、左脳が発達した普通の人間には隠されている第四次元の世界、つまり、私達が認識している次元を超えた次元に存在するものを見ることができる。
第四次元とは、超意識の領域である。アインシュタインが時間も空間もないとした次元である。神秘主義者は、これをたましいの次元と言い、知識も知恵も時間も一つの全体として存在している宇宙を包含するものであると言っている。
古代の大師達も現代の超能力者も、人間の心がたましいの超意識とつながった時には、生命と宇宙のすべての神秘を知ることができると主張している。
東洋の人々は、人間は本質的には肉体に宿って物質界に転生しているたましいである、とみなしている。肉体を持って生まれるということは、たましいに制限を設けることであり、肉体の死とは、たましいが本来の領域への戻ることなのだ。つまり、死の意味でさえ、私達がどう考えるかで変わってくる。・・・
◇◇◇
最後に、シャーリーは次のように結論付ける。因みに、以下の出だしの部分は、バーバラ・アン・ブレナンが、彼女の代表的な著書、『光の手』で説明している趣旨と全く同一である。
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現在、量子物理学者は、観察中の対象物の性質は、観察者の意識によって動き、変化するということを実験室で目撃している。「宇宙はたぶん、ひとつの巨大な想念なのだろう」と、彼らは結論している。
では、こうした事実は、いったい何を示しているのだろうか? 私達の想念や認識がいかに大切か、思いださせようとしているのだと思う。私達は、あらゆるものに対する自分の観点に責任を持っている。人はそれぞれ、どう物事を認識するか、自分で選んでいる。自分の好きなように、自分の現実を認識することができるのだ。客観的な現実は、私達の主観的な見方によって変化する。現実に対する相反する二つの考え方がある時は、互いに相手と自分自身についてもっと学んで、その両方に合う中道と秩序を見つけ出す必要があるのだ。現実をこのように考えて人生を生き始めると、想念それ自体の持つ不思議な力や影響力を尊重するようになる。
フリッチョフ・カプラは、『タオ自然学』という本の中で、次のように言っている。
「あらゆる自然現象に関する理論は、その中の“法則”まで含めて、人間の頭脳の産物であり、現実そのものというよりは、私達がつくった現実の概念図であると、物理学者は考え始めている」
そこに参加している人間の心がどう認識しているかによって、多数の現実が存在するということを、私達は今は科学からも学んでいるのだ。
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尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。